ある朝の毒虫 – 1

ある朝の毒虫(第1話)

斧田小夜

小説

17,895文字

楽園はここまでだ。

老木のように黒い肌をした男が二つの目をてろりとひからせて彼を見た時、タォヤマはつい腹の中でそんなことを思った。

背後の出星系審査官はほがらかな調子ですでに次の相手をしている。流暢な第一公用語にはまったく訛りがなく、そのおかげでタォヤマと外見が著しく異なっていてもさして気にならなかった。

だが、この男は違う。

「――」

右手を透明な壁からだらしなく突き出し、肌より少し色の薄い唇を開いて男はなにか言った。冷たい光が天井から降っている。

働くで?」

やや遅れて耳に翻訳された声がタォヤマの耳に届いた。少し機械的な響きは残っているが、男の声をよく再現した音だ。

「えぇ、仕事に――」

「――?」タォヤマの声を遮って男はもう一度言った。目が少し大きくなり、額にシワが寄っている。「イエス?」

男の生の声と翻訳音声がずれている。彼が話しているのは絶滅危惧言語のバツヴァク語、タォヤマの自動翻訳機では辞書が不完全で翻訳がうまくいかないのだろう。これがあるからいやなんだとタォヤマは毒づきかけ、それからあわてて笑みを取り繕った。翻訳音声の中に少し不穏な響きが混じったような気がしたのだ。

「そうです」

「どこで」

男の語調が強いことをようやくタォヤマは訝った。

仕事柄、彼は公用語のほとんどを体得しているが、さすがに絶滅危惧言語には明るくない。それで翻訳機まで不完全となると、意思疎通ができていない可能性は大いにあった。なにか不適切なことを言ったのではないか? それでこの男はタォヤマを怪しんでいる。

「ラブセドルのスィアツに」そこでタォヤマは左中腕に持っていた手紙を思い出した。「これ、依頼書です」

タォヤマが押し付けた手紙の封を解き、男は目を細めて中を読んでいる。ゆっくりと顎を引いて上から下まで眺め回したらしい男はますます目を細め、タォヤマに視線をよこした。

「滞在期間は?」

「まだ決まってません」

「滞在先は?」

「多分用意してくれてると思います」

「――準備をするつもり? つまりまだ決まってない?」

「いえ、多分もう決まってると思いますが……」

男はぱくんと口を閉じてじろじろとタォヤマの顔を見回した。二つの目は黒目が小さく、肌の色もあいまって白目がいやに目立つ。額は狭く、頭の上部には白いものが混じった毛がはえており、それがタォヤマにはひどく不潔に思われた。だいたい目が二つもあることからして奇妙なのだ。鼻は長いし、二本しかない腕にぶよぶよと脂肪がついているのは何度見ても許容できない気持ちの悪さがある。

「スィアツではどうするの?」

「どう……?」タォヤマは言葉に詰まった。またうまく訳せていないと直感する。だが、こういう時はひとまずうまく意思疎通できていないことを相手にも教えることが大切なのだ。タォヤマは作戦を切り替えた。プランB、こちらから質問攻め。

「どう、とは?」

「あー、えっとねぇ、仕事は?」

「仕事はシュルニュクです」

「シュルニュク? それは――食事の名前?」再び翻訳機がまごついたように声を吐き出す。言葉の意味がうまくとれず、タォヤマは首を傾げた。

「いえ、僕はコックじゃないですよ」

ふん、と男は鼻を鳴らした。表情よりも声の方がはっきりと理解できる。この男は不機嫌で、タォヤマを怪しんでいる。

「詐称を見せてくれ」このままではらちが明かないと判断したらしく、男は言語をたどたどしい第一公用語に切り替えた。そしてクリアボードから突き出した手を鷹揚にひらひらと振る。タォヤマはますます首を傾げた。

「詐称? ええと……詐称? なにを詐称すればいいんですか?」

「詐称だよ」苛立ったように声を大きくした男だが、今度は彼自身であやまちに気づいたらしい。思い切り顔をしかめた彼は鼻の頭に少しシワを寄せ、天井を睨みつけた。「えーと、証書、いや、あー、ピザ、違う、ビザだ、査証ビザを見せて」

あぁ、とようやくタォヤマは理解した。この審査官はタォヤマが就労のために入星系すると勘違いしているのだ。最初の「働く」のところでやはり間違えていたらしい。

彼はそろそろと右中腕をのばし、男の持つパスポートをめくった。男は一瞬身をひき、そしてまたじろじろと舐め回すようにタォヤマを睨みつける。

タォヤマはユフと呼ばれる宇宙生命体である。外見的特徴は平均的な宇宙生命体からひどくかけ離れているわけではなく、特徴らしい特徴といえば顔の真ん中で縦に皮膚が裂けたように瞳が収まっているということくらいだろうか。まぶたは左右についており、中には個眼が二つ収まって、一個の複眼を形成している。はるか昔は単眼が二つだったそうだが、今はひとつ、瞳孔は別々に動くので珍しがられることも少なくない。だが、それ以外のこと――たとえば鼻が一つ、口が一つ、腕が六本、脚が二本で二足歩行をすることくらいは別に特別でもなんでもないはずだ。

「これ、――働くのビザじゃないよ」

「はい、商用です。でも期間が決まってないので三百日で終わらなかったら領事館で延長してもらいます」

「いや、これじゃ――働くができないっていってるの」

「就労じゃないです。商用で来ました。就労ワーキングじゃなくて商用ビジネス。わかりますかね、ビ・ジ・ネ・ス」

男はまだタォヤマを見ている。

ニンゲンの表情はわかりにくい、と彼は思った。顔のパーツ自体は目をのぞけば比較的ユフに近い外見をしたニンゲンだが、しかし表情に関してはどんな宇宙生命体でも種が異なれば理解しにくくなる。そのうえ言葉が流暢に通じ合わないのだから、なおのことタォヤマにとってこの男は異物だった。

