眩暈がした。机の下を確認したが、無い。昨夜、宮崎氏と行った電話でのやりとりをおもい返し、その一部始終を再現して見たが、どう考えても、最後にスマートフォンを置いたのはこの机の上以外に在り得なかった。
私の目は、書きかけの尊文の評伝の原稿に向いていた。「大丈夫ですかァー!」と云う、宮崎氏の絶叫が一階から聞えて来た。私は、ノートパソコンを抱えてリビングに戻った。そうして、スマートフォンが見当たらない旨を宮崎氏に告げた。宮崎氏は困惑の色を浮かべ、こうした事を言われた際に人が発するであろう、一通りの質問を私に投げかけて来た。私は、いや、だとか、無い、だとか、其れらの質問に悉く否定的な答を返し、そうする内に自分で不愉快に成って行った。やがて「恐らく盗まれたのだとおもいます。」と、馬鹿な事を口走ってしまった。実に馬鹿な事ではあるが、現実に盗まれたとしかおもえないのだから仕方が無かった。宮崎氏は、
「いや……、其れは、流石に無いのではないでしょうか……。」
と、苦しい顔をして言った。
「だが、実際になくなっているのだから……。」
「では盗まれたとして、一体何時盗まれたのですか。昨晩、僕と携帯で通話しましたが、それ以降だとして、確かに我々は此の家にずっと居たじゃないですか。」
「ずっと居たのだけれど……、多分、私達が眠ってしまってからコソ泥が入ったのではないか、と。」
事の奇成るに馬鹿馬鹿しさを感じながら私は言った。口吻に笑みが漏れた。
「しかし、その、盗まれた証拠はあるのですか。」
私の笑いに引きずられたのか、宮崎氏は破顔していた。私は、書斎の窓が全開に成っていた事を告げた。宮崎氏は遂に笑い出した。私は、気恥ずかしいおもいと、幾分かの苛立ちを覚え、「そんなに笑われたって……、しかし、先程からの宮崎さんの話だって、相当に滅茶苦茶な事を言っているとおもうがね。」と言った。すると宮崎氏は、笑うのを止め、
「そうかもしれませんね。」
と醒めた声で言った。
「本当に、其れこそこれは、パラノイアなのかも知れん。」
"岡本尊文とその時代(三十二)"へのコメント 0件