princess

応募作品

牧野楠葉

小説

4,099文字

2019年7月度『猫』応募作品。「私はあの朝、気づいたんです。」——『princess』

医師は優しく女の言葉を促す、さあ、話してみて……。野生の針鼠のように鼻先からギリと尖った顔立ちをした女はおずおずと声を漏らしはじめる、私はあの朝、気づいたんです。何に? 何に気づいた? 女は密かな愉快さをその目に秘めはじめて、脳裏に映る、揺らぎの光景を噛みしめるように……皆、わかってないなって。半笑いで、でもそのすぐ直後に女は泣きべそをかきそうに顔を歪めて、それでも徐々に声に挑発をこめて、わかってないな、全然わかってない。と繰り返す。何をわかってないんですか? 女はもうしっかりと目線を医師へ向け、彼の全貌を捉えながら……私だけが、彼女を知ってるんです。

 

 

早い夕食を食べ終えprincessは透けた白いカーテンの内に入り、庭を眺めた。もう薄く西陽が翳り始めていた。左手には満開の紫陽花が咲き零れ、右では使用人が薄いビニルに覆われた小さな菜園で夏野菜の手入れをしていた。ガラス一枚隔てたこの場所からでもわかる、血が滾るような真っ赤なトマトに次々鋏が入れられ、丁寧に籠に落とされていく様子を見ていたら、視界に一匹の白い猫が入った。それは庭のど真ん中を突き抜けるクリーム色のタイルの上をしなやかに歩いてくるのだった。使用人がこっそりとその猫を餌付けしていることをprincessは今日初めて知った。猫はかろやかに、なめらかに、踊るように、princessの敷地に登場した。やがて日は完全に落ちて、菜園から出てきた使用人に柔らかな腹を見せ愛想を振りまく白い猫は、この別荘からあと数日で去らねばならないprincessにはたった一つの眩い光に見えた。

 

 

最近新しく入ったのは若い娘だ。だけれどもとてもきっちりとしている、princessは彼女のビシッと張った皺ひとつないベッドメイクが好きだった、しかしあの娘は私に似ていて完璧主義すぎるところがある、きっと生きていくのは大変だろう。何か美しい服をあげたら喜ぶかもしれない。どのブランドが似合うだろう、寝室に入り、そこで突っ立ったままprincessはニャー、と小さく、とても小さく囁いた。駄目だ。princessは思った。全然駄目! もっとあの猫のように、かろやかに、なめらかに、踊るように。にぃやア、今度は低く声色を変えて。次は高く、ニィー、ヤァ! princessは楽しくなってきた! ぶわっと横に分裂する感覚がして、もう今私は私ではないと、倒れこむように寝てしまおうと、そう思ったのにもう止まらなかった。いつも鉛のように鈍い自分の体なのに、何か中心から燃え盛ってくるようで、princessはいよいよ磨き上げられた床の上で大きく伸びをする猫のポーズを取ってみた。老いた筋肉が悲鳴をあげ、さらにそれは初心者がするのにはとてもぎこちなかったが、princessは歯茎をぐにい、と剥き出して欠伸をしてみた、それからいきなりごろりと転がって、先ほどの猫のように腕をきゅっとくねらせ、蕩けるような宝石でできた天井のシャンデリアに向かって宛先のない甘えた声を出した。princessは笑った。自暴自棄な笑いなんかじゃなかった。心が浮くようだった。princessは満足して、水もなしで睡眠薬と安定剤を放り込んで、そのまま、床の上で、粘ついた泥が絡みつく底なし沼のような眠りに誘われていった。

 

 

最初に異変に気づいたのはもちろんその若い娘だった。princessは、昨日床で寝た。ベッドに人型を正しくスタンプしたかのような毎日の眠りの痕跡がなく、いつもだったらゴミ箱の中にある薬包が床に散らばっているのを見たからだ。今日はprincessの枕を嗅ぐことができない。胸に抱きしめ顔を埋めたかったに違いないがその勇気はなくそっと香りを嗅ぐだけのその枕、娘はprincessの部屋を整えているときだけ自分の母の長い髪と彼女の赤いワンピースの断片から成る虐待の記憶から逃れることができた。枕に散らばる母よりは短いprincessの毛を見るとこの部屋の中でだけ離人感がなくなり、いつも他人の手のように思える自分の手が自分の意志で動くような気すらした。