「なんの商用で?」

「ヴェシュミ・ビセです。僕はシュルニュクなので」

「チェルヌク?」

「シュルニュクです。ヴェシュミ・ビセの依頼をうけて来たんですよ」

「ベジュミビザノイ――ライオン?」

タォヤマは言い返せなかった。絶望的な気分だった。この男には何一つ通じていないし、分かり合えない。男も同じ気持ちになったか、じっとタォヤマを見つめている。二人はそのまま、たっぷり十秒は見つめ合ったままじっとしていた。折れたのは男のほうだった。

「ああ、クソ……わかったわかった、とにかくそこに座っててくれ」

タォヤマはため息をついた。楽園から出たとたんこれでは、この先が思いやられる。

 

 

そもそもはじめからなにか不穏な影のただよう仕事だったのだ、と冷たく硬い椅子の感触に耐えながらタォヤマは思った。

ぞろぞろと壁際で固まっていた団体客が廊下の向こうに消えていくと、急にあたりがくらくなったようだ。ずっとあたりに騒音を撒き散らしていた彼らがいなくなったことにはほっとしたものの、急に胸に寂しさが訪れてタォヤマはそっと膝をなでた。

あの団体客、見るからに地球系ニンゲンだったが、そろいもそろって貧相な外見をしていた。全員同じデザインの鞄を提げ、擦り切れた趣味の悪いだぼだぼの服を見につけているのはともかく、老人は酒瓶を振り回してよっぱらっているし、老婆は列を乱して歩きまわったり地面に座り込んだりをくりかえし、男たちはなにかはしゃぎながら大声をたてている。女はまだまともに見えたが、その女達が手を引いている子供はなにが気に入らないのか泣きわめいて、時々手を振りほどいて子供同士で取っ組み合いを始めるのだから大変な騒ぎだ。

さらにいえばそんな集団をまとめている添乗員が始終悲劇的な金切り声で喚いているのがタォヤマにはなによりも堪えた。しかも集団はその悲鳴を聞いているフシがまるでなく、しまいには添乗員が引きつけを起こしてひっくり返ったので、一体何が起こるのやらとタォヤマはひとごとながら心配していたのだった。

幸いそれでもどうにか入星系審査が済んだようだが、おそらくここからさらに乗り継ぎをして小さな星へ向かうのだろうに、毎度あの調子ではさぞかし大変な旅だろうとタォヤマは同情した。

次の航行機が来るまでは誰がやってくるわけもないので、係員はブースの電気を消して休憩に行ってしまったようだ。ぽつねんとともる天井の明りだけが、タォヤマに冷たい光を注ぎつづけている。

タォヤマはため息をついた。

そもそも――と彼は頭のなかでつぶやいた。あのセブジが笑顔を顔にはりつけて近寄ってきた時点で、彼は疑ってかかるべきだった。

「地球系」

タォヤマの反応は予想していたのだろう。セブジは短い言葉で肯定を示し、それから歯を見せて笑った。

「地球系ニンゲンはユヮーゼルとかにくらべればずっとまともだぞ、形もあるし、言葉も一応通じるし、急に溶けたりもしないしな」

「でもなぁ……」

「おいおい、高度知的生命体様にそんな態度じゃPCPSに消毒されちまうぞ。ま、とにかく地球系ってのは大した問題じゃないさ」

あの時もタォヤマはため息をついた。

いくら高度知的生命体として認可されているとはいっても、地球系ニンゲンとよばれるその宇宙生命体のことをタォヤマはあまり好きではない。とにかく騒がしいし、気づけば既存住民を無視していつの間にかコロニーを作っているうえに、勝手に環境の改造をはじめるのだから我慢ならないと思うのもしかたがないだろう。実際、ちょくちょくニンゲン以外の原住民ともめては暴力的手段に出て、仲介機関から紛争介入の処置をうけている。その暴力性と繁殖力をおそれて入星を拒否している星もあるほどだ。

「なんスか、この裁定者って」

「知らん。彼らの言葉だろ。翻訳が見つかんなかったんじゃないか」

「翻訳が見つからない?」

「そこに書いてあるだろ、公用語は絶滅危惧言語のバツヴァク語」依頼書の該当箇所を爪ではじき、セブジは吐き捨てた。「そういや地下に辞書があったな。後で探してきてやる」

「語系は?」

「地球系だろ」このセブジのユフを食ったような物言いには毎度うんざりする。セブジは肩をすくめ、それから自慢の白い歯を見せて笑った。「とにかくそういうのがめんどくさいからお前にやるの。がんばってな」

「だと思った……」

ひらひらと右中腕の三本指を振ってセブジは笑っている。

横に広く広がった口の左側が少し持ち上がっているせいで、苦みばしった中年男といった風情を漂わせているセブジは、タォヤマの上司であり、シュルニュクの師匠だ。知り合ってから約百年、公私共に面倒をみてくれたセブジにタォヤマは頭が上がらない。しかしなにかとカンに触るのも、百年前から変わりないのだった。

シュルニュクはメリヴォをスプシュトしてヴェシュミ・ビセを行うエンジニアである。メリヴォの中には設計書をもとに作り上げられた物質の種が入っており、それをスプシュトする、つまり中身を展開して物体を構築する。難しいのはメリヴォの中に設計を詰め込むことと、その設計通りにスプシュトすることだが、スプシュト自体はほぼ先天的な力でできることが決まっている。セブジはその中でも都市を専門とする大規模なヴェシュミ・ビセだけを専門で取り扱う会社の社長である。

