ある記録

応募作品

斧田小夜

小説

3,812文字

合評会2017年08月「パリでテロがあった日」応募作。

「えっとね、私、ナディン」

屈託のない流暢なフランス語で彼女は名乗った。天井の電球は二つも切れており、薄闇が彼女と私の間に薄闇の幕をおろしている。しかし彼女の緑がかった灰色の瞳はどこかからやってくる光をうつして輝いていた。

彼女はナディン・ダッバス、レバノン系フランス人。フランスに移民してきたのは四年前だが、父親がフランス系レバノン人だったこともあって、すぐに国籍は取得できたようだ。家族構成は父親と母親、兄、そしてナディンの四人家族。パリ十七区に居住。ナディンはCE1の七歳、父親が大学教授ということもあって比較的裕福な暮らしをしており、パリのイスラム系移民ときいて想像するような家庭ではない。ナディンはペンを不器用に操りながら、レバノンで住んでいた家や家族の話をする。とはいえ、彼女が母国を離れたのは三歳のころだ。おそらく兄や両親の話から想像を膨らませているだけだろう。

「これはママ」

ナディンは楕円をふたつかき、目玉を添えた。さらに目のまわりにとげとげとまつげをはやし、楕円を囲むように四角を描く。更にその四角を大きな楕円でおおって、黒く塗りつぶしてしまった。

ニカブである。

イスラム教徒の中でも戒律の厳しいスンナ派に属するムスリマが身につける衣装で、目以外はすべて黒い布で覆うというものだ。近年のフランスはヒジャブでさえ着用を禁じている中でニカブを着用しているとは、なかなか勇気がある。私が彼女たちに興味を持ったのも、彼女の母親がパリ同時多発テロ事件の追悼に訪れていたからだった。ムスリムの被害者は少なくなかったし、多くのムスリムがテロの現場へ追悼に訪れたが、果敢にもニカブを身につけて花を手向けにいったムスリムの女性は多くない。赤いバラをそっと追悼プレートにささげ、彼女が黙祷している姿はいくつかのジャーナルで驚きとともに報道された。米国大統領をもってして人類の敵とまでいわれた、得体の知れない黒装束がいる!

「ママはレバノンにいたときからずっとこうだよ。家ではぬいでるけど外に行くときはニカブをつけてないと恥ずかしいんだって」

特に説明がなければナディンのことをイスラム教徒だと思うものはあまりいないだろう。フランス語は流暢だし、クオーターということもあって肌は白く、癖の強い豊かな焦げ茶色の髪の毛をおろして全く隠そうともしていない。細身のワインレッドのパンツ、カバンはパステルカラーのバックパック。上半身はハイネックの白い長袖Tシャツの上に大きめの灰色のトレーナーとシンプルだ。だが、夏になっても彼女はおそらくハイネックの長袖を身に着けているだろうし、スカートを履く時は下に厚手のタイツを履くに違いない。よく見れば、彼女の服装は極力肌の露出を避けている。彼女の保護者がそうさせているのだ。

ナディンも大きくなったらニカブをするのかな? ママはそうしなさいって言ってる?

「ママはぁ……別にどっちでもいいって言ってる。ナディンがニカブをつけたらうれしいけど、フランスじゃ難しいかもしれないから、自分で決めればいいのよって言ってたよ」

言葉を一つ一つ確かめるように口にして、ナディンは下唇を舐めた。

あの日はなにしてた?

「えっとね」ナディンはまた下唇をなめて、母親の輪郭を太くした。「トゥッサンの休みがもうすぐ終わるからぁ、ナディンは宿題してたの。補修学校が忙しくて忘れてたんだ。忘れて成績が落ちたらママに怒られるもん。ザインはいなかったよ。ザインは友達と一緒に暮らしてて、えっと、なんていうんだっけ、ナディン知ってるの、知ってるけどなんていうか忘れちゃった。リセに入ったらそうするのがふつうなんだって。でもね、休みの時はだいたいずっとうちにいる。うん。トゥッサンのときも帰ってきてたけど、あの日はぁ、友達と出かけてた」

輪郭の内側を丁寧に塗りつぶしながら、ナディンは答えた。語尾がのびるたびに唇をなめてちらりと私の方を見る。まるで目で訴えているようだ。この話、もうやめていい? しかし私は気づかないふりをする。

「それから宿題が終わったから寝てぇ、病院に行かなくちゃいけなかったから起きたの。病院はぁ、ザインがいるって電話があったんだって。パパが言ってた。パパはぁ、一人で行くって言ってたんだけどママも絶対に一緒に行くって言ってぇ、でもママとパパが病院に行っちゃったら、ナディン一人になっちゃうでしょ。外? 外はぁうるさかったかな。ナディン、眠かったからよくわかんないけど、パパが何回か警察のひととお話してた。すっごく遠かった気がする。起きてる時に行くとそんなに遠くないのに変なの」

口を尖らせて、ナディンは唐突にペンを放り出した。もじもじと人差し指をいじって私を見ている。ザインはどうして病院にいたのかと聞く。

「怪我したから」

机に直接顎を乗せてナディンは小さくなった。彼はどこを怪我したの?

