もう何日目だろう、太陽はもう傾いていた。急にむき出しの足に靴下が欲しくなって、わたしは冬の到来を感じた。わたしが横たわっている目の前にある川で、何匹もの赤や白の鯉がゆらりゆらりと透き通った水の中を自在に泳いでいた、鬱青とした森の中だからか滅多に人が通らないのが幸いだった、エレナ、エレナ、エレナ……、わたしはエレナに本気で自分の心の喪失を丸ごとわかって欲しかったと願っていた、あなたとだったら生きていけると思っていた、エレナとあの部屋にいるときだけが生きているような気すらした……ずぶずぶと誰かの中へ逃げ込みたい、毎日それだけを願って、できることならもう一度エレナと……
*
身体が誰かに揺さぶられているのに気づき、急いでそれを払いのけなければならない……おぼろげに目を開くと――びかびかとした蛍光色のピンク色が飛び込んできて、それからその少し上に、金髪を逆立てた端正な男の顔がありました。わたしは叫びそうになって、でも声が枯れて、だから咄嗟に頭を両腕で守り固く目をつむりました。いやだいやだいやだ……
「……怖がってる」別の声でした、後ろにもうひとりいる。
激しい犬の鳴き声が聞こえ、そのもうひとりがシッ、と言いました。
「聡史い、どうしよっかあ……」
「どうしようもなにも、救急車呼べばすむんじゃ? 僕らでなんとかなる感じじゃないでしょ」
「ほっといてください、なんも呼ばないでください」ようやく出した声は隙間だらけで、潰れて、痛々しい空気の粒が飛び散るばかりでした。
オッドアイの真っ白なハスキー犬を連れた、後ろのパーマを当てた長髪の男が目玉だけを動かし、わたしを観察するように見て、
「とりあえず救急車……」と骨ばった手でポケットからスマホを取り出しました。
「待って聡史」金髪の男が長髪の男を手で制止しました。
「え? もう義博……また……」聡史と呼ばれた男が呆れて、不服な声を出しました。
「だってこの子、ものすごい嫌がってるよ」義博はわたしを指さして言いました。
その通り、わたしは出来る限り首を振り、全力で抗議していました。
「嫌がってるからって変に介入したって仕方ないでしょ。なにを求めてんの?」
「本当に衰弱してる」
「だから救急車って言ってんじゃん!」わたしは首を振り続けました。
「ねえ、名前は?」義博がそう聞くと、聡史は眉毛を釣り上げながら深いため息をついて、スマホをポケットにしまいました。
「美陽、美陽、美陽」三度目で酷い声の掠れがましになったのがわかりました。
「み、よ?」わたしは頷きました。
「とりあえずうち来なよ、近いから」そう義博が言うと聡史の口元が歪みました。
「冗談でしょ?」聡史は笑いながら言いましたが、静かに激昂しているのは明らかでした。
「僕がノンケと関わりたくないの知ってるよね?」聡史はもう笑っていませんでした。
「……同性愛者です、同性愛者なんです、あの……わたし、大丈夫です」
訴えるように、はじめてわたしは誰かに打ち明けました。
「わたし、……レズビアンです」
義博と聡史は顔を見合わせました。
*
起きているのはどうやら佳子だけのようだった。ヒロトは乗客に配られた茶色のブランケットでラリー・バードの籠を覆い、夜露が垂れ落ちて色が少し変わった薄い灰色のカーテンがおろされた窓に頭をもたせかけて穏やかに眠っていた。今の時刻は、午前四時三十六分、渋谷から富山行きの夜行バス。
バスの天井には、アーチ状をした橙色のランプが計六つついている。カーテンの隙間から差すちろちろとした光が、幾何学的な模様になって天井を走り回っている。それにしても、バスの中は意外と騒がしい。たとえば、タイヤが道路の凸凹を乗り越えるとき、乗客の寝返りで座席が軋む音、それに寝息だ。通路をはさんだ隣で眠りこけている、特徴的なわし鼻をした若い男……アディダスの帽子を被って、胸にメタルのネックレスをつけているあの男はこんなに見られているとは夢にも思っていないだろう。
四時四十四分。まだ富山まで到着していないが、バスはどこか停留所のようなところへと入り込んでいった。パッと電気がついて、サービスエリアで休憩時間をとる、というアナウンスが流れた。佳子は自分のブランケットをヒロトの肩にかけてバスを降りた。
夜が更ける前のサービスエリアはどうしようもなく手がかじかむほど冷え冷えとした。そのせいか、駐車場にずらりと並んだ貨物トラックや夜光バスのヘッドランプ、桃色の街灯は、ひときわキンと輝いてみえた。
佳子は自動販売機でコーヒーを買い、Facebookであの手紙の送り主の名前――鈴木茜――を検索してみた。ダメ元だったが、見事にアカウントが出てきた。顎のたるんだ普通のおばさんだった。手紙の中で美陽の母親のことを精神病の姉さん、と書いていたから、彼女は美陽の叔母らしかった。ひとまずこの女を訪ねて事情を話せばいいだろう……通じるかはわからないが。
何気なく佳子は叔母のFacebookの友達欄を順に見ていった。他に美陽の親戚がいないかと思ったのだ。画面をスクロールしているとあるアカウントに目が釘づけになった、『長田夏央莉』……。