ユフであっても大規模なスプシュトを行えるものは限られているが、宇宙全土を見ればトリガーを一つ与えるだけで環境をかえることができる――ユフの言葉でいえばヴェシュミ・ビセのできる生命体は十にも満たないだろう。その中でもっとも短期間で、簡単に、そして安く施工をするシュルニュクは引く手も数多、さらに都市改造などの大きな案件ともなれば依頼主は多くとも実行できるシュルニュクは少ないので、ほとんどセブジの会社の独占事業である。

タォヤマがこの職業を選んだのは、半分はお金のため、半分はセブジのせいだ。そしてそんな人生の細部にまで染み渡る付き合いだからこそ、彼の嫌な面も熟知しているタォヤマである。

「やな予感すんなぁ」

「そうかぁ? そんなことないと思うけどな。それになかなか行けないぞ、あんな辺境」

「俺らは辺境に行くのが仕事でしょ……だいたい前にもシュルニュクが来たことあるとか、前っていつだよ前って――」ばちん、と依頼書に手を叩きつけ、タォヤマは鼻から強く憤懣を吐いた。「――どうせ百年くらい前だろうが。前任者生きてんじゃないの? ってか――」

「たしかになぁ、ニンゲンはあっという間に代替わりするからな。なんかごちゃごちゃ言ってるなぁと思ったら担当者が死んだとか、孫が出てきたりとか」

「そういうののせいでいっつも振り出しに戻るじゃないスか。だからいやなんだ」

まぁまぁと右上腕と右中腕を器用に上下させてセブジはタォヤマをいなした。よく見ると右上腕の二の腕に歯型らしきものが付いている。ちょうど今の妻と離婚調停中のセブジのことだ、なにか不用意なことでも言って噛みつかれたに違いない。

「短命種相手ならそういうもんだよ、慣れなさい」

「短命種にしたって! 作ってやったと思ったらすぐ壊すし、コンセンサスとってから依頼しろってのっ」

「すぐ壊すったって三十年くらいしたら代替わりしちゃうんだからしょうがないだろうよ」

「そういうのが嫌なんだよ。やたら要求だけは多いし、そもそも俺らをみて――」

「お前の話は相変わらず『そもそも』とか『だいたい』ばっかりだなぁ」

呆れたようにセブジは言ったが、タォヤマは息を吸い込んで思いの丈を一気に吐いた。「――気持ち悪いとか『エイリアン』とか、あいつら差別主義者だし、そのくせ宿主になってても気づいてなかったりするし、ほんとっ、バカかっ」

「溜まってるねぇ」

「俺はあいつらが嫌いなの」

「なら、なおさらお前にやらせるしかないな」

やれやれと首を横に振ったセブジは断りもなくタォヤマのデスクに座った。ぎしり、と意外なほどに大きな音がするが、彼はのんびりとあたりを見回して白く尖った歯を見せただけだ。

今年三七十歳になったセブジはすぐに疲れたと文句をいうようになった。とはいっても長命なユフにとってその年齢は壮年のどまんなかである。顔のせいもあってつい年寄り扱いしてしまうが、まるで年寄りのように振る舞うのはどうにも納得がいかないとタォヤマは不満に思っている。

「断ればいいだろ……弱みでも握られてんのか?」

「弱みっていうか」ふうと息を吐き、セブジは軽く首を傾けた。「一回始めた仕事を中断してんだぞ。いつか再開しなきゃなんないだろうよ。メリヴォも中途半端に作ってるらしいからその続きからか、もしくは廃棄して新しく作り直しだな」

「んな中途半端なことするかぁ? なんでメリヴォ作っちゃったんだよ。そんときはすぐ終わりそうだったから?」

「んー、俺はわからんけども、途中まで手付金をもらってるし、もろもろの書類もあるって向こうから送られてきちまったんだからしょうがないよ、契約破棄て違約金なんか払う羽目になったらただでなくてもやばい今年の決算が完全にやばい。会社が潰れる」ふうとため息をつき、セブジはやれやれと首を傾けた。顔に浮かんでいるのは弱気な笑みだ。「というわけで、悪いけどとにかく行ってもらうしかない。本来なら俺が行くべきなんだけど残念ながらねぇ、調停がねぇ……あっちとしては話がまとまんなかったのはあっちの問題だから、追加費用を払いますって言ってて契約上の問題はそんなになさそうだし……ま、お前の手におえなさそうなら呼んでくれればいいよ。交渉事はバトンタッチするから」

どこからみても立派な「めんどくさい」話だ、とタォヤマは思った。こういうめんどくささが大嫌いなセブジは、最近ようやく半人前になったタォヤマに教育的理由だのなんだのと言って必ず仕事を押し付けるのである。彼は目を半分に細めてセブジを睨んだ。

「呼んでも」

「一人でできんならそれで構わないけど」

「最初からおまえが行くっていう選択肢は」

「ない」

「このクソジジイ!」

つい。

感情的になってしまうのはタォヤマの悪い癖だ。しかしそんなタォヤマだって振り下ろした背腕を机の上に積み上げてあった納品されたばかりのメリヴォの殻にぶつけるつもりはなかったのだ。

カシュッ! と乾いた音に我に返る。

つや消しされた灰色球形のメリヴォの殻がひとつ、ころころと惰性でタォヤマの目の前まで進み出た。二人の視線を引き付けるように勿体をつけて机のくぼみに収まったメリヴォは一瞬の間を置き、パカリとまっぷたつに割れた。

