ローストポークは夜を待たずに

長崎 朝

小説

13,500文字

――嫌悪感で満たされたこの空間の内奥に、その黄色い花は存在しているのだ……。
 白のトヨタ・ノアは、陽光の降り注ぐ井の頭通りを軽快に走っていく。穏やかで、世界が光って見える幸福な午後だった。

もしあなたが、新しい洗濯機を探しているのなら、ビックカメラ渋谷店の家電売り場にいる、真戸木という男を訪ねるといい。

彼のアドバイスは的確だし、何より、特定の家電メーカーの委託販売員ではないところが好感度が持てる。贔屓はしない。長年の経験と、鋭い分析に基づいた彼自身の評価によって、最新の商品の案内を華麗にやってのける。真戸木は仕事に手を抜かない。客の要望に合わせた情報提供、説明のわかりやすさと正確さ、そしてときに客に代わって下す、勇気ある決断。「商品の良否は、明らかにこれを顧客に告げ、一点の虚偽あるべからず」というのが彼の信念だった。良いものは良いと伝えるし、悪いものは悪いと伝える。世の中に、仕事のできない名ばかりのベテランは数多くいるが、彼のような本当の意味でのスペシャリストには、なかなかお目にかかれないだろう。NHKの『プロフェッショナル・仕事の流儀』に取材を受けてもおかしくない。彼に担当してもらい、彼の話が聴けるなら、客はもうそれだけで満足を得ることができる。感動すら覚える。実際に買った製品がどんなものであろうともそれに変わりはないし、結果的に何も買わなかったとしても、客は充実した時間を過ごしたことに納得して帰っていくだろう。

ある日、真戸木が新規の客に、日立のドラム式洗濯乾燥機について、シャープの製品との違いを丁寧に説明しているとき、エスカレーターを上がってくる茶色い塊が、目の端に映った。平日の昼間のことで、店内は空いていた。
「小学生くらいのお子さんがいらっしゃるのであれば……」淀みなく口を動かしながらも、なにげなくエスカレーターのほうへ目を向けてみると、そこにいたのは一頭の大きな熊だった。真戸木は一瞬、これは何かの間違いか、自分は幻覚を見ているのだと思った。昨晩は、姪っ子の誕生日のお祝いのために、プレゼントを持って姉の家を訪ねたあと、義兄に誘われるままずいぶん飲んでしまった。人の誘いは断りづらい。それが彼の、人から好かれる所以でもあり、同時に、他に影響を受けやすい弱さでもあった。感受性が豊かであるといえなくもない。そして、彼自身には子供はいなかった。紆余曲折を経たのち、少なくない人が辿るのと同じように、彼もまた独り身の人生の道中を歩んでいた。だがいまは、余計なことは考えず、仕事に集中しよう。
「……泥汚れに対する強さにも着目するべきです」真戸木は言い終えた。

しばしの沈黙のあと、先に声をあげたのは客のほうだった。声というより、口の前にあった空気の玉を飲み込んだような音を出した。無意識に後ずさりしつつも、目の前のことを整理して理解することができず、顔には恐怖も驚きも浮かんでいない。ただ、「それ」を見ていた。しかしそこで起こっていることを包括的に見ているわけではなかった。客は、まったく音を立てずに、まるでムーンウォークでもしているかのようにゆっくり後ずさっていき、階段にさしかかると、後ろ向きのまま静かに降りて行った。完璧なフェイドアウトだ。

一方、真戸木はためらっていた。パナソニックの最新モデルの洗濯機と、東芝の最新モデルの洗濯機について、洗濯時、脱水時、乾燥時にたてる音量がそれぞれ何デシベルであるかを、頭の中で繰り返し唱えていた。熊はエスカレーターを降りると、何かを探しているようにきょろきょろしながら、フロアを歩き回った。他の客も店員もいつのまにか姿を消していたが、真戸木はそこに突っ立ったままだった。「実際のところ、どの製品にも音の大きさに差はないといっていいでしょう。しかし……」

しかし、熊が洗濯機を使う場合には、冬眠の妨げにならないよう、設置場所を検討するほうが賢明だと思われます。人間の場合には、洗濯完了のアラームが聞こえなくては意味がありません。熊は、離れたところに洗濯機を置き、完了の合図も耳に入らず、ぐっすり眠りつづけています。冬が終わり、暖かい季節になってようやく目を覚ました熊は、思い出すのです。そういえば、洗濯物をしていたっけなと。

