妹への思い

破滅派13号原稿募集(テーマBTTB)応募作品

長崎 朝

小説

20,394文字

 BTTB応募作品です。私は、カミュの戯曲における処女作『カリギュラ』を下敷きに、ほのぼのしたものを書いてみようと思いました。
 
 論理だ、カリギュラ、どこまでも論理を追ってゆけ。権力の果てまで。とことん身をまかせろ。人は後戻りなどできない。終わりまで行くことが肝心だ!
『カリギュラ(第三幕・第五場)』 アルベール・カミュ

目が覚めたとき、ぼくは、自分が目を覚ますようなことをしていたのだと、つまり、眠った状態にしばらくあったのだと思った。眠っていた状態の前には何があったのだろうかと考えたが、何も思い出せなかった。そこにあるのは、虚無だった。そのとき思ったのは、「虚無は絶対だ」ということだ。それは、アクセスを拒み、完全に窓口を閉ざしていた。しかし、この世に絶対などというものが存在するのだろうか、とも思った。

そんな虚無の中から、一羽の鳥が飛んできて、夢の中でぼくの肩にとまった。目が覚めたとき、眠りの壁を通り抜けてこちら側に出てきたのはぼくだけだった。鳥は壁にあたって羽をばたつかせ、そのまま眠りの中に取り残された。

でもたぶん、そのほうが幸福だったかもしれない。

 

ぼんやりした頭で、時刻を確認しようとして、腕時計を見ようと左手を顔の前に持ってきたとき、血の臭いを嗅いだ。シャツの袖口あたりから、左手の全体が黒く濡れているように見えた。ぼくは「いいえ」と頭の中で言った。いいえ、これは血ではないだろう。それに、何かが間違っている。何かが、確かに間違っているのだという意識があった。だが、この暗い部屋で、「いいえ」とは断言できないことのように思えたし、いま自分は血のことを考えたらいいのか、眠っていたことを考えたらいいのか、あるいは一度、考えるのをやめるべきかもしれないとも思った。

少し目が暗闇に慣れはじめてくると、そこは、自分の見覚えのある部屋ではないことがわかった。もう一度、時計に目をやったが、やはりそれも黒く汚れていたために、時刻は確認できなかった。

不思議なことだけれど、ぼくは、自分は眠りから目覚めたわけではない、という気がした。眠りではない別の何かから、今の状態(それが、目覚めという状態なのか、確信が持てない)へ移行した、そんなふうに感じたのだ。ものごとがうまく飲み込めないまま、考えてみたら、自分は血がどんな臭いかなど知らないはずだということに思いあたった。そう思ったとたん、これは血の臭いなどではなく、口の中で血の味がしているのだと気がついた。歯磨きができればいいのに、と思った。せめて、口だけでもすすぎたいから、水道を探さなくてはならなかった。それにしても時間が、勝手に滑りだすように進んでいくことに対してぼくは違和感を覚え、その進み方は、少し速すぎるような気がした。

 

ぼくは、目を覚ましたとき、座った姿勢をしていた。右脚はなかば伸び、その膝は地面につくようにして横向きに倒れ、左の膝は鋭角に曲がりほぼ垂直に立っていた。逆だ、と思った。つまり、ぼくはふだん、眠るときでもなんでも、腰が左にやや回転するようにして、左の膝を横向きに倒して地面につけ、右脚は真っ直ぐ伸ばしたまま膝は天井を向いている。そのことをふまえると、この姿勢は自然ではない。しかし、そういったところで、それはもう仕方のないことだ。姿勢について、とくにこだわりを持つつもりもなかった。

右足の先が、硬いものを蹴った。左足は靴下を履いていて、右足は履いていない。まだ、この状態に移行する前の、この意識とは違うその前の段階で、ぼくはいつの間にか、右足の靴下を脱ぎ捨てたのかもしれない。その右足の先の地面で、何かがぼうと青白く光っていた。そのほのかな光は、はじめ、ぼくに冷たい印象を与えた。ぼくは身震いし、ここは寒いので火がほしいと思った。火がほしいというのは、何か原初的な欲求であるように思えた。

青白い光を発しているのは、平べったく四角い石のような物体で、つやつやと光沢があるようだった。表面の光の割合が変化し切り替わった瞬間、そこにはひとつのまとまった文章が浮かび上がり、ぼくの目はそれを読んだけれども、それは、たんに字面を目で追っただけにすぎず、はじめは、そこに何の意味も見出すことができなかった。

 

〈わたしは変身してしまいました。こんな姿を見せることはできないから、あなた、今夜は帰ってこないでちょうだい〉

 

二度目に、ゆっくりと読み終わったとき、自分の口もとに、にやけたような筋肉の小さな引きつりを感じた。というより、要するに、ぼくは笑っていたに違いないと思う。意味はわからなかったが、とにかくそれは、何らかの形で評価されてしかるべき文章だと思えたのだ。つぎにぼくは、口を閉じたまま、鼻から息を出すようにして、少し声を出して笑ってみた。

そのとたん、薄暗い中、手に握ったそれから、空中に、白く光るひとまとまりの数字が十五センチほど浮かび上がり、それから煙のようになって消えた。七時十四分。右目の奥のほうで、さっきから曖昧な霧のように存在していた懐かしさの感覚が、急に凝縮しはじめ、それは鈍い痛みとして場所を持ち、そこに定着した。七時十四分。目が覚めるには、ありふれた時間だ。

少し落ち着いてみると、ぼくは何かをしなければならないような気がしてきた。たとえば、身支度を整えて、どこかへ出かけるとか、誰か人に会わなければならないとか、腹の中に何か食べ物を詰め込むとか、そういったことだ。しかし、自分が実際は何をしなければならないのか、具体的には何一つ浮かんでこなかった。

