気づいたら時計は朝の11時を指している。布団から体を起こし周りを見渡す。外から聞こえる車の音や人の話し声で僕の頭は覚醒していき、僕は今、やっとのことで朝であると気がついた。本当に気づいたらなっていたのだ。もし気づかなかったら、多分、太陽が登った事にも、沈んだことにも気づかなかっただろう。それほどに僕の毎日は希薄で、異様に間延びした時間の中で動いていた。
昨日は朝から外を眺めて過去を振り返って、それからなにもせずに夜のまどろみまで一直線だった。いつもなにもしていないが、昨日はほんとになにもしていなかった。一日の出来事の記憶は曖昧で、それはまるで誰かにハードディスクを抜き取られたりデータを消された後に残った残りカスのような記憶だった。記憶を呼び起こそうとしたが無駄に頭を使うだけで、なにも思い起こせなかった。
時間の存在に気がついた途端に体がそれに合わせた生理現象を引き起こし始めた。まず僕はトイレへ行き、長い小便をした。冷蔵庫からいつから入っているか分からない麦茶の入ったプラスチックのピッチャーを取り出し、コップに注いだ。麦茶はこれ以上ないくらいに味が出て、舌が痺れるくらいに苦かった。そして腹が減り台所を漁るが、なにもなかった。
僕は嫌な気分になった。
仕方がないので僕は、まどろみに引っ掛かる足を動かして外に出る事にした。スマホと財布をポケットにいれて外へ出ると、とてもよく晴れた空が頭上に待ち構えていて、久しぶりに気持ちのいい昼となった。
出てきたはいいが普段外食することの無い僕はどこにいけばいいかわからないので、とりあえずネットで調べて見ることにした。近くにLiberaというカフェを見つけた。ランチのオムライスが評判であるらしく、これからここら辺では有名になるのではと、無責任なレビューが書いてある。僕は特に食べたいものがあるわけでもないので、ここに行くことにした。
歩いて10分するかしないかの大学近くの路地裏に、息を潜めるようにそのカフェは佇んでいた。白いレンガ造りの壁はこの町の景観からはすこし浮いたようにも見える。おしゃれには間違いないが、両隣の茶色く薄汚い建物と比べると、質の悪いコラージュに見えないこともなかった。
扉を開けるとカラカラと無機質な鐘の音が響いた。来店した僕に気づいたポニーテールの似合う綺麗なウェイトレスが、「いらっしゃいませ」と、僕を迎えてくれた。綺麗なウェイトレスを見て、適当な部屋着で訪れた僕自身が少し恥ずかしくなった。
窓際の二人掛けの席へ案内され、とりあえず目に入ったオムライスのランチセットを注文した。のんびりとしたジャズと窓から入ってくる光が、店内を暖かく支配している、不思議な空間という印象を受ける。
僕以外に客はいなかったが、後を追うように二人連れの女性が入ってきた。おそらく大学生、先輩後輩といった感じに見える。一人の女性(おそらく先輩の方)は、とても印象的だった。肩より少し下まで伸びた、さらりと音が聞こえそうな位ふわふわとした髪、そして背が高く高貴や純血という言葉がぴったりな印象だった。
しばらく見とれていると、ランチがやって来た。金額のわりに量が多く、お得な気分になる。カトラリーボックスから丁寧に磨き上げられた鏡のようなスプーンを取り出し、玉子のベールに一匙差し入れた。なんの抵抗もなく入り込んだ。
僕は食べながらどうしても先程の二人が気になり、何度も盗み見てしまった。どちらもとても美しく、二人が囲むテーブルはそこだけ空間を切り取った絵画のように見えた。
まるで別世界だ、と僕は思った。それに比べて僕のいるところは、どうやら世界の果てのように思えて仕方がなかった。
僕はゆっくり30分かけて食事を終えた。アフターコーヒーはいかがですか?と、ウェイトレスに薦められるままに注文をし出てきたコーヒーは、いつも飲むインスタントより深い味わいで、時間をかけて味わうべきものだと感じた。ゆるゆると天井へ登った湯気は香りだけを残して夢の中へ消えた。そのまま見上げると、シミ一つない茶色い板張りの天井が目に入った。ほんのりとしたチョコレート色の天井は、見ているだけで口の中に甘さが広がりそうだった。
僕がアフターコーヒーを飲んでいる間も、二人組は楽しそうに話をしていた。おしゃべりな後輩に先輩が相づちを打つ、といった様子で先輩はあまり喋らなかったが、その後輩のおしゃべりに付き合うことが幸せだという表情だった。
滞在時間、およそ1時間くらいだったが、とても満足になる時間だった。美味しいランチに美しいウェイトレス、絵画のような二人組。地元にいたときでさえ、こんなに素晴らしい時間を過ごした記憶はない。引きこもってからは特に。
入るときは無機質に聞こえたドアの鐘も、心なしか優しく聞こえた。
家に帰ると僕は、閑散と散らかった部屋を見渡してなんとも言えない寂しい気持ちになる。そしてもう一度コーヒーを飲むためにインスタントをカップに入れ、お湯を沸かして注ぐ。熱いお湯に溶けて混ざっていくところを、なんとなく見つめてから一口飲むが、ただ苦いだけで美味しいと思えなかった。
僕は夕方に向かってゆっくり進む太陽の日差しを目で追いながらステレオをかけ、もう一口、義務的にコーヒーを飲んだ。入れたのだから飲まなければ、というふうに。でもこれはやはりコーヒー味のなにかだ。
あの店は異空間だ。と僕は思った。少しでもあの場所の空気に触れると、体の半分か魂の半分かが別の場所へとトリップするのだ。そして自分の半身を見つめることができる。なにがきっかけでそうなるのかは分からない。でもたしかにそうなのだ。
僕は外を見つめる。太陽は更に夕方へと向かっている。
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