気がつくと熊は、ひとつのパナソニックのドラム式洗濯乾燥機の前に屈みこみ、蓋を開けて中を覗き込んだかと思うと、こんどは蓋を閉め、洗濯機の白いボディをさするようにしながら、真戸木のほうを振り返った。
「これ、いくらですか」と熊は言った。真戸木は、反射的に、洗濯機の上に掲示させてある値札を指さした。〈284,370円(税抜き)〉。けっして安い買い物ではない。だからこそ、真戸木のような販売員の丁寧な案内が必要なのだ。
「ポイントが10パーセントつきます。もし、ポイントカードをお持ちでしたら」と真戸木は付け加えるように言った。
「わかりました」と熊は言った。「これを買おうと思います。その代りといってはなんですが、ひとつお願いを聞いてもらえないでしょうか」

これまでに、熊を接客したことはない。大きく、力強く、野生の臭いに取り巻かれてはいたが、間近で見ると、思ったほどの凶暴さは感じないし、案外優しそうな眼をしていた。うまく言えないが、話せばわかるやつ、って感じがするな、と真戸木は思った。彼にとっては、洗濯機を必要としているのであれば、人間だろうが熊だろうが同じ顧客だった。「顧客の待遇を平等にし、いやしくも貧富貴賎に依りて差等を付すべからず」という教えもまた、真戸木の心に深く刻まれている。

新人研修をやったのは、いまからもう十八年も前のことだ。そもそも自分には、目の前の客に物を売るなんて仕事が向いているなんて、これっぽっちも思っていなかったし、そんな職に就く気はさらさらなかったのだ。会社に入ったとしても、自分は販売員ではなく、何か事務の仕事、たとえば総務だとか経理だとか広報だとか、あるいはメーカーとの取り引き、公式通販サイトの運営、何かそういったことに携わるつもりでいた。もちろん、そんな考えが通用しないことは真戸木自身にもわかってはいた。嫌でもいつかは、販売員としてフロアであくせくする日々を送らねばならないだろう。それを経験しない者は、よその部署でいきなりいい仕事などできない。少なくともこの会社で、じかに顧客の声を聴くということがどれだけ重要であり、経営の土台を支えている基本的理念もそこからしか生まれえないということを、彼も理解していた。目の前の人に喜んでもらうこと。毎日、毎日、地道にそればかりやってきた。成績は上がり、自然と責任のある立場に出世するにつれ、彼はいつしか、自分の居場所は、この家電売り場でしかありえないと思うようになっていた。パソコンやカメラの販売も、それなりにこなすだけの知識はある。しかし、彼の最も得意としているもの、つまり、彼の販売パフォーマンスが最大限発揮され、なおかつ、客の満足度が他の追随を許さぬほどにまで最高値をマークする分野、それは洗濯機の販売をおいてほかになかった。彼は洗濯機を、ある意味では愛していた。だが、あくまでも、洗濯機というのはひとつの手段にすぎず、彼は、洗濯機という製品を使って、人々の生活にぽっかり空いた数立方メートルの空隙を満たすということそのものを愛していた。虚無が、空虚が、幸福やせわしさに変貌する。壁が、静寂が、振動や水道の音へと変わる。電気が流れ、かき混ぜられ、回転し、浄化される。洗濯機が導く人生は、洗剤と、薔薇の香り――柔軟剤の放つ、ふんわりとした薔薇の香りで、いつまでも包まれるだろう。

そしていま、彼が喜ばせなくてはならない相手は、人ではなく、茶色の毛に覆われた熊だった。
「実は、値引きしたばかりでして、その、これでもよそよりは……」
「いいえ、真戸木さん、お願いというのは値段のことではありません。場所を、洗濯機を置くのにちょうどよさそうな場所を、一緒に探してほしいのです。こんなこと、あなたにお願いすることではないかもしれませんが、なにしろ、こういうのを買うのははじめてなもので」熊はいたって丁重に、穏やかに、これだけのことを喋った。

