岡本尊文とその時代(三十五)

岡本尊文とその時代(第35話)

吉田柚葉

小説

3,739文字

在るようで無い、しかし無い筈がないからやはり在る。

館に入ると、直に受付であった。ホールの入口付近には、スーツを着た男たちが十人程でたむろし、熱心そうに唾を飛ばし合っていた。未だ三十そこそこと見える茶髪の男が、ダブルジャケットを着てボウタイを締めた初老の男に何かを諭しているらしいのが、とりわけ目を引いた。宮崎氏は、小声で、「一寸観察しましょうか。」と言った。

「結局ね、先ずこの日にこの場所に来れる、というのが何より気に合っている、と云う事なんです。」

茶髪の男が大きな身振りでそう言った。

「なるほど。」

「で、あとは余計な事を考えずに、楽しむ。それだけなんです。」

「楽しむ、ねェ……。」

「難しいですか。」

「難しい、と云うかね。わたしなんかはどうしてもこれを勉強会だとおもってしまいますからね。どうもピンと来ないな。」

「……あー。いや、そんなに重く受け止めなくて好いんですよ。軽い気持で、いま・ここを感じる。いま・ここに集中する。それが楽しむと云う事なんです。」

茶髪の男がしたり顔でそう言うと、初老の男は、遂に噴出し、

「ウン、判りました。なんだかよく判らないと云う事が判りましたよ、ウン。勉強させて貰います。」

と言った。茶髪の男は、「いや、だからですね……。」と又同じ説明を繰返し始めた。……

「宮崎さんが言っていたのと同じ事を言ってるね。」

と私は言った。

「はい。気に合っていると云う言葉がそのまま出ました。」

気に合わせるのだか、気に合っているのだか、好く判らないがね。」

何の気なしにそう言うと、

「自分自身がなんですよ。」

と背後から低い声がした。振り向くと、目尻の垂れた目がこちらを覗いていた。尊文である。

「あァ……。」

と私は硬直した。尊文は、紫色のタイトなスーツを着て、其の上からでも判る程に、胸筋が発達していた。髪は黒黒とする中に、少量の白い物が光る。私は、『真冬の炎』から受けたイメージとは異なる、尊文の精力に溢れた顔付に気圧されると同時に、少し、「通りで。」とおもわないでも無かった。

宮崎氏は、「岡本先生!」と高い声を出し、

「いやァ、お初にお目にかかります。宮崎達治と申します。一応、文芸批評家としてやらせて頂いております!」

と言って、右手を差し出した。尊文はそれに応じた。そして、

「存じ上げております。『島崎藤村と中上健次』を読ませて頂きましたが、どう言って好いか……。」

そう言って、言葉が途切れた。何処か深い処から湧き上がって来る風の低い声であったが、沈黙に入った途端、場の空気が一瞬にして圧縮され、我々二人と尊文の間に深い穴が開いたとおもわれた。宮崎氏の顔に緊張が走った。

そうして、少しく沈黙が続いた後、「……非常にスリリングでした。」と答えが出た。宮崎氏は、明かに「許された」と云う顔をした。

「あァ、ハハ、いや、ありがとうございます。いやァ、先生に読んで頂けるとは……。」

「うん、面白かったですよ。所謂差別論と云うのは何時の時代でもありますし、ある意味で書き易い物ではありますね。しかしあのように正面切って天皇制が人権侵害だとはっきり断じた物は少ないのではないかな。」

宮崎氏は、困った風に笑った。そうして、

「あれはですね……。どう言って好いか、まァ書いてからそれほど経ってはいないのですが、若書きのような処がありまして……。」

「若書き。」

と言って尊文は又黙った。時が立ち止まった。「若書きと云うのは、つまり書き方の事を言っているのですか。或いは内容自体の事でしょうか。」

宮崎氏は、

「あァ、いや、書き方の事ですね。引用した論文数も少なかったですし……。」

とかき消す手振りをしながら言った。尊文の表情が和らいだ。

「そうですか。でしたら、現在、論自体に否定的な態度を取られているわけでは無いのですね。」

「……そうです。」

宮崎氏が探るような目をした。

「それなら好かった。……いや、実際、天皇制と云うのは非常に問題があるものです。もっと言えば、天皇制と云う言葉自体が俗語のような処があり、在るようで無い、しかし無い筈がないからやはり在る。……小説の書き手としても、どう扱って好いのやら。まァ今どき不敬と云うのも流行りませんがね。」

そう言って尊文はジロリとこちらを伺った。それは一秒に満たなかったが、喉仏を舐められたと感じた。宮崎氏は、曖昧に笑った。が、尊文は止まらなかった。

「現実問題、この二十一世紀の日本にアウトカーストの存在であらせられるお方がおられると云う事実は、日本文化を考えるにとり、何にも増して重要な事です。しかしそれは同時に、同じくアウトカーストの存在である被差別の存在を肯定する事にも繋がる。そうですね?」

