三十センチもないカウンターにつっぷして苦しげな青柳都々子はいまにも吐きそうだった。彼女の人生が、そのように仕向けているのだ。それまでほとんど酒を飲まないような人生だった。まじめに、熱心に生きてきた、というわけだ。二十七歳になって、そのあてがはずれて、新宿ゴールデン街の狭い路地にある店のカルピスサワーに酩酊しながら、終わらない繰り言が続いている。
都々子はつい二時間ほど前、金井悟に抱かれてきたばかりだった。もう午前二時だ、ほんとうは泊まるつもりだった。
いや、より正確には……大久保にほど近いラブホテルで宿泊プランの金を割り勘で払い、いつものように、セックスをした。その日は金井の誕生日前夜祭だったので、都々子はすごい下着を身につけて準備をしていた。その演出は上手くいった。金井は都々子の下着をよだれまみれにしながら口で脱がせた。不器用に舌を動かす金井を見て、都々子の下腹部は熱く疼いたに違いない。キリストでさえこれほど誕生日前夜祭を楽しく過ごしたことはなかっただろう。都々子は時計を見た。十時四十五分だった。都々子はいままでとは違うレベルの絶頂を迎え、激しく痙攣した。腰から肩にかけて快感が波打ち、そのあと引き波のように体温が低下した。息苦しく、喘ぎ声が喉に引っかき傷を残していった。ほとんど死ぬのではないかという忘我の境地で、都々子は意識がいままでとは違った姿で戻ってくるのを感じた。勇者としての運命を受け入れた幼い弟が、厳しい冒険の旅に出て、恩師の死や仲間の裏切りや恋人との別れなどをへて、結果的に世界を救い、ある晴れた春の日の玄関に、ずっとたくましくなって立っている、そして、「ただいま」と屈託なく笑う——そんな感じだったらしい。これは愛の力だ、と都々子は思ったらしい。人生の階梯を上がったのだ。おそらく、成功した人間だけが到達できる境地に都々子は立ったのだ。きっかけはセックスだったかもしれない。ただの快楽だったかもしれない。だが、紛れもなくそれらをもたらしたのは、愛の力だった。
そうした気づきは都々子に新たな認識をもたらした。いや、認識というのは少し違う。それは新大陸発見に近いものだった。都々子は「ずるいぞ」とさえ思った。こんな重要なものが人生にあるだなんて誰も教えてくれないのはおかしい。都々子はネクストステージに上がったことで、深く確信した。もし自分が親になり、子を持つことがあったら、いつかいってやろう。愛なんだ、と。愛が次のステージに連れていってくれるんだ、と。それからの都々子はひと味もふた味も違った。これまでが猫だとしたら、いまの都々子は獅子だった。想像が時間を追い越していった。思いつくことすべてが型にハマり、金井を悶えさせた。浴室で陰毛を剃らせるのも、尿道に強く吸い付くのも、いままで思いもよらなかったことだった。乳首を噛みちぎったってよかった、金井にその勇気さえあれば。そして、その挑発に乗り切れずお為ごかしを言う金井を許すところまで織り込み済みで、自分の乳首に噛みついてみせた。力を入れるそぶりを見せると、金井は慌てて止めに入り、すっかり萎縮していた。怖くなっちゃった? 都々子が挑発すると、金井は役割の変更を受け入れ、一人称が「ボク」になった。
退会したユーザー ゲスト | 2017-04-23 14:50
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退会したユーザー ゲスト | 2017-04-23 16:34
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藤城孝輔 投稿者 | 2017-04-25 07:24
Slice of lifeとでも呼ぶべき掌編。物語の筋そのものよりも描写や洞察の冴えが光る。奇抜な比喩に向けて語りを脱線させる技術や「喘ぎ声が喉に引っかき傷を残していった」などの表現はさすが! 終わり方もきれいだ!
ただ、短時間のうちに書いたためか、文章の粗が気になる。文章そのものの躍動が本作の魅力なので、実に惜しいと思った。「なにひとつくなく」「負けてはいられという」など、すぐに直せる誤字脱字は直してほしい。表記に関しても、タイトルと本文とで「ぼく」「僕」が表記ゆれしている。また、金井が使う「僕」と語り手の「僕」は、カタカナかひらがなを使って書き分けたほうが分かりやすいのではないか。
Juan.B 編集者 | 2017-04-25 22:44
生々しい描写が続くので、読み終えた時には不倫の要素の事が俺の頭からどっかに消えていた(酒はまだあった)。男も女もとっかえひっかえで、変態なようで案外等身大の人々の姿が良い。
不倫も酒もとても難しく、年齢と経験の壁が俺の前に立ちはだかっているが、これは比較的親しみやすかった。