最愛の相手を殺せ

応募作品

牧野楠葉

小説

8,745文字

中上健次『十九歳の地図』のオマージュ作品です。破滅派13号応募作品。「ばかやろう! 冗談かどうかみていろ、ふっとばしてやるからな、血だらけにしてやるからな、なにもかもめちゃくちゃにしてやるからな」ーー『十九歳の地図』より引用

 内縁の夫と別れた。女性として見れなくなったそうだ。芸大を卒業してから五年、ユカはもう二十七になっていた、絵の才能も枯渇していた。何もかも無くした。昨日、電話ごしに別れを告げられてそのまま。その足で……それなりに好きだった、だから内側からユカをつき崩す虚無に耐えられなかった。新宿のハプバーに行き五人に輪姦されにいった。惨殺的なその行為が終わると終電がなくなっていたので、そのうちの一人、音楽のプロデューサーだとかいう男が、下品なテキーラで顔を赤らめながら、胃の中のものがごちゃ、となった、どぶに打ち捨てられた腐った魚のような口臭を漂わせ、自分の家へとユカを引っ張っていった。

 その家は広めのワンルームだった。住所がわからない。どこの駅が一番近いのかも当然わからない。空気が湿っていたし籠っていた、ガラスの張ってある本棚にずらりと並べられた村上春樹の文庫本と、歩く隙間なく床のあちこちに積まれた、大量のレコードが目についた。男は家についてすぐ、青色のジャンパーも脱がぬまま、雨音が延々としたるレコードをかけ始めた。……じゃあ、しゃああああ、ぽつ、つつ、ぴとっととと、じゃあああ、しと、ぴと、とととと、ざああ……ユカは音に包まれる。いや、密封される。ユカは思わず、これからの行為が異常なものになるのではないかと思いぞっとして立ちすくんだ。そして再び、ティッシュが丸まったのが所々に投げられているベッドの上で、部屋を満たし続ける執拗な雨音の狂気と反比例するつまらないセックスをしながら、ユカは、酔いにまみれた頭の中で、ゼンを探さねば、と強迫的に繰り返していた。ゼンを、探さねば。それはユカにとっての「蜘蛛の糸」であり、この世を生き抜くための「地図」だったからだ。ゼン、ゼン。……もちろん、ユカはもう、全く、ゼンの絵を描いていなかった。

 

 離島。戸建てのリビングに、燦々と神々しいまでの夏の光が溢れていた。気持ち良くさっぱりとした昼の風が、開け放された窓から入り込んでくる。芋のように素朴な顔をした引越し業者が絶え間なく段ボールを運んでくる。しかしその仕草は危なっかしい。梱包されており、無事だったからとはいえこの業者は先ほども花瓶を落としたほどだ。だから、ジンは最初に運ばれてきた、年季の入った緑色のアンティークのソファに座りながら、神経質な顔つきで業者を目差し続けていた。……大体、いつも、夢の中で俺を苦しめるのはもっともっと若い男の肉体なのだ。こんな業者。反吐が出そうだ。まだ成人していない、未成年の少年を見ると俺は気が変になる。彼の輪郭はどろどろと融解しているが、俺はその幻影をいつまでも見ていたいと願っている。社会の常識を何も知らない、まだ孵らない生の混沌に、無意味な美しさに、俺は自分の身体を押し付ける。少年はそれを止めろといわんばかりに身体をぐね、とねじり、俺と目を合わせる。肋骨の浮いた白い華奢な体躯、小さな喉仏、鼻までかかった長く黒い前髪を指で押し上げるとそこには柔らかな産毛が生えている。俺はそれを優しく撫で、唇をつける。少年は憎々しげに、しかしその目は、ドクドクと音が聞こえるかのような快楽に燃え、そして、今度はもう諦めたと言わんばかりに、また俯せになる。……