「そうです。」

と宮崎氏は頷いた。

「……うん。それだけ確認出来れば好かったのです。また新しい本が出たら是非ご連絡下さい。」

そう言って尊文は、ジャケットのポケットをあさり、名刺を取出し、宮崎氏に渡した。宮崎氏も又、カバンから名刺入れを取出し、尊文に名刺を渡した。尊文は、「期待しています。」と言った。そうして思い出したように私の方を向いた。

「あァ、これは失礼。お久しぶりですね。何時ぶりか……。」

「実際に顔を合わせるのは、十年前に一度、対談をしたぶりになりますね。」

と私は言った。「ただ、先生が新しくご出版された……。」

「『真冬の炎』ですね。」

「そう。献本頂きまして。拝読致しました。」

「何やら評論のようなものを書いて頂きましたね。其の節はどうもありがとうございました。」

「いえ……。先生が又新しいいただきを見つけられたようで、いやはや、脱帽しました。」

と私はいい加減な事を言った。

「そうは言っても、わたしの文体をして、代わり映えがしないと云うような事を書かれていたように記憶しておりますが……。」

尊文は、試すように言った。背中にひどい汗を掻くのを私は感じた。

「いえ、そんな風には書いていません。ただ、岡本先生には一箇の文体が確立されており、一本筋が通っていると云うか、小説家として信頼が置けると云ったニュアンスで書きました。」

この私の弁明が、尊文の問いかけへのレスポンスとして機能していないのは明らかであった。平生の尊文の主張からすれば、「文体」とは小説にとり否定さるべき対象なのである。つまり、「言葉が言葉を呼ぶ」と云う純粋な散文の働きには、「自意識」は異分子として作用するものであり、従って、自意識の表出具合によって決定される「文体」は、小説にとっては悪と見なくてはならない。故に、例え同一の作者であっても、各テクスト間に於いて「文体」は決定的に違っていなくてはならないし、一箇のテクスト中に於いても、「少しずつ転調しつづけること」が成されておらねばならない。無論、其の結果として出来上がった物が、常に作者の思惑通りに「転調しつづけ」ているかどうかは別の話であり、或いはかように「転調しつづけ」ている事に作者自身が満足し、そこに安住してしまってはならない。其の辺りに就いては、尊文自身が「同じく日本語という表意文字を扱っている以上、誰かの書いたものに似ることはありうるし、自分の書いたものに似ることも、当然ながらありうる」と書いてもいる。しかしいずれにしても、例の私の書評は、尊文への全否定的な論である事には違いなく、実際に私は其のつもりで書いたのであった。……

尊文は、

「そうでしたか。」

と言った。私は、彼から眼を逸らした。すると、

「批判なら批判で構わないのです。わたしも、たとえば十年前に比べて自分の目が濁ってしまっている事を自覚しています。自分の小説が自分で読めているか、読めていないか、甚だ自信がありません。後は、やはり、売上を見ても、だんだんとわたしの書いた物を読んで貰えなくなっています。そうした中で、わたしとしても、人に読んで頂ける努力をせねばなりません。今度の『真冬の炎』は、そうした意味でも、売れる事を少しばかり意識して書いた物です。ですが、読者と云うのは素直でしたね。」

尊文は、淡々とした調子でそう言った。私は、

「……先生がそれ程に売上を気になさっていたとは、非常に意外な感じがします。」

と驚いて見せた。尊文が致し方なく俗物である事は理解していたし、彼の性格からして私の前では其の反対の所作を徹底してくるものだとおもっていた。しかるにこの発言は私を揺さぶらんとして敢えて発せられた物と窺われた。

「うん。いや、売上の事はよく考えますよ。本当の事を言えば、とにかく売れて欲しいですね。ですが『真冬の炎』は駄目で好かったと思っています。あれはあまりにも意識が外に向きすぎていた。」

「外ですか。」

「そうです。芸術作品の作者が外に向けて書くのは間違っています。徹底的に内に向いたときに、それは小説になるし、芸術作品になるような気がしますね。次は好いものになってくれればと願うばかりです。」

「なるほど……。」」

と私は唸った。「いや、脱帽しました。普通は、そのように直に次の作品へと意識が向かないものですよ。」

尊文は、

「普通……。普通が判りますか。」

と言った。私は、苦々しく笑った。そして、

「失礼しました。」

と言った。尊文は、

「それでは又、わたしも準備がありますので。」

と言って、会場の中に入って行った。

2019年8月8日公開

作品集『岡本尊文とその時代』第35話 (全36話)

© 2019 吉田柚葉

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