やはり自分が参加したからだろうか、嘉平さんの口にはよく日露戦争のことがのぼった。
嘉平さんの言葉を借りて言えば日露戦争は「鬼ヶ島に鬼退治」だそうである。その割に出てくる話題は露兵がくれたウィスキーはうまかっただの、自分は上背があったから敵兵によく間違えられた、捕虜も自分を見て露国語で話しかけてくるから困っただの、敵陣に残っていた水を飲んだら、これがびっくりするほど美味しくて皆陽気になった、あとで聞けばシャンパンとかいう酒ですっかり酔っ払ってしまって作戦にならなかったなどと全く勇ましくない。
そんな嘉平さんにとって、日露戦争の写真を見るのは一種の趣味である。特に嘉平さんが気に入っているのは、『奉天に於ける二元帥六大将』という題のついたいかにも偉そうなおじさんたちが映っている写真だ。映っている人々は嘉平さんにとっては雲の上の人であるらしいが、写真を撮った人物は嘉平さんが軍で世話になった写真の恩師なのだ。
情に篤いところくらいしか取り柄のない嘉平さんが、その写真にいかに敬意を払っているかはあえて口にするまでもないだろう。事実、それさえ与えておけば、小一時間はほれぼれとして大人しく眺めている。それほど気に入っているのだ。
もちろん一般徴集兵として入隊した嘉平さんははじめ、写真とは全く縁がなかった。嘉平さんの転機は入隊して数カ月後、開戦の熱を受けたように例年より早くさくらがほころび始めるのを待たねばならない。
嘉平さんが入隊した翌年はじめに、日露戦争は日本の宣戦布告で始まっている。とはいえ、基本的な教練を終えていない二等卒にとってはまだまだ戦場は遠い場所で、毎日走ったり、行進の練習をしたり、銃の扱いを学んだりとそればかりだ。しかも一から十まで全て決められたとおりにキビキビと動かねばならない。のんびり屋の嘉平さんにとっては辛い毎日だっただろう。
実際、嘉平さんは入隊した翌日からさっそく叱られたらしい。理由は、返事をするときに「へぇ」と小さな声で答えたからだ。それでこっぴどく叱りつけられた。
しかし、叱りつけられたからといって、返事が上手にできるようになるわけでもない。腹に力を入れろとか、口を大きく開けろといわれるのだが、嘉平さんの口からはどうしても「へいッ」という情けない返事しか出てこず、何度も繰り返し練習をさせられるうちについに泣き出してしまった。それでも男かとさらに叱られるが、それでも出てくる声は「へいッ」だけだ。それで、仲間や先輩兵からは「へぇの嘉平」などと笑われたという。
この時のことを話す嘉平さんの口は重い。おっとりしていると旦那さんからも言われていた嘉平さんは、八つ当たりをされようと意地悪を言われようとも怒る人ではなかったが、そのせいでよく人にはバカにされた。下女にでくのぼうと言われたこともある。それでもただオロオロとするだけで、決して怒ることはなかった。その嘉平さんが泣きだしてしまったくらいなのだから、よほど辛かったのだろう。
その日も嘉平さんを含めた新兵は、四月初めの検閲のための訓練をしているところだった。体が大きく、力持ちで持久力もある嘉平さんにとって、教練自体はそれほど苦ではなかったらしい。捧げ銃という銃を持った場合の敬礼でさえ、周りがなぜ重い重いと言っているのかよく分からなかった嘉平さんである。
しかし返事となれば話は別だ。あいかわらず「へぇ」が抜けない嘉平さんは時々内務班長からげんこつを食らっていたが、それでもやはり勇ましい返事をすることはできないのだった。
行進練習を終え、教官の長い訓示をようやく聞きおえた時に彼は来た。軍帽の下には白髪交じりの灰色の髪の毛が見えており。頬の肉は垂れ下がっていて、軍服の下の体は横幅がある。しかし背筋はぴっしりとのび、醜く太っているというわけではなさそうだ。
嘉平さんは目を皿にして階級と袖章を見つめた。星は一つ。星がついているということは尉官だ。線は二本か、三本か。二本なら中尉、三本なら大尉、いずれにせよ嘉平さんからみると雲の上の人だし、教官より明らかに官位は上である。
線は三本、と判断して危うく嘉平さんは震えそうになった。大尉がどういうわけで二等卒の教練など見にやって来たのだろうか。また一人一人順番に呼ばれて返事をしなければならないのではないか。
後ろ手に手を組んで様子を眺めていた大尉は、教官に話を振られるとにこにこと相好を崩して笑った。ぱっと空気が明るくなり、教官とはなにか違うようだと嘉平さんは思った。
彼は通り一遍、綺麗に整列している新兵をながめ、それからおもむろに口を開いた。意外に穏やかな声だが、空気の中をよく通る。