「神谷さん、あの……」

「何、どうしたの」

「この、観葉植物は……」業者の男はひどくゆっくりと、愚鈍なしゃべり方で言った。

「窓際に置いてよ、適当でいいから」

 ジンはやけに苛つき、この離島でしか売っていない限定のビール缶を開けて飲み始めた。すると電話がかかってきた。液晶画面には「ノッポ」の文字。ノッポはジンのことが好きな、気さくなヒゲ面のオカマだった。ノッポは女より美しい髪をしている。

「もしもし? 聞こえてる?」野太い声が響いた。

「ああ、」

「アンタが越した島のね、コリーダって店なんだけど。いいとこらしいわよ、それを教えてあげようと思って、わざわざ電話したのよ」

「ご丁寧に。でも俺は行かねえよ、二丁目で散々懲りたんだ、しばらくいい」

「何言ってんのよ。そんなゲイ受けする顔なのに勿体ないわ、しかもアンタからハッテン場通いをなくしたら、楽しみが何もなくなっちゃうじゃないの」

「でもほんと良いところだぜ。この島。ハッテン場なんてなくても生きていけそうな感じがする、見事に何もなくて。お前も遊びにきたらいい。昼のビール、うまいぜ」

「水商売なんて休めないわよ! あくせく働かきゃ生きてけないんだから。大体ね、昼間から飲んでたらまたガンマ狂うわよ。ほどほどにしなさいって、破滅的な飲み方なんだから」

「ん」

「まあアンタは、東京で頑張り過ぎたんだからしばらく羽休めしなさいよ」

「……今日は日曜日だろ、ベロニカ開けるまで、お前、今何やってんだよ」

「何やってんだってアンタ、今日、四十九日法要に来てるのよ、今、納骨式まで全部すんだとこ」

「四十九日? 誰か死んだのか?」

「うちにもよく来てたお客よ。アンタも見たことぐらいあるんじゃないかしら? ほら、ハヤトが『ドラゴン』でやったパーティーとか、他のゲイナイトにも来てたんだけど、あんまり馴染めてなかった人」

「ああ……」ぼんやりと心当たりがあった。

「大人しそうな人だったからね、結局、若い男の子たちに殴られて。トイレで倒れてたって」

「でも、まだそんな事件があるなんて信じられねえな。昔じゃあるまいし。あのニュースになってたやつか?」

「そう。でね、無駄にマスコミが来てさ、事情を何にも知らないのに、荒い鼻息立てて、インタビューとやらをして回ってるのよ。愚かだわ、無駄な正義感だわ、お節介なのよ。気持ち悪いのよ、辛い会だったわ、ゲイパレードに参加した直後だったわ、世の中狂ってるわ、……また連絡するわね」

 電話が切れた、唐突に。しばらく電話を耳に当てたまま、ジンは、なぜだか、呆然としていた。熱気と怒りが含まれたノッポのこんな早口を聞くのは初めてだった。もしかしたら、ノッポは葬式場で涙を流していたのかもしれない。

「あのー、全部運び込みましたんで……」業者がジンに小声で言った。

 

 高校一年生の入学式の日、つまり今から二年前ほど前の朝、黒板に、全裸の女の写真に無理やりゼンの顔を貼り付けた乱雑なチラシが貼られていた。チラシの中のゼンは、「挿れてほしいな」と吹き出しで言わされており、ユカはとにかく猛った、馬鹿にしやがって、愚かな奴らめ、こいつらはゼンの良さを、何もわかっていない。ゼンはわたしにとってのマリアなのだ、だから、その日から、強迫的に、ユカは、ゼンの絵を描きはじめた。

 放課後、精液と尿の匂いが蠢く高校の男子トイレの壁で、髪を茶に染めた二人の不良に囲まれ、ゼンは何度も何度も殴られていた。整った顔は赤黒く腫れあがり、元の原型を留めていない。ゼンは目の淵から血の混じった涙を流していた。そして、制服のズボンは無残にも引きずり降ろされ、肉のついていない、白く華奢な腿が露わになっている。でもこれは、ほぼ毎日のことだった。