製品の設置に関しては、通常、配送業者や引っ越し業者などが担当する。明らかにそれは、真戸木の仕事の範囲を超えたお願いだった。だいたい、洗濯機を置くのにちょうどよさそうな場所を探すということは、熊の家まで行かねばならぬということではないか。姪の家に遊びに行くのとはわけが違う。お客の家だ。
「しかし、お宅に伺うとなると……」
「ええ、もちろんその分の手数料はお支払いします。それに、うちにはちゃんと電気も通っていますし、水道も整っています。ただ、ふつうの家庭みたいに、あらかじめ決められた、洗濯機置き場のようなものはないのです。たいていは風呂場の近くにあると聞いています。わたくしどもは風呂にも入りますが、いつも同じ風呂場というわけではありません。こんなことを言っては元も子もないですが、家も、いつも同じとは限らないのです。ですから、だからこそ、というべきでしょうか、洗濯機のプロである真戸木さんに、洗濯機の設置場所について、ひとつご教示いただけないかと思いまして」

家がいつも同じでないとは、どういうことだろう。
「冬眠はなさいますか?」真戸木は思い切って尋ねてみた。
「答えはイエスでもノーでもありません。なぜならば、冬眠というのは、四六時中眠りつづけているわけではないからです。冬にだって起きて活動もします。ただ、暖かい時期に比べると、全体の活動量がきわめて少なくなる、というだけのことです」
「お子さんは……」と言いかけて、真戸木はあわてて口をつぐんだ。調子に乗っていろいろ訊きすぎてはいけない。重要なのは、相手のほうから自然に話題を広げてくるように計らうことだ。プライベートなことに関しては、どこに踏んではいけないスイッチが埋まっているかわからない。とくに熊の場合は、人間を相手にするのとわけが違う。真戸木は、久しぶりに自分が緊張しているのがわかった。
「ええ、泥んこ遊びが好きでしてね。うちの近くは、地形のせいかなんか知らないですが極上の泥がよく出るんですよ。泥は子供が遊ぶだけでなく、いろんなことに役に立ちます。たとえば、交尾のときに」

何のことやらわからぬまま、それでも真戸木は熊の家まで行って、洗濯機を置くのにちょうどいい場所を探してほしいという要望を受けることにした。購入した製品は、後日、配送で届ける手続きをした。配送伝票の住所欄には、武蔵野市吉祥寺の住所が記入されていた。

 

 

木々が葉を落としはじめ、日に日に気温が下がりつつある秋の一日だった。それでも、昼間は日が差すと暖かさを感じる。昔は仕事の合間に、ときどき屋外の非常階段に出て煙草を吸ったものだ。それで天気もわかったが、もう煙草をやめてずいぶん経つし、いまはフロアに一日中張りついている。外の空気を吸えるのは、朝と、夜……仕事の日に日光を浴びる時間はほとんどない。

横目で運転席に目をやると、熊が煙草に火をつけていた。黒のパッケージのセブンスターで、おそらく4ミリのものだ。おもむろに窓の開閉ボタンを押し、煙を外に向かって吐き出す。とくにこちらに気を遣う様子もなかった。べつにかまわないのだけれど。とにかく、熊と真戸木を乗せた白のトヨタ・ノアは、陽光の降り注ぐ井の頭通りを軽快に走っていった。この車なら、洗濯機も積んで帰れただろうに、と真戸木は思った。穏やかで、世界がきらきら光って見える幸福な午後だった。
「そういえばなんですが」真戸木が口を開いた。「ご自宅の近所にも、大きな家電量販店がありませんか?」
「どうして、わざわざ渋谷まで繰り出して買い物をする気になんかなったのか、って訊きたいのですかね」前を注視したまま、熊は答えた。しばらく沈黙が続いた。西に傾いた陽が、ダッシュボードを焼いているのを見て、ダッシュボードは変な素材でできているものだというようなことを考えていた。優に一分ほど経ってから熊が言った。
「簡単なことです。ほかにも渋谷で用事があったから。それだけのことです。真戸木さんだって、いくつかの用事が同じ街で済ませられるのなら、そちらを選ぶんじゃないですか? まあ、よっぽどこだわりたいポイントがない限りは」そう言って熊は微笑んだ。反論の余地はない。もうひとつの用事が気になったが、訊く気にはなれなかった。どこまでも真っ直ぐな道のりだった。