「楽にしたまえ。えぇと……筺原嘉平君を探しに来たんだがね」
嘉平さんの心臓がきゅっと音を立てて鳴った。教官も訓練の様子の感想を聴く用意はあったに違いないが、まさか嘉平さんの名が大尉の口から飛び出してくるとは思っていなかったのか、筺原でありますかッ? などと声を裏返している。隣に立つ白兎からきたという青年がちらちらと視線をよこしていることはわかっていたが、嘉平さんはそれに応えられなかった。こたえる代わりに彼は息を止めて歯を食いしばった。また叱られる予感がしたのである。
大尉の上にはうっそりと生えた巨木の影が落ちている。嘉平さんにははっきりと、その顔を見たことがないと断言できた。間違いない。知っている顔なら瞬間に何か思い出しているはずだ。だが、今、頭のなかは空っぽだった。気温は低く、手がかじかむ陽気だというのにじんわりと汗が脇にしみだしているのがわかる。
ゆっくりと首を巡らせた教官はその出目金のような目を見開いて、嘉平さんを見た。口元にしわがより、不可解だということを示しているようである。なにより眉が金剛力士像のようにくねっていてひどく恐ろしい形相だ。嘉平さんはそろそろと首を縮めたが、他の者に比べて頭一つ分は飛び出ているのだから、そんなことをしても隠れられるわけがない。
「筺原ッ!」
「――はィッ!」
あまりの緊張のためか、嘉平さんの吐いた息は熱かった。だが、それがよかったのだろうか、返事だけは潔く、叱られるそれではなかったのだ。教官は一瞬戸惑ったようにさらに眉間の皺を深くしたが、彼の隣で大尉があぁと穏やかな声を上げたのでそれ以上は怒鳴らなかった。ただぎろりと嘉平さんを睨みつけ、来い、と乱暴に命令する。
「ああ、写真の通りだねぇ、君は! 来たまえ、すこし話がある」
前に進み出て敬礼をした嘉平さんはぐるりと目玉を動かして大尉の前に立つ教官を見遣った。ひとまず叱られる気配はなさそうだ。
嘉平さんを呼びに来た大尉は、おかみさんの親戚筋にあたる杉浦善兵衛という人で、元は若桜藩の藩士だったという。嘉平さんは奥さんが武家の出身だということは知らなかったのでその話にはずいぶんと仰天して、思わずへぇ、へぇ、といつものように相槌を打った。
「私は倒幕運動で西洋砲兵学を学んでね」
「へぇ」
「会津征伐にも行ったものだ。戦っちゅうもんは行くまではあまり勝手がわからんが、一度行けば腹は決まる。あん時もたくさん人が死んだが、ま、大砲撃ちは鉄砲撃ちに比べればましだったなぁ」
嘉平さんはぐるりと目玉だけを動かして、さっと辺りをうかがった。杉浦はそんな嘉平さんの様子には意もくれず、つかつかと将校室へ入っていってしまった。中からは歓談の声が聞こえていて、教練場とは雰囲気が異なっている。嘉平さんはしばらく逡巡したが、覚悟を決めて、教えられたとおり名前を名乗った。
嘉平さんのおどおどとした声に、部屋の中にいた数人が振り返り、さらにがやがやとなにか言いながら寄ってきたので嘉平さんはちいさくなった。それでもどうにか敬礼の姿勢をとる。
「彼が――」
口を利いたのは真ん中にいた壮年の男だった。嘉平さんは緊張していたため目がぐるぐると回っていたが、どうにか男の階級を確認しようとした。しかし彼が着ている軍服には、階級がついていない。嘉平さんはにわかに混乱した。
「えぇ、姪の嫁ぎ先の息子で、写真が好きで好きで居ても立ってもいられないという話ですので、それならば、と、こう」
「ほう」
壮年の男はにこやかな笑みを浮べている。太いまゆは凛々しいが、目尻が少し下がっていて柔和な印象の男である。顎が張っていて体は意外にがっしりとしている。口ひげは黒黒とした艶を放ち、実直そうな雰囲気だ。歳は治郎吉さんとそう変わらないか少し下くらいだろう、と嘉平さんは思った。
「君は写真術をいつから学んでいるのかね」
「はいッ、昨年の九月からでありますッ」
そう緊張せんとも、と杉浦は笑っているが、嘉平さんは気をつけの姿勢のまま息を吸った。どういうわけか、きちんと返事ができたことに嘉平さんは驚いていたのだった。男の隣にいる少し若い男は声も立てずに、白い歯を見せて笑っている。
「さきの十二月に入隊したばかりで、まだ体が慣れていないようで」
ははあ、と真ん中の男は相槌を打った。三人ともなにやら和やかな表情を浮かべている。
「筺原君、こちらは陸地測量部の小倉倹司君だ。同じくそちらは吉田市太郎君。ええと、役職はなんでしたかな、文官のことはよくわからなくて……」
「今回努力のかいありまして大本営に写真班が結成されましたら、大本営写真班の班長ということになりますね」