「う――――わぁ!」

タォヤマはのけぞった。

迫り来る黒い影が頬をかすめる。机の下にするりともぐり込んだセブジがひっくり返りかけたタォヤマの椅子を掴まなければ、悲劇はさらに連鎖をしていただろう。

机の下でセブジは目を大きく開いて耳をすませているが、生身を影の前にさらしているタォヤマは事態を確認するどころではない。上腕でしっかりと頭を守り、中腕で耳に蓋をして体を守ったところでようやく、彼は指の隙間から頬をかすめた黒い影の正体をたしかめようと薄目をあけた。

樹だ。

種となったメリヴォからは若木の幹がのびている。黒い影に見えたのは、もがくように空中に伸びるしなやかな枝で、主幹となる幹に絡みついてはかさなりあって瘤となり、先を行く幹に追いつこうと空気の中を這い登っている。次々に伸びる枝に押し上げられるように、木は一息に天井まで伸び上がった。

「また樹かよ……」

目をほそめてセブジはぼやいている。

勢い良く伸び上がった幹が天井を突き破るのでは、とタォヤマは懸念したが、柔らかい枝はひょいと体を捻り、今度は横方向へと這っていった。まだ若々しい色をした樹皮から二また、三またと枝が生え、その先から木の葉が芽を吹く。

タォヤマはほっと息をついた。天井をぶち抜いたら後で上の階の住人と管理人からこってり叱られていたところだった。つい先日も窓ガラスを破って説教を食らったばかりだというのにこれでは、今度こそ事務所を追い出されてもおかしくない。

「いつもこの調子におさめてくれりゃ使いどころもあるんだけどなぁ、おまえって……」

「うっさいよ。普通にできてるでしょ、普段はっ」

スプシュトの衝撃で割れた机の表面に木の根が潜り込み、天板の下へ下へと潜っている。栄養を求めるようにうねうねと動く木の根はまるで虫のようだ。どこから現れたのか、えぐれた机の表面に水がたまり、ヒビ割れから床に滴り落ちている。

「あれぇ? おい! これ、地球系植物だぞ」目を細めたままセブジはわざとらしい声をあげた。「そういえばおまえって、地球系は嫌いなんじゃなかったっけ? え?」

「昨日見たドキュメンタリーがそういうのだったんだよ、うるせぇな。地球系の古技術とか言ってたけど、どう見てもスプシュトだったから記憶に残って……」

「ああ、残像イメージか」ふむ、と納得したようにセブジは首を縦に振った。だが、すぐににやりと笑い、へぇ、と意地の悪い声を漏らす。「タォヤマが地球系のドキュメンタリーをねぇ……」

「なんだよ、文句あんのか? 見ろって言ったのはどこのどいつだ」

笑みを浮かべたまま、セブジは答えなかった。

あの顔。

憎たらしい。

「タォヤマさん、もう通っていいよ」

歯ぎしりをしていたタォヤマはぎょっとして首をすくめた。

巨木の幻影はするすると霧が晴れるように消え、かわりに見えたのは腹をつきだして立っている審査官だった。太い二本足で地面を踏みしめている。だらしない体だ――いや、地球系でみれば標準的な体型かもしれない。

「あとねぇ」タォヤマの返事を待たず、丸い腹は続けた。「その腕だけどね……スィアツの人間は外国人に慣れてないからあんまり外に出さないように気をつけたほうがいい よ、トラブルのもとになるから。なにか隠せる上着とか持ってないの?」

そろそろとタォヤマは顔をあげた。目の前の人物は太い五本指で橙色の表紙のパスポートをつまんでいる。先ほどの黒い肌の男ではなく、赤みがかった肌をした男だ。しかも第一公用語を流暢に喋っている。

「外に出るときは着ますよ。あと帽子もかぶりますからご心配なく」

「ああそう。それならいいんだけどね」

男は口元にぐ、と力を入れた。唇が弧を描いたので、地球系でいえばこれは笑顔に当たる表情だろうとタォヤマは頭のなかで確認した。たしか、「地球系コミュニケーション図鑑」にかいてあったやつだ。パターン笑顔。目尻が少し下がることもある。間違いない。

「はい、じゃ、パスポートね。失くさないように気をつけて、ご苦労さん」

「どうも」

「スィアツに行くなら乗り継ぎでしょう、連絡しといたから待ってると思うけど急いだほうがいいよ。これを逃したら三日は来ないからね! それじゃ、気をつけて」

「ああ、それはどうも……」

「よい旅を!」

楽園。

ああ、とタォヤマは息をついた。この声は楽園の最後にいた男の声だ。つまり、今度こそ本当に楽園とはおさらばなのだ。

 

 

男の言った通り、たっぷり出航時間を過ぎていたにも関わらず航行機は彼を待っていた。

十数人程度しか乗客を収容できない超小型航行機であったことと、スィアツの首都であり、唯一の国際空港であるイェナ国際空港が開店休業状態なことがタォヤマの幸運を呼び寄せたのだ。

手持ち無沙汰といった表情でタォヤマを待っていた乗務員は、タォヤマを見ると笑顔を浮かべて歓待の言葉を述べ、彼が長い足を座席に押し込むまで辛抱強く待っていてくれた。まばらな乗客は死んだように無表情で、タォヤマには特に反応を示さない。単に疲れて眠っているのか、それとも異星種になれているのかは判然としないが、タォヤマとしてはありがたいことである。

短い航行時間の間に彼は乗務員の手を借りつつ中腕と背腕を隠す上着――出発の前日にセブジに引きずられて買いに行ったものである――に四苦八苦して腕を押し込み、さらに帽子のかぶり方の指南もうけた。彼女が言うには複眼の上の方の虹彩が見えないくらい目深にかぶれば、単眼の異星種に見えないことはないとのことだ。ニンゲンからすれば、虹彩が縦に二つあることが最大の違和感だそうなので、少し首を傾けるとか――そこまで言って彼女は困ったように青白い頬に手を当てた――もしくはダミーの目を顔の中心で対称になるように頬に貼り付けると少し不気味さはなくなるかもしれない、とのことである。

