平成生まれの人々も30代を迎える頃となり、平成というひとつの区切りをメモリアルなものにしようと“平成駆け込み婚”と呼ばれる結婚ラッシュがあると言う。結婚式でかけられる定番曲「CAN YOU CELEBRATE?」を歌った平成の歌姫、安室奈美恵が引退した今、結婚という儀式への憧れそのものが平成の遺物そのものであるように思えるのは僕だけであろうか……
「結婚するの」
「へ?」
「子どもがいるの、ここに……」
「えーーーーーーーーー」
安室奈美恵の歌う「Hero」がリビングに響く大晦日の夜、僕は付き合っていると思っていた彼女(仮)にフラれた。平成最後の年を盛大に寒々しく独り身として迎えたわけだ。そもそも、彼女は付き合っているつもりがなかったのだから、ずっと独り身であったということになるわけだが。しかし、クリスマスプレゼントに買ったティファニーのネックレスだってあんなに喜んでくれたのに、あの時にはすでに顔も知らない男の子どもを身ごもっていたなんて、常人の神経とは思えない。「平成の怪物」の称号は松坂大輔ではなく、彼女に譲って欲しい。あれは平成という名の時代が生んだ、恐るべき魔物に違いない。そうでなければ、彼女と過ごしたこの四年という月日のすべてが一体なんだったのか説明がつかない。神よ! ニーチェはあなたが死んだと言ったが、敢えて言おう、神よ! すべては嘘だと言ってくれ。幻という名の苦行はもう終わりだと、いや、神ではなくて仏ということになるだろうか? 仏陀! あなたはなぜに仏陀なのか? ……あ、いけない。もう何がなんだか分からない。
ピーンポーン
「誰だ、こんな夜中に……」
僕はチャイムに混乱から呼び戻され、玄関へと向かった。ドアスコープを覗くと見知らぬオバさんが立っていた。僕が恐る恐るドアを開けると、ドアの淵をガっと掴んだオバさんは勢いよくドアを引き、それに引きずられるように前向きに屈んだ僕の後頭部にむかって「なに訳の分からない独り言ボヤいてるんだよ! 何時だと思ってんだ? 警察に突き出すぞ!」とマシンガンを撃ち込むように唾を飛ばした。何が起きているのか、全くつかめない僕は視線の先にある、茶色いスリッパから飛び出た赤いペディキュアを塗りかけのオバさんの指先を茫然と見つめていた。何なんだ、これは……ツイッターでいきなりクソリプがつくことは多々あるし、インターネットという開かれた空間でそういうことが起こることにある程度の理解はあるつもりだ。だが、これは何だ? リアルでこんなことが起こったとしたら、僕ら人類がここまで進めて来た歩みは一気に逆戻りするだけではないのか。僕は自分の爪の伸びた足先に目を移し、ゆっくりと顔を上げた。色の落ちた薄いピンク色のネグリジェの下にあるボディは寸胴鍋のようにメリハリがなく、首と顎の境目はそこに境界線を置くことを拒否するようにすっかりと同化していた。
「……拒否する」
「は?」
「拒否ーーーーる!」
僕は平成という時代の終焉と共に、この時計の針を巻き戻そうとする全ての悪意からの侵略の触手を断ち切ることを決意し、握りしめた右の拳を首と顎の境目を再び形作らせる願いと共にオバさんの顎の辺りにめがけて打ち込んだ。もげた首の上に乗ったオバさんの顔は、なぜか優しく微笑む観音菩薩の如き慈愛に満ちていた。
Can You Celebrate? ああ、僕を祝福してくれるんだね……
朦朧とする僕の意識の外で、パトカーのサイレンの音がこだましていた。
追記
「もう戻って来るんじゃないぞ」
刑務官が真顔で僕に向かってそう言った。彼は帽子のつばに手をかけ、左右に振り重厚な鉄の扉を締めた。固く閉ざされた鉄の扉を左右に覆う壁は難攻不落の要塞を思わせるように高くそびえている。僕はなぜ今までこの塀の向こうに居たのだろうか……豚箱を出た僕は完全に前世の記憶を失っていた。
「すみません。あなたは神を信じますか?」
素足でアスファルトの上を歩く僕に背後から自転車に乗った男2人組が声を掛けた。彼らはとても欺瞞に満ちた笑顔でたいそう不幸に見えた。僕は微かに記憶に残る慈愛に満ちた笑みを再現するように顔に浮かべ「もう自分を偽らなくてもいいんだよ……」と彼らの耳元に囁いた。
“Oh,My Gosh!”