途中、永福町の交差点で赤信号で停車したとき、ちょっとした事件が起こった。目の前の横断歩道を渡りはじめたひとりの老婆が、なんの前触れもなく、こちらのほうにいきなり顔を向けた。われわれの車は先頭にいたために、自然と彼女の視線がわれわれを捉える。「熊が運転している」口に出さずとも、彼女の目はそう言っていたと思う。ただ、縫いぐるみの熊と本物の熊を瞬時に見分けられるほど、その老婆の視力は若々しくはなかった。若干、目を細めたくらいだった。おそらく、何らかの形の偽物だと思ったに違いない。なぜなら、そのほうが自然な考え方だからだ。それに、たとえこの熊が本物であると見破ったとしても、彼女にはどうすることもできなかったろうし、同じように素通りしていたことだろう。老婆は再び前を向き、ゆったりとしたペースを守って歩き去った。

熊が運転している。それだけのことではないか。そして、われわれにもまた、選択の余地はなかった。ただ、ものごとがなるようになるだけだ。

 

 

車は突然、住宅街のど真ん中で停車した。
「ここが、我が家です」と熊が言った。「ここが」とはどこのことだか、よくわからない。「そこの、ほら、公民館の建物みたいなのがあるでしょう、その奥に行くと入口があるんですよ」

にわかには信じられなかったが、ともかく、ついていくしかなさそうだった。地面は枯れ葉でくまなく覆われており、踏んで歩いていると、乾いた音が靴の裏に貼りついてどこまでも剥がれずに、歩くたびに靴の底が厚くなっていくようだった。小径にかぶさるように生えている木々の、枝の隙間から、わずかに光の繊維が舞い降りてくる。だが、全体としては暗い道のりだった。右側に並ぶ建物の隙間から、遠くに伸びる空と、ひらけた平野の断片が一瞬見えたが、その細く縦長に切り取られた光景は白くかすみ、たちまち光の柱となって消えた。それは、非常に遠くにあり、けっして手の届かないトーチのようだった。

進んでいくと、道は土の巨大な壁に突き当たり、そのまま洞窟のような穴の奥へと続いているようだ。奥からは、暗い風が吹き出ていた。急に寒さが増したような気がした。いまさら引き返すわけにもいかない。
「ようこそ、真戸木さん」そう言って熊はこちらを振り返ったが、その言い方はどことなく不自然で、わざとらしい感じがした。

真戸木には、返す言葉もなかった。生まれてはじめて熊の家というものに連れてこられたのだから、当然といえば当然であるし、ここで「おかまいなく」というのもタイミングとしては変だし、やはり「失礼します」と言うのが妥当だったのではないかと後から考えた。いちおうは、熊は自分の担当しているお客なのだ。

どこまでも平板に見えたこの土地も実は高台になっていて、町の境界をなぞるように、というよりその南北に延びる崖っぷち自体が町の境界線になっているために、熊の家の脇にはいくつかの人間用の坂道や階段が急勾配になって垂れ下がっていた。熊専用の獣道もあるのだろうと真戸木は考えた。たとえば、いま抜けてきたこの薄暗く寒々しい細道のような。人間の知らない道を行き来する熊たちのことを思った。その道は、熊の嗅覚にしか嗅ぎ分けることのできない道だ。そこに道があるということにすら、人は気がつくことができない。暗く、湿気を含んでおり、土のにおいがする。草や木々のこすれる音。鳥と虫の鳴き声。わずかな温度差と地面の傾き。それらの要素の重なりも、人間の五感には、ある厚みと幅を持った一定のエリアを感じさせるだけだが、熊たちにとっては、交通標識とガードレールの役割を果たしている。真戸木は、この山の、果てしない奥行きの中にひとりで分け入り、そこに取り残される自分の姿を想像した。翌日の新聞には出ないだろう。翌々日でもない。もしかしたら、誰も、自分のいなくなったことに気がつかないかもしれない……。

