強制収容所で精神科医が見つめた人間の強さと脆さ~被害者意識に潜む罠~

松尾模糊

エセー

2,204文字

『夜と霧』(ヴィクトール・E・フランクル著、みすず書房)のレコメンです。

僕はエセ科学満載のがん治療やら、2000年代に流行ったLOHASの様なライフスタイルは大嫌いなのだが、スピリチュアルなことは結構信じるし、わりかし運命論者めいたところがある。時々、同じタイミングで別々の知り合いから同じキーワードが飛び出すと「これは神の啓示か?」と大袈裟に捉える様なことが振り返ってみると……ままある。

 

今回、そんな僕に“運命の出会い”として訪れたのが、ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』(みすず書房)という本だ。僕の高校の同級生がTwitterで「読まずに一生を終えていたら恐ろしい」と言い、その後知り合いが「あれは最近読んで一番興味深かった」と同じ本について評価していたことから、この本を手に取った次第だ。

 

フランクルは、現代の精神医学の礎を築いた、アドラー、フロイトに師事し精神医学を学んだオーストリアの精神科医で心理学者である。彼が第二次世界大戦中、ナチスの強制収容所での体験を綴った本書。精神医学者がナチの強制収容所での生活を描くなんて、それだけで濃厚で悲惨な内容を容易に想像できるが、僕の想像とは違い、本書はあまり専門的用語は使わず淡々とできるだけ客観的に記されたもので、とても読みやすいところが特徴だ。

 

僕が読んだのは、池田香代子氏の新訳版だが、霜山徳爾氏の訳書は、1956年の初版で半世紀以上、そしてこれからも読み継がれていくだろう、その所以はその辺りも大きいのかもしれない。池田氏のあとがきに記されているが、1947年刊の旧版と1977年刊の新版ではかなりの異同があり、池田氏は「なぜ改めて訳するのか、最初は荒唐無稽だと思ったが、訳すべきだった」と述べている。その違いについて、新版では「モラル」という言葉がほぼ削られた点、旧版には「ユダヤ」という言葉が一度も出てきていない点を挙げている。

 

 

その理由については、あとがきを読んでもらいたいが、時代の変遷によって作者の伝えようとしたものが変質するということはあるのかもしれないし、作者自身の物の見方が変わることだって大いにあり得る。その時に訳者の果たす役割は、とても大きいということが本書で示されたのではないだろうか。AIによる翻訳は精度を増しているとは言え、改めて翻訳者の仕事の重みを感じた一冊である。

 

さて、前置きが長くはなったが、本書の中身について僕のささやかな感想を述べてみたい。僕が感銘を受けたのは、収容所を出た後も彼が収容所での経験を経た人々がどの様な精神状態を示すのか観察を続けているところだ。

 

具体的に言うと、「放免」というセクションでの言及である。フランクルは収容所仲間と麦畑を歩くシーンを回想し、フランクルが若芽を踏むのは良くないと言ったところ、「なんだって? おれたちがこうむった損害はどうってことないのか? おれは女房と子どもをガス室で殺されたんだぞ。なのにほんのちょっと麦畑を踏むのをいけないだなんて……」という言葉を返す。このことについて、フランクルは「こういう人間を常識へとふたたび目覚めさせるために、なんとかしなければならない。このような取り違えは、どこかの農家が数千粒の麦をふいにするよりももっと始末の悪い結果を招きかねないからだ」と語る。

 

僕はこのセクションを読んだ時に、現在SNSなどで炎上必須であるフェミニズムとポリコレの問題について連想した。つまり、今まで性的搾取を受けてきたという被害者側に立つ女性はオタクが2次元で巨乳女性像を見る楽しみくらい、全力で潰しても構わないという深層心理、フランクルの言葉を借りると、「未成熟な人間が、解放されるとあいかわらず権力や暴力といった枠組みに捉われた心理状態を見せる」状態なのではないか。

 

フランスでヴィーガンが肉屋を襲撃したり、嫌煙家が喫煙者を徹底的に排除しようとしたり、こういった世界的に見られる現象は彼らが抑圧から解放されたと同時に、これまでの被害を鑑み、権力者として抑圧してもいいという心理状態になった兆候に見える。もちろん、ヴィーガンの飲食店はもっと増えていいし、喫煙場所も決められた場所で吸えばいい。しかし、だからと言って暴力や根拠のない被害を訴えるというのは常軌を逸していると言わざるを得ない。

 

もともと、ナチスも国民による選挙で第1党となった。母親を乳癌で失ったヒトラーは、厚生事業のスローガンとして「健康は国民の義務」と定め、反タバコ運動を積極的に行ったことでも知られる。

 

本書の最初にフランクルが収容される、当時の収容所の様子や持ち物を取り上げられ、身ぐるみをはがされる様子が克明に描かれている。凡そ同じ人間がやったとは信じられない事柄ばかりが列挙される。悲惨としか言いようがないが、これは実際に起こったことなのだ。

 

あれから一世紀も過ぎないが、米国でのトランプ大統領の誕生から、ロヒンギャ問題、シリア内戦、ウイグル自治区の問題、そして日本の移民政策の課題……ホロコーストのような悲惨なことが二度とあってはならないと思うが、我々の生活は常にそういう問題と隣り合わせでいるということを忘れてはいけない。『夜と霧』は、そういった大事なことを今一度思い起こしてくれる、素晴らしい一冊であることは間違いない。

2018年11月26日公開 (初出 https://note.mu/kngmts/n/n12d5c18ae036

© 2018 松尾模糊

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