深い沼の底にいるような気がして、いつも息ができなくなる。
アルバイトの合間をぬいながらアパートを探し、運転免許講習をうける忙しい日々だった。
大学生のできるアルバイトなんてたかが知れている。運転免許をとるためのお金は十分に溜まっておらず、座学分を一括で払ったあとはアルバイトをしながらほそぼそと通うほかない。教習のたびに数千円が消える。紙は淡々と私の前を通りすぎていった。大学一年生の夏休み、夢も希望もなにもなかった。
計算では七月の終わりに教習所に入学し、九月の半ばから後半に卒業、そして十月の初めの誕生日を過ぎてから免許センターに行き、試験を受ける。比較的のんびりとしたプランだったが、それが私にとっての精一杯だった。この夏休みの間に上京のために物件を探し、その契約も済ませねばならない。敷金と礼金を払うためにアルバイトの時間を増やすと、どう頑張っても教習の時間をこれ以上捻出できなかった。教習所に向かうバスの中に射す夏特有の朝の日差しはいつも眩しく、家に帰るのは眠るためだけだった。しかし家に帰るたびに母は私を責めた。どうして免許を取るのにそんなに時間がかかるの。思えば免許を取りに行くのは母に殴られ、強制されたからだった。
母はよく私を殴った。家にいれば細かい難癖をつけ、アルバイトの給与の額面を見て、これっぽちしか稼げない無能と罵りながら母は私を殴った。殴る手を止めるたびに母はうっすらと顔にプラスチックのような笑みを浮かべ、私のために殴っているのだと言った。穀潰しは早く出て行けと口汚くせせら笑うこともあったが、同じ口でなぜもっと早く帰ってこないのかと罵りもする。母がなにを求めているのか、私にはわからなかった。ただ母のどこについているかわからないスイッチを押してしまうことだけを恐れていた。姉はそんな光景を、母にそっくりな薄い笑みを浮かべて眺めていた。
姉はこの頃物件ばかり眺めている。一日家にいるのに、母はなにも言わない。物心がついた頃から、私と姉の扱いはそうと決まっていた。私にとっては覆りようのない真理だった。殴られれば痛いが、忘れてしまえばいいだけだった。眠りに落ちるたびに私は何もかも忘れ、翌朝は穏やかな気持ちでバスに乗って教習所に行った。
女の子は元気がよくないとな、と不意に教官が口を開いた。
その教官はハンコをなかなかくれないと教習所で再会した旧友が言っていた。彼に当たると大きな声で悲鳴を上げるギャルもいる、そんな怖いと有名な教官だ。ブレーキの踏み方で何度も注意を受けた私も例に漏れず、彼にあたるとすっかり萎縮しまう。その日も私は彼の話す農業の話を受け流しながら、信号に出会わないことを祈っていた。
「あんた、考えすぎて事故るタイプだなぁ」
教官は日に灼けた顔をかすかに歪めていった。短く刈り込んだ髪の毛も真一文字に結ばれた唇も頑固な職人を想起させる。タバコを吸っているところはよく見かけたが、彼の隣に座っていてもその香りは少しも感じ取れなかった。気を抜くと鼻に噛みつく中年男性特有の体臭もなく、そんな彼に似たのか車の中も無臭だった。フロントガラスは水垢一つなく、シートも後部座席もすっきりと片付いている様子から彼の性格が伺われる。
ブレーキのことさえなければ私は彼のことは嫌いではなかった。昔から職人タイプの男性にはかわいがられる所があるし、彼らは曲がったことはしない。だからちっとも怖くない。
「考えたってしょうがねぇ時もあるんだよ、そういう時は強引に行っちまったほうがいい。なんとかなる」
いいんですかね、と半笑いで答える私に、彼は深々とうなずいて前を凝視していた。冗談ではないらしかった。開け放った窓からは、青い稲穂を撫でるまだらな風が指先をかすめて通り抜けていく。
「あんたは頭いいしな、ちゃんと考えられるから状況判断もたぶん間違えねぇよ。あとはちょっと強引になるだけ――あぁ、ブレーキもだな。ブレーキがうまくかけられるようになったら」そこでぽん、と彼は自分の太ももを叩いた。「教えることはない。なんもない」
私は黙ってハンドルを握り直し、黄色になった信号を気にしながら、いつも言われているとおりにブレーキを踏んだ。教官は満足そうに唸って、それからまた女の子は元気がないといけない、と繰り返した。そうですね、とだけ答えて私は愛想笑いを浮かべた。なぜ彼が同じことばを繰り返したのか、私にはわからなかった。
路上教習のキャンセル待ちの合間に、電話がかかってきた。姉から、物件を決めたという話だった。私には内見しに行く権利さえ与えられなかったことをその電話で私は悟った。
決めたその部屋に住むのは姉ではなく、私だ。諸々の費用を払い、労働力を差し出すのは、姉ではなく私なのだ。だが、決めたのは姉だった。それはつまり、彼女はなにも支払わず、私に寄生する気でいるという意思表示だった。
私の少ない予算の中で用意できる生活に、彼女が期待するなにかが得られないのは確かで、でも姉はそのことを理解しないだろう。姉が文句を言った時、母に殴られるのは私だ。きっと母は私を殴るだろう。力いっぱい、痣ができるまで殴るだろう。
