「だからぁ、一番下につく言うとるがな。あがってくんの! あがって、なに? ほらぁ、あるやろぉ、どこだってエレベータくらいあるのに、なんしてわからんわからん言うかな……南口やぞ、丸の内南口、優姉とおる……なぁ、もう! わかったわかった! 待っとれ! そこ行くがな!」
わからんて? と姉は言ったが、僕はいらいらとしながら携帯電話の通話終了ボタンを押した。午後二時の東京駅は人が多く、改装を終えたばかりの天井の高いホールには人の声が篭っている。平日ということもあって休日に比べれば立ち止まる人は少ないが、しかしターミナル駅である東京駅で人通りが途絶えることなどない。
「新幹線ちゃうの?」
「源太郎さんがぁ、飛行機のほうが楽だが、鳥取からひとっ飛びだけぇ言うてチケットとったんよ。ほいだけぇ、成田空港から成田エクスプレスなんだと」
「なんで羽田にせんかっただか」
「なんかよくわからんけど、成田て……ま、行ってくるぅ、ここおってよ」
動かんよ、と姉は言って僕をおいはらうように手を払った。
僕が東京に出たのはあの翌年、二〇〇二年のことである。一年ほど大西写真館でスタジオ撮影を適当に学んだあと、東京に跡継ぎがおらず店をたたもうとしているスタジオがあったのでそちらへ移ったのである。
古いカメラの修理やオーバーホールができる人が欲しい。現像技術は持っていること。できればPC操作ができるとよい。撮影技術が未熟でも構わないし、勉強する気があればいくらでも教える。古いスタジオは改装して人に貸し出せるようにしようと思っているし、機会があれば写真教室をはじめるつもりでもいる。とにかくこれから現像と集合写真だけでは食っていけない時代が来ることは明らかなので、できるだけ若い、なんでもやる気のある人を探している。そんな話だった。まるで僕のためにあるような話である。
なぜ大西さんにそんな話が回ってきたのかといえば、歴史ある大西写真館は、全国の中古カメラ店や修理店からレンズやら古いカメラやらをあずかって修理するのがメインの仕事なのである。それで全国に知り合いがいるのだ。
しかも乾板の現像やら、ガラス板からの印刷ができる技術者はさすがに少なくなりつつある。それで一旦どこかの店で持ち込まれればあっという間に彼らのネットワーク内で話が駆け巡るらしく、どこそこのどの店に新しく誰がきたか、何ができるかということが知れ渡るらしい。
僕が大西写真館に勤めるようになってからは人づてで依頼がぽつぽつと増えつつあった。大西さんは乾板の現像はできないが、僕はできる。蔵の奥で発見したコロタイプ印刷機があれば、印刷だって完璧だ。
二つ返事でその話を受けた僕は、とるものもとりあえず東京へ飛んでいった。しかしそのせいで両親とは完全に絶縁状態に陥っている。かろうじて下の姉を通じて近況は伝わっているようだが、父は完全にへそを曲げ葬式にも来んでいい、などと言っているそうだ。
母は別段僕がどこへ行くのも構わないのか、時々手紙は来る。去年は梨も来た。僕が母をどうしても受け入れられないので没交渉だが、父と話をするよりはましだ、と僕も思っていた。人からはしたり顔で親を大事にしろとか、孝行したい時に親はなしなどと言われるが、もうこのまま没交渉が続けばいいとさえ思っている。
雑踏をすり抜け、東京駅の一番深いところにある総武線ホームまで僕は駆け下りるようにエスカレータを下った。地上の在来線はホームにたどり着くまでごみごみとしているが、地下に降りるエスカレータはそれほどでもない。長い長い階段を下り、濃い水の匂いが立ち込めるホームまで下りて、僕は辺りを見回した。哲之はエレベータを見つけたと言っていたが、どのあたりにいるのか。
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