「な、俺の、しゃぶってくれよ。ゼンちゃん」下世話な笑い声が響いた。

「浩明、見ろよ。こいつ、勃ってやがる! トランクス濡れてる」

「キモ! 拓也、突っ込んでもらえ」

「馬鹿かよ、……な、おい、出たぜ。また。ゼンくんの味方が」

「あ?」浩明は振り返った。

 ゼンは、ずかずかと男子トイレに入ってきたユカを見て、柔らかな微笑を浮かべた。

 ユカはいきなり三人の様子をスマホでぱしゃぱしゃと撮り始めた。体を曲げて、色んな角度から。

「何してんだよ、ユカ。おい」浩明はユカにとうの昔に振られていた。

「あんたらの愚行をツイッターにあげる準備してんのよ。バズるわよ、そしたら終わりだから、キチガイ」

「やめろって!」

「あんたたちも懲り、」全て言い終わらないうちに、浩明は硬い腕でユカの頭を思い切り叩いた。ばこんという単純な音がし、スマホがふっ飛び、ユカはあっけなく崩れた。浩明はユカの脇腹を蹴り飛ばした、骨の軋む音がした。そして拓也は最後の仕上げと言わんばかりにユカの髪に唾を履きかけ、浩明の後を追う。……お前だって島中の男と寝て高い金取ってるくせに、それだって暴力じゃねーのかよ、お前にどれだけの価値があると思ってんだ、インランのくせに、偉そうなんだよ、汚いんだよ、売女! 廊下からしゃがれた声が響いてきた。

「ユカ、大丈夫?」

「……そんな姿で心配しないでよ、ゼン、とりあえずズボン履きな」

「うん」ゼンは膨れ上がった顔でユカに笑いかける。うずくまったまま、ユカはゼンを見上げる、そして、美しいゼンの顔をこんなにもめちゃくちゃにするなんて本当にあいつらは死ねばいいと思ったのだった。一ミリでもゼンの頬骨がずれたり砕けたりしたら、わたしはあいつらを本当に殺してやる。ゼンのデッサンが狂う。ゼンはズボンを上げながら、

「ごめん、いつも」と言った。

「何言ってんの、ゼン……白々しい」へへ、とゼンははにかむ。

「あのね、ユカ、僕、昨日の夜、家出してきたの」

「……」

「それでね、もう、明日から学校来ないつもり」ゼンの声は晴れ晴れとしていた。

「驚かないの? ユカ」

「……また後で、港で聞く。今日は七時ぐらいに行くよ」

「わかった」ゼンはユカに手を伸ばした、その手はじんわりと温かかった。ユカはゼンを苛烈に愛していたから、もう学校に来ないという事実を聞いて、本当はその場で泣きたかった。

 

 ユカは夜の港が好きだ。漁船の肌が水面につう、とゆらめきながら映って、儚い。くだらないセンチメンタルだ。コンクリートに座るゼンの小さな背中を、ずっと見ていたかった。この風景、情感を、完璧に絵にできたら、どれだけ幸せだろう?

「……ゼン」ユカは煙草に火をつけた。

「ああ、ユカ、今日は何円稼いだ?」

「今日は、一万六千円」

「結構、いったね」

「うん。なんか、稼いでそうな旅行客だったからさ、ぼったの。今の出会い系、すごいよ。いやいや、そんなんじゃなくて。本題よ。わたしの話なんかどうでもいいから。ゼンの、あの、頑固な親父からどうやって逃げるって話、こんな狭い島の中で」

「ここから二十分ぐらいバスでいったところにね、コリーダって店があるんだ。それはハッテン場なんだけど、家とか、学校の事情を言ったんだ。そしたらね、住み込ませてくれるって」

「……でも、ハッテン場、漁師、多いでしょ? 漁師コミュニティ、早いよ。親父にすぐ伝わるって」行かないで、行かないで、ゼン。

「どうだろう。お父さんに言わないでくれ、安くするから、って言ったら無理かなあ」

「んー……わかんない。そればっかりは店のシステムじゃんね、わたしはバレる気がするけど」ユカは白い煙をぶわりと吐き出した。煙草を吸っていないとおかしくなりそうだった。