あらゆるものを差し出すしもべになれと、二人は言う。私は彼らの投げてよこす餌がなければ死ぬしかないと二人は言う。どれだけ落ちぶれても体を売ったりせず、ホームレスにならずに済むのは主人がいるからだと彼らは薄ら笑いを浮かべて示している。彼らの手口は巧妙で、私は時々愛されて育った何も知らない子供のようになる。でも私が願っていいのはただひとつだけだ。どうか殺さないでください。そして私は彼らの都合のいい家畜になる。
私は機械的な返事をして、電話を切った。それから陽が燦々とあたるベンチに腰掛け、目頭を押さえてじっと座っていた。ただ、静かだった。
世の中にある「考えても仕方がないこと」を私が知ったのは物心ついてそうたたないころだろう。それを強引に切り抜けることはゆるされていないと私は思っていた。身を引き、力を抜くのが賢いやり方だ。下手に力を入れ抵抗をすると、いつまでも痛みが残る。誰かの言いなりになり、家畜のようにおとなしく頭をたれ、ただ黙っているのが一番いい。それが一番楽で痛みがない。黙っていればその内終わる。なにもかも終わる。なんとかなる。元気なんて、生きていくためには必要ない。感情だってきっと、必要ない。
胸の内からこみあげてくる衝動に歯を食いしばって耐える。誰かを、いや、だれかではなく相手は決まっているのだが、その名を呼ぶことさえも出来なかった。「それ」をめちゃくちゃに殴りつけてやりたいと思った。激しい勢いの感情が溢れ出してくるのを感じた。うっかり動けば壊れてしまうような気さえした。そして私はそれを私が間違っているせいだと思った。
忘れてしまえばいいだけなのだ。忘れてしまえば、私はまるで普通の人のように振る舞うことができる。不幸などなにも知らないという顔をして人を欺くことができる。自分自身で信じこむことができる。だから、泣いたりなんかしないんだ。それが一番賢いやり方だ。
夏はきっと、重く暗いまま過ぎていくだろう。眩しい光に目を細めても、暗い沼の底にいることに変わりはない。私がそこを出ていくことは許されず、ただ、たゆう水面を見上げていることしかできない。力を抜き、やり過ごし、そして終わる日がくるまでじっと耐える。そんな諦観の中で、しかし諦めきれずにもがいている。日々。永遠に変わらない気がした。夢なんて、希望なんて、生まれた時から死んでいくまで持てないんだ。叶うわけなんかないんだ。
その日の送迎バスの運転手は、ブレーキにうるさい、あの教官だった。混んでいるバスの中で運転席の斜め後ろの席しか見つけることのできなかった私は、カバンを膝に置き、規則正しく動く彼の足もとを眺めていた。ブレーキを踏み込み始めるタイミング、踏み込む強さ、窓の外を流れる景色とその感覚を思い出して私はカバンの紐を両手で握った。感覚はつかめるようでつかめなかった。
私が降りる停留所は送迎バスの終点にある。そこにたどり着くまでには私を除いた全員が降車してしまい、教官は誰もいなかったらもう帰っちゃうんだけどね、と私に笑いかけた。私もにっこりとわらい、すみませんと答えた。
「ブレーキ、できたか」
「なんかこう、わかるようなわからないような……」
「ずっと乗ってりゃできるようになるよ。なんとかなる」
自信に満ちた声に、私は仕方なく唇の両端を引き上げた。最低限の笑みは私の得意技だ。車の運転をしている人は私を見ないからいい。最低限の笑みに、なにを考えているか気取られることはない。
「最初エンジンかけた時だってな、そうだっただろ。とろっとろ構内走ってさ、路上になんかでれたもんじゃなかったけど、でも今は出れる。まだ危なっかしいけど、まぁ免許取ったら一人で乗れるようになるし、しばらく乗ってりゃ初心者マークだっていらなくなっだろ」
「――……」
暮れかけた藍色の空のなかに、家々の黒い影がくっきりと線を引いている。暗闇に紛れて無灯火の自転車が走っているのがかすかに見え、黄昏時の運転は気を付けろと言われたな、ということを私は頭の隅で思い出す。
「ちょっとずつできるようになりゃいいんだよ。ちょっと強引に行くのだってさ、若いからむっかしいだろうけど年食ったら誰でもできる。うちのかーちゃんだって強引でしょうがねぇしな、あそこまで強引だと危ないけどさ」
彼はいつも微かに笑う。私は声を立て笑顔を作った。どういう顔をすれば、相手が満足するかを私はよく知っているから、その動作をためらうことはないのだ。
「なにがあったかしんないけどね」
「…………」
表情は動いただろうか。相手の顔色を伺い、無表情を取り繕うのは得意なはずだ、と私は自分自身に確認した。もしなにか見られていたとしても、私自身の抱える問題を誰かがずばり指摘できるはずがない。
後ろ姿、首の後まで日に焼けた彼はただ前を見ている。手はチェンジレバーの上にあり、表情は見えない。でもきっといつものように前を見て驚くほど多くのことに気を配っているだろう。
「たまにはアクセルも踏んでやんな。ブレーキのかけ方知ってんだからアクセル踏んだって大丈夫だよ。みんなやってんだ。どうにかなる」
のろのろとうなだれて、私は自分のつま先を見下ろした。体にかかる力にあわせて、右足の足裏に力を込める。ゆっくりとため息を付いてマイクロバスがとまるまで、私は右足のつま先を見つめていた。
山谷感人 投稿者 | 2016-07-01 05:16
凄いホープな新人が現れた! と聞いて観たが、確かに愉快だが、そこまでしかなかった。冗長過ぎるが無論、誉めている。