小倉と会ったその日のうちに、嘉平さんは杉浦に許可をもらって、チェリー手提げ暗函を送ってくれという手紙をかいた。手提げ暗函ならそれほど荷物にもならないので、予備用として外地にも持っていってもよいと許しをもらえたのである。
だが、翌日、嘉平さんはふたたび休憩時間に杉浦に呼ばれた。なにごとかと思えば、杉浦の知り合いから四切暗函を借りることができたのだという。戦地に持っていくことはできないが、ほとんど同型のカメラなので、それでよく練習するように、とのことだ。
この時の話は耳が腐るほど聞いた。入営してからの日々のことは聞かれない限り答えないくせに、この話だけはほうっておくといつまでも話している。よほどうれしかったのだろう。
組み立て暗函は木製のレンズボードと木製のピントグラスフレームを革の蛇腹でつないだカメラだ。蛇腹を伸縮させればピント面を動かすことができるし、レンズ交換はレンズボードを交換するだけでいい。レンズがかわれば望遠写真でも広角写真でもなんでも撮ることができる。そして蛇腹をぴっちりとたたんