瞑目トウキョウ 第三章 祖父(3)

瞑目トウキョウ(第12話)

斧田小夜

小説

24,347文字

知りたい。もっとたくさんのことを知りたい。知らないものを見たい。
胸の奥がしびれるように痛む。僕は身を捩り、その痛みに焚き付けられるように外へ行きたいと願っている。知りたい。その欲求をあの村に降りてきた最初の尾古も持っていたのだと、僕は知っている。

散々である。

僕は頑なに見舞いを拒否していたが、かなり強引に車に載せられご隠居に病院へと連れて行かれた。

意識が戻った父であるが、肝臓と腎臓の機能が低下しているらしく、僕が到着した時もまだ麻酔で寝かされ治療をうけていた。肺機能は今のところ問題ないが、一、二週間は入院して観察するらしい。ベッドの周りにはチューブが散乱していて、その一つ一つにタグがついており、そこにいるのが生物であるとは到底思えない。看護師が時折そのどれかを動かし、よくわからない数値を表示しつづける機械をいじってそそくさとどこかへ行ってしまう以外特に動きはなかった。胃洗浄のときには随分暴れたそうだが、今はただ横たわっているだけの老人である。

老人だった。

僕の隣にいる源太郎さんは疑うべくもなく老人だが、父も老人になっていた。皮膚からは水分が失われ、体は浮腫んでいるが、しかし骨にぴったりと皮が張り付いていて、決して若いもののそれではなかった。それどころか合皮かプラスチックのようにさえ見える。日によく焼けた顔には点々としみが散らばり、どす黒いくまが眼の下にできている。

僕はベッド脇にいくことができなかった。まだはらわたは燃えている。横たわっている父を前にしても、僕はやはり父の所業が許せなかった。今までの仕打ちも、こうして自殺をはかったこともなにもかも許せなかった。機械に囲まれて不穏な呼吸音を漏らしている父を見てもちらりともかわいそうだとは思わなかったし、むしろ逆に腹立ちすら沸き上がってきていた。

僕の体調はずいぶん戻ってきたが、未だ倦怠感はひどく、なにをするのもだるい。歩くにも重い足を引きずって、一歩一歩確かめながらという有様だ。引きずられるようにして病室の前まではきたが、ついに我慢ができず僕は源太郎さんを振り払って、のろのろと廊下の長椅子のほうまで歩いて行った。

からからと軽い音を立てて台車が通り過ぎていく。声量を精一杯抑えている気配を感じるざわめきが満ち、僕はなにとはなく学校を思い出していた。院内はひんやりと寒い。

「たっちゃん!」

僕は顔を挙げなかった。声は森江の長男の雄一くんだ。尚くんの兄で、僕よりちょうど十歳年上である。麓で働いていたが、二年前に会社が倒産し、それで村に戻ってきたのだ。村からは若い人間がどんどんいなくなっているので、そうして戻ってきた雄一くんはいろいろと重宝がられ、また彼も気のいいひとなので毎日忙しそうにしている。

「あぁ、よかった、親父さんにはもう会っただか? きっと喜びんさる……」

「喜ばん」

土で汚れたスニーカーが視界に映っている。僕は前のめりになり、両手で顔をおおった。僕が来たことで父が喜ぶわけがない。喜ぶどころか死にぞこないと罵るかもしれない。

どう考えても父は僕を苦しめたかったのだ。できれば道連れにもしたかっただろう。どうなるか理解していなかったはずがない。ないのである。もし父がたとえ尾古でなかったとしても、直前に僕が泡を吹いてひっくり返ったのは見ている。見ているくせに、父は苦しんで死ぬ方法を選ぼうとした。

「たっちゃん、いけんぞぉ、そんなこと言うたら。まぁ親父さんはたしかにな、頭は固ぁてしょうがないだが、そいでもなぁ、親父は親父だぞ。いつまでも子供みたぁに反抗しとったらいけんで、育ててもろた恩ちゅうんがあるわけだし」

だから来たくなかったんだという思いを飲み込んで、僕はじっと唇を噛み締めてこらえていた。本当は怒鳴りつけてやりたかったが、雄一くんにそうしたところで彼を困らせるだけだ。