「肩」

どこで怪我をしたの?

口をとがらせてナディンはすい、と視線を外した。顎をすこし持ち上げ、もじもじとした仕草で先ほど自分で描いた母親の絵を指でさすりはじめる。

「……知ってるんでしょ? 知ってるのになんで聞くの?」

知ってるけど、ナディンが説明してくれる?

「……わかんない」

これが限界だろう。ザインは大丈夫だったかと聞く。

「うん。もうリセに行ってるもん。でも友達が死んじゃったから、今は家にいる」

ザインからなにがあったか聞いた?

「……よくわかんなかったって言ってた」

質問を変えたほうが良さそうだ。あれから出かける時に怖い目にあったりしていない?

「うん。パパと一緒だったら大丈夫」

ママとは?

「ママは一人で出かけない。パパと一緒かぁ、ザインと一緒じゃないと出かけないの。ザインが家にいた時はぁ、よく一緒に買物に行ったんだよ。ママと一緒に買い物に行ったらいろんなプディングを試せるんだ。だからナディン、ママと一緒に出かけるの好き」背筋をぱっとのばし、ナディンは声を大きくした。一転して表情も明るくなり、饒舌になる。「でもねママがいると逃げる人がいるの。警察もすぐに来るし、変じゃない? ママは全然危なくないのに。ナディン、知ってるもん。ママは優しいし、おいしいもの大好きだし、パリのことも大好きなんだよ。悪いことなんかしないのに」

ママは怒ってる? それとも悲しんでる?

「ママはぁ……」くちびるをすぼめてナディンは息を吐いた。

ナディンの母親へもすでにインタビューは行ったが、表情は伺えなかった。文字通り目以外を露出していない彼女が、黒い布の下でなにを考えているのか、わたしにはさっぱりわからなかった。彼女が私と話をするのをいやがっているふうだったので、彼女の夫が彼女の声となった。こそこそと聞こえる彼女の声はずっと同じトーンで、果たして彼女の夫が正しくその声を翻訳しているのかどうか、私には判別できない。

レバノン内戦のさなかに生まれた彼女だが、覚えているのは2006年のレバノン侵攻だけだという。確かに物心ついた頃にパックス・シリアナがはじまっていたから、復興の記憶のほうが鮮明なのは仕方があるまい。幼少期から数学の才能にめぐまれ、結婚後は夫のすすめで大学に通ったが、職を得ることは考えなかった。2011年のアラブの春以後、再び情勢が悪化することを懸念した夫がフランスに職を得たため家族でパリへ移住したものの、国籍の申請は来年からだ。自分の信仰が原因で許可が降りないのではないかと懸念している――

夫が彼女の代わりに答えている間、黒い布の隙間から、彼女はじっと私を見ていた。アーバン色のすんだ瞳を規則正しくまばたかせ、私の表情を読んでいるようだった。

「ママはぁ、もっと出かけたいって言ってる。いろんなところに行きたいんだって。あのね、レストランでね、席がないって言われるの。いっぱいあいてるのに全部予約があるんだって。でもそんなはずないんだよ。だってナディン、そのレストラン何回も行ったことあるし、パパは予約を間違えたりしないもん。変だよね。前に来た時はなんにもいわれなかったのに急にダメになるわけなんてさ。でもね、ママ、家に帰ったあとに、おかしかったって笑うの。うん。笑ってる。ここは自由と平等と友愛の国のはずだけど、サウジにきたみたいって」

どうしてママはいろんなところに行きたいのかな。わかる?

「んー、わかんない。いろんなところに行きたいからじゃない? ママはパパがいなくちゃ出かけないけど、パパはママに行っちゃダメって言ったりしないもん。だからママはどこにでも行けるんだよ」

ママとバタクラン劇場の追悼に行ったよね、と私は話を変えた。すっかり饒舌になって前のめりになっていたナディンは息を吸い込んで静かになる。あそこもママが行きたいっていったの?

「うん。行かなくちゃいけなかったんだって」

どうしてニカブでいったのかな。危ないかもしれないよね。行くのは怖くなかった?

