舟 – 6

(第6話)

斧田小夜

小説

13,075文字

その女が来ることを僕は知らなかった。確かにおかみさんはあわただしく旅籠屋と茶屋を行き来していたが、僕はまだ墓にはいっていないやえに話しかけたり、隣であやとりをするので忙しかったのだ。

やえの骨壷は箱に収められ、白い布がかけられている。茶屋はさして広くないので、骨壷は座敷の一番奥においてあるだけだ。夕方になると障子に光が溢れ、ひたひたと畳を埋めても、やえはじっと座っている。それが不憫で、僕はめっきり川音を聞くのをやめて、やえのそばにいた。

あの女が来た時も、だ。

女は甲高いわめき声と共に現れた。喧嘩腰な女の怒号に驚いて僕が外に飛び出したとき、舟を待つ茶屋の客たちはざわざわとしながら女をみていた。おかみさんはこわばった顔をして前掛けを両手でぎゅっと掴み、女のことを凝視している。その顔からは血の気が引き、おかみさんにしてはひどく珍しいことに、今すぐにでも踵をかえして去ってしまいそうにさえ見えた。僕はそっと引き戸をしめた。

「なんだい、じろじろみてんじゃないよ! あたしは見せもんじゃないんだよ!」

女の両側には黒い洋装の警官がぴたりとひっついている。だが、それよりも人々の目を引いているのは、女の容貌だった。どんなに高貴な人間も、あるいはひどい極悪人でも、ただそこにいるだけで目を引く人物はそういるものではない。しかし女はそんな人物だった。

女は顔の下半分が、異様なまでに膨れ上がっていたのだ。それだけでなく、耳の下あたりにも瘤ができ、こめかみには花が咲いたように赤い痕ができている。大きく開いた襟元からのぞくうなじは白くほっそりとしているが、しかし同じように大きな赤い痕があり、何かの病を患っていることは傍から見ても確かだった。左隣を歩いている男は気味が悪そうに腰を引き、女からできるだけ体を離そうとしている。たぶん、感染ることを警戒しているのだ。

茶屋の傘の下で団子の串を噛んでいた常連が、立派だなぁと感嘆の声を漏らしたので僕はそちらに視線を送った。

「立派?」

「あんな立派なカサはそう見れるもんじゃねぇよ、立派なもんだ」

「カサ?」

「おめぇはまだ知らねぇのか? しょうがねぇな。あれになると鼻がもげるんだよ、鼻が」

「鼻が?」

そうさ、と男はひそひそ僕に耳打ちした。僕は思わず鼻を掴み、少し引っ張ってみたがもげる気配は少しもなかった。考えてみれば抜けるのは歯と髪の毛くらいなもので、鼻や手足がもげるなどきいたことがない。

「こんなのもげないよ」

「それがもげんだとよ。もげたら一人前だな」

やめてくださいよ、とおかみさんが硬い声で男を咎めた。しかし男はにやにやと黄色い歯を見せて笑っている。僕はもう一度首を伸ばして、妙な容貌の女をながめた。

「六睦、奥行ってなさい」

「…………」

「六睦!」

おい、と野太い声がおかみさんの背中を掴んだ。よほど驚いたのか、おかみさんは声も出さずに目をみはり、胸元に手をやったが、野太い声はまたもやおい、と居丈高におかみさんを呼んだ。おかみさんはそろそろと息を吐き、それから勢い良く背後を振り返った。

「すいませんねぇ! 今日はもう仕舞いなんですよ」

「仕舞いならちょうどいい。えぇと……大浦たえの戸籍の照合をしたのは貴様か」

「たえ?」

おかみさんに湯のみを押し付けられた僕はむっと口を尖らせた。しかしおかみさんは眉根をよせて、やってきた男をじんじろりんと眺め回している。男の黒い制服には見覚えがある。見覚えがなくても洋装をしているのだから、たぶんおかみの何かだと察するのは難しくない。僕はじりじりと後ずさりながら、男の様子を観察した。

奇妙な女に張り付いている二人の男のうち、右側にいるほうがどうやら年かさのようだ。おかみさんに声をかけたのにしてもそうだし、立派な口ひげをはやしてふんぞり返っている。痩せぎすな体格をしているので、親分のほうがずっと強そうだが、洋装をしている人間はなにか近寄りがたいものがあると僕は思った。親分とは違う怖さ――何かを間違えると牢屋に押し込められてしまうかもしれない、そんな怖さだ。