別段雄一くんは僕になにかをしたわけではない。そのかわり、尚くんのように何かしてくれたわけでもない。ただなにもしなかっただけだ。そんな彼になにがわかるというのだ。

「まぁ……いろいろあって混乱しとるんはわかるけど、素直になったほうがええよ」

「…………」

「おふくろさんも泣いとったで。いけんで、泣かすんは……あぁ、美和ちゃん来たけぇ、話ぃせぇ。な、ほれ。そんな座ってんと」

いやじゃ、と僕は言おうとしたが喉の奥につっかえていた怒りのせいで声は出なかった。

僕は罵ってやりたかった。どうして僕が父に恩を感じなければならないのか。どうしていつまでも父のいうことを聞いて、はいはいと従っていなければならないのか。

嘉平さんなら疑問もなくそうしただろう。祖父は疑問に思っても口にせずに従っただろう。だがそれは彼らが知らなかったからだ。だが、僕はそうではない。

尾古は嘉平さんから変わったのだ。あの村を出て、マチで暮らし、喜び、楽しみ、苦しみ、時々腹を立て、あるいは深く悲しむことで、嘉平さんは変わったのだ。その変化を嘉平さんは受け止めきれなかった。祖父は受け止めきれなかった原因を、村から離れたせいだと思った。

だが、そうではないのだ。

祖父も父も、何かに導かれるように村を離れる機会を得た。僕だってそうだ。いつだって村から離れられる。理由はいくらでもある。しかし原因はひとつだけだ。嘉平さんが養子に出されたから、それ以外に尾古が変化した理由などないのだ。それをいまさらなかったことにするなど、できるはずがない。

いつの間にか垂れてきた涙を恥じて、僕は乱暴に顔を拭った。

どこから歩いてきたのか、頭の上でごめんなぁ、と姉の声がする。ごめんなぁ、ほんとありがとうねぇ、なにからなにまで迷惑かけて……姉は同じことを繰り返している。声は疲れていて弱々しい。

何か押し問答していた二人だが、話がしたいのでふたりきりにして欲しいと姉がいい、雄一くんはタバコ吸ってくると言って去っていってしまった。僕はまだ顔を上げる気力がない。病室に入っていった源太郎さんはまだ父のそばにいるのだろうかと、僕はそればかり考えていた。さて、帰るかと早く言って欲しかった。ここから立ち去る許可がほしかった。

すぱすぱと軽い音を立てながら早足に誰かが廊下を横切っていく。僕の視界左端に姉のハイヒールのつま先が見える。尖った三角の形をしたヒールはつま先が歪み、靴裏のゴムが広がって白く汚れている。リノリウムの床の上にその影ができている。姉の足の甲には骨がうっすらと浮き上がっているが、僕はそれをぼんやりと眺めていた。院内放送で誰かが誰かに呼ばれている。ぱたぱたとまた足音がする。

「……達久、あんたお父さんとまた喧嘩しただか?」

「…………」

「家出したぁてお母さんが言うてたけど、どうしてあんたはそう堪え性がないの。お父さんが怒んのくらいわかるでしょう」

「美和姉は帰ってこんくせにうるさいんじゃ」

「なんよ」

「大学かて行ったろうが。マチにも一人だけ出てぇ。ほんなん言うんだら美和姉が面倒見りゃあええがな、なんで俺ばっか」

達久、とかなり硬い声で姉は僕のことを咎めた。下の姉ならこんなことは言わなかっただろうと僕はひっそりと思った。上の姉はいつもそうだ。いいところばかり取っていくし、僕のことなど省みたことはない。

「そういうこと言うてんちゃうでしょう。あんなぁ、お父さんが怒ったら見境なくなることくらい知っとるでしょう。あんたがどっか行く言うはなししたら手ぇつけられんでしょうが、なぁんでちゃんと説得せんがよ。こんなふうに怒らせてぇ、だから、こんなことに……」

「説得できるならとっくにしとるわいな!」

「嘘言いんさい! あんたは逃げとるだけやないの、どうせなんもしとらんくせに! なぁもせんとできんできん言うとるだけでしょう!」

僕は鼻の頭に力を入れて、耳をふさいだ。姉の声はキンキンと尖っていて、聞いているとまた胃がしくしくと痛み始める。またそうやって! と姉の声は僕の指をすり抜け耳の中に潜り込んでくるが、僕は聞きたくなかった。