ユフにとって地球系が不愉快な外見をしているように、地球系からしてみればユフは不気味な造形をしているのだそうだ。セブジにもできるだけ隠せと言われたが、彼女の助言にはセブジと違って含蓄がある。忘れないようにとタォヤマはその言葉を書きとめ、それからダミーの目はスプシュトできるだろうかと考えた。

それ以外にもおしゃべり好きなその客室乗務員は話し相手としては最適な相手だった。嫌悪感を示さないどころかむしろ興味津々で話をしたがるなど、タォヤマの住むゴオリバに移住してきたニンゲンですら珍しい存在だ。大気圏からの脱出・突入時はさすがに彼女も相手はしてくれなかったが、宇宙空間で星間移動のための空間変形とその経路選択で待機している間は、タォヤマがそう頼んだからというよりは彼女から積極的にバツヴァク語を教えてくれる。ついでなので翻訳機で翻訳に詰まった部分を修正してもらい、「地球系コミュニケーション図鑑」に載っている表情をみせてもらっているうちに、航行機はスィアツの首都イェナに到着した。

「あ、いたいた!」

客室乗務員から入国審査で言うべき言葉を習っていたおかげで、すんなりとゲートを抜けたタォヤマだったが、ゲート前に群がっている人々の視線にはさっそく辟易とした。名前を書いたプラカードを掲げているほとんどのニンゲンはゲートを抜けて出てくる来訪者を品定めしているようだったが、タォヤマのことは特に気に入らなかったらしく眉をひそめて、一様にタォヤマから距離をとっている。そのくせ目をひからせてタォヤマの監視をしているのだから、辟易するのも仕方がないだろう。彼の元へやって来たのは、バカでかい、しかも底抜けに明るい声だけだった。

人混みの向こうから、せかせかとした足取りで青緑色の毛むくじゃらが歩いてくる。毛むくじゃらは背丈とほとんど同じくらいに長く太い腕を持ち上げ、タォヤマに挨拶をした。衆人環視の中、堂々とした態度である。

「思ったより若い裁定者だな! ようこそ、スィアツへ!」

タォヤマは少し帽子を持ち上げ、その人物――人物というよりは服を着たモップだったが――をとっくりと眺めた。体中が青緑色の長い毛に覆われており、その立派な毛皮には所々に赤紫色の斑点がある。腕は二本、足も二本で二足歩行をしているので、動きと見た目のバランスだけなら地球系ニンゲンに近いだろう。

ニンゲンと違うのは全身を覆う毛、腕の先から唐突にはえた長い爪、そしてその長い爪と同じような凶悪なカーブを描く角が頭に二本ついていることくらいだろうか。さらにいえば口からも立派な牙――これも同じく凶悪なカーブだ――がのぞいており、やや強面の部類と言えなくもなかった。とはいえ、まん丸い黒目がちの小さな目は愛玩動物そのもので、コケティッシュな印象もある。

それにしてもがっしりとした体格の宇宙生命体だ、とタォヤマは感心した。毛むくじゃらのくせにTシャツを着込んでいるので、あの毛はボディスーツではなく本体の一部だろう。ふさふさとはえる毛の下には厚い胸板とたくましい二の腕が隠されており、Tシャツが胸のところでパツパツに伸びきっていて今にも破けてしまいそうだった。おそらく動きやすさを優先しただぼだぼのジーンズもお世辞にも綺麗とはいいがたい。そんな格好でビジネスの場所に出てくるところをみると、もともとは服をきる文化がない生命体なのだろう。だいたい十分な体毛もあるというのになぜ服を着込んでいるのか? タォヤマは困惑した。

彼の困惑をよそに、毛むくじゃらは白いTシャツからのびる腕を差し出し、やあと地に響く野太い声でタォヤマに挨拶をした。

「どうも。ガイ・P・サンリヴァです。よろしく」

ユフも地球系にくらべて頭ふたつ分は大きいのが普通だが、タォヤマは若いこともあって背中が曲がっていないので、地球系の集団の中にはいれば胸から上が飛び出してしまう。しかしガイはそんなタォヤマより一回りは大きいのだ。大男である。

「ああどうも。タォヤマです」ガイの手を握り返し、タォヤマは笑顔のパターンを再現した。「スィアツには地球系以外はいないと思ってたので驚きました」

タォヤマの言葉にガイはまた闊達な声を上げて笑った。彼が動くたびに光が長い赤紫色の毛にからみついてきらきらと反射している。

「たしかに! 僕は旅行で来たらすっかり気に入っちゃって移住してきたクチなんですけど、お仲間には滅多に会いませんからね。たまに旅行客と知り合うくらいで。今はここの観光庁に勤めてるんですよ」

官公庁……外国人に対応することが多い部署なんですか?」

「ええ。観光庁ってそういうところでしょ? スィアツはバツヴァク語以外話せない人が多いんで、こうやって外国のお客さんをお招きするときとかに重宝されてます。僕って書類仕事が得意じゃないし、バツヴァク語はまだあんまり書けないんですけど、話すのだけは大好きですからね。適材適所ってやつです。さ、行きましょうか。荷物はこれで全部です?」

なにか話が噛み合っていないとタォヤマは首を捻った。が、ガイはさして繊細なたちではないようでひょいとタォヤマの脇にあった荷物をもちあげるや、なぜかウィンクを一つした。どこの出身かはしらないが、かなり他人との心理的距離感の近い種のようだ。