ナディンはすこし考え、わからないとごまかした。

私が同じ質問を投げた時、ナディンの母親は黒い布の隙間から見えるアンバーの瞳をひからせて私を睨んだ。睨んだのかもしれなかった。彼女はその時だけは夫の声を使役せず、私の質問に答えた。

「私にしかできないことだからです」

後半の質問に対する答えはなかった。

2017年8月14日公開

© 2017 斧田小夜

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"ある記録"へのコメント 10

  • 投稿者 | 2017-08-15 06:11

    会話文の口調にリアリティがある、と思いました。
    知識が無いと書けない、社会派の作品ですね。

    • 投稿者 | 2017-08-15 18:25

      ありがとうございます。が、気を抜くと手癖が出てしまって良くないですね

      著者
  • 投稿者 | 2017-08-16 22:39

    このテーマを見た時に、真っ正面から書くのは難しいと思ってました。まず、正面から書かれたことに脱帽です。
    そして、知識と文章力がないと書く事ができない素晴らしい短編だと思います。

  • 投稿者 | 2017-08-19 15:01

    十分に下調べをした上で書いていることが分かる。文章も精緻で読みやすい。今回の合評会作品の中で最も面白いと私は感じた。

    ただ、一人称の語り手について意図的に伏せてあるが、それが本作においてあまり効果的でないように思う。「私」が何者であるかについて前段でさりげなく言及したほうが、最後のまなざしに対する「私」の戸惑いを理解しやすくなるのではないか?

    私は語り手の「私」が白人のフランス人であり、ナディンの母親に睨まれたと感じるのは得体の知れない存在に対する語り手自身の不安や差別意識から来るものだと解釈して読んだ。しかし元々情報が乏しいので、まったく違う読み方をする読者もいると思う。このような曖昧さは本作においては含蓄ではなく、主題を無駄にぼやけさせてしまっているように見える。

  • 投稿者 | 2017-08-19 18:00

    正面から国際問題に踏み込んだ意欲的な作品。「ニカブ」や「ヒジャブ」などの調べないと使えない言葉が出てくるのも良いと思います。ただ物語としては視点者がナディンに質問を繰り返すというもので、技術的に高い物があるのに話を読ませる牽引力にやや欠けていると思いました。

  • 投稿者 | 2017-08-21 00:03

    異文化との関わり合いに果敢に挑んでいる小説だと思った。設定の練られ方を見ると、とても外国慣れしているのだなと思える。さりげなくライシテなど根の深い問題にも触れている。
    ナディンの設定がちょうど立ち位置とも思う。年下では当然話を語れないが、年上では家族から経験や話が離れる。。家族の物語を介して展開させる上手さがあった。

  • 投稿者 | 2017-08-22 19:11

    新聞や週刊誌などでしばしば見られるルポルタージュの、その取材模様を描いたような体裁の作品。

    パリにおけるムスリムの実情という極めてナイーブなテーマを掘り下げているが、「私」と「ナディン」らの対話とその内容をリアリスティックに描き出す(実際に見聞きしてきたかのような)筆力にまず感嘆した。また「ニカブを着用して追悼に訪れる」という特殊な出来事を着想しえたこともさることながら、その核心部分への導き方も秀逸であった。

    私ははじめ、この作品を素直に読んだときに、「私」の説明的な地の文にくらべ、所々に要を得ぬ――あるいは見慣れぬ語句のふいに飛び出す(ルポであれば注釈がつきそうな)――ナディンの語りの端々に、幾分の突っかかりを覚えた。ところがそれは、突き詰めると、子供特有の語り口の覚束なさ・脈絡のなさを表現するための――恐らくは意図的な――仕掛けであり、筋道を立たせすぎぬ加減の、その調節の微妙さを巧みに感じた。

    一方で、そのことが奏功しすぎたためもあろうか、私にはこの作品が、取材という体裁のフィクションを超えた、取材そのもの(ノンフィクション)に思われた。しかしこれは取りも直さず、フィクションの成功を意味するのであろう。

  • 投稿者 | 2017-08-23 00:25

    イスラム過激派のテロ事件の起こる度に「ふつうのイスラム教徒の人にとっては、世の偏見が高まったり風当たりが強くなってはた迷惑だろうな」と同情的な気分になるので、頷きながら読みました。
    しかし平坦だったので、もっとストーリーにヤマがあったり構成にメリハリがあったら面白かったです。面白さを追求した作品ではないのかも知れませんが、個人的な好みとして。

  • 編集者 | 2017-08-24 14:14

    一定以上の筆力がないと成立しない構成とモチーフだと思うが、散漫になることも駆け足になることもなく端正にまとめた佳作だった。作者の他作品での印象からすると、お題を真正面から受け止めたのはやや意外ではあった。

  • 編集長 | 2017-08-24 18:22

    ステレオタイプでない、現代的なパリを感じさせる設定が秀逸。文章もこなれていて、まるでEテレをみているようだった。
    全体的に完成度が高く、満点でもよかったが、人が死ぬところが描かれていないので-1点。

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