健康そうな白い歯を見せて小倉は言った。写真班という単語を聞いたことがなかった嘉平さんは目を丸くして彼を見たが、その視線が心地よかったのか小倉はさらに頬を緩ませている。
嘉平さんは不思議に思った。軍隊では写真など無駄だ、それよりは銃をうち、敵を殺せと教わるものだとばかり思っていたのである。確かに測量部は陸軍に所属しているが、写真はあくまでも測量のためと教わっていたので、なおのこと嘉平さんは事態が飲み込めなかった。
日露戦争では大本営に写真班が結成されているが、この結成の立役者はまさに嘉平さんの目前で微笑んでいる小倉倹司だった。彼は測量部で写真製版と印刷を行なっており、印刷術の習得のためにその五年前までオーストリアに留学していた男である。
嘉平さんがそう思っていたとおり、まだ軍部では記録写真をそれほど重要だとは思っておらず、したがって写真班の結成には及び腰だった。先の日清戦争ですでに朝鮮半島から中国北東部にかけての測量や地形撮影を行っていたこともあり、なおのこと必要性を感じなかったようだ。なにより機材を運び走り回る彼らは、味方ではあるが丸腰に等しく、どちらかといえば足手まといである。
日清戦争にも従軍している小倉はその辺りの温度差を知りつつもどうにか軍部を説き伏せようと画策しているところだったが、実際に彼の努力が実るのは数カ月後の五月半ばである。
「撮影はなにをつかったのかね。乾板かね」
「はいッ」
「大きさは四つ切りかね」
「め――名刺判です、であります」
ふむ、と小倉は息を吐いて小さな目をぱしぱしとまたたかせた。隣の吉田は真顔でじろじろと嘉平さんのことを眺めている。眼光鋭い男で、背筋を伸ばしてしゃきりとしているところから、きっと軍の経験があるのだろうということが伺われた。
「現像と印刷の経験はあるかね」
「はいッ」
「現像は何枚ほどしたことがあるかな」
嘉平さんは頭の中でまず、乾板の値段を計算した。いつも帳簿で計算していたので、そればかりは得意だったのだ。瞬時に帳簿の数字を思い出した嘉平さんは勢い良く息を吸い、百飛んで七枚でありますッと勢い込んで答えた。なにがおかしかったのか小倉は声を立てて笑っている。
「それはなかなか頼もしい。東京の写真師でもみ月で百飛んで七枚も現像するのは熟練のものくらいだ」
「ほかに写真術に長けているものは今のところ鳥取連隊区にはおらんようで……測夫なら、あなた方のほうがご存知でしょうが、なん人かおるそうですけれども、彼らは写真術はやっておりませんからな」
うむ、と小倉は息を吐いて隣の吉田に首をかしげてみせた。吉田は口をつぐんでいるきりだ。
「写真館につとめていたことはあるかね」
「写真、館で、ありますか……」
嘉平さんはすっかり息をはくことを忘れて、息苦しい、息苦しいともだえていた。苦しかったのでさらに息を吸おうとしたが、胸がぱんぱんで吸い込めず、おかしい、ますます苦しい、と混乱していたのだ。
「いつも、見学しておりましたッ、四ツの使い方は知っとり……習いました!」
「うむ、すると少し経験が足りないかなぁ……なかなか戦闘中というのはこう、素早く撮らねばならないものですが、演習に参加する暇も今となってはとてもありませんし……」
「戦闘以外の所では機敏に動きまわってくれるかもしれませんよ、まだ彼も若いですし、み月で百飛んで七枚もとる意気地があるなら、これから学ばせればぐんぐんうまくなるかもしれません。撮影もよいですが、現像と印刷はそれ以上に大事ですから、これを任せられるのなら御の字でしょう。それに機材を運ぶ人間は必要です。記録係もいります」
「まぁそれもそうだが……」
口を挟んだ吉田の言葉は確かに納得するものであったのか、小倉は顎の下をぞろりと撫でた。鼻の下に生えている立派な髭をじっと見つめ、嘉平さんは体をこわばらせて早くも後悔をしていた。
こんな機会があるのなら、大西さんに勧められるがままにカメラを使わせてもらえばよかったのである。そうすれば自信を持って、大判四つ切りで撮影をしたことがありますと答えられただろう。
「ところで……写真術は好きかね」
はいッとこればかりはひときわ声を大きくして嘉平さんは答えた。にかりと笑った小倉は嘉平さんの答えに満足した様子である。
「大本営に来る予定の写真師は幾人かおります。測量部からももう一人ほど連れてくることは可能ですが」
「やはり経験が足りませんか」
嘉平さんは顔を動かさないように気をつけ、眼球をぐりぐりと動かして三人の顔をみやった。杉浦は心配そうな、残念そうな顔つきをしている。