「なに、しらんのか? 手紙を寄越したのは貴様だろう」

「手紙……? 何の手紙です?」

「戸籍を調べろと文をよこしたろう。ん? あぁ、しまった。間違えた。えぇと……やえ、だな。大浦やえだ」

「人の子の名前を間違えんじゃないよ。これだから……」

若い男の手を振りほどいた女は、おかみさんに断りもなく茶屋の前に腰をおろした。長い間病んでいるのか、髪の毛はほつれ、髷からあちこち髪の毛が垂れている。幽霊かとも思うほど青白い肌に赤い褥瘡ができているさまに、僕はなぜか美しさを覚え、両手でしっかりと湯のみを握りしめた。

「やえ……ですか――……」

 

 

女はやえの母だという。名はとせといい、本所の岡場所に勤めていたとのことだ。しかし花柳病にかかり、数年前から療養所に入っているらしい。

もし女が一人で現れたら、僕たちは多分彼女の言ったことをひとつも信じなかっただろう。だが、戸籍の写しには確かに彼女の名があり、その長女としてやえも記されていた。明治六年に生まれたやえには父がなく、とせ自身も成増たかという女の附籍として記されているだけで他の家族の記載はない。これはつまり、身寄りがないということだとひげの男は丁寧に僕たちに説明した。

はじめは訝しげだったおかみさんも、男の説明には一つ一つ頷いて、前掛けをぎゅっと握りしめている。

「丈次のこと書いてないよ」

おかみさんは僕の言葉を無視して首をさすっている。僕は髭の男に聞かれないように声量をおとし、もう一度おかみさんに同じことを言った。おかみさんはまた僕の言葉を無視した。

「すると、やえが八幡さまのとっからきたってのは、本当なんですね」

「そうさ。お江戸の八幡さまだよ、こんな湿気た田舎じゃなくてね。いつのまにか幽霊みたいにすうっといなくなっちまったから、どこ消えたもんかと思ってたけど、まさかこんなとこにねぇ」

おかみさんはきゅっと薄い唇を噛み、とせをにらみつけた。彼女は先程から茶を出せと言っているが、おかみさんはそれも無視している。

「……ちょっと見ない間にお江戸からここまでこられるもんですか……」

「誰が連れてきたか覚えているか?」

「なにか、あったんですかい」

髭の男は指でひげの形を整えている。僕はなんとなく嫌な気持ちになって、先程からずっとかれを睨んでいた。この男ときたらぴかぴかと柄が金色にひかっている刀をさしていて、ふんぞり返っている。その点、若い男はとせに険しい顔をむけて、背中で手を組んでいるだけだ。しかし腰には棒をさげ、まるで若い野武士のようだった。

「まぁこう言っちゃなんだがね、つまんねぇ話だよ。その女が働いてた岡場所の若い衆が金と一緒に消えたんだ。同じ頃からやえとやらも姿が見えなかったが、この女は――」

「子供がいるなんてお客に知られたら赤っ恥ですよ」

ふん、と鼻を鳴らしたとせは首筋に触れようとして、慌てて手を引っ込めた。多分褥瘡に触れたのだろうが、その指の動きは妙にたおやかで、なにか違和感があった。

「貴様が手引をしたのではないか?」

「なんだい、急にかしこまってさぁ! やだねぇ、これだからおかみはいやなんだよ。急に来てあれをやるなとか、どこかに行けとか、あたしの都合なんかなぁんも考えちゃないんだからさ、なんでこんな田舎くんだりまで……」

「その若い衆ってのは……丈次ですか?」

――観音の道で旦那さんに会って、ついてく、どこ迄ついてく

不意に耳の中にやえの声が蘇って、僕は桟橋の方を見遣った。波頭のひかる川の上を、三艘の舟が走っている。向こう岸で待っていた船客をいっぱいに積み、銀色の鱗の上に黒い影となって舟は走っている。