運転手が、休憩時間の終わりを緑のペンライトを揺らして示した。その場でたむろしていた乗客がぞろぞろと帰りだして、佳子もそのあとをついて行った。
バスに乗り込む直前、佳子は目を細めた。夜明けのまばゆさが飛び込んできた。
なぜ『長田夏央莉』か? それは奇形的な美しさだったからだ。なぜか佳子には、直感的に「これだ」と思えた、「これ」が「あの部屋」だったんだ、と。『長田夏央莉』は雰囲気は違えど『栗色の髪をしたエレナそのもの』だった、佳子はそこに嗅ぎ取ったのだ、あんなにも美陽が執着していたエレナの源流を。もちろん、その小さな顔からこぼれ落ちそうな大きさの目の中の、緑がかった虹彩とか――まるでなにかの宣材写真のような四角いアイコンの中でさも幸福そうに、目の縁に大きく皺を寄せてまで作ったとびきりの笑みは、エレナが、最後まで持ち得なかったものだった。動き出したバスの中で佳子は、明かりが漏れないようにブランケットの下でスマホをいじり、彼女のタイムラインを見ていった。
それは幸福な主婦だった。こぼれ出す愛しさに目が痛くなるぐらいに。
この現代にまだ「幸福な主婦」というものが存在することを佳子は思い知った、彼女のタイムラインには夫である「しょーちゃん」のために作った手弁当の写真が毎日アップされていた。何度も洗われたのだろう、側面に華奢な傷がいくつも刻まれた大きなアルミの弁当箱さえ同じでも、毎日中身はがらりと変貌していた。次々に繰り出されるその豊かな色彩に酔い、佳子は自分がチューブで吐き続けていた日々を思い出しなんどもえずいた、今でも食べ物を見るのが怖かったし食べることができなかった――胃液が舌までせりあがってきたのを飲み込もうとするまさにそのとき、佳子は色の黒い、ガタイもいい、絶対的に人の良さそうな、例の「しょーちゃん」本人――夏央莉よりひとまわり上に見えた――が、彫りの深い笑みと共に、彼女が手作りしたらしい餃子を箸でつまんでいる横顔写真を見て、エチケット袋に胃液をぐえぐえと吐いた。誰も彼も眠っていたのでお構いなしだった……
約半年強ぐらいの投稿を見て佳子は自分の直感が外れたと思った。『長田夏央莉』は夫のことが大好きなただの凡庸な主婦で、美陽の叔母である鈴木茜とは親戚関係にはない。第一、こんな幸福な人々とあの頭の狂ったヤク中が一体どこで結びつく?
『今日は東京にいる妹の誕生日。十八だっけ? この前、美陽になんかあげればよかった。今日のしょーちゃんのお弁当は蓮根入りの肉団子と小松菜のラー油和え、厚焼き卵にブリの梅肉照り焼き、ちりめんじゃこご飯です♪ 豪華だなあしょーちゃん、いいなあ(笑)しかも今日は、保温ボトルを新調したのでお麩の入った味噌汁付き! 午後から近所の奥さんとシェイプアップできると評判のフラメンコ動画を一緒に見ながら踊ってみます(笑)キレイになったらしょーちゃん喜んでくれるかな?』
……バスの天井には、アーチ状をした橙色のランプが計六つついている。カーテンの隙間から差すちろちろとした光が、幾何学的な模様になって天井を走り回っている。それにしても、バスの中は意外と騒がしい。たとえば、タイヤが道路の凸凹を乗り越えるとき、乗客の寝返りで座席が軋む音、それに寝息だ……
佳子は美陽のことをはじめて、可哀想だと思った。
ああ、可哀想だったんだ。ずっと。ずっと。この人を愛したけどどうにもならなくて、似たエレナに出会って、それがあの結果?
もし美陽が、あの部屋で起きていること――今の自分のありのままを全て伝えたら……この『幸福な主婦』は壊れてしまう、だから彼女になにも言わなかったんだとも。佳子はそこまで美陽に同情すらした、けれども機械的に、夏央莉のメッセンジャーに内容を簡潔にまとめて、そして、送信した。そうしなければならないと思った。
妹さんが目の見えないホームレスの男を殺しました。妹さんはお姉さんによく似た女性を愛して、その女性が殺人の罪を被ったことを先ほどネットニュースの速報で知りました。妹さんはまだ捕まっておらず逃亡中です。お姉さんのその幸せは、妹さんが自分を痛めつけて、あなたから逃げようとして、なんとか守ろうとしたけれども、今、壊れなければなりません。
車内に到着のアナウンスが流れた。いつしか佳子は眠っていた。眼鏡をかけ直し、カーテンの隙間から見えたのは、なにもない空と、右奥に温泉施設のある開けた県道だった。ヒロトを起こそうとカーテンを引くと、停留所の前に黒いダウンコートを着た女性が口元を覆った手に息を吹きかけながら、こちらを見ていた。停留所に近づけば近づくほど、その女性に近づけば近づくほど、気配で、佳子は理解した。美陽が夏央莉のなにを愛したのかを。……その限りなくもろい、触れると倒れる、そんな空っぽの美しい筒。
私は、最後に、その軽い筒に、人差し指で圧をかけてしまったのだ。バスが停まった。
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