熊の家は入っていくと薄明るく、しかしいったいどこからその明かりが来ているのか、光の方向性は見分けられるわけでもない。ただ、ぼんやりと、蛍光灯にまんべんなく照らされている地下の社員食堂みたいに、窓もないのにほの明るいのだ。しかし、真戸木の会社の社食にくらべれば、何もかもを同じ色調のもとに凹凸なく浮かび上がらせる白色の猥雑な明かりとは異なり、熊の家は、ほんのわずかながらグラデーションがあり、なだらかに沈んでいくシャドウがあった。ここでは、味気ない〈日替わりラーメン・340円〉だとか、投げやりに胃袋にかきこむ〈茄子としらすのさっぱり丼定食(味噌汁・小鉢付き)・510円〉だとかは似合わない気がした。全体的に、暖かみのある色に包まれており、家庭的な雰囲気だと評してもよかったが、いったいこれの何が家庭的だというのか、自分でもよくわからなかった。

ここが、本当に熊の家なのだろうか。視線を巡らすまでもなく、ぱっと見た限りでは、何もないただの空間だった。
「われわれは通常、こういった空間に暮らしています」と唐突に熊が喋った。

通常、ということは、これと違うこともあるのだろうか。そしてこの空間の中に、洗濯機を設置するとなると、たしかにどこがベストか迷うなと真戸木は思った。テーブルも椅子も、座布団も、見たところベッドもなさそうだった。家庭的な雰囲気というのは家具の数で決まるわけではなく、ようするに光の質がそれを決めるわけだ。色温度や陰影のコントロールが可能なら、むしろ何もない空間ほど都合がよく、一般的に言って人間の家にとって人間の存在は雰囲気を壊すし、逆効果で邪魔でさえあるのかもしれない。

風呂は? 熊は風呂に入ると言っていた。とにかくどこかに水場があるはずだった。
「で、えっと、その水道なんかはどのあたりに……」と真戸木はおそるおそる訊ねてみた。
「まあまあ、そんなに慌てないでくださいよ。ひとまず、コーヒーでもいかがですか?」

熊はそう言うと、部屋の奥の突き当りのほうへ行き、背をかがめて何か作業をしだした。壁は石でできているみたいでところどころごつごつしてはいるものの、全体的には凹凸が少なく、滑らかだった。真戸木ははっと息を呑んだ。毛に覆われたその人間ほどの大きさの背中がスライドして石の壁に消えた。熊のいる奥の一面は、ただの壁のように見えるが実は分厚い石のパーテーションで、脇の隙間からさらにその奥へと続いているらしい。ということは、まだ奥に部屋があるのだろうか。あるいは物置きかもしれない。

真戸木はいまさらながら、こんなところへ来なければよかったと少し思った。たとえば、今日起こったすべてのこと、おれが熊の家に来たこと、そしてここでこれから起きようとしているすべてのこと、これを誰かに話したとする。誰一人信じる者はいないだろう。それは恐ろしく耐え難いことだ。なぜなら、話したらおれは頭がおかしくなったと思われる。話さないなら、今日のすべてのことを、きっと死ぬまでか、死ぬ少し前まで、自分一人の中にしまい込んで生きていかなければならない。それが正しいことなのか、今の彼には判断できなかった。姪になら話すことができるかもしれないと思った。彼女はまだ三つなのだ。店の従業員はどうだろう? あの客だってそうだし、ほかにも目撃者が多くいるはずだ。だが、なぜだかわからないが、真戸木には、誰もが今日のことを、「見なかったこと」にしようとするような気がした。

熊はコーヒーカップを持って真戸木のもとへ戻ってきた。そして、カップを真戸木に渡すと、「どちらにしましょう」と言って二冊の分厚い書物を、表紙がよく見えるようにして彼に提示した。
「どちらといいますと……?」
「いや、失礼、立ったままではなんですから、座りましょう」熊は率先して、まさにその場に尻をついた。真戸木も腰を下ろすと、熊に倣って胡坐をかいた。熊が座るとき、よっこらしょと声を出した気がした。
「〈コーヒーと言葉拾い〉、ですよ。われわれの世界では、コーヒーを飲むとき、その付け合わせとして必ず一冊の本から言葉を添えます。その本を適当に開いて、たまたま開いたそのページにある言葉を読み取るのです。できれば音読するべきだ、というのが昔からの言い伝えですがね。それで、要するにまあ、コーヒーとともに味わうわけですな」