「なにを聞いた」

「……あたしはなにも聞いちゃないですよ。鹿島のちょっと先に生まれ故郷があって、お江戸の暮らしに疲れちまったから帰るんだって、そう言ってましたね。冬の間はずっとこの辺りで働いてたから、誰に聞いても同じこといいますよ。お客が来るんで、なにか聞きたいことがあるなら町の方へ行ったらどうです? あたしたちはやえのことは知ってますけど、丈次のことはなんにも知りゃしませんよ。なんたってたまにやえの様子を見に来るだけでしたからね!」

弱々しい声を無理に張り上げ、おかみさんはぱたぱたと二度、前掛けを手の甲で払った。僕はまだ湯のみをしっかり握りしめたまま、口を尖らせていた。

「坊主、お前はなにか聞かなかったか、その……うー、たえとやら」

「やえ」

「あぁ、やえとやらが下手人の話をしていなかったか?」

僕はちらりとおかみさんを見遣った。なにをいえばよいのかわからなかったのだ。だが、おかみさんはまるで言ってやんなというようにくい、と顎をしゃくり、そしてまたため息をひとつついた。

「丈次は叔父さんじゃないっていってた」

「ほう」

「…………」

「他には」

「ないよ」

ふむ、と男は深くうなずき、下唇をべろりとつきだした。僕の言葉に怒ったふうではないし、牢屋にいれてやろうという雰囲気は感じられない。しかし僕はなにとはなく不安になってぎゅっと腹に力を入れた。

「まぁとにかく、やえを八幡さまのとこに連れてってもらえんなら御の字ですね。やっと供養してやれるんだから。六睦、奥に行ってやえを連れてきてやんな。おっかさんが迎えに来てくれたんだからやえだって――」

「あたしは骨なんか持って歩きたくありませんよ、辛気臭いったらありゃしない」

「あんたねぇ」

「やえだってあたしの話なんかしやしなかったでしょうよ。生まれた時から可愛くない子でねぇ、汚いなりだし、すぐ泣くし、その割にちっともなつきゃしないしさ、いなくなった時はせいせいしたもんだよ」

あんた、とおかみさんは固い声でとせを咎めた。しかしとせは知らんぷりをして、子供のように足をぶらぶらと揺らしている。そのようすはまるでやえだ。やえもよくそうやって、桟橋の上で足を揺らしていた。

「はいはいするくらいの頃だって、あの子はあたしに寄ってきやしなかったんだよ。それに、なんだい? あたしの墓があるって? ふたりであたしを死んだことにするってんだから、ね、そんなことするからバチが当たったのさ」

「あんたがろくに可愛がりもしなかったからじゃないのかい。あの子は誰にだって懐きましたよ。ここでだってあの子に会いにくるお客もいるくらいだったんですから」

「そりゃぁ、お客の取り方はあの子だって見てたんだからようく知ってるさ。丈次だってきっところっとやられたんだろうよ、なんだか図体ばっかり大きくてうすっ気味悪い男だったからねぇ」

あんたねぇ、とおかみさんはまたもや声を荒げた。今度は我慢がならなかったのか、一瞬腕を振り上げ、しかしすぐにまた胸の前で組み合わせてしまう。しかし見上げる顔は頬が赤く染まっている。

「あんただって涼しい顔してさ、こんな辺鄙なところで茶屋ねぇ……」

「うちは水茶屋じゃありませんよ、一緒にしないでくれるかい」

「ふうん」

女の白い手が、赤い布をいじっている。長い指をこねくり回しながら、女は首だけ振り返って目を細めた。若い警察は無表情で仁王立ちをしているだけだし、髭の警察も呆れ返った顔をしてふんぞり返っていて、二人を止めようという気配は見られない。

「じゃぁ札はないんだね」

「札?」

「札だよ、札。札がなきゃ客取ってんのか暇してんのかわかんないじゃないか。ま、若い衆としけこんでんのかもしんないけどさ」

僕は怖かった。おかみさんが女に飛びかかっていくのではないかとそればかり心配した。なにしろ目の前に警察がいて偉そうにしているのだ。少しでもそんな素振りを見せたら、おかみさんは牢屋に押し込められてしまうかもしれない。それでそっとおかみさんの袖を引いた。

「……知りませんよ、そんなの……」

「そうかい? その子、トヤだろう。あんただって罹ってんじゃないのかい」

がやがやと船着場が騒がしい。舟がついたとわかっているのに、僕たちは動かなかった。動けなかったのである。

 