僕はただ腹立たしかった。上の姉が家を出たのは僕が中学生の頃だ。僕と父がどんなふうにしていたかなど姉はひとつも知らないくせに、そんなふうに偉そうなことを言う。僕の苦しみをひとつも知らないくせに、そんなことを言う。自分は理不尽に口を出されたことがないくせに、あるいはそんな自分の特権を守るために、僕に我慢しろという。上の姉はそういう人だった。いつだって僕のことは知らんぷりだったのだ。

「あんたはそりゃぁねぇ……いろいろあるし大変なんはわかっとるけども、でもねぇ、誰だっておんなじなんよ。あたしだって好きなことだけしとるわけちゃうんよ。会社でだって、女はにこにこしとるだけでええ、生意気なこと言うなっちゅうオヤジがおるけど、そんなんそいつの前だけにこにこしとりゃえぇもんでしょ。大人になったら思うようにならんことなんてたくさんあるし、我慢せにゃならんことばっかしだがよ。大人になりんさい、あんたも高校卒業したんでしょ、いつまでも子どもでないんよ」

「…………」

耳朶は氷のように冷たい。僕は唇を噛み締めたまま、そっぽを向いていた。これが下の姉ならこんなことは言わなかっただろうと僕は思っていた。最後は同じことを言ったとしても、違う言い方をしたはずだ。なにも知らないくせに。僕は上の姉を心のなかで罵った。

答えない僕に姉はふう、とため息を一つつき、コツコツとかかとをならした。そしてどさりと疲れたように長椅子に体を投げ出す。

僕はまだそっぽを向いていた。姉をどこかに追いやるのは面倒だったが、話をするのも億劫だ。説教は聞きたくないし、ぐちぐちと父のことを繰り返されるのも嫌だ。

「あぁ、お母さん……」

院内放送がまた誰かを呼ぶ。気の抜けた声に僕はのろのろと顔を巡らせた。先ほど座ったばかりだというのに姉はまた立ち上がり、どうだった、と小さな声で聞いている。くたびれた靴が二足、僕の視界の左端にいる。

母は汚れたスニーカーをはいている。足の小さい母はいつも子供じみたパステルカラーのデザインのものばかり買ってくるのだった。そして、店にこれしかなかった、でも歩きやすいと自慢する。今、病院の床の上にあるそれはいかにも不釣り合いだった。僕はまた吐きそうになった。

「お母さ――」

姉の靴の横を通り過ぎたスニーカーは音も立てず僕の前まで来た。何事かと顔を上げる前にぎゅっと耳をつねりあげられたが、僕は声を出せなかった。

「あんた……!」

(どがして戻ってきたんか)

ぱしん、と横っ面に何かが勢い良く当たったが、それほど痛いとは思わなかった。それよりも僕はたじろいでいた。あの時と同じだ、と思った瞬間に薬の匂いが強く感じられ、吐き気がこみ上げてくる。

暗闇の中で怯えたように首を降っていた老婆。今眼の前にいる母の髪の毛は乱れ、しわの浮き始めた顔の中で目だけがてろてろと光っている。顔は青白く、眦が釣り上がり、眉間に深く濃いしわが刻まれている。

僕はたじろいだ。母はこんな顔をしていただろうか。こんなに年寄りだっただろうか。それともこれは誰かの記憶なのか? 現実と記憶の境界を踏むような感覚に僕は身動ぎし、今がいつかを思い出そうとした。

「あんた、なんてことしたの……!」

「――――」

「どうしてこんな、あんた、お父さん、殺す気なんね――!」

「……違、う――」

「殺す気なんでしょう! なにが違うの! あんたが言うことちぃとも聞かんから、お父さんあんなんなってしまったんでしょうが! なにが違うの、言いなさい! はよ言いなさい! どうしてこんなことするの、いつもいぃつも問題ばっかり起こして!」

お母さん、と姉は母の腕を掴んでいる。母は目を三角にしてほうれい線がくっきりと出ている顔をしかめ、僕を睨んでいた。本当は僕が父に殺されかけたというのに、まるで僕が父を殺そうとしたかのように僕に掴みかかっている。腕を振り上げ、頬にその手を打ち据えようとしている。母の力はそれほど大したことはなく、僕には全く脅威ではないのに、僕は縮こまって自分をかばおうと腕を掲げた。