「僕のこと一番守ってくれたのはユカだけど、平塚先生いるでしょ。僕はわりかしあの人好きだったんだ。一年のときのあのチラシも、うまく対処してくれたし。でも、昨日、平塚先生が、ボコボコの僕を見て、『お前もゲイってこと、もうちょっと隠したら、うまく行くかもしれないぞ』って言ったんだ、だからもう、とにかく学校に行きたくないんだ」

「……」建前ばっかりの、つまらない大人たち。

「ユカは、どうするの、受験」

「受験ねえ」どうでもよかった。

「うちの家、絶望的にお金ないもん。それに修羅場だしさ。全員、吐き気がするぐらいおかしい一家だから、東京になんか出してくんないよ。一応、受験費ぐらいは貯めれたから芸大、受けてみようとは思うけど……」

「ねえ、もし、もし、だよ、ユカ。東京で、芸大に受かって、通えたら、どうする? ここから、逃げれたら、どうする?」ゼンは楽しげに言った。

「わっかんない。現実感がなさすぎるよ……」

「なりたい職業とかないの? うまくいけば絵で食べられるかもしれないけど」

「雀プロ……とか……?」

「ひどいね」ゼンはくくく、と笑った。

「なんで麻雀なの。別にいいけどさ。雀プロもすごいけど」ゼンの愛嬌が零れだす。

「そんなに絵が上手いのに、才能があるのに。何回、賞もらってるの? 勿体ない」

「たかがしれてるよ、もっと上手い人だらけだよ。それに、麻雀の方が好きだよ、わたしは」

「そっか」ゼンは、ユカを心から否定したことは一度もない。だから、ユカは、ゼンが好きだった。

 

 二日後、ジンとゼンはコリーダで出会った。目があった瞬間から、お互い、わかった。魂がわかった。人生に何度かある、激情的な恋。ジンはゼンの体を丁寧に愛した、そんな手間暇をかけてくれる男はいなかった、だからゼンはコリーダではなくジンの部屋にそのまま住み着いた。ゼンは尻の穴にオイルを塗られ、合法ドラッグを挟まれる。十五分後、くらりとする多幸感がやってきて、ゼンは、こんなぺらぺらの幸せでいいんだろうかと思いながら隣のジンの胸板を見る、見事な隆起だ、なんて綺麗な筋肉なんだろう。ゼンはジンに突かれる。内臓がひっくり返りそうな快楽を感じる。ジンは潔癖症だが、ベッドだけは薬品類や精液でどれだけでも汚した。ゼンのスマホが鳴っていた。

「出なくていいのか?」ジンが自嘲的に笑いながら言う。もうゼンは喘ぐことしかできない。

 

 ユカは絶望していた、本当の絶望だ、ゼンが電話に出ない。母親は散らかった机の上でビールを飲んで、何本も飲んで、ユカに謝る。ごめんねえ。ごめんねえユカ、お父ちゃんが出てったの、アタシのせいだからね。ごめんねええユカ。そこに認知症の祖父が現れ、フローリングに脱糞をする。ユカはいつのまにか台所にもたれかかって、この家族の肖像を見てもう笑ってしまった。ギャハハハハハ。ハハハハハ。ユカ、どうしたの、何か面白いことでもあったの? ごめんねえ、おじいちゃんうんちしたのか。それが面白いの? テレビが面白いの? ユカはもう機械のように笑いながら、シンクに積み上がった食器類を洗い始めた。ハハハハハ。ギャッハハ。

 

 ジンはいつも、テレビを見ながら朝から飲んでいた。緑のソファに座って。

「ねえ、ジンは仕事しないの?」ゼンはジンの横顔に向かって語りかける。

「ゼン、『噛みつきスワレス』知ってるか? サッカーだよ、前回のワールドカップにも出てるよ、ウルグアイだったかな、まああいつはスポーツマンシップに反してて俺は好きなんだ、」ゼンは朝食の目玉焼きを食べながら悲しくなった。ジンはゼンを見ない。