 

「……と――」

「なんだい? 生娘のふりかい?」

ふん、ととせは鼻を鳴らしてせせら笑ったが、僕はまだ彼女の言葉が飲み込めていなかった。目を白黒させたおかみさんもごくり、と喉を鳴らしまばたきをくりかえしている。

「こ――この子はあたしの子じゃありませんよ。ここでおっかさんと生き別れたらしいから、あたしが預かって……」

「ふうん」

おかみさんの声は震えている。僕はまだおかみさんの袖を掴んだまま、ぽかんとしていた。僕たちの話には興味がないのか、髭の男はやれやれと腰を下ろし、膝を伸ばしている。

かれのはいている黒い不気味な光を放つ靴が僕はなぜか怖かった。がやがやと騒いでいる舟客の声は遠い。

「……トヤってなに?」

「トヤってのはこれのことさ。あたしも最初に烏屋とやについたときは赤飯炊いてもらったもんだけど、こうなっちゃね」

ふん、ととせは鼻を鳴らし、横目で僕に視線をよこした。口元を歪めているが、その唇の端には花のように傷ができている。白い肌はまだらに赤く染まっているが、その切れ長の目は美しく、たしかに黒目の大きなところはやえに似ているかもしれない。僕は怯えておかみさんの袖からそろそろと手を離した。

「六睦がトヤのはずないでしょう、まだ子供なんですから」

「子供でもトヤはトヤさ。あたしのねえさんの子供もそんな目をしててねぇ……三つにならないで死んだけどさ。やえだってトヤさ。いつのまにか消えたけど生まれた時はあちこち出来物だらけで気持ち悪いったら……三つ口にうまれなかったのはよかったけど、でき物が消えなきゃろくに男も取れないし、まったく親不孝な子だよ」

「六睦は、違いますよ……」

「違うわきゃないだろうよ! あんたねぇ! あんた、ていよく押し付けられたんだよ、人がいいねぇ! どうせ身持ちを崩した女が子供を産んでさ、それで面倒になったからここにおいてったってとこだろ」

「六睦は、違いますよ……ここに来た時だって文字は書けたし、名前だって立派だし、それに、おっかさんは龍神様に会いに行っただけなんですからね。じきに戻ってくる――」

「龍神様に?」

突然とせは顎をそらし、甲高い笑い声を上げた。若い警察は少し驚いたのか半歩足を引いたが、すぐにぐいと唇を横に結んで去勢をはるように鼻をそらした。

「龍神様にねぇ……知恵もそこまで働きゃ立派なもんだ……」

「さあさあ、もう帰って下さいよ。うちはもう仕舞いなんですから! 六睦もさっさとそれ片付けて傘仕舞いな!」

おかみさんの声はまだ震えている。僕は手の中の湯のみをぎゅっと抱え、目だけを動かしておかみさんの顔を伺った。

僕は知りたかった。とせの言った言葉の意味を知りたかった。おかみさんの口から説明をして欲しかった。僕はもう船頭になったのだ。一人前に銭を稼げるようになったのだから、子供の頃のようにごまかされたくはなかった。

「やえをだしにして騙そうたってそうは問屋がおろさないよ。わかってんだ、なにか企んでるんだろう! 六睦! 塩持ってきな!」

「傘は?」

「傘なんて後でたためるだろう! 塩だよ!」

まてまて、とようやく鷹揚に髭の男は口を挟んだ。なにが気に入らないのか右の口髭をひっぱり、顔をしかめている。僕達の話などたぶん川の音くらいにしか思っていないのだろう。

「諍いは文明人のすることでは――」

「あんたもいつまでも座ってんじゃないよ! なに? 足がつかれた? だからなんなのさ、そんな洒落た履物なんか履いてんのが悪いんだろ。さっさとあの女連れてかえんな!」

ついに警察に啖呵をきったおかみさんだが、ぼくはおかみさんが牢屋に入れられてしまうのではないかと気が気ではなかった。立っている若い警察は妙な顔をしているが、それでも急に腰に下げた棒を抜くかもしれない。平然とした顔をしているとせはなにやら目を細め、口元に歪んだ笑みを浮かべている。そんな表情のまま、彼女はくいくいと人差し指を動かして若い男を呼んだ。