背の高い方の男はそう叫び、僕の前に跪いて何度も彼の胸元で十字を切った。もう一人は発狂したように自転車に乗ってどこかへ行ってしまった。
――今では僕は山奥で教祖と呼ばれ、コミュニティを経営する代表となっている。僕の周りには一般的に高学歴と呼ばれるような連中が、何やらヒソヒソと話しながら周りをうろつくようになった。僕は大変居心地が悪いので、ずっと狭い部屋にこもって瞑想している。そう言えば、平成という時代に名前は忘れたが宗教団体が大規模なテロ事件を起こしたそうだ。僕はそんな話を瞑想している間に、たまに現れる髭面の男に聞いた。僕は彼を心の尊師と呼んでいる。
了
春風亭どれみ 投稿者 | 2018-11-21 23:40
安室ちゃん自身は、家族の不幸やスキャンダルなんかもあったけど、平成とともに歩んだ芸能人生は若者カリスマから、研鑽されたカッコいいアーティストママと徹底的に日向の人だったわけで…で、その人の歌を表題にして非モテカルト野郎の話を書いたギャップ、いいと思います。平成、恋愛バブルの崩壊と非モテ野郎が起こしたカルト宗教の時代でもあると思うので
藤城孝輔 投稿者 | 2018-11-22 01:34
大して脈絡のないエピソードが淡々と語られ、まるで夢の中の話のような雰囲気がある。冒頭のシーンで神への呼びかけがあり、2番目のシーンでオバさんの顔が如来菩薩に喩えられ、といった具合に神的なものへの言及が続き、最後には教祖になって尊師と交信するというのも、深い意味がありそうでなさそうで、しかし立ち止まって考え込むことはなぜかできず、ただただ表層を滑っていくというのも夢の中のどこか乖離した感覚に近い。とらえどころのなさこそ本作のキモではないだろうか?
一希 零 投稿者 | 2018-11-22 02:46
2000字と少しで、これほどの急展開を繰り広げた物語に驚きました。なんとなく最初、ありがちな男女の別れ話モノかと思いきや、気づいたら逮捕されて、最後はなんか教祖になっていたみたいで、とにかくドタバタコメディとして楽しく読みました。ニーチェのくだりがまさか最後に伏線となるとは。読後、まるで東浩紀の口癖のように、思わず「お、おう…」と呟いてしまいました。
大猫 投稿者 | 2018-11-23 21:59
平成の終わりの駆け込み結婚の話から、女にフラれたり、殺人したり、ブタ箱に入った後は教祖になったり、よく分からない物語ながら、平成というタガの外れて何でもありの時代を映しているようにも感じました。本当に、いろんなものが目まぐるしく生まれては消えた時代でした。
無粋な指摘をいたしますが、「如来菩薩」は良くありません。「如来」は仏であり「菩薩」は菩薩です。「天皇大臣」と言っているようなものです。ここは「観音菩薩」がよいのではないでしょうか。
Blur Matsuo 投稿者 | 2018-11-25 01:13
>大猫さま
ご指摘ありがとうございます。不勉強でお恥ずかしい限りです。修正させて頂きました。
Juan.B 編集者 | 2018-11-25 04:49
俺は安室奈美恵については「学校2」に何か本人役で出てたなあ位しか記憶がないが、やっぱりすごい人だったようだ。
安室奈美恵はアイドル=偶像だが、教祖になった主人公には是非社会改良の為にも偶像にならないで頑張ってほしい。
高橋文樹 編集長 | 2018-11-25 09:53
平成のトピックをさらっとなぞっていくように感じた。作者が特に思い入れのあるテーマを書いてくれた方が良かったように思う。
牧野楠葉 投稿者 | 2018-11-25 13:31
彼女の人物造形をもっと書いて欲しかった。あと、主人公の心情「嘘だと言ってくれよ」の部分が文章的にあんまり切実じゃないから入ってこないような気がする。そんなに傷ついたならもっと破滅的な行動をしてめちゃくちゃになったりしてほしい。
だって彼女は僕と付き合ってないのだから別に「えーーーーーーーー」と驚くようなことでもない(そもそも、全て僕の勘違いにすぎない)
あと、夜中に怒鳴り込んでくるババア登場が一番この小説の中で面白い部分だと思うので、なぜか急に僕を祝福してくれるその最中を書いた方が読者の興味を引いたのではないかと思った。
『朦朧とする僕の意識の外で、パトカーのサイレンの音がこだましていた。』
からの展開がとにかくよくわからなかった。