今princessは近くの浜辺へ散歩に行かれている。娘は散らばった薬包を片付け、使われていないベッドをさらに一層厳しくメイクした。この仕事を目指し一直線で突き進んできたのも自分の穢を浄化するためだった。そんなこと絶対にわかってもらえるわけがない、だから数少ない友人たちにも真の理由などもちろん言ったこともない。大学卒業後、家を出るとき、おもむろに就職先を伝えると能天気な父は「へえ、お前はそんなものに興味があったのか」と言っただけだった。三ヶ月前、ご病気になられたprincessのお世話、という異動命令がきたとき戸惑いはしたが働き出してすぐにこれこそ自分の天職だと思った。自分が皇室に求めていたものと合致した、虐待によって毀損された魂に美しい水が染み渡るように。ようやく六年目にして辿り着いた。

確かに昨日、ここで、何かが起きたのだ。娘はprincessが今日寝室に入られたらそっと扉に耳を当ててみようと、そう思った。

 

 

それから数日間耳を当て続けた娘は「それ」に徹底されたルールや流れがあることに気づいた。そして娘が思っていたよりはるかにprincessがわかりやすい人だということも。今日、princessは日課の散歩に不安定な天気のせいで行けなかった、だから「それ」の声は激しく震えときに唸りの混じったものになった。でもprincessの「それ」は決まって睡眠薬の効くまでの30分以内で終わり、声色や「それ」に付随する、想像しうる動きの組み合わせもびたりと決まった7つしかなかった。しかし今日はもう30分を超えてなにか狂おしい熱量の籠った、これまでと異様な「それ」が追加されしばらく止むことがなかった。だから……。
「ニャー」……

その瞬間、娘はやってしまったと思った。やってしまった、解雇される。しかし、息の詰まるような数秒間の後——パターン1の小さな「それ」が娘に返された。娘は息を飲んだ。ぼう、と頭が緩んで、それから、返された小さな「それ」を何度も何度も心の中で反復した。「それ」が返されたこの記憶が壊れないように、薄いベールで包むように。

絶対に絶対に「これ」は私だけの秘密にしよう。princessはご病気だから、で済まされてしまうだけだ。princessと私の遊びなのだ。

ねえ猫にだってなるよねprincess、そりゃなっちゃうよね、だってもう色々終わってるもんねなんにもうまくいかないもんね人間にも限界があるもんね、娘は濃い藍色のモルタルの扉に右手をそっとあてて……使用人用の食卓へ向かった。

 

 

princessは明日ご自宅に戻られます。予定より急ですが公務の打ち合わせが入ったとのことです。またここに戻られる時期は不明です。従って私以外の使用人は別の場所へ異動になります。人事の詳細についてはまた追って連絡が来ます。今回は異例として住み込み制でしたが次は原則通り自宅通勤制になります。

娘より十も年のいった長が言った。
「ずっと思ってたんだけどなんでそんなに食べ方が汚いの? 治しなさい。前の場所でも言われなかった?」

告知の後、次の勤務場所について、また恋人の話やら——娘を除いて——再び和気藹々とし始めた食卓にぴり、と静かなひびが入り他の使用人たちの視線が一気に娘に集中した。やめてくれ見ないでくれ今は、どこか隙間を探そうと吸い込まれるように脇の姿鏡の中へ目をやった娘の口の周りにはカレーがべったり付着しその顔は青ざめて……。

 

 

洗面台で濡れた長い髪を乾かそうと、くすんだ水色のドライヤーに手を伸ばすとそれはまるで常に卑屈な自分みたいに、せむしのように曲がっていて、娘は……。

びしょびしょのまま自分の個室に戻ると米粒のような粗い雨が窓を打ちつけていた。

 

 

その朝が来た。泣きたくなるような快晴だった。使用人たちは見送りのため外に出てびかびかに磨かれた御料車の前で待っていた。娘の爪は噛みちぎられ薄皮がめくれ中身が剥き出していた。柿色のスーツをバシッと着たprincessがやってきて使用人たちは一斉に頭を下げ、でも娘は自分の視界ギリギリに入るその柿色のスカートを穴があきそうになるまで凝視し、そしてprincessが御料車に乗り込まれると……窓ガラス越しにprincessを見つめ……。

なんという悲しい目をするの。睫毛が濡れてる。ここでまた一人で静養できるのは何年も先だからということを知っているから? やめなさい、そういう視線が一番迷惑なのよ。

車が滑るように走り出し、直後娘はしゃがみこんだ。ブラックアウトしたのだ。使用人が何事かと手を差し伸べると娘は暴れ出し、その幾つもの手を揉みくちゃに殴って殴って殴りまくって引っ掻いて噛みついた、なんだかはじめて誰かを殺したいと思った。