熊はにこやかに言い終わると、やはり二冊の単行本サイズの書物を真戸木に見せた。ひとつは『熊のことは、熊に訊け』、もうひとつは『ローストポークは夜を待たずに』という題名だった。

正直のところ、これらの本を目にして真戸木は非常に迷った。意外にも、本の内容が気になり、どちらも読んでみたいと思ったのだ。
「どうして、この二冊なんですか?」真戸木は訊いてみた。
「あいにくなのですが、うちには今、この二冊しかないんですよ。基本的に家には書籍を置きません。かさばるものは何も持たない主義なんです。これは図書館で借りてきたものです。お気に召さなければ……そうですね、コーヒーも召し上がらないほうがいいかもしれません……」と言って熊は残念そうな顔をした。

せっかく淹れてくれたものを無碍に断るのは悪いからと思い、彼は直感的に『ローストポークは夜を待たずに』のほうを選んだ。
「なかなか、思わせぶりというか、そそられるタイトルですよね。どうしてローストビーフじゃないんだろうな」
「冷めないうちに、どうぞ」と熊がコーヒーを勧めると、真戸木はカップに口をつけ、空気と一緒にコーヒーを吸い上げるようにして飲んだ。悪くない味だと思った。熊の家で飲むコーヒーの味は悪くない。だけど、いつもの社食が出す百円のコーヒーは不味い。同じ百円でも、セブンイレブンのコーヒーは真戸木の好みだったし、宮益坂でたまたま立ち寄ったエクセルシオールカフェのコーヒーも彼の口には可もなく不可もなく、それなりに合っていた。豆や抽出や配合にこだわった、小洒落た流行りの店のコーヒーの味は彼の理解を超えていたから、味わう間もなくつねに「A以上」に区分していた。同様にして、セブンイレブンは「A+」、エクセルシオールが「A-」、社食のコーヒーは「B-」である。これにはもちろん、その味やコーヒー店の環境に対応する値段の相応しさについての彼なりの評価も含まれていた。この基準からいくと、熊のコーヒーは明らかに、「A+」もしくは「AAA」という新たな評価基準を設けてもよいくらいだ。
「美味しいコーヒーですね」と真戸木は感心してみせた。
「特別な泥を通過させていますので」と熊が言った。

泥と言ったって、洗顔料だとか、身体のパックやなんかにだって使われているのだ。体にいいものに決まっている。そういえば、泥は交尾のときにも役に立つと言ってたっけ……。彼は、熊の交尾を想像し、そこで泥がどんなふうに使われているのか想像しようとしたけどうまくいかなかった。なぜか、泥の中でのたうち回る同僚の笹本きよこと自分自身の姿が浮かび、頭の中を支配しようとした。それは目を背けたくなるような悲惨な光景だった。彼の知る中で、もっとも熊っぽい・・・・女がきよこで、どちらかといえば彼女のほうが彼を押さえつけ、豪腕をふるっているのだった。
「ではさっそく、本を読んでいきましょう。三輪亨という人の書いた本です。この人は……」コーヒーを味わう間を置いてから、熊が喋りだした。
「ちょっと待ってください」と真戸木は熊の言葉を遮って言った。「適当な箇所を開いて、そこにある言葉を読むと言いましたよね? 適当なページを開くのって難しくありませんか? たとえば、適当に開いたつもりで一ページ目を開くことってあるのでしょうか? あるいはいちばん最後のページを。適当に開くという条件は、暗黙の内に、だいたい中間地点くらいを開くということを規定してしまっているのではないでしょうか?」
「おっしゃるとおりです。しかしながら真戸木さん、書物というものは、その出だしとおしまいなんか読まれる必要があるでしょうか? 世の中には、ともすれば、本のはじめと終わりだけ読んで全体をわかったような気になっておられる方もいるみたいだ。しかし、われわれ熊は違います。本のはじめとしまいは読みません。そこは言わばパンの耳のような部分であって、本にとって必要ないとまでは言いませんが、べつになくてもかまわないというくらいのところで、でもその耳は食いつくためのきっかけになるんですがね……たいしたことじゃない。ですから適当に開く箇所が、つねに書物の中間地帯であるということにはなんの問題もないのです。物事のはじめと終わりにこだわるのは人間だけです。われわれにとっていちばん大事なのは、〈ど真ん中〉と、しいて言うならその前後くらいのものです」
「ということは……。たとえば、ほら、その『吾輩は猫である』とか、出だしの部分て言えませんか?」
「忘れました」
「じゃあ、えっと、『雪国』も?」
「『雪国』だろうと、『走れメロス』だろうと、そのほかどんな文学作品も、私は出だしを暗誦することはできません。それには意味がないからです」
「ぼくは……出だしも好きだけど……」真戸木は狼狽えていた。
「開いてください」熊は、有無を言わさぬ調子で真戸木のほうを見つめた。