「ちょっとあんた……あの女、なぁんか怪しいよ。もうちょっと問い詰めたらどうだい」

「六睦! いつになったら塩持ってくんだい! 早くしな!」

「なにか隠し事でもあるんじゃないかい、いきなり大声だしたりしてさ。あたしのお客に大店の若旦那がいたことがあったけど、ちょっと店の話を聞くとあんなふうに喚いたもんでさぁ。急に来なくなったから噂を聞いたら、金持ち出して女と逃げたらしい――」

僕は湯のみを放り出し、店の奥に走った。女の声はねっとりと夏の夜の空気のように気だるく、耳がおかしくなってしまう錯覚をする。僕はただ、怖かった。まばたきをするたびに手に縄をかけられているおかみさんばかり浮かび、それが怖かった。その顔はまるでやえのように青白く、ぎょろりと黒目が動いて僕を見るのだ。

(六睦)

(母さまが帰ってくるまで、ここにいるのよ)

「あたしは人より鼻が利くんだ。怪しいやつはだいたい分かる――」

川が。

川が呼んでいる。おいで、おいでと川がさざめいている。僕は頭をふり、塩壺を乱暴に掴んでまた踵を返した。船客は土手を上がってきたところでなにか気づいたのか、ざわざわと声を大きくして川の音をかき消している。その騒音の中に親分の野太い声が割って入ったのが聞こえ、僕はほっと息をついた。

だが。

川が――

(りつむく)

「あんたになにがわかるってんだい! あの子は龍神さまが連れてきてくれたんだよ、うちの人とうちの子をさらってった代わりにね! あたしはあんたと違って、お天道様に顔向けできないようなことは一度ったりともしたことがないんだ――」

「そりゃあたしはあんたみたいな醜女じゃないからねぇ」

わっと野次馬が声をおおきくして笑ったが、僕はそれに加勢する力がなかった。僕はぎゅっと塩壺をつかむ拳に力をこめ、明るい方向を睨んだ。おかみさんの背中が光の中に溶けかけている。

「夜鷹風情が……!」

「そうさ、あたしは大店の旦那に見初められて嫁ぐほどの器量はないよ。でもカサができる前はあたしをみてがっかりする男なんていやしなかったさ。あたしがもしあんたくらいの器量だったら、潔く諦めて茶屋の娘か旅籠の女中でもやってたろうねぇ。そしたらトヤになることもなかっただろうよ」

一歩、二歩と僕は慎重におかみさんに近寄り、塩壺でおかみさんの二の腕を押した。おかみさんは帯の前でぎゅっと手を組み合わせ、ぶるぶると体を震わせている。まだ腰掛けている髭の男は呆れ返ったように女を一度振り返り、それからおもむろに前かがみになった。

このまま帰ってくれと僕は祈った。龍神様、おかみさんを牢屋に連れて行かないでください、あの女を、わけのわからないことばかり言うあの女をどこかに連れて行ってください、僕はそう祈るほかなかった。

「でもあたしはこんな田舎暮らしなんか嫌だね。反吐が出る――十一で売られた時、あたしは嬉しかったよ。なんたって金八匁ももらえたからねぇ、村一番の親孝行もんだって鼻も高かったもんだよ。お江戸に来てからだって病気の一つもしないでさ、毎晩男の相手をしてやってさ、だってぇのに、なにかい? あたしがお天道様に顔向けできないことしてるだって、ばか言ってんじゃないよ、たとえお天道様がなんていったってねぇ、あたしはちゃんとやってきたんだ、あんたにとやかくいわれる筋合いはないよ!」

唐突にとせは声を固くして怒鳴った。まるで芝居小屋の女芸人の語り口のようだ。目もきゅっと釣り上げ、先ほどまで粘っこく話していた彼女とはなにもかもが違う。僕は怯えて、右足を引き戸の奥に押しやった。やんやんと野次をとばす舟客達の声は遠く、水のなかにいるようだ。