「そうですねぇ……東京にも横浜にも繁盛している写真館がありますから」
「…………」
杉浦はため息をついた。息を止めていた嘉平さんも思わず悄然として視線を落とした。小倉の声からは特に感情は読み取れなかったが、しかし経験が足りないと言われたということはおそらくは門前払いということだろう。
「しかし、二軍のように私設で写真班を設けていただけると理解があってよろしいのですが……一軍は酒保員として写真師を紛れ込ませるそうです」
「皆さん、なかなか考えますなぁ。しかし酒保員となれば私どもも検討できそうですな」
「えぇ……しかしやはり大本営付きでないとなると撮影できる場所も限られますし、作戦もなにも理解できやしないのですから、本来記録すべき陣形や突撃の様子などは任せられません。兵隊の行進や飯の様子を撮るのも悪くはないですが、本来の目的を理解した上で撮影できる写真師がなんとしても我々は欲しい……」
ふ、と顔を暗くし、小倉は苦々しい顔をした。なるほど、と杉浦も頷いて同意を示しているが、嘉平さんだけはまだしょんぼりとしている。小倉の話していることは全く頭に入ってこず、とにかく後悔をするので忙しかったのである。
「なるほど……」
「なに、手が足りなければそのへんの兵隊を借りてこいと言われております。写真術に長けた兵隊が首尾よく見つかればよいが、そう都合よくどこにでも転がっているものではありませんから、伝手があれば実に頼もしい」
すっかり話が変わってしまったらしいと察した嘉平さんはすっかり悄然として息を吐いた。吉田は静かに意味深な笑みをうかべているが、杉浦と小倉はにこやかにはなしをしていて嘉平さんの様子には気づいていない。
彼らは自分に対してまったく興味を失ってしまったのだ、と嘉平さんは肩を落とした。やはり少しくらい図々しくとも大西さんにカメラを触らせてくれと頼むべきだったのだ。そうすれば自信たっぷりに四ツなら任せてくださいと言えただろう。自分の臆病さを嘉平さんは呪った。
「それに雇員は軍人ではありませんから、大荷物にはなれておりますが、無理をしてけがをするものがいてもおかしくはない。戦闘中に故障されてはこちらも困ります。清に行った時も難儀したものでしたよ、なにしろみなさん、行軍に慣れておられないから、やれ足が痛いだの、喉が渇いただの、冷や飯ではくった気がしないだの、アイスクリンが恋しいだの……」
「あぁそれなら心配ないでしょう。もうずいぶん長いこと荷運びをしていたそうですからね。このとおり体も立派ですし」
「それも頼もしい」
うむ、と大きく頷いた小倉はふい、と首を動かしてまだ悄然としている嘉平さんをみやった。そしてようやく嘉平さんの様子に気づいたのか、目を丸くして小首を傾げる。
「どうかしたのかね」
「はい、いえ……なんでもないで、なんでも、ありません」
吉田はまた声もなく笑っている。嘉平さんは泣き出したい気持ちでいっぱいだったが、どうにかこらえて息をすい、顔を挙げた。治郎吉さんにきびきび動けと忠告されたことを嘉平さんはできうるかぎり守っていた。実直で素直なところが、なによりも嘉平さんの美点であったし、嘉平さんにはそれしかできなかったのだ。
「彼はまだよくわかっておらんので説明してやったほうがいいでしょう」
「あぁ……筺原君、君は大本営の写真班に来てもらうには少し経験が足りない。今の話を聞く限りでは書類を提出してもらっても、それよりももっと経験に富んだ写真師を選出することになるだろう」
「……はい」
「だが――」
そろそろと嘉平さんは視線を上げ、小倉のくりくりとした目を見つめた。太いまゆを杓子定規に額に貼り付けて、小倉は微笑んでいる。
「正式ではないにせよ、手が足りなければ兵隊を借りて行って良いと言われているし、杉原さんは別段異論はないご様子だ。他にも写真師は集めるが、君も第十師団から手伝いに来たまえ」
「……写真をとってもよいでありましょうか」
「存分に撮りたまえ。それからぜひ現像も頼みたい。ただし、乾板には限りがある。無駄にしてはならんよ」
両手を軽く広げ、小倉は口元を楽しそうに歪めている。嘉平さんは唇を噛んで、ぐっと顎を引いた。ようやく彼らの話していることの意味が嘉平さんの頭のなかでつながったのだった。
腹の底からじわじわとなにかがしみだしてきて嘉平さんはぱちぱちとまばたきをした。それから腹に力を入れて、はいッと返事をした。
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