真戸木は覚悟を決めて本を手に取ると、目を閉じた。まず息を大きく吸い、いったん息を止めたあと、ゆっくり息を戻しながら、左手の親指で引っ掛けたページを、ぱらぱらと落としていった。無になるんだ、と彼は思った。思うこともやめた。彼の左手が止まった。息も止まった。目を開けると、真ん中よりちょっと過ぎたあたりのページが開かれていた。彼は呼吸を再開すると熊のほうを見た。
「目にとまった一文を、音読してみてください」と熊が言った。

真戸木はなんとなく目を紙面に落とすと、そこに書かれている文章を声に出して読み始めた。
「そのためには、できるだけ遅く着火される必要があり……、ひ、披露宴会場に閉じ込められて、いる……彼らが、いつ反乱を起こすとも……」
「ストップ」突然熊が遮った。「だめです。言葉の上辺だけをなぞって声に出したってだめなんです。まるで意味の分からない外国語を読んでいるみたいだ。いいですか、こうやるんです……」

熊は真戸木から本を取り上げ、おもむろに立ち上がるとざっくりと本をど真ん中で割り、力強い声で朗読しはじめた。
「旧難波邸の居間の窓辺に、彼らは防衛線を張ったのだった。ペンライトの白い光は長細く伸びて、中庭の向こうの塀まで届いた。闇の中で交錯するふたつの光線は、塀や木立ち、芝の上や土と植木鉢たちのあいだで踊るように行き交ったあと、すぐに消された。あの人は必ずやってきますから、と絵里奈夫人は小さい声で言った」

熊はそこで区切りをつけ、息を整えた。そして真戸木のほうをちらっと見ると、少し微笑んだようだった。こんどは真戸木の番だった。彼は立ち上がり、熊から本を受け取った。ど真ん中を開いたつもりだったが、おそらく少しずれていただろう。でも仕方ない。
「シュークリームは思いのほか顔の上で弾んだ。潰れて中身が飛び出すものもあれば、そのまま跳ね返って地面に転がるものもあった。スーツ姿のままクリームまみれになったあの人は、彼らのほうを呆然と見つめたまま突っ立っていた。蝋人形のようにその場に固まってしまったように見えた。彼の手提げかばんにも多量のクリームが付着し、そこには何かおぞましさすら感じられた……」

真戸木はそこで一息つくと、立ったまま聞いていた熊に本を渡した。
「四月になると、もうここは完全に通り抜けることができなくなる。彼女としては、それまでに花を摘み取っておきたかった。この立ち入り禁止区域、立札が掲げられているわけでもないけれど、どんな人間であれ、ここへ侵入しようとなどとはとうてい考えもしないような、この嫌悪感で満たされた空間の内奥に、その黄色い花は存在しているのだ」

真戸木は、こんどは熊から本を奪い取るようにして、落ち着きなくページを開いた。
「あの人に、絵里奈夫人の声はけっして届くことはないのだろう。彼女には、もうそれは決定してしまったことなのだという気がした。これ以上、なすすべもなければ、期待をする余地もない。ものごとはこのようにして成り立っているのだ。つまり、いつかは、何かが終わるのだ。これまでだってそうだったし、これからもきっとそうやって生きていくしかないのだ。いまのわたしたちに言えるたったひとつの事実は、もう取り返しのつかなくなったことを、葬り去り、忘れ去る、その能力が人間に与えられているということに対して感謝すべきなのかもしれないということだけである」