「ほかは全部この辺にいれてるんで」

「あ、そうか。ユフですもんね、さすがだなぁ! 車はあっちです」

「車」

「ええ。スィアツはそんなに裕福じゃないんで、騒音対策シールドを上空にかけられなかったんですよ。それで市街地からだいぶ離れたところに空港を作ったんです。で、だから市街地までは車で移動するしかないってことです。バスがいいってんならそれでもいいですけど、あんまりおすすめしないなぁ。シャトルが早く延長されればいいんですけど」

「車ってあのガタガタするやつですか? さっき乗せられたんですけど振動がひどくって……」

「ああ! じゃ、もう洗礼に遭ったんですね! 安心してください、僕の車はホバーカーなんで全然揺れたりしない、快適ですよ」

ぱちりとまたガイは片目をつぶった。

それにしても声の大きな男だ。声と同じくらい身振り手振りも大きく、遠慮なく荷物を振り回すので、いつか鞄が吹っ飛んでいくのではないかとタォヤマは気が気でなかった。

ガイの大声が抜けていく先、高い天井には幾重にも長い布がかかっている。順に第一から第五公用語、そして旧第一から第三公用語で「ようこそ」とかいてある。ひときわ大きな布にはバツヴァク語でなにか書いてあったが、タォヤマには読めなかった。おそらく他とおなじ「ようこそ」には違いないが、文字体系がかなり違っていて理解できないのだ。

ガラス張りの壁からは燦々と朝の光が差し込んでいる。ふつう僻地の国際空港は建設をスピーディーに行うために判で押したように同じ形をしているし、地球系の環境に適応できない種のために保護エリアがあるものだが、スィアツは珍しい例外らしい。

発着ロビーが同じフロアなので天井が高いのはともかく、一面のガラス張りに意匠をこらしたサービスカウンター、落ち着いた色調のインテリアでしつらえられた大きなソファの並ぶカフェはスィアツの独特さを誇示しているかのようだ。日光を受け付けない宇宙生命体のことはまったく考慮されていないが、地球系以外はめったに使わないのでそれで許されているのだろう。

スィアツのあるラブセドル星は地球系がちょうど生育できる環境が最初から整っていた環境改造が施されていない惑星で、ニンゲンの間では「天然環境」と呼んでいるのだそうだ。恒星の熱と光は適度に減衰し、地球原産の植物が育ちやすい土壌があり、かつ空気組成も彼らが生存可能な範囲で、食料さえあれば彼らは容易に生育できた。宇宙に飛び出したばかりのニンゲンは装備が貧弱で貧しかったので、そういう土地にこぞって押し寄せたものだ。幸いユフはニンゲンと生存できる環境が近いので、今回は空港脱出に手間がかからない。

「ちょっと歩きますけど気温は大丈夫ですかね」

「ええ……ちょっと寒いですけど仕方ないですよね」

「寒いですか? 僕なんてこれなんで暑くてしょうがなくて。しかも服を着ろ、ニンゲンから見たら裸で動きまわるなんて公衆猥褻罪に相当するなんて言われちゃってこのザマですよ。窮屈だし、ひどいもんです。あ、そこを右です。ユフは服を着る習慣は?」

たしかに彼ほどの毛皮を着込んでいれば服の必要性はない。毛だけでなくその下の肉も厚そうだし、いつ熱中症でぶったおれてもおかしくない。タォヤマはニンゲンの暴虐に憤った。

「僕達は脂肪も筋肉もないし毛も生えないんで」

「確かにつるつる……あれえ? ところで残りの腕はどうしたんですか? 確かあと四本ありますよね。隠してる? そりゃすごい、どこに……上着の中にですか? すごい構造だな。それにしても、僕、ユフと会うのははじめてなんですけど、なんていうか噂にはきいてたけどやっぱり、うん、まさにグレゴール・ザムザだ」

「グレゴール・ザムザ?」

「小説の登場人物ですよ」

「へぇ」

「彼はヒーローですよ。摩天楼の中を糸一本でビュンビュン飛び回ってね」

「糸一本?」

「そうなんですよ。どこにでもひっつく糸で、伸びたり縮んだりして、ひゅんひゅんって振り回して引っ掛けてね、あっちからこっちにびゅーんって移動して」

「へぇ、そりゃすごい」

「それで悪いやつをとっちめる。キックキック、パンチ! 宙返りしてガツン! ってな具合です。映画にもなってるんであとで――あ、そっちです」

空中を腕で殴りつけたガイは黒い鉤爪で光の向こうを指した。見ると明るい太陽の下に黒い、角の落ちた箱がぽんと無造作に置かれている。金属光沢を放っていて大きさはガイより少し大きいくらいだろうか。天辺が開いて焦げ茶色いシートが露出しており、乗り物らしいということだけはかろうじてタォヤマにも分かった。

「左から入ってください。いやぁ、でも天気が良くてよかったですよ。雨だとオープンにできないから窮屈で窮屈で」

「この大きさじゃそうでしょうね」

「ニンゲンサイズですからね。でもこれでもシートはいっぱいまで下げてもらったんですよ。だからホントは四人乗りなんですけど今は二人乗り。あなたも背が高いからちょうどよかったです」忙しく口を動かしながらガイは荒っぽくトランクを開け、無造作にタォヤマの荷物を放り込んだ。ガタン、と派手な音がする。タォヤマの渋面にはお構いなしに、彼は肩をすくめてぼやいた。

「せめてもうちょっと電力に余裕があれば、ホバーカーなんかなくてもシャトルかなんかで街までいけるんですけど、どこも予算不足らしくって」

彼がトランクをバタンとしめると、車が左右に揺れた。

それにしてもせわしのない男だ。しかも口がとまる気配がない。タォヤマはあまり沈黙を好まない男だが、しかしこののべつくまないおしゃべりにはそろそろ辟易としていた。

「地球系なのに〈転送テレポート〉じゃないなんてって思ってたんですけど、電力が不足してるんですね」

「うーん、それは電力不足っていうより〈MTSL〉が疎だからじゃないですかねぇ。〈転送〉なんて〈糸〉で〈通路ティア〉張るより電力食いますから。ま、とにかく不便なのはすべて電力不足のせいなんですけど。とにかくお金がなくって」はて、とタォヤマは首をひねった。お金がないというのはあまり嬉しくない情報だ。セブジに報告しておいたほうがいいかもしれない。

