Libera

村星春海

小説

2,744文字

僕がふらりと立ち寄ったその場所は、どこにも属さない特殊な場所だった。

 単純な話なのだ。歩いたら前に進むとか、水を飲むと小便がしたくなるとか。そういう事と同じように、僕が仕事のミスをすれば上司から叱責されるし、自分で顧客のもとへ謝罪をしに行かなければならない。そして場合によっては始末書だし、更に言えば減給もありうるだろう。それらの因果関係は普通にありえることだし、起こらないほうが不定調和なのだ。
 だからといって特に何もなかったかのように笑っていられるほど、僕は強くない。人並みに落ち込むし、元気もなくなる。そして叱責する上司と、つまらなさそうにため息をつく顧客にも恨みを持つ。そして皆一様に、僕に対して侮蔑するような目を向けるのだ。
 勢いに任せて手を出してしまえば、どんなに楽しくてスッキリすることだろうか。でもそんな事ができるわけはない。それらの鬱積や憤怒を我慢することも仕事の一端であり、そして仕事の大部分である。
 皆のそれぞれそんな風に生きてきているし、「お前だけが理不尽に誰かの鬱憤の捌け口にされているわけではないのだから、唾を飲み込んで我慢しろ」と言うだろうが、それではなかなか納得はできない。どこかでそれを吐き出さないといけないのだ。でも、僕は元来、人から物を言われる分でも、人に物が言える人間でもなかったし、夜中の学校に侵入して窓ガラスを割ったりもしたことがない。自販機の釣り銭に残った100円玉か50円玉をネコババするだけでも心臓が強く打つような人間なのだ。そんな人間がどんなふうにしてこの鬱憤を晴らせるというのだろう。ただ我慢して、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。今日もそうするつもりだ。
 
 ある得意先で謝罪してから次の得意先へ向かっている最中、僕は急に空腹であることに気がついた。時計を見るともう昼もだいぶ過ぎ、14時前を指していた。次の得意先との約束の時間まではまだ猶予があったので、僕は昼食を摂ることにした。ちょうど大学付近にいたので、僕はしばらく歩いてどこかに食べるところを探した。
 セブン・イレブンがあったが、流石にコンビニ弁当で済ませようと思う気分ではなかった。どこかに入って席に座ってゆっくり食べたかった。しばらく鳥の鳴き声と遠くを走る車の音を聞きながら歩いていると、路地の間にカフェを見つけた。年季の入った木製のドアで、ヨーロッパ様式を模したオシャレなカフェだった。

 僕はこっそりと、その店の扉を開けた。頭上のドアベルがカラカラと、付き合いたての彼女の様にさりげない音を鳴らした。その音に導かれたウェイトレスが僕を席へと案内してくれた。ポニーテールの良く似合うとても美しい女性だった。
 昼時を外していたため、店内には僕しかいなかった。僕が席に座ってしばらくすると、ウェイトレスが透き通ったグラスに入った水と一緒にメニューを一冊、僕の置きにやってきた。
 
「お決まりになりましたら、お呼びください」
 
 そう言ってフェイトレスは下がっていった。ポニーテールがゆらゆらと揺れ、美しいポニーの尻を思わせた。
 一ページ目を開いてランチの部分を見ると、まず第一にオムライスが目に入った。写真のそれはとても美しく、僕の心に深く入り込み、何かのしるしをつけた。僕はウェイトレスを呼んで、オムライスを注文した。
 店内はとても良く清潔に保たれていた。ほこりやしみ一つないテーブル、曇りのないガラス、きちんと畳まれた紙ナプキン、頭が揃えられたカトラリーボックスとその中のナイフやフォーク。この店が構築されるのに必要な要素の全てが、人の手によって定規を当てたように作られていた。とてもリラックスできる空間づくりだった。
 
 しばらく待っていると、ウェイトレスが僕のもとに一つのオムライスを運んで配膳をした。黄色いベールに包まれたそれはふわりとした湯気を昇らせ、茶色いデミグラスが彩りを加えている。スプーンは抵抗もなく玉子に入り込んで、下のチキンライスまで到達した。
 口へ運ぶと爽やかでほのかなケチャップの酸味が鼻から抜ける。コンソメの効いたチキンライスはとても美味で、卵は甘く、デミグラスはしつこくなかった。一つ一つはとても引っ込み思案なのだが、それぞれが合わさると、とても強く「僕らはオムライスだ」と語りかけてくる。
 食べ終わり、勧められたアフターコーヒーを飲みながら余韻に浸っていると、窓から入ってくる暖かな春先の様な太陽の光が僕を照らし、次第に緩やかな眠気が僕が僕を包みはじめてた。でもその場から離れる事が出来なかった。
 緩やかな時間の中で、僕という存在がとても曖昧なものになってしまった気がした。だがそれは存在が儚く消えることに対する恐怖ではなく、この地球上のすべてが一つになっていき、いつか母の胸に抱かれながら眠った頃の様な「安堵」に近いものだった。
 気分がゆっくり落ちていく。次第にぬるま湯の様な泥のような、ぬめり気のある、でも不快感のない柔らかいウォーターベッドに体が沈み込んでいき、
 
「お客様」
 
 僕は肩を叩かれて目を覚ました。目を覚ました? どうやら僕はいつの間にか十分かそこら、眠ってしまったようだった。
 
「体調がお悪いのですか?」
 
顔を上げるとウェイトレスが心配そうにこちらウェイトレスがこちらをうかがっていた。僕が、何でもない。眠気で少しウトウトしてしまったと伝えると、「そうですか」と少し微笑んだ。
 僕は会計を済ませ店を出る前に、ウェイトレスにこの店の名前である「Libera」の由来について聞いてみた。
 
「店長が言うには『中立』や『自由』の意味でつけたようです。直訳として正解かどうかは不明ではありますが。この場所を訪れる事によって、心をニュートラルにしてリラックスしてからお帰り頂ける店づくりを目指しております。そういう意味の【Libera】ですね」
 
「なかなか深いですね。心を解き放つ、という解釈でもいいのでしょうか?」
 
「もちろん」彼女はゆっくりとレジスターの引き出しを戻した。「それぞれの解釈があります。その解釈も固定化された概念ではなく、個人の思いを強く反映させたもので結構だと思います。結局のところ、概念まで縛られていては人は自由にはなれませんから」
 
「たしかにそうですね。ここに初めて来店したのですが、とてもいいところです。今、仰られたように、心をニュートラルにすることが出来ました。あと何時間か居たら瞑想状態に入ってしまいそうです。ですが、この後も予定がありますのでまたの機会に」
 
「またいつでもいらしてください。お待ちしております」
 
 外へ出ると少し肌寒く感じたが、この場所で温めた心は、しばらく僕を温めてくれるだろう。【Libera】ここは何物にも縛られない、そういう場所なのだろう。彼女はその事を、緩やかに流れる川のように教えてくれた。僕はまたここに来ようと思う。

2019年7月7日公開

© 2019 村星春海

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