今でもまだクラクラとして慣れない、灯油じみた油絵の絵具の匂いがべったりとそこらにしみついている……紺色の分厚い遮光カーテンで夕陽を止めた放課後の美術室。
幸はデッサン時のライトの位置にもきっちりとこだわるから、余計な光源が手元を狂わせないようにこの部屋は基本的に暗くしてあった。幸のボーイッシュにカットされた短い金髪だけが真っ白く細いその首を照らしているだけだ、目の前のキャンバスを見るその目ははじめてミニカーを手にした男の子のような煌めきを灯している。もう、まだ三十分程度しか経っていないのにも関わらず……幸の目の前にある木炭紙大画用紙には石膏像メディチの輪郭がはっきりと浮かび上がっている。その、狂気まで感じるような精密さに、私は思わず息を飲み……これからさらに幸はメディチに幾何学模様のスカーフを纏わせたり、バナナの皮をべろりと頭に被せたり、自由で複雑な装飾を施す、メディチは水の張った小さなビニールのプールに浮かべられ、玩具の船と、そのなだらかな波紋と共に描かれたりもした……さらに幸は自分で石膏を買ってきて、それをハンマーでかち割ってその断片、ちらばりからわきたつ石の埃までを全て用紙の中に収めてみせる……それはあまりにも天才的で、巧みな技としかいいようがなかった。中太のヤナギの木炭を挟んだ幸の華奢な指、爪はきちんと切り揃えられてある……それはあまりにも綺麗で、私にさらに敗北感を与えるのだった、自分の目の前には、まだ目印の線さえ狂った意味のない紙があるだけだ……私は諦めて手元のスマホに目を落とす。昨日、ツイッターで運命の男を見つけたのだ。
Masa Takeda
写真家、デザイナー。
東京藝術大学先端芸術学部、非常勤講師。
少しこめかみが角ばっていたが、日本人離れした、鼻の通った凛とした顔立ちで容姿は悪くなかった。その訓練された鷹のような眼差しにはひとをどきっとさせる深淵なものがあった、そのツイッターの小さなアイコンを拡大して何度見返したことだろう? そして彼がツイッターに載せていた写真イメージ――瓶詰にされた赤子のホルマリン漬けの写真、大きく膨らんだ妊婦のお腹から爆弾の導線が飛び出している写真、男根を模した造形物をまとめてゴムで留めている写真――それは、大親友に圧倒的な才能で負けた女がゆるやかに逃げ込むにはぴったりのイメージに思えた。私はもう自分のキャンバスのことなど忘れて彼の人となりに想像を巡らせた、どんな部屋に住んでいるのか、煙草は吸うのか? 吸うなら煙草の銘柄は何か? 作品についてはサブカルにすぎない、と思ったが紛れもなくそれまでまるで男に興味のなかった私の、画面越しの初恋だった。絶え間なく耳に響いてくる幸の鉛筆の音は熟練の殺人犯が死体を切り裂いていくように鋭く正確だった。もう聞いていたくない。ますます自分の手が動かなくなる……
「絵、進まない?」
幸は、木炭の線をじゃっと下まで引き下ろしてから、ばさりと長い睫毛を伴った大きな瞳を私に向けた。苛烈なまでの幸のデッサン音が止むと、美術室に限りなく静かにかけられていたKポップのアイドル曲の場違い感が露わになって私は笑いそうになった。幸が本当に好きなのは……爆音のショーケン。その次、頭脳警察。十七才のくせに。この選曲に関しては「いきなりバスケ部のイケメンがここに入ってきたときのフェイクだよ」と言っていたがいまいち意味もわからない。幸は無言のままなにも答えない私が握りしめていたスマホの画面に食いつくような視線を向けた。
「誰?」
「あ、……」
「最近スマホばっかり見てるなと思って、もしかして?」幸は無邪気に笑った。
「佳子が好きそうな顔じゃん」
「そんなんじゃない! この人、東京藝大の講師なんだよ」
