悪女たちの涙

合評会2018年05月応募作品

牧野楠葉

小説

3,938文字

ノワールとは、「歪んだキューでゲームを始め、多くを望んで少なきを得て、善をなすつもりで悪をなしてしまったおれたちみんな」の物語である……(ジム・トンプスン『おれの中の殺し屋』(1952)より引用)2018年5月度合評会「現代ノワール」応募作品。

カメラマンから上がってきたさっきの不倫写真はあまりにも酷かった。妻にその証拠写真を送ったり過剰になりすぎない繊細なケアの文言を考えたりするおれの気持ちにもなれよ。おれはぎしっと咥えた煙草に火をつけながら雑居ビルの扉を開け、やりきれなさを含んだ煙を吐き出す。階段の脇に立ってる灰皿に灰を叩き落とす。もう夕方だ。「お問い合わせフォーム」に来た可哀想な妻たちのメッセージには全部返したし、日曜日だから社長も早く帰っていいって言ってた。おれは数歩歩いて、くすんだ鈍色の螺旋階段の手すりに腕をもたせかけ、下を見下ろした。当たり前に誰もいない。そんで、今日はエレベーターが点検で止まってる。来客もないだろう。おれはまた灰皿んとこに戻って、ぼけっと夕陽を見ながら額に浮いた汗をぬるく湿ったワイシャツで拭った。初夏だ、もう。
ガッガッ・ガッガッ。あんぐりと口を開けたおれの前に、デザインは悪くないのに、どこか野暮ったい印象を与えるブルーのワンピースを着た女が五階分、汚れた運動靴で、歩いて、上がってきた。

 

おれはその女の、行方不明で浮気性の旦那のハナシを聞き……でもあまりにもイカした雰囲気の女だったから、シャツの胸ポケットからメモ帳を取り出した。そして頷きながらデスクの下で女の特徴を書き留めはじめた。趣味で小説を書くんだ。だから、これぞと思ったら書き留めるようにしてる。星野瑞季(ひらがなだと幼稚園児みたいだ)、二十八歳、日本人離れした美人。ハーフなのか? 長い髪は黒、後ろできつく一つに結んでいる。地黒とはいえないまでも、その自然の、やや褐色な肌がきれいだ、しっかりと浮き出た鎖骨も。いっときたりとも目を離せない不思議な色気だ……左手の薬指にはお決まりのティファニーの結婚指輪……そして……洗剤でごわごわと千切れたような爪……爪……、爪……両手の爪や指には……ヴェヴヴェ、と赤黒い血が付着している。人差し指は特に血まみれだ……えっ……おれの思考回路は一旦止まり、ばかになった。ええ、で、これは、誰の、なんの血なんだ?……見える肌の部分に傷はないから自傷の可能性は低い……しかも女の旦那はおれでも聞いたことがある会社の社長だという……だったらなぜこんなみずぼらしい服を着ているんだ? なぜ?……しかしおれは相槌を打ち続ける、「ええ。で?」「ああ。そんなことが。はい、で?」「ええ、で?」そしてなぜ、今時の若い女にしては古風とも思えるiphone4(何かこだわりや事情がなければ古くても5とかじゃないのか?)の画面が薄く点灯して、『パパ活女子応援☆よこた』から「アレはうまくいった?」「不倫の証拠はとれそう?」「旦那はヤッて正解。誰も瑞季を責めない。バレないし処理手伝うよ」「 夜ご飯たべませんか(^ ^)」というツイッターのDMが次々届く?  女は……。
「彼女さん、ギャルなんですか?」
女は、いや、瑞季は、無邪気に笑って、机の上に置かれたおれの社用車のキーを指差す。血のついた指で。めちゃくちゃだ。「本当に」自分の指の血に、気づいてないのか? 「本当に」か?  ……瑞季が言ったおれのキーのアクセサリーだが、まつエク師兼、デコアーティストを自称する彼女が練習と称して勝手にびかびかのラインストーンで埋め尽くしてしまったんだ。
「……ギャルといえばギャルかもしれないですけど」なんでそんな状態なのに、他人のことでそんな無邪気に笑える?
「すいません、あまりにも過剰だったんで」おれの彼女よりもはるかに過剰な瑞季がそう言って、また笑った。
「髑髏と天使が手を繋いでダンスしてるラインストーンってさすがに見たことなくて、しかもこのアクセサリーの幅ってかなり小さいし逆に器用ですね、や、奇抜ですね、多分、普通は、無難にハートとか、『LOVE』! とか、豹柄とか、ですよね、きっと」
「……」
「でも、ちゃんと愛されてるのが伝わってきます」瑞季は満足気に言った。瑞季の大きく虚ろな目は二つ、輝いていた。ブラインドの隙間から入り込むのはもう暗闇だった。
……本当に「この」瑞季が旦那を殺したのか?殺してから、ここに来たのか?信じたくない、でも瑞季が本当に根っからの性悪で、旦那が行ってた店で、適当に不倫の証言をとって、そんで、ズル賢い入れ知恵をした?『パパ活女子応援☆よこた』と旦那を解体して行方不明でもおりる保険金と不倫相手からの慰謝料を山分けする……わからない。まだ、今の段階では、何も。でも、さまざまな物証が尖りながらおれを駆り立てた。だったら、 ……俺は、『パパ活女子応援☆よこた』のところに、瑞季に行って欲しくないと思ってしまった。そいつがどういう奴なのかもちろんわからないけど、きっと悪い奴だ、あのDMから想起される殺人の光景と(^ ^)の乖離が明らかにおかしい。……瑞季は美しかったし……彼女の、キーのアクセサリーについての指摘は、最もだった。おれもこのデザインはなんなんだと思った。だから……
「あの、星野さん、これから調査に同行されますか?」本当ならば、浮気調査に妻を連れて行くことは面倒になるのでご法度だった。万が一何かあった場合、会社としてはそこまで責任を取ることができないからだ。だが、おれは問うた。瑞季は明らかに迷っていた。よこたとの約束を気にしてだろうか? わからない。全ておれの妄想かもしれない。でも、瑞季は顔に出やすいタイプの女だった。だから、おれは、さらに、言った。
「旦那さんが行かれていたところに一緒に行かれたほうが、不倫の証拠はとりやすいと思います。向こうのクラブの方も、『奥様』を目の前にされたほうがボロを出すかもしれませんし」