しかしガイはそんなタォヤマには気づかず、滑らかに舌を動かしている。「でももうすぐ全部解決しますよ。ニンゲンが一から全部建てなおすとものすごい時間もお金もかかりますけど、かといって――」

「仮想都市を制御するのは大変だしお金も電力も必要だから、安上がりなヴェシュミ・ビセで、ついでにメンテナンス費用も節約して万々歳?」

「その通り! よくわかってらっしゃる。シュルニュクになって長いんですか? まだお若いように見えますけど」

背中をいっぱいまでまるめてタォヤマはシートに滑り込んだ。思ったよりもやわらかなシートが体を包んだが、やはり足は少々窮屈だ。ガイが運転席に滑りこむと同時にうううん、と床がうなり、箱が身震いをする。

タォヤマは笑顔を模した表情を作って首を横に振った。

「今年で三十九年目のペーペーですよ。やっと一人で外に出してもらえるようになりました」

「三十九年でまだ新人! ニンゲンに聞かせてやりたいですね。彼らからしたら職歴三十九年なんてベテラン中のベテラン、そろそろ引退を考える時期だそうですから、いやはや、短命種ってのは大変なもんですね!」

重そうに身震いをした箱だが、ぐっとガイがペダルを踏み込むと意外にも軽々と浮かび上がった。といっても反重力装置を仕込んでいるわけではないらしく、シートの下から騒々しい噴出音が聞こえている。軸が存在しないような不安定な揺れにそこはかとない不安を覚え、タォヤマはしっかりとシートの端を握りしめた。

「タォヤマさんはどうしてシュルニュクに?」

「一番の理由は知り合いに誘われたからですね。楽して稼げるし、好き放題旅行もできるぞって。騙されたみたいなもんですけど」

滑るように動き始めたホバークラフトは加速をはじめている。ガイの長い毛が風になびき、伸びきったTシャツが幌よろしくばたばたと音を立てている。若干振動は感じるものの、シートが十分にそれを吸収してくれているらしく、航行機をおりてすぐに入国審査場へ向かうために押し込まれた「バス」にくらべれば楽園のように乗り心地がいいとタォヤマは思った。程よく乾燥した空気は太陽に存分にあたためられており、風となって肌に触れるとちょうどいい温度だ。

「でも、騙されたって言ったって、なんていうんだろうな、シュルニュクって誰でもなれるもんじゃないでしょう。ほら、修行とか、練習とか、精神統一とか、あとは……都市計画とか建築とか、そういう知識も必要ですよね」

「知識は学ばなきゃいけないですけど、スプシュトはユフだったら誰でもできますよ。もちろん力量とか才能とかで向き不向きの素材はありますけど。あとは経験かな」

「ははあ、じゃ、あなたは才能があるわけですね」

「才能というか、僕は『強すぎる』んですよね。だから都市専門のシュルニュクになるしかなかったというか――」ふむ、とガイが理想的な相槌を打ったので、彼は安心して言葉を続けた。「それに大変なのはどっちかっていうと依頼主の要求をまとめる方ですね。支離滅裂な要求をする依頼主も少なくないし。僕はまだ勉強中ですけど」

「そりゃニンゲンなんて一番嫌な客だ!」

「そう、ですねぇ……」

あまりに率直なガイの言葉にタォヤマは思わず口ごもった。タォヤマの声の調子はさすがのガイも察したのか軽く肩をすくめ、口元をぐいと笑みの形にととのえる。

「いや、そうでしょう? すぐに感情的になるし堪え性はないし、活気に溢れているといえば聞こえはいいですけど、相手をしているとこりゃたまらんなんてことは結構しょっちゅうありますよ」ぐい、と下顎を突き出してガイは天をつく牙をむき出しにした。しかしすぐにまたにっこりと口元で笑みを作り、足元のペダルを踏み込む。「それともユフの前ならニンゲンはお行儀がいいんですか?」

「ユフに対してはそれほど踏み込んでこないかも……仲間同士の内輪もめになることがほとんどじゃないですかね。一度なんか完全に分裂している二つの派閥から依頼があって、境界線が入り組んだ街を重ね合わすみたいに二つ作ってくれなんて言われたこともありますよ。しかも境界を超えたら移動向きを反転させて同じ領域の方に戻すようにしてくれって……そんなことをするなら別々に住めばいいんじゃないかって提案したんですけど、ずっと昔から一方はもう一方がすぐ隣にいても見えないことにして暮らしてたから今さらそんなことできないっていうんですよ」

「見えないことにしていた?」ぱちりと目を開き、ガイは案の定質問を返した。理想的な質問をする男だ。人と話すのがうまい男だと改めて感心する。「でも見えないことにするったっているもんはいるんでしょう? ぶつかったらどうするんですか?」

「それがぶつからないらしんですよ。どうやってるのか知らないんですけど、すぐとなりに乗り物が走ってても違う派閥だと見えないとかなんとか言ってて。ただ、やっぱり問題はあったらしくて、片側の境界からもう一方の境界に物を蹴りだして密輸するってのが流行ったらしいんですね。境界の間に管理者を置いたらしいんですけど――つまりどっちも見えるけど、どっちからも無視されるっていう特殊な人をね」