部屋は、それがどんなものであれ、人間の居住空間として存在しているのであるならば、たいていは似たり寄ったりで、見ず知らずの部屋だとしても、その空間の構成について少しくらいは把握できるものだし、その場所に自分を関わらせたり、その場所の中に自分の居所を定めることができるものである。壁があり、電気があり、水道がある。椅子や窓、換気口やフローリング、あるいは絨毯、何かの布類、電化製品、机、そして何より、そこに人が住んでいるということの温度のようなもの。だが、ここに温度はなかった。床は冷たく、空気は威圧的で人間味を欠いていた。全体的に、がらんとした空間だった。ぼくは、悲しくなった。

 

また、見出すことから始めなければならない。一から、何もかもを見出し、新しい形態の自分であることを、習得しなおさなければならないのだ。またそうしなければならない、という繰り返しの感覚は、考えてみれば不思議なものだった。自分が移行してくる前までのことがふいになってしまった、つまり、それに対して「無効である」と突きつけられた感じがつきまとい、仕方なくやり直しをさせられているという実感が、ぼくにはあった。その感覚は、あながち間違いであるとは言えないと思う。

練習だ! とっさにぼくは、身体を動かす練習をしなければいけないと思った。右手を動かす。指を開く。指を閉じる。左手を上げる、肘を伸ばす。肘を曲げる。左右同時に動かしてみる。右手を上げ、左手を下げる。その逆。繰り返し。旗を振るみたいに。

人間だった。自分は、どこまでも人間だ。これは、まぎれもなく人間の身体なのだ、と思った。当たり前のことだ。しかし、当たり前のことは、考えれば考えるほど、当たり前でなくなっていくような気がした。それでまた、繰り返し旗振りのような運動をやった。

右手を上げ、左手を下げる。指を開いてから、こんどは閉じる。左手を上げ、右手を下げる。交互に指の開閉……。

がらんとした部屋に、扉をノックする音が響いた。それに対し、何の反応もできずにいたが、それも当然のことといえば当然ではなかったか。ぼくは、ある意味では、打ちひしがれていたともいえるわけだ。それに、自分の運動に取り組んでいるところに邪魔をされた苛立ちもあったのかもしれない。行為を中断させられると、不意に自己へ向けられる他者からの視線を意識してしまい、恥ずかしさと苛立ちが同時にこみ上げる。いずれにせよ、到来するものを、こころよく受け入れるとか、逆に、悪態をつくとか、どんな言動であれ、ぼくが態度をそれによって表現するのは、不可能なことのように思えた。
「明かりをつけたほうがいいかな? それとも、このままにしておこうか」抑揚を欠いた、低い男の声が話しかけた。ひとり言を言っているような声だった。

ぼくは、黙っていた。明かりをつけられれば、血を見ることになる。でも、血であると決まったわけではないから、むしろ光のなかで、すべてを明るみに晒しだし、そこで何かを確認してはじめて、つぎのことを考えればいいのではないかというふうに思い、男の顔のほうをちらっと見た。男の姿は影に沈み、顔は明確に目にすることはできず、どうやらスーツを着ているような感じだった。ぼくが何も言わないままでいると、彼は、電気のスイッチに手を触れることはなかった。
「あなたは、覚えていますか。話せるのかね」自分の喋っていることに関心がないというような感じで、つまらなそうな声で、男は言った。

ぼくは、なおも黙ったまま、頭の中の痛みのことを考えていた。それは、大きな木だった。ぼくの通った小学校の校庭に生えていた、樹齢何十年ものクヌギの巨樹だった。木の枝を揺らす風が吹いていた。風は、どこか遠い場所から吹いてきているのだと感じ、その遠い土地のことを思った。その木が存在することで、ここには風もまた、それなりの形態を持ちうるのだ――別の何かを認識するために、木は役に立っているのだという考えが浮かんだ。頭の中に場所を占めている痛みは、その木のように根を張り、とても懐かしいような、親しみやすいような性格をおびていた。
「あなたは、家に帰らなければならない」男の声が聞こえた。「だいぶ、疲れているようだしね。帰って休むことがいちばんです。とにかく、みんな待ってる。表へ出る前に、手や顔を洗ったほうがいい」

男にうながされるようにして、ぼくは起き上がり、その部屋を出た。現時点では、全面的に彼の言うとおりにするべきだと感じたのだ。コンクリートのすべすべした、全体に白い印象を持った建物だった。手洗いで、冷たい水を使って血のような汚れを洗い流すとき(実際、それはまさしく、血であるようだった。だが、誰の血かといわれると、それは不明だった)、ぼくは鏡で自分の顔を見た。

そのときの感じを、どんなふうに言葉に置き換えたらいいのか、ぼくは長くしつこい混乱の中に陥り、それについて考えようとすると、めまいのような感覚が襲ってきて、気分が悪くなってしまうのだった。簡単に言うのなら、そこには、顔がなかった・・・・・・のだ。そして、代わりにそこにあったのは、一本の樹木だった。ぼくは、あるいは、自分の頭の中にある痛みの感覚を、懐かしさとともに、かつて親しんだ巨樹に投影し、それの幻影のようなものを、鏡の中に見出していたのかもしれない。

しかし、それは本物だった。少なくとも、それは、確かにそこに、存在しているのだという感じを強く持っていた。それの存在は、ぼくを征服し、有無を言わすことなく、認識のブラインドを降ろした。これ以上考えるな。樹木は、そう言っているような気がした。

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2018年5月4日公開

© 2018 長崎 朝

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