あんたたちが勝手に可哀想だって決めつけるから余計にprincessは……私だって可哀想だと思って、自分の勝手なよこしまな気持ちで、こんな職に就いたからもうそれが駄目なんだって! もう、もうそもそもが無理なんだって! 天皇とか皇后とかもうそういうの意味がないって! 私も皆も愚かなんだって! 娘は、コンクリートの上で蹲り頭の中で激しく叫びながら、自分は『princess』ではなく、雅子に、『猫のふりをする「適応障害」の雅子』に、単純に恋をしていたのだと気づいた。

娘の知らせを聞いてすぐさまやってきた宮内庁の男たちに引きずられ彼女は乱暴に車に押し込まれたが頑なにガラスに張り付き焦がれるように別荘を見るのをやめなかった。別荘のど真ん中を突き抜けるクリーム色のタイルの上に一匹の白い猫がいた。涙で視界がぶれてはいたけれど、その白い猫は確かに、確かに、存在していた、雅子も、同じ猫を見たのだろうか?……

車が動き出した。

2019年7月13日公開

© 2019 牧野楠葉

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"princess"へのコメント 10

  • 投稿者 | 2019-07-26 19:01

    まさかの

  • 投稿者 | 2019-07-27 04:02

    少しおとぎ話として読んでいる部分もあったので「このこととは」と今の現状と照らし合わせて一気に「つながる」瞬間がたまらない。そして娘の悲痛な想いよ!

  • 投稿者 | 2019-07-27 14:13

    そんな秘密が支えになっていたりするんですよね。他の人から見たらどうでもいいようなことがその人の救いになっていたりするんだよなあと改めて思わされました。繊細で切なくかわいらしいお話でした、ありがとうございます。

  • 投稿者 | 2019-07-27 14:15

    話に引き込まれて最後の最後にあっ、と驚かされ。
    「猫にだってなっちゃうよね」
    これって本当にそうです。猫にでもならないと生きられない。
    誰でも心が病み始めたら猫になって心に風を入れてほしいと思う。
    美しい描写が心に残る良い作品だった。

  • 投稿者 | 2019-07-27 15:16

    わあ、そういうことか、と、カタルシスを感じさせてもらいました。『籠女籠女 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 徳仁と悠仁が滑った 後ろの正面だあれ?』E・モロゾフ

  • 投稿者 | 2019-07-28 15:42

    適応障害、皇室、同性愛と、とてもタイムリーで重い話題ながら、美しい描写や「猫」というキーワードを使って物語としてこの少ない字数で上手くまとまっていて流石という印象です。ぜひ宮内庁関係者に読んで頂きたい。

  • 投稿者 | 2019-07-28 20:41

    princessというひとつの単語だけで話が西洋のおとぎ話のように聞こえてくるのはすごい。カタカナのプリンセスではそうはいかなかったろう。
    文学として許される範囲の中の話なのは分かりますが、いろいろタブーを犯してるなと思いました。それが文学だと思いますが。
    水なしで睡眠薬を飲んで、という描写はいろいろなところで見ますが、実はすごく難しいのです。princessはそれに慣れてしまうくらい薬を続けているのでしょうが、その割に睡眠薬がすぐに効いてしまう描写はあまりリアリティがあるように思えません。

  • 投稿者 | 2019-07-28 23:27

    羨ましいとかそういう話なのかと思って読みました。第三者の目をもってしても雅子さまの立ち位置は羨ましさからは掛け離れたように感じました。

  • 編集者 | 2019-07-29 15:52

    人生を、それも強大な権力の渦によって人為的に狂わされ続ければ、絶望によりもはや人間を止めるしかない。マサコはそれへの対応がネコだった。ダイアナ妃の様に吹っ切れられる相手もいなければ、エリーザベトとハンガリーのように環境規模の逃避先がある訳でもないマサコには、小さなネコしかなかった。ダイアナ妃は事故死し、エリーザベトは無政府主義者に殺して貰えたが、マサコは逃げられないであろう。ある朝、マサコが背中を丸めたまま冷たくなってたとしても、臣民どもは物語を作り変えて、第二第三のマサコを作るだろう。猫だけが全てを知っている……。

  • 投稿者 | 2019-07-29 19:43

    フェアじゃないかもしれないけど、後から投稿された「新代田のマシオ」1の文章があまりに見事すぎたので、本作の文章が生硬に感じてしまった。ここの文章では、まだ「文学してるぜ」というドヤ顔が感じられる。

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