「えっ、油画?」
「先端」
「じゃああたしたちには関係ないじゃん」幸は至って普通に言った。
私は油画を受けても落ちる未来しか見えなかったので、受験学部を変えようと思っていることをまだ幸に言えていなかった。
「この人なに作ってんの? マサ・タケダ」
関係ないと言ったくせに、半笑いで、でも、好奇心を剥き出しにして幸は聞いた。なにか出さないとこのままでは黙らない。
「……マサ・タケダって呼ぶの?」
「なんで? 横文字表記じゃん」
「……」
「とにかく作品だよ」
「……そんなにツイッターにはないんだけど」私は諦めて竹田の写真コレクションを見せた。
五秒ほど幸はスマホをスクロールし、
「これだけ?」と鋭い舌打ちをした。
「いや、多分まだあるけど。なんか、えぐられる? アートっていうか……」
私は痛々しい言い訳をした。自分を限界まで追い込むほど――デッサンコンクールに挑む前は悲愴な十円ハゲを作ったほど絵や芸術にストイックな幸に対して、ただその写真イメージの雰囲気と、指摘された通り顔が良かった、など通用するわけがなかった。そして技術うんぬんの問題もあるがそれ以上に、油絵を捨てて先端を受ける理由がこの男になりつつあることなど言えるわけもない。
「アート!」予想通り幸は激怒した。
「この写真とか、藝大に憧れるようなあたしらのようなもんがいかにも好きそうなテンプレじゃない? 他にどんな作品作ってんの? マサ。さすがにこれだけじゃしょぼすぎっしょ! ググっても出てこないの?」幸の舌が凄まじく回転しだした。一度暴走した車は崖から落ちないと止まらない。
「そりゃ探せばあるだろうけど。あのさせめて竹田さんって呼ばない?」
「ええ!? いいじゃんマサで。竹田さんはないわ別にリスペクトしてないし」
「マサってなんか友達みたいじゃん」
「友達みたいなもんじゃん」
幸が意味不明なことを言い出したので私はしばらく黙った。
「……幸は、マサのコレクション、見たい? 心から」
「いや、馬鹿にしようと思ってるよ!」幸は大きな声で叫んだ。
私はしばらく呆然としたあと、さすがに笑ってしまった。そしてその後、幸はググって出てきたマサのコレクションをロジカルに貶しまくった。
幸の家は立派な一戸建てで、門がついているような家だった。辺り一帯の地主の家で、どうやら名家と呼ばれる類のものらしく、こんなにも由緒正しく、冷徹な静けさを靄のように纏っているところから幸のような奇抜な人間が生まれたのはなにかの事故としか思えなかった。でも、毎回着物を来た幸のお母さんが手厚く迎えてくれるのを、自分の家と比較して暗くなることの方が多かった。何度交換してほしいと願ったことか? 全てを妥協できる凡庸な私なら、幸の家が望む生き方を完璧に与えてあげるのに。
お父さんはいつも仕事をしていて数度しか会ったことがなかった。そして幸の弟の中学二年生で不登校になってしまった朋。朋は四六時中、汚い自室のベッドに寝そべってゲームをしたりコーラを飲んだりしているので当然のように美しい豚になり、「つるぽんくん」と私たちに罵られては怒鳴り返してくるのが日常だった。
私たちがアイスなどを取りにリビングに向かう途中で、洗面台の付近でつるぽんくんが全裸の身体をタオルでごしごし拭いていた。その過剰な拭き方から察するにどうやら潔癖らしいつるぽんくんは小さな女の子のような悲鳴をあげた。
「ひゃっ」
幸はじりじりと悪い笑みを浮かべ、つるぽんくんの元へ荒く歩み寄った。
「くんな、宇宙人!」ものすごい響きの言葉だった。
「お前まだチン毛生えてないのか。手遅れだね」
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