「東京でなんの仕事してたの、ジン。ジンのこと、知りたいよ、僕」

「腕に噛みつくんだよ。いっつも興奮してアドレナリンが出てんだ。尊敬に値するメッシよりロナウドより壊れてんだ、だから俺はスワレスが好きなんだ」

「……あのね、僕、コリーダでスカウトされたんだ」

 がらり。

「……なんのスカウトだ?」

「アイドルだよ」ゼンは途端に嬉しくなっていう、ジンが、ゼンのほうを向いたから。

「アップスタンドっていう会社の人が、東京でアイドルにならないか、って。君みたいな、女の子みたいな男の子が今東京で流行ってるんだって」ジンはいきなりビールの缶を投げた。それは花瓶に当たって、床に落ち、粉々になった。

「ジン……」

「東京で俺が何してたかそんなに知りたいか? 俺はな、国税局で働いてたんだよ。十三年も真面目に働かせていただきましたよ。犯罪が嫌いだったからな。でもまたこれが矛盾してんだよ、前年度の検挙金額を上回らなきゃなんないからな、つまりノルマがあるんだよ、だから犯罪を育てて育ててデカくして、刈りどきまで待つんだよ。最悪だろ。その間に何があっても自分の検挙金額のために『待たなきゃならない』んだよ。そのアップスタンドの社長はもうすぐ捕まるぞ。俺は個人的にその社長とセフレだったけど、何よりも信頼してた俺の相棒がな、社長と俺がホテルでヤリまくってるのをスッパぬいて、脱税コンサルをやってるって上司に密告しやがったんだよ。脱税の助けなんてやってないけどな。俺は嘘だろって感じであっさりおじゃんだね。で、あの社長はいい男だが、やってる仕事は悪どいぞ。やめとけ、ゼン。でもあの社長もしつこいな、わざわざ俺を追っかけてここまで来たのか?」

 ジンがもう一度振り向くと、ゼンはもういなかった。ゼンは荷物をまとめて飛び出し、社長の名刺に書いてある電話番号に電話をかけた。

 

「おう、ユカ」

「親父さん……」学校の廊下で、ユカは逞しい、いかにも海の男というゼンの父親に会った。

「ユカ、元気か? 久しぶり。女になったなあ、お前」

「元気です」

「……なんか、聞いてるか? ゼンから」

「……」

「本当困っちまってよ。いや、別に学校なんて辞めてもいいんだが、あいつ船に乗ってもらわんとなあ。居場所、知ってるか?」

 ユカは、あらゆるものから、ゼンを守りたかった。

 だから、嘘の町の名前を言った。

 そこにゼンの父親が行く途中、彼は交通事故に遭い、死んだ。

 

 坊主の読経が終わった。そして酒の席が始まった。ゼンの父親を慕っていた漁師仲間の涙は酒を飲むうちに酷くなり深くなり、その嘆き節にユカは耐えきれそうになかった。ショックで寝たきりになってしまったゼンの母親の代わりにコップやらの洗い物をしながら、張り裂けていた。本当に張り裂けていた。自分のせいだ。自分を許すことなんかできやしない。玄関の引き戸が開いた。ゼンがいた。よれた、薄汚いTシャツを着ていてとても惨めだった。わたしはゼンに何を委ねていたのか? 暴力だ、わたしは暴力だ。

「……おかえり、ゼン」ゼンの大きな目は、涙をぱんぱんに含んでいた。

「僕のせいだね」

「違う」

「……僕が……決まってることから逃げたから……」ゼンは地面に崩れた。

「違う! 違う!」ユカはゼンの元へ駆け寄り、洗剤のついた手で彼を抱き、大声で泣いた。泣くことしかできなかった。ああああああああ。ああああああああああああああ。あああああああああああああああ。

 

 半年後、ユカの手には百万円があった。ゼンが、アップスタンドの社長から貰った上京資金をくれたのだ。高校を退学したゼンは嘘のように日焼けして、毎日、船に乗って黙々と仕事をしていた。そしてユカは芸大に受かった。