「こんの、人殺し……!」

(化けもんや……)

ちかちかと頭の芯のあたりで記憶が明滅する。のしかかるような影と押し殺した声、はっきりと嘉平さんの声だとわかるのに僕は動けなかった。目の前の老婆は髪を振り乱し、僕を問い詰めている。それがいつのことなのか、わからない。

(どがして)

「おかあさん! やめてぇな、こんなところで!」

姉の声がきん、と耳を指し、僕は我に返った。

母の爪が食い込んでいる。服の上からだというのにはっきりとそれがわかる。僕は息を吸った。

沼の底にいる気がする。どれだけ息を吸っても酸素が体の中に入ってこない気がする。もがけばもがくほど苦しくなり、沈んでいくような心地がする。やめてくれ、とどうにか口にすることが出来るだけで、僕は母に立ち向かえない。しゃにむにぺちぺちと僕を叩く母に抵抗することができない。母はわけのわからないことを喚いている。時々人殺しぃ、と喉を締めあげたような声を出し、泣きながら僕を叩いている。

「こらぁ、なぁ、騒ぎょーったらいけんで、迷惑なるがな」

「佳代子さん、落ち着いてください、たっちゃん泣いとるがな。美和ちゃんも……」

「たっちゃんかてぼやーっとしとったわけやないんやで。昨日まで吐いとったしお互いさまだけぇ、考ちゃんかて――」

僕は泣いていたのでよくわからなかったが、源太郎さんの声だけはよく聞こえた。タバコを吸うといってどこかへ行ったはずの雄一くんの声もする。しかし母はまだ何かを喚いている。喚いて僕の頬を引っ掻こうと手を伸ばしている。

「関係ないとはなんだ! えぇ? たっちゃんが寂しい思いしとるのにほったらかしたっとんはおまいらだがや! 盆正月に飯も食わせんと外放り出して高校にも大学にもいかせん、だぁにどこかいくのもだめだめ言うてなにが――!」

源太郎さんはついに堪忍袋の緒が切れたのか声を荒げた。雄一くんと姉は顔をこわばらせているが、母だけは聞いていない。さすがに源太郎さんは叩かないが、僕のことは首でもしめるつもりなのか執拗に腕を伸ばし、雄一くんに抑えられている。じいちゃん、と僕は目の前で朗々と声を上げる源太郎さんの肩をひいた。

「娘も大事かもしらんが、息子かて同じやろが! こんたわけが! 兄弟に差ぁつける親がどこにおるか!」

「娘のほうが大事に決まっとるでしょう、あんたら男はなぁもわかっとらんがよ! 座って辛抱しとりゃぁええだけですけぇな!」

じいちゃん、と僕は源太郎さんの腕を掴んだ。母の声が耳をまだつねりあげている。

母が僕の味方になってくれないことなどずっと昔からわかっていたことだ。男は辛抱しとりゃえぇのよ、辛抱しとりゃそのうち美味しいものが回ってくるけぇねと母はいつも言っていた。女はそういうわけにはいかんのよ、辛抱しとっても自分で力ぁつけにゃ、若いうちだけちやほやされて、あとは牛扱いよ、そういって姉たちにいつも発破をかけていた母のことを僕はよく知っている。僕はそんな風には言われなかった。ただほったらかされていただけだ。僕もなにも言わなかった。僕は女ではなく、そして辛抱してもしなくてもなにも変わらない尾古の男だったからだ。

落ち着いて、と雄一くんは母に呼びかけているが、母は肩で息をつきながららんらんと目を輝かせて僕のことを睨んでいた。僕は源太郎さんの腕をひいた。

帰ろ、と僕は言った。それ以上、言葉が出なかった。

 

 

源太郎さんはタクシーを呼ぶと言ったが、それを待つ間に母が追いかけてくるかもしれないと思うとなにもかもが億劫で、僕は源太郎さんを置き去りに歩き始めていた。鳥取市内から郡家までなら歩いていける。嘉平さんも歩いていたのだ。僕だって道は知っている。僕はとにかく、一刻も父のそばから離れたかった。