 

……実際、瑞季の旦那は極悪非道なやつだった。相手はひとりやふたりどころではなかった。芋づる式にそれは明らかになった。旦那に一晩玩具にされたあと、惚れてしまったが相手にされず鬱になり、自殺未遂をはかった女もいるらしい。最初に行ったクラブの女はなんとはじめっから『奥様』の瑞季に謝った。瑞季はおろおろとなり、「大丈夫です、ちゃんと慰謝料払ってくれたら。むしろ旦那がご迷惑をおかけして」と言った。しかし、血のついた指は震えていた。

 

「……お送りしましょうか、星野さん」
「あ、ありがとうございます。今日は近くのビジネスホテルに泊まりたくて」
「わかりました。……じゃあ、お連れします」おれは瑞季を一人にしておくのは危険だと思った。

 

駐車場でおれは、ちょっと待ってください、と言って消臭剤を車の中に振りまいた。瑞季の前に乗せた、別の妻の香水があまりにもきつくてまだ残っていたんだ。調査同行のためにさっき事務所から瑞季を乗せた時、彼女は鼻のあたりにずっと手をやっていた。おれはこれ以上、余計なことで瑞季を混乱させたくなかった。
「……あの、ずっと気になってたんですけど」背後から優しい瑞季の声が響いた。

しかし、
「わたしが事務所で旦那の話を聞いてもらってた時、机の下で必死に何か書いてましたよね。本当に仕事のメモですか?」それまでとは声色が違った。切迫していた、明らかに、おれに探りをいれた声だった。だから、その声が、おれの妄想が真実だということを、裏打ちしていた。だから、おれはもう正直に言うことにした。
「……おれは趣味で小説を書いてるんです。星野さんを見たとき、いいなあと思ったから、容姿の特徴とか、そういうのを書き留めてたんです。ごめんなさい。メモ、破棄したほうがいいですか?」
「小説って……どういう小説書いてるんですか?」おれは、気合いを込めて言った。
「一秒で三十キロ痩せる猿の小説や、スポーツクラブによくいるフラメンコ気狂いの婆の小説です」これは本当だった。おれが睡眠時間を削って夜な夜なパソコンの前で一語入魂している小説なのだ。
「……その小説にわたしが出てくるんですか?」瑞季は笑い過ぎて、腹を抱えて、しゃがみこんでしまった。あっひゃひゃひゃひゃひゃひゃ。ゃひゃゃゃひゃ。おれは素直に嬉しくなって、瑞季の方へ歩いていって、手を伸ばした。
「……今日だけ一緒にいてもらえますか?」おれは同棲しているギャルの彼女を思い浮かべた。今日は肉じゃがを作ると言っていた。彼女は張り切って大きな鍋にまるまるそれを作るだろう。だが、おれは言った。
「そのつもりでした」