 ユカがアトリエ代わりに使っていた、家の隣にある物置小屋には何枚もの油絵があった。全てゼンの絵だ。鈍色に輝く廃墟の中で、極めて緻密に描かれた小さなゼンが、キャンバスの中で何体も自由に飛んでいる、その肩には天使の羽がついている。至る所に美しい鱗粉が飛び散っているのだ。または真夜中、星が煌めく中、屋根の上で素っ裸で佇む少女のようなゼンの絵、さらに、生身と機械でできたゼンの絵、その生身の肉には恐竜の鱗がべろりと剥がれたようなグロテスクな傷がある。もう、こんなのは、きりがない……ユカは、物置小屋に灯油を巻いた。そして、火をつけた。轟音が鳴っていた。うなっていた。

 

 その数ヶ月後、ゼンは急に、島から姿を消した。ジンは何度も連絡したが、それは折り返されることがなかった、ジンはコリーダに行って衝動的に何人もの若い男と寝た。でも、しっくりこなかった。だが突然、真夜中に知らない番号からショートメールが来た。それはサイトのURLだった、悪い予感がした、upstandという文字列がURLの中に含まれていたからだ。

 『社長の依頼をバックれ離島から拉致されてきたアイドル志望の男の娘、ゼンちゃんが往く! エロからアイドルに出世チャンス? 秘密で魅惑の恍惚パーティ! 課外授業編』ジンは即座にゲロを吐いた。これはまだジンに執着している社長が送りつけてきたのだろう。見せしめ。自分でもよくわからない、岩のように硬い涙をぼろぼろと流しながら、おそるおそるジンはその動画を再生した。インタビューからそれは始まった。

 Q・ゼンちゃんについて教えてください。

 A・ゼンちゃんでえす。ぴっちぴち十八歳。もうすぐ十九歳。イケメン大好きおバカなゼンちゃんだよ~。よろしくっち!

 Q・ゼンちゃんはエロに対して抵抗はないのですか。アイドル志望じゃなかったでしたか。

 A・はっはは。もうなんでもいいんですよ。もうなんでもいんです。おしっこぶっかけられたい。

 涙が一気に引いた。ゼンはいかにも安っぽいセーラー服に似合わない金髪のウィッグをつけて、面白くもない、ポジショニングも考えられていない、馬鹿な発言を繰り返した。突っ切れているわけでもない、凡庸な商品になってしまっていた。ジンはその動画ページを閉じた。そして、ジンは、東京行きの新幹線を予約した。

 

 ユカはその男の家でそのまま眠り、夢を見た。それは、ゼンの夢だった。ユカと同じく二十七歳になったゼンは二丁目で働いている。いや、それすらも曖昧だった。起きてぼやけた頭ではうろ覚えでしかない。そもそもゼンはアートなのだ。ゼンは資本主義の中で器用に立ち振舞えるタイプではない。そもそも生きているのか? 死んでいるのか? それすら……

「なあ、あの、昨日はどうも。仕事もう行くし、ごめん、帰ってもらえる?」

 歯を磨きながら男が言った。もうあの気持ち悪いレコードも聞かせてもらえないのか。ユカは軽く笑った。

2018年3月29日公開

© 2018 牧野楠葉

これはの応募作品です。
他の作品ともどもレビューお願いします。

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

この機能は廃止予定です。

タグ

この投稿にはまだ誰もタグをつけていません。ぜひ最初のタグをつけてください!

タグをつける

タグ付け機能は会員限定です。ログインまたは新規登録をしてください。

作者がつけたタグ

純文学

"最愛の相手を殺せ"へのコメント 2

  • 投稿者 | 2018-03-29 22:09

    過去はひきこもり、現在はその過去を取り戻すために毎日がテンパっている。
    焦りながら生きる自分にはなかなか書けない雰囲気の話です。
    こう言った作品が求められる、そして好まれる傾向もあると私は思っています。
    「まあまあ」よりも振り切りまくった作品を書きたいですね!

    • 投稿者 | 2018-03-29 23:22

      大和さん、ありがとうございます!もっと振り切りたいですね!

      著者
コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る