息をこらえているのに、涙がぼたぼたと落ちてくる。恥ずかしさはかろうじて残っていたので、僕はよろよろと下を向いて歩いていた。こみあげる嗚咽をこらえようとするのに、息を吸うたびに小さな声が漏れる。僕の足元にはアスファルトがあり、その隙間からは緑色の雑草が顔を出している。嘉平さんの頃は土だった道は完全に舗装され、面影を一つも残していないのだった。

通りすがる人々は誰も僕のことなど見ていない。僕はどういうわけか泣きながら歩いている十八歳の男でしかなく、避けられることはあっても親切に声をかけてくるものなどいはしないのだ。それで僕は同じことばかり考えていた。どうしてこんなことになったのだろう。どうしてこんなことに。答えはどこにもなく、そして責めるべき相手が誰かぼくにはわからなかった。

父があの時岡山に出ていればよかったのか。それとも祖父があの時村に戻らず筺原の家の養子になっていればよかったのか、あるいは嘉平さんが大阪にでなければ、日露戦争がなければ、治郎吉さんが暗函を買って来なければ、嘉平さんが養子に出されなければ――

排気ガスの匂いで胸がむかむかとする。アスファルトはしみだらけでところどころひびが入り、あまり綺麗とはいえない。それどころか先ほどの父の肌が想起され、父の顔を踏みつけながら歩いているような錯覚さえする。僕は出来る限り道の端により、のろのろと歩いていた。息を吐こうとすると声が漏れ、息を吸おうとすると喉の奥がなる。ぽたり、ぽたりと鼻先から涙がたれ、鼻水がたれ、しかしそれを拭う気力がない。

僕の足もいやいや歩いている。本当はしゃがみこんでしまいたいのに、頭が前へ進めと言うから仕方なく、といったていで渋々動いている。スニーカーの紐は解け、時折僕は自分自身でそれを踏みつけよろめくが、立ち止まることは思いつかずに歩いていた。歩くしかなかった。

「たっちゃん!」

この数日、源太郎さんに名を呼ばれてばかりだ。僕はその声に気づいていたが、足は止まらなかった。行軍を続ける兵士のように命令を受けるまで止まることはできないのだ。そして命令を出すべき僕の頭は混乱しきっている。

「たっちゃん、歩いてったら疲れてしまうで、乗りんさい」

「…………」

「いいから乗りんさい、変なとこ連れてったりせんから、遠慮せんで、な。じいちゃんが饅頭買うたるから、な。ほら、乗りぃ、な」

背中から源太郎さんはぎゅっと服を掴み、引っ張っている。僕の足はまだ前に進もうとしている。それがなぜなのか僕はわからなかった。僕は混乱し、しかも打ちひしがれていた。なにもかも忘れてしまいたい。母の声が、姉の言葉が耳の中に残っている。眦を釣り上げていた青白い母の顔は知らない他の誰かにかぶり、僕を盛んに責め立てている。なぜ、なぜ、なぜと僕を叩きのめそうとしているのだ。

「……帰れ、る……」

「帰れるような距離でないがな……ええから、ほらぁ。な。すまんなぁ、無理やり連れて行ったりせんかったらよかったなぁ、ほんまかんにんなぁ……あぁ、すんませんな。ちょっと色々家族にあってびっくりびっくりしとりまして」

はぁ、と中年の運転手は間抜けな声を出した。じろじろと僕のことをみて、一体こいつはなんで泣いているのかという顔をしているに違いないのだ。僕は顔をあげなかった。源太郎さんがぎゅうぎゅうと背中を押し、車に押し込めようとしている。体がうまく動かないので、それに逆らわないようにするのも大変だ。

座っているのが辛い。息を吸うのも辛い。体が軋み、腕がもげて落ちそうな錯覚をする。ただの身体的な痛みではなく、大きな指でぎゅっと体を摘まれているような、そんな感じがする。背中を源太郎さんが撫でてくれているのはわかるが、僕は息をとめてその痛みに耐えるほかなかった。

2016年6月24日公開

作品集『瞑目トウキョウ』第12話 (全13話)

瞑目トウキョウ

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© 2016 斧田小夜

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