雨とファランクス

一希 零

小説

3,502文字

何を選択したのか。

人の行動の正当性は、おおよそこれによって判断される。あなたは鉛筆を手に取った。あなたはノートに文字を書いた。あなたの行為はこれらの選択によってその行動を証明され、その行動のみによって、その人が正しいか、正しくないか、あなたの外部の視点から審査される。あなたは鉛筆を手に取った。あなたはノートに文字を書いた。例えば、「ミーシャくん、いつもありがとう」と。白い紙の表面に、丁寧に綴られたいくつかの文字が浮かび上がる。あなたの行動は正しい。あなたの主観にかかわらず、その文字列を見た人は言うだろう。「感謝の気持ちを伝えられることは、立派なことだ」と。

けれど、それはあくまで選択である。選択である、ということは、選択されたもの以外に、選択されたかもしれないものが存在する、ということだ。すなわち選択肢である。あなたはまるで、一日中降り注ぐ雨の中、ただ一滴の雫のみを瞳の中に迎え入れ視界を滲ませるようにして、たった一つの行動を選び取る。選択肢はそれだけ無限に存在する。しかし、実際に選択される可能性のある選択肢は、全ての降水量のうち、せいぜいあなたの身体を叩く雨粒くらいであるのも、また事実だ。それでも、その選択肢は小さくない水溜りを形成するほどの量はある。

とある人工生命の研究者は、生命らしさとは「実際に採用されなかった運動の束が、実際の運動の背景に無数に走っていること、あるいは、見た者に僅かばかりでもそれを喚起させるもの」と述べた。あなたがもし、原始的な意味で人間であるならば、あなたは常に無数の選択の海に晒され、戸惑い、苦悩し、果てにひとつの選択を採る。それを絶えず繰り返し、過ぎ去り続ける時間の中、坦々と進み続けるのだ。まるで嵐の中たったひとり歩き続けるように。

あなたが仮に人間だったとして、「ミーシャくん、いつもありがとう」と書いたのならば、選ばれなかった無数の選択が、この文字列の背後には存在している。あなたはあらゆることを書くことができた。「ミーシャくん、さようなら」「ミーシャくんまた会おうね」「ミーシャくんのこと本当はきらいだよ」「ミーシャくん口くさい」。それらの選ばれなかった選択肢は、選ばれなかった瞬間に全て抹消されるとは限らない。時々、あなたも予期しないタイミングで、フラッシュバックする。人はそれを後悔と呼ぶ。あなたは、本当は「ミーシャくん口くさい」と書きたかったのかもしれない。選ばれなかった選択の存在によってあなたは人間らしく見られるかもしれないが、あなたの行動の正当性を判断するのはあなたが実際に選んだ行為によるのだ。あなたという人間が如何なる人物か、あなたという人間が何を考えているのか、あなたの人間性は全てたった一粒の雫に委ねられる。雫が瞳の中に染み渡り、輪郭がぼやけてしまうレンズによってのみ、あなたは他者とのピントを合致させるのだから。

 

あなたは「ミーシャくん、いつもありがとう」と書かれた古いノートの切れ端を眺める。その言葉は巡り巡って、あなたの元へと再び戻ってきた。その経緯は今それほど重要ではない。すべての事柄は偶然としか言いようがないし、偶然に文句をつけても仕方がない。

あなたはずっと「ミーシャくん、いつもありがとう」と書いた自分として、自らを規定してきた。あなたは他者からの判断と自己分析を同一化させていた。それはあなたが世界を生きてゆく中で、必要に迫られ身につけた術だった。世界からのあなたの評価と、あなたの自己評価に大きなズレがある時、一般的に人はそのギャップに大いに苦しむ。あなたも一般人の範疇に漏れず、危うくアイデンティティに苦悩し、絶望しそうになった。あなたは自らの救済のために、一方の自分を捨て、他方の自分を全自分として受け入れ、解釈を修正した。

けれど、あなたが「ミーシャくん、いつもありがとう」という、選択された文字列を十年ぶりに目にしたことによって、逆説的に、選択されなかったいくつもの選択肢をあなたは想起してしまった。それらの選択肢はあなたにとってあまりに「自分らしい」ものだった。「ミーシャくん、さようなら」「ミーシャくんのこと本当は嫌いだよ」「ミーシャくん、口くさい」。あなたは自分がひどく卑しい人間に思えた。あなたは自分が切り捨てた筈の雨粒を全身に浴び、バケツをひっくり返されたようにスブ濡れになった。

あなたは全く公正な人間ではない。あなたは優しい人間ではない。あなたは最近、自分の境遇を妬んだり悲観したりするようになった。あなたはそれを環境のせいにした。あなたはそれを時代のせいにした。あなたはそれを世界のせいにした。あなたはそれから、昔話をたびたびするようになった。あの頃の自分はああだった、あの時の自分はこうだった。かつて自分は素晴らしかったこと、優秀だったことを、とうとうと語った。「ミーシャくん、いつもありがとう」と書くような清き魂を内に宿した子だったと、かつてのあなたの周りの人間は、確かにそうあなたを規定したし、あなたもその評価を疑いもせず受け入れていた。かつてあなたは無数の選択の中からたまたま正しい選択をしたことで、全自分の正当性を確信していた。自他共に「純粋無垢な、まるで天使のように可愛い子」と言ってのけた。

あなたは突然嫌な人間になったのではない。あなたは突然気が狂ったのでもない。昔は真面目でいい子だったのに。そう近所の人々はあなたを見て噂するかもしれない。けれど、それは違う。あなたは昔からあなただったし、今もあなたはあなたである。変わらない。あなたは今日も遥か上空から落下してくる水滴を待ち構えている。けれどその時あなたは、かつてのあなたなら選択しなかった選択をしてしまうのだ。ただそれだけだ。それが全てだ。このことも、大きな枠組みで言えば、偶然そうなった、と言うほかないのだけれど。

 

 

「で、結局君はなにが言いたいのさ?」

空になったグラスを左手でくるくると弄りながら、彼は退屈そうな声音で私にそう言った。

「あのね、結局、でまとめられないから、わざわざ長い例え話をしたんだけど」と、私はやや俯いて、木目のテーブルを睨みつけながら、そう言った。

チェーン展開しているコーヒーショップのボックス席で、私と彼は向かいあって座っていた。彼が飲んでいたアイスコーヒーは少し前に空になり、私の手元に置かれたマグカップの中のホットココアは、既にホットではないココアになってしまった。

外は風雨が強く、まともに傘もさせない状態だった。窓の外に目を向ければ、必死にビニール傘を持ち、まるでファランクス戦法の先頭の兵士みたいに一歩一歩前進を試みるおじさんが目に入った。

「ていうか、ミーシャくんって誰?」相変わらず退屈そうに、彼は私の話について尋ねた。もっともそれは、一応関心ありますよ、という態度を示す単なるポーズでしかないのは見え透いていた。

「ミーシャくんは、ミーシャくんでしょ」

「いや知らんし。口くさいとか、さすがに哀れだし」

「それこそ、知らんし」

彼は、まるで村上春樹の小説の主人公のように首を振った。「やれやれ」と今にも言い出しかねない雰囲気だった。私はそれを見て「きもー」と思ったが、口には出さなかった。彼も「やれやれ」と口には出さなかったのだ。すなわち、それを選択しなかった。ならば、私も選択しない。別の水滴を瞳に迎え入れ、滲んだ視界を世界と共有する。

「ねえ、最近うまくいかないこと、あった?」彼は言う。

「別にさ、そういうんじゃないんだけれどね」

「疲れてるんだな。きっと」

「そうなのかなあ」

「仕事忙しい?」

「そうでも。なんか、もっと違う、長い期間かけて熟成された疲労、みたいな感じ」

「経年変化か」

「革製品みたいね。違うし」

「じゃあ、経年劣化」

「殴るよ?」

彼は大して面白くなさそうに、ケタケタと笑った。面白くないなら笑わなければいいのに。そう思ったが言わなかった。私はホットではないココアに口をつける。妙にどろりとして、口の中に嫌な甘ったるさが残る。窓の外をもう一度見れば、ファランクスの先頭のおじさんはもういない。無事だといいなと思いながら、私は小さなため息をつく。

「まあ、つまりさ」彼は言う。

「だから、つまり、とかで要約されたくないんだけど」

「やれやれ」

彼は言った。まるで村上春樹の小説の主人公のように。

「きもー」

気づいた頃には、彼は顔を真っ赤にして怒っていた。ああ、選択してしまったな、と思いながら、私は、口が臭かったが悪いやつではなかったミーシャくんを思い出していた。

2018年9月4日公開

© 2018 一希 零

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