「なんてこった。そんなのありなのか?」はん、と声を出して笑ったガイである。顎を引いて左右に首を振った彼は、すぐにまた吹き出して同じように頭を振った。呆れているらしい。

「ニンゲンの考えることですから……でも監視員の増員もキリがないし、たまたま密入国中に中間で死んだらどうするんだっていう話もあったらしくて、じゃぁヴェシュミ・ビセで本当の境界を作ってしまおうっていう話に」

「そりゃひどい」

「ええ、ほんとにね。あっちの植木はAのものだけど、こっちの植木はBのもの、なんていうふうになっているもんですから、設計図を引くだけで大変でした」

体をゆらし、ガイは笑った。彼が体を揺らすとホバークラフトも一緒になって左右に揺れたが、振動はすぐに減衰してまたなめらかな直線運動に戻る。舗装もされていない道の上だ。ホバークラフトでもなければとんでもなく辛い旅になるところだ。

「いやぁ、実際にやってるところを見てみたいもんです。僕、今まで見たことがなくて。話には聞いてるんですけど、なんでしたっけ、メリヴォを叩き割るんでしたっけ」

「人によりますね。僕はわりとオーソドックスに手で割りますけど、雰囲気が大事だって棒で割る人もいますし、地面に叩きつける人もいますし、足で踏み潰す人も見たことありますね――」

「メリヴォってそんなに壊れやすいんですか?」

「もともと壊すものなんで壊れやすい材質のものが好まれるんですよ。でも、はじめは硬い方が設計を詰め込みやすいので、若いユフが金槌で叩き割ろうとしているところをたまに見かけます。ベテランになるとメリヴォなんか使わないって人もいるし、そもそも小さいものならみんなメリヴォなんか使わないので、要は頭のなかではっきりイメージできればなんでもいいんです」

「うーん、聞けば聞くほど『神の仕業』だなぁ、すごい」

神の仕業、とタォヤマは繰り返した。知らない言葉だ。しかもあまり好ましい響きではなかったが、ガイは感心しているように何度も繰り返し首を縦に振っている。

「天地創造だもんなぁ……ユフでなきゃできやしない……」

「無機物に取り憑いて好きに動かすってんだったら他にも同じようなことをする奴らはいますけど」

「ああ、それは聞いたことありますね。でもそれを造ってるやつらが死んだら崩れるからヴェシュミ・ビセとは全然違うって」少し遠くを見やるような目をしてガイは首を左右に振った。「あとはまぁ、ニンゲンが好きな大量のエネルギーで惑星の表面をいじるっていうあれかな。以前大事故があったので今はあんまりやらないみたいですけど……あ、見えてきましたね、あれがイェナの市街地です」

黒い鉤爪を前方に向かって突き出し、わずかにガイは声を高くした。

イェナ。

地平線には雲がかかっている。その雲の中に影がぼんやりと浮かび上がっている――

タォヤマは息を呑んだ。

航行機の中で読んだ旅行雑誌にはこうあった。

スィアツの首都イェナのシンボルであるイェナタワーは市街地の中心に建つ、高さ二五〇〇メートルの尖塔だ。タワーを中心に高層ビルがうずを描くように街を形成しているので、遠くから望む市街地はさながら巻き貝のように――

浮かび上がった巻き貝がうっすらとぼやけているのは、地平線のむこうにあるからだ。かすみがかった巨躯に雲が絡みつき、地平線上に並び立つ木々は怯えてにげるように隅に縮こまっていた。雲間から差し込んだ幾条もの光が貝の一面を青白く照らし出している――果たしてあれはどれくらいの大きさなのか?

雑誌にはさらにこうあった。

ビルとビルの間には縦横無尽にシャトルが走り、スカイエレベータが上下する様子はどれだけ見ても飽きることがない。かなり古代的な未来都市だが――そこで彼は客室乗務員に古代的とはどういう意味かと聞いた。彼女はニンゲンの単位で二十世紀だといった。つまりだいたい一万五千年くらい前だ、と――それゆえに貴重だという注釈に、タォヤマはきっとちゃちな子供だましだろうと思ったものだ。約一万五千年前といえば、ニンゲンの宇宙進出黎明期だ。星系内の移動どころか衛星への移動にさえ失敗していた時代である。そんな時代に思い描かれていた未来にどうして期待を抱くことなどできるのだろう。

しかし。

大きい。

そばにいかなくてもはっきりとわかる。あれはとてつもなく大きい、と。

シュルニュクである彼には、巨大物体を形成する労力を体感で推し量ることができる。一口でスプシュトでするといっても規模が大きくなればなるほど力も技術も明晰ないイメージを維持する才能も必要になるヴェシュミ・ビセは決して簡単なことではなく、そんなことができるシュルニュクはタォヤマの指の数より少ないだろう。ましてや小さく短命で、力もないニンゲンがそれをこつこつと作り上げたのだから、驚嘆に値すべきことだ。何百年も、何千年もかけてその街は育ったのである。

「あれが……」

「びっくりしたでしょう? 僕も最初は舐めてかかってたんですよ。やっとこ高度知的生命体に登録されたニンゲンの古い建造物群なんて大したことないんだろうな、揚げ足を取って取って取りまくってやろうって。で、あれですよ。うわぁ……ってしばらくぼーっとしてました。いやはや、彼らの情熱のなせる技なんですかねぇ! あ、そうだ。せっかくだからちょっとあの丘の上まで行きましょうか。ちょっと小高いところから見ると本当にいいんですよ、街が全部見えて」

ガイの朗らかな声が乾いた風に去っていく。シートに深々と身をしずめ、タォヤマはもう何度目かになるため息をついた。

 

 

2017年7月1日公開

作品集『ある朝の毒虫』第1話 (全12話)

© 2017 斧田小夜

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