熊が本をふんだくるようにして奪い返した。一瞬、ページから目をあげ、真戸木の見ると、勝ち誇ったようににやっと笑った。
「一切れのローストポークを彼は手でつかみ、するっと吸い込むようにして口に入れた」

真戸木は熊の読んでいる本を横から覗き込み、必死になってその個所を読み上げた。
「こんどは彼女の番だった。彼がこちらを見ていない隙に、肉を二枚つかんだ。一瞬で口の中にしまいこんだ」

熊も一緒になって読み上げ、ふたりの声が重なって続きを読み始めた。
「この盗み食いのゲームは、肉がなくなるまで続けられ、しまいにはローストポークの皿は空っぽになってしまった。白い皿には、付け合せの野菜と、深い赤銅色のソースだけが残っていた。ふたりはその空っぽの皿を目の当たりにし、それからお互いの顔を見合って笑った。肉の不在が、あたかも彼らの勝利であり、揺るぎない信念をもって打ち建てられた、空白の記念碑であるかのように。もう、今夜のメインディッシュがなくなっちゃったじゃない。と絵里奈夫人は口を尖らせた。君が真っ先に皿に盛るからいけないんだ。最後にするべきだった。それにほら、と言ってあの人は半分空いたシャンパンの瓶を手に取り、彼女に見せた。彼は絵里奈夫人を抱き寄せると、彼女の髪に顔をうずめた。午後四時半の台所には、曇りガラスを透かして乳白色の陽光が滲んでいた。わたしたち、曖昧な時間に食べて曖昧に終わらしちゃう。いつもそうよ。たまにはちゃんとしたディナーをしましょうよ。夜はまたカップラーメンなんて最悪。あの人は彼女の口を手で塞ぎ、彼女の耳に息を吹きかけた。彼女はくすぐったそうに肩をすぼめて笑っていた」

熊と真戸木はそこで声を区切り、疲れたように地面に腰を下ろした。実際、真戸木は何か運動をしたあとのように、鼓動が高まり、息を切らしていた。思い出したように、コーヒーの入ったカップに口をつける。冷たい苦みが舌の上に広がり、彼はなんとなく胸が締めつけられるような感覚を味わっていた。その胸の締めつけは、しだいに強さを増し、確実なものとなって彼を圧迫した。目の奥が熱を持ち、じんわりと痛んだ。ほんのり明るいこの熊の家は、今ではもう家庭的と呼べる雰囲気を失っていた。空気は冷え込み、体の熱も地面に奪われていくようだった。彼は寒さを感じ、毛布にくるまって眠りたいような気がした。おれは孤独だと彼は思った。こんな冷たい洞窟に、洗濯機を設置する場所などあるはずもなかった。コーヒーを詰めてきた水筒が地面に転がっていた。おれはひとりぼっちだ。真戸木は膝をつき、『ローストポークは夜を待たずに』をぱらぱらとめくってみた。その本からは言葉が失われ、ただの白い紙の束が綴じられているにすぎなかった。そこにあるのは虚無だった。
「なんでだ」と彼は口の中で力なくつぶやいた。自分はもう、この孤独と恐怖の世界から逃れることはできないだろうと思った。この場所は、あの日常があった世界とは決定的に隔てられ、打ち捨てられ、誰からも知られることなく、ここにあるのだ。冷たく重たい空気が彼にのしかかり、彼はなすすべもなく震えていた。彼はビックカメラ渋谷店のことを思い出した。家電製品に囲まれて働いていたことを思い出した。その幻影はやがて、けっして捕まえられない、非常に遠い空へ飛び立って逃げてしまった鳥のように、どこかへ消えていってしまった。

真戸木は地にうずくまり、顔を伏せて獣のように鼻息荒く呼吸していた。スラックスのポケットに入れていた車の鍵を手でつかむと、姿勢を起こし、洞穴の奥に口を開けている暗闇の中へ思い切り放り投げた。何の音も聞こえなかった。彼の周りで、何もかもが消えていった。彼は再び地に伏せ、頭を土にこすりつけた。呼吸は乱れ、喉の奥から醜い音が漏れていた。舌を突き出し、目を剥いて喘いでいた。彼の舌が地面を舐めた。土が濡れた。飽くことなく、何度も何度も地面を舐め続けた。

 

2018年4月2日公開

© 2018 長崎 朝

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