「あんただって、どうせトヤがこわいんだろう。え? そうだろう、なんだい、男のくせに逃げ腰になって! 女をトヤにすんのはいつも男だってのにいい気なもんだね」

指をさされた若い警官は不意に顔をこわばらせ、そろそろと足を一歩引いた。とたんにまたわっと舟客たちが野次を飛ばす。

「まぁでも、これだって時々痛むけど若い衆の刺青なんかよりずうっときれいなもんだね、あんたもそう思うだろ? 毎日眺めてたらあたし、なんだか気に入っちゃってねぇ、よしとくれよ、あんたたちみたいな貧乏人にゃもったいないよ。こっちの男前になら全部見せたって構わないけどさ、ねぇ、どうだい」

おおきく口を開いた若い男だが、言葉が出なかったらしい。ぱくぱくと鯉のように口を動かした彼は、またもう一歩あとずさり、ぐるりと目を大きくした。耳まで真っ赤になっており、そのようすにまた野次が飛ぶ。

「男ってのはいくつになってもかわいいもんだね。あの子が男の子ならねぇ、いろいろ教えてやったんだけど――」

むんずと僕の手から塩壺をうばいさったおかみさんは、そのままの勢いで思い切り腕をふりかぶった。そして壺を女に向かって投げる。わあわあと騒いでいた野次馬はどっと笑い声をあげ、その声におしだされるように塩壺はきらきらと塩を振りまきながら素っ頓狂な方向へと消えていってしまった。僕は首をすくめた。

「六睦! 塩!」

「あれ、塩だよ……」

「いいから奥から全部持ってきな!」

「でも……」

「でもじゃない! 早くしな!」

ふん、ととせは居丈高に鼻をならし、なにを思ったか唐突に立ち上がった。早くも夏物の白地の薄い夏着物を着込んでいる彼女の胸元には赤い花の模様が描かれているようにみえるが、もしかするとあれもカサなのかもしれない。立ち上がった彼女の姿は、はじめに道の向こうに現れた時よりずっと、大きく、そのくせ今にも風に飛ばされてしまいそうに見えた。その目はらんらんとひかり、僕とおかみさんを睨めつけている。

川が。

龍神様が、ぼくを呼んでいる。

 

 

(りつむく)

 

 

――一つとせ、人も通らん山中をお半と長右衛さんが通らんす

――二つとせ、深い笠きて笛吹いて、青竹ついて伊勢参り

捨八が下手くそな手毬唄を歌っている。あまり覚えのよくない捨八はすぐに歌詞をわすれ、途中からことばがうつろになる。ついに言葉につまるとかれは頭を掻き、六睦は賢いなぁとつぶやく。やえ公も、六睦も賢いなぁ、最後まで覚えれんだからなぁ。

やえの骨はおかみさんの家族の墓に入ることになった。おかみさんがそうしてほしいと頼んだのだ。無縁の子だと明らかになったのだし、今からでもうちにもらうよとおかみさんは泣きはらした目をして言った。僕はそんなおかみさんの目を掠め、やえの骨を手ぬぐいにひとつかみ盗んだ。

あの女が去ってから、雨はまた十日、降り続いた。しかし十日目に向州の水神社にほどちかい川べりに死体が上がると、それからは一転からりと晴れて雲ひとつ見えなくなった。

水ぶくれで白くふくれあがったからだに青いぶち模様をはりつけて、男は川べりに頭をつっこんでいた。首と胴体は体一枚でつながっており、むしろにくるんで運ぶ間、頭が転がり落ちてしまわないようにずっとおさえておいてやらねばならなかった。

すぐに警察がきて死体の検分を始めたが、身元は案外早くに割れた。顔はふくれあがり、青黒く変色して人相などとてもわからなかったが、ふところには男に不釣合いなほどかわいらしい毬が突っ込まれていたからだ。

泥にまみれても鮮やかなあやめ色は色褪せていなかった。それはたしかにやえの毬だった。その毬を懐に入れているのだから考えられる人物は一人しかいない。丈治だ。

おかみさんや親分は、きっと龍神様がやえの話を小耳にはさんで、丈治を成敗してくれたのだろうと言っている。十日も荒れていたのは、きっと怒っていたからだ。一転して晴れが続いているのは、丈治を生け贄にして満足したからだろう。

「そんなんじゃ毬もどっかに転がってちまわぁ」

捨八がなにか反駁している。しかし僕はかれらのいる船着場に降りることができなかった。物心がついてからこの方ずっと行き来しているはずの桟橋がなぜか今はひどく恐ろしく、僕はしばらく舟を休んでいる。おかみさんから話を聞いた親分は、子供の頃のように僕の頭をなで、それからは何も言わなかった。

