岸から船着場へ荷を載せ、四艘の舟は川面を走る。
水面は魚の鱗のように光っており、時折櫂の間をくぐる黒い鯉の影が見える以外は穏やかである。照りつける太陽の下、夏は眩しく、しかし水辺の風は涼やかだ。
四艘の舟は川面に揺れる光をかき分け走る。川を横切るのは実のところそれほど楽な仕事ではない。長い竿を川底につきたて、おもいきり背中を逸らしたら、すぐにくの字に身をまげ、川底を押す。反動で舟は前に進む。書けばなんということはない動きのようだが、繰り返せば息は上がり、川の半ばに来る頃には汗が背中を流れ落ちるまでになる。
その日も、四艘の舟は走っていた。十日ばかり降り続いた雨のせいで川は増水していたが、先頭の二艘は軽々と走っている。もう十数年、それ以上に長い間船頭をしている男たちがあやつっているおかげだろう。次の一艘はまだ少し頼りがない。労せず走っているように見えても動きには無駄があり、船頭も苦しそうだ。その後ろ、しっぽに着く僕の舟は必死で走っている小舟である。川は時折嘲るように僕の舟を揺らすが、僕は足を踏ん張り、前の舟に遅れないように川底を押すことだけを考える。
いやに暑い日だった。川べりは涼しいと舟客は言うが、舟を操る船頭はそんな呑気なことは言っていられない。燦々とてりつける太陽の下、股引きだけになり、なかには褌一丁になったりして舟を漕いでいるものもいた。それでも汗は滴り落ちて、ともすれば竿を取り落としそうになる。
僕は二の腕で汗をぬぐった。かわりに腕の汗がべっとりと額にはりついた。これでは汗を拭いたのか、なすりつけたのかわからない。
と、僕の前を走っていた捨八が唐突に動きとめた。舟は惰性でゆるゆると前に進んでいるが、川の流れに従って舳先が回転を始める。
僕は慌てた。竿を川底につきたて右足に力をいれるが、勢いを殺しきれなかった舟は鈍く湿った音を立てて、かれの艫に追突した。僕は思わず捨八を怒鳴った。
捨八は竿を川につっこみ、前かがみになって足を踏ん張っていた。いつもなら頭を掻いてやっちまったなぁ、という顔を僕に向けるかれが、今はただじっと川面を見つめるばかりだ。捨八の前をゆく二艘の舟は僕たちの苦戦を知らず、遠ざかっていく。
水面を見つめる捨八の横顔はこわばり、ひらり、ひらりとまつげが上下している。舳先は川の流れのせいで回転をしているが、しかし乗客は文句も言わず、それどころかみな艫の方向に首を伸ばしていた。舟が傾き、今にもひっくり返りそうだった。
僕は慌てて片側によらないように注意したが、それでもまだ捨八は動かなかった。かれのたくましく太い腕がかすかに震えている。川底に突き立てている竿は、鮮やかな夏の太陽の日差しの中でくっきりとした輪郭を持ち、川面に淡い陰を落としている。
僕はようやく訝った。捨八は一体なにを見ているのか?
かれの視線は川の中にある。少し濁った川は藍と灰のまざった色合いをして、底は見えない。
先頭を走る舟から親分の怒声が飛んだ。だが乗客どころか荷も、獣もみんなしんとして、その声には答えなかった。みな、川の中を見ている。舟の腹に川の流れがぶつかり、優しい音を立てている。
龍神が、いる。
僕はまばたきをして身を乗り出した。水の中に金色の鱗がひかっている錯覚をした。しかしすぐに僕は黄金色の鱗にも見える、たゆたう金茶の布が沈んでいるのだと思い直した。
鮮やかな布がくらい水の中に揺れている。鱗に見えたのは黒鳶の縦縞が入っていたせいだろうか。布は丸まって川の中を力なく揺れているが、捨八の竿がその動きをとどめている。
僕はますます身を乗り出した。それ以上身を乗り出せば川に落ちてしまうことはわかっていたが、布の中に何かがある予感がしたのだ。そしてそれが何か、僕にはもうわかっていた。けれども僕はそれを認めたくなかった。
青白く細いうなじが水紋に染まっている。さんざめく陽光の下、僕は人知れず身震いをした。まばたきと同時に瞼の裏にくりくりとうごく黒瞳が見えた気がして、ついに平衡を失った。
僕の竿を受け取ったのは誰だったのか。
次に気づいた時には、僕の耳元では川がささやいていた。
まつげをかすめてのぼっていく泡が、水面から差し込む条光を避けて身をくねらせている。濁った藍色の水は冷たく、さほど深くないはずの川は底なし沼のようにも思えた。僕は必死で腕を掻き、手のひらで布を掴んだ。
青白い肌が僕の指に触れる。川はまだ僕のそばでささやいている。こぽこぽと軽い音を立て、なにかを誘っている。
おいで。
やえ、おいで。
僕は右腕をかいて水面を目指した。やえ、とまた川が囁く。龍神が彼女を呼ぶように囁いている。腕に絡みつくその声を振り払うように、僕はしゃにむに水をかいた。腕の中にある小さな体は頼りなく、そして重かった。
そんなふうにして、やえは僕たちのところへ帰ってきたのだ。
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