 

行為が終わった後、瑞季はテレビにかじりついてニュースを見た。しばらく見てから、ふ、と何かが切れたように瑞季はベッドに戻ってきた。
「座間の事件、なんで誰も分析してくれないんですかね?  もうどうでもいいんですかね?」
「えっ……」おれは驚いて瑞季の張り詰めた顔を見た。
「座間って、あの、九人の」
「そうです、ツイッターで犯人と繋がった」
「なんでいきなり……なんで」
「あのぺらっぺらな感じで、『首吊り士』とかってやってる、ふざけたやつに会いにいった被害者の気持ちが、わたしにはよくわかるんです。わたしだって、もし、あの気狂いにフォローされていたら。旦那にめちゃくちゃにやられて、お金も貰えずとにかく必死で、働くのも許されなくて、悪知恵と下心しかないパパ活女子応援オヤジに生活費貰う生活に決着つけて、『首吊り士』に会いにいって、殺されたかった。あいつにフォローされてるか、されてないか、たった、それだけの違いだったのに」

先に殺されていたら、わたしは殺していなかったのに。おれにはそう聞こえた。
「シャワー行ってきます」

……もしもし。はい。浴槽にあります。明日、やります。また連絡します。

水音。

 

おれは、瑞季を通報することが、できなかった。

何が正しいか……一瞬でわからなくなったからだ。

2018年5月3日公開

© 2018 牧野楠葉

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"悪女たちの涙"へのコメント 14

  • 投稿者 | 2018-05-04 21:12

    殺した者なのか殺された者なのか、被害者なのか加害者なのか、愛しているのか憎んでいるのか、天然なのか性悪なのか。

    文章の流れに乗ってすいすい読んで、最後の一文が主題なのかなあと思いつつ、やっぱりノワール小説難しいなあというのが最初の感想です。
    探偵社に謎の女、有無さえ分からぬ殺人事件、こんな場合なのに惹かれ合う男女。

    「悪女たち」というのは、瑞希という女なのでしょうか、浮気調査に問い合わせする可哀想な妻たちなのでしょうか、夜の勤めの延長で不倫してしまう女たちなのでしょうか、なんて問うのは野暮ですね。

    事務所でメモを取っていれば、普通は仕事の内容をメモしていると思うところを、自分の魅力を書かれていると察してしまうあたり、やっぱり悪い女なのだな、そこをまた魚心あれば水心で応じてしまう男もなかなかしたたかで、これもノワールの香りですね。わざわざ血の付いた手で乗り込んで来るところがまた謎の拍車をかけていて、結局、最後まで事件の輪郭がつかめませんでした。それこそが狙いなのだろうと受け取りましたが。

    以下、気になった表現がいくつかあったので(あくまでも私の主観です)
    「前髪はない。毛が乱れている、きつく一つに結んでいる」
    髪をオールバックにして後ろで結んでいて、それが横鬢がはみ出したりして乱れているんだろうと思うのですが、一瞬、前がハゲているのかと思いました。

    「フェルト地の、ブルーの野暮ったいワンピース」
    フェルト地ってあんまりワンピースとかに使わない気がしました。初夏では相当暑いですよね。それも含めて変わった女ということを印象づけるための小道具でしょうか。

    『パパ活応援よこた』
    この組織? の意味がよく分かりませんでした。
    見た感じは子供の授からない夫婦を応援するみたいに見えて、よからぬことを企んでいるようには思えませんが、これにも何か重要な意味が?

    • 投稿者 | 2018-05-23 20:35

      表現に関しての指摘、的確だったので直しております。コメントありがとうございます。

      著者
  • 投稿者 | 2018-05-18 16:17

    前回よりは読みやすかったですが、「妻」という単語が単独で出てくるので誰の妻なのかよくわからなくなることがありました。血だらけの女に混乱するところはグルーブ感があって大変良いと思います。ただ、彼女が夫を殺したのは早い段階で察せられるので結末があっさりしすぎてちょっと拍子抜けでした

    • 投稿者 | 2018-05-23 20:34

      コメントありがとうございます。確かに瑞季が殺したのは拍子抜けと言われると拍子抜けですね。「結局瑞季が殺したんだけどでも仕方なくない?」の仕方なくない?の部分があまり伝えきれなかったのかなと思います。ありがとうございます。

      著者
  • ゲスト | 2018-05-23 19:56

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    • 投稿者 | 2018-05-23 20:31

      わー!机の上に載せてる描写を入れ忘れましたね。誤読ではなくこちらのミスです。

      著者
  • 投稿者 | 2018-05-24 23:47

    文体がユニークで素敵です。もっと感性からくる表現を徹底的に楽しみたい、と思わせる小説でした。
    ギャルさんが作っているのが「肉じゃが」なのがなんかいいし、スポーツクラブによくいるフラメンコ気狂いの婆の小説は読みたいです。
    最後の一文は、身も蓋も無い、というか、あまりに普通な言葉で、作者さんの中に、おそらくもっと他の何かがあったんじゃないかなと思いました。(的外れかもしれません)

  • 投稿者 | 2018-05-25 22:47

    文体がハードボイルドの翻訳小説っぽい。「おれ」の一人称がきいている。さすが出題者、ノワールを押さえている。

    「その血、どうしたの?」と最初に訊けば済む話なのに「さまざまな物証」から勝手に妄想を膨らませていく主人公がもどかしく感じられた。もっとコミカルに描いてヘタレを強調すれば面白くなるはずだが、ハードボイルドの文体が裏目に出ているように思う。私は思い込みの激しいダメ探偵の話として読んだが、結末まで曖昧さが残されたままなのでハッキリしない。それが狙いか?

    パパ活が話にどう絡んでくるのかも結局よく分からなかった。説明的にならないようにしようという意志は窺えるが、いろいろ端折り過ぎていて話がよく伝わってこない。

    「下を見下ろした」のような冗語表現や「?」の後の一字あけが統一されていない点には気をつけたい。あと情報を出す順序にも注意を払ったほうがいいと思う。野暮ったい印象の服を着ているのにどうして「イカした雰囲気」になるのか? 主人公の反応をまっさきに書くのではなく、瑞希の外見の描写を先にしてから主人公の反応を書くと共感しやすくなると思う。「彼女さん……」以降の会話も、私は最初のセリフが瑞希のものだとすぐに分からず、混乱して読み直した。ここでも「机の上にキーがあり、それが派手なデコレーションだ」という内容の描写を会話よりも先に出したほうが分かりやすくなるのではないか? たとえ作者の頭の中にシーンのイメージができあがっていても、書かれていないものは読み手にはまったく見えていない。

    • 投稿者 | 2018-05-26 01:46

      全くもってそうですね。確かに全て的確なコメント。ありがとうございます!!!

      著者
  • 投稿者 | 2018-05-26 12:28

    ミステリー感があり、何が起こっているのだろうと引き込まれるが、瑞希自身の抱えている謎や魅力に集中できずに気が散ってしまうようなところがあるのは、もしかしたら不必要な要素がいろいろ書かれているのかなあと思いました。
    「おれ」と、ミステリアスな女「瑞希」というシンプルな構造に落とし込んで、複雑にせずにあえて情報を抑制してストレートに突っ切っちゃっても面白いかなという気がしました。
    座間の事件が出てくるのは唐突な感じがしましたが、それゆえに作者がこの事件に関心を持ってそこへ結びつけたものを書きたいとい気持ちが伝わりました(間違っていたらすみません)。

  • ゲスト | 2018-05-26 14:47

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    • 投稿者 | 2018-05-27 12:56

      コメントありがとうございます。確かにすぎてギョエーとなりました。頑張ります。

      著者
  • 編集者 | 2018-05-28 16:05

    ぼやけた部分があることを認めつつ、ストーリー上は旦那がもはや何も苦しみも悩みもなく至福と安らぎのあの世に旅立ったと確信して読んだ。座間の下り、逝くのが先か逝かされるのが先かという彼女の考えは、自分にとっても切実に感じられる。最後の独白には、無言で答える外ない。

  • 投稿者 | 2018-05-29 18:05

    なるほどこれがノワールか。ていねいに雰囲気を作りつつ、自分らしさもアレンジしているように感じた。「現代」の部分はスキンを今風に載せ替えながらも、芯のアーキテクチャは古き良きノワールをそのまま継承しているのかもしれない。かもしれないというのは、それでいいのか俺にはわからないからだ。
    読みながらちょっと思ったのは、彼女らのような次世代を担う人たちはなんかもっとはっちゃけた感じでもいいんじゃないかということだったが、気がついたらラスボスとの戦闘は終了していた。

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