縁側の向こうには夏の平らな空が広がっている。低いところに張りついた白い雲が、他の雲を踏み台にしてのし上がろうとしているが、その雲さえも平らな空に押しつぶされているような、そんな錯覚をする。盆をすぎればきっと風がまた変わるだろう。空の底が抜け、秋が来るのだ。

(その子、トヤなんだろう)

意地悪いとせの顔が浮かんで、僕はあわてて頭を振った。彼女の声は低く、ぼくの耳の奥をつねりあげる。それは悪いものだった。けして体の中に招いてはいけないものだった。でも僕は、彼女の声をわすれるわけにはいかないのだった。その言葉が、ぼくの中に巣食ってしまったからだ。

トヤ。

話に聞けば、トヤにかかった女から生まれた子供は、生まれた時からトヤなのだという。その多くは生まれる前に流れるが、しかし中には生まれてくる子もおり、目の色が違ったり、歯が少しかけていたりするらしい。そういえばやえの肌にはいつまでたってもなくならない湿疹があったが、あれもトヤのしるしだそうだ。僕はトヤであり、それはつまり母もそうだったということである。

あるいはもしかするとそれは夫にうつされたのかもしれない。あるいはもしかすると、不義があったのかもしれない。あるいはもしかすると、何か隠しておかなければならない秘密が、龍神に会いに行くという嘘をついてまで隠さねばならないことがあったのかもしれない。船着場で育ってしまった僕にはもうわからないことだ。

「青竹ついたあとは袖のかげかい」

「なんでおぼえてんだよ」

「おめぇが毎日歌ってっからだろうよ。しかし娘っ子が歌ってりゃかわいいもんだけど、おめぇじゃな」

「うるせぇな」

「青竹の意味もわかんないようじゃな。まだまだ半人前だな」

「青竹は青竹だぁ」

「わかんねっなら満寿ます屋にでも行ってきな。教えてくれっから」

「俺は行かね」

「なんでだよ」

「行かねったら行かね」

けらけらと捨八をからかう笑い声が聞こえる。親分も聞いていたのかへっと鼻を鳴らした。

満寿屋はこの辺り唯一の岡場所だ。たいしてうまい飯が出るわけではないらしいが、三味線芸者はなかなかのものだとご隠居がほめていた。ただ、船頭がいくとなれば座敷のはずはなく、呼び出しとよばれる遊女と割床の狭い部屋で屏風に隠れながら床につくらしい。どうやら割床が気に食わないらしい捨八はそれで頑として足を運ばないのである。

「おめはいつも三つとせまでしか歌わねぇからなぁ、十とせまでいったらどうなんだい。え?」

「しんねぇよ」

ごろりと畳の上で寝返りをうって、僕は目を閉じた。船頭たちの様子は相変わらずで、僕が船着場に来た時から何一つ変わらない。捨八はいつもかれの従兄弟にからかわれている。度が過ぎて喧嘩が始まれば親分が雷を落とし、そうするとふたりとも急にしゅんと小さくなってしまうのだ。

「六睦、いるかい」

不意におかみさんの声が妙に近くで聞こえ、僕は目をあけた。襖に隔てられ、おかみさんの姿は見えない。

「ちょっと水汲んできてくれるかねぇ! 今日はお客がずいぶん多いから、もうなくなっちまいそうなんだよ」

「うん」

「気をつけて行ってくるんだよ。龍神様に呼ばれてもついていかないようにね」

「ん」

「ほら、早く行ってきな」

僕は頭を掻いた。そして、桶を取りに行くために立ち上がった。

 

 

「おう、六睦じゃねぇか。どうした、お舟にのりたくなったか」

「うん」

「まぁそれはいっけどよ。急に乗るのはいけねぇなぁ、龍神様が機嫌悪くして足とか肩に噛み付くんだ」

「龍神様は噛み付かないよ」

親分はぎょろりと目を大きくした。だが、大きく息を吐くと、かもしんねぇな、と僕に同意する。昔から親分はそうだ。六睦は賢いし、龍神様のことはなんだってわかってる。龍神様だって賢い人間のいうことは聞いてくれるもんさ。そして分かった風にうん、うんと腕を組んで頷くのだった。捨八と捨八の従兄弟も親分のその言葉にはなぜか納得して、六睦はすごいなぁなどと感嘆する。

幼いころはそれが愉快だったが、最近はなんとなく親分たちがかわいそうに思えてしまう。でもめんどうがないのはよいことだ。

「おゆうさんには言ってきたかい。ちゃんと言ってこねぇとおゆうさん、心配で死んじまうよ」

「水汲んで来いって言ってた」

「水汲むなら井戸だろうよ」

「うん」

「あいかわらず得体のしれないやつだねぇ、おめぇは」

「うん」

僕は親分を押しのけ、桟橋の端まで歩いて行った。すぐ後ろから捨八の足音がついてきているが、そんなものは特に気にならない。桟橋の一番端の端までいって、僕は川底を覗きこんだ。

青い水がさらさらと流れている。その水面に僕の顔が映っている。いつもと同じ、僕の顔だ。目が二つ、鼻と口が一つずつ。なにも変わらない。目の中に金色の線が入っているところも全く同じだ。僕はなんとなくがっかりとして、今度は顔を上げ対岸を見やった。

穏やかに川は流れている。さんざめく水面は空を映し、紺青に染まっている。聞いた話では大海もそんな色をしているのだそうだ。底が深いために川よりもずっと青い色をしているといつだったか舟客が言っていた。

「……六睦? どうしたよ」

「龍神様、いない」

「もうすぐ昼だから印旛沼にでも戻って昼飯でも食ってんだろ」

「うん」

「なんだい、なんか話でもあったんかい」

「まだやえのこと聞いてない」

「龍神様は死んだ人間のことは覚えてねぇよ。ぜぇんぶ飲み込んで、なんも言わねぇ」

いつになくしっかりした声だった。僕はまた少し視線を上げ、隣に立つ捨八をみやった。捨八の頭の上では太陽がぎらぎらと照っている。秋には程遠い太陽が眩しくて、僕は目をほそめた。

「諦めな。もうやえのことは覚えちゃねぇよ、きっと」

「でもやえは川の中で死んだわけじゃないよ」

「なんだって覚えてねぇよ。龍神さまはそういうのはわかんねんだな、多分」

僕はこたえないまま、舟に降り立った。久しく舟にのっていなかったので、足はすっかり踏ん張り方を忘れたらしい。僕はまごついている足を蹴っ飛ばし、舳先まで歩いて行った。

後ろでごとんと音がする。捨八がついてきたに違いない。

「あんまり端にいくと落っこちんぞ」

「龍神様いないから大丈夫だよ」

「龍神様がいなくたってなまずの主が出てくっかもしんねぇぞ。いつもいんなら見逃してくれっけど、たまぁにくると――なんだい。それは」

懐から手ぬぐいを取り出し、僕はそれを解いた。ゆるやかにふく川風がめざとくその中のものを見つけ、指に摘んでさらっていってしまうが、僕は指で灰にならなかったかけらをひとつ摘んだ。

白い太陽の下、かけらは薄黄色に見える。四角に近い形をしているが、一辺だけ両端が角の尖ったようにつきだしており、まるで龍神様の下顎のようだった。

「へんな石だな」

「うん」

「龍神様が歯ァ落っことしたかな」

風が灰をまたさらって去っていく。僕は手ぬぐいを振り、中の灰を余すことなく川の中に流し込んだ。かすかにきらめいた灰が川底に沈み、消えた。それだけだった。

「どっから見つけてきたんだよ」

「かまどだよ」

「へぇ、じゃぁ龍神様がこっそり団子くってったんかね」

「たぶん」

ふんどしにひっかけた手ぬぐいをひょいと手に取り、捨八はきゅっと口をすぼめた。

照りつける太陽は背が高いぶん、捨八のほうが熱く感じるのだろうか。坊主のようにそりあげた頭を手ぬぐいでごしごしとこすり、捨八はなにとはなく、いけねぇなぁ、とつぶやいた。

水しぶきをあげたのは、鯉だろうか。

 

 

2016年11月10日公開

作品集『』最終話 (全6話)

© 2016 斧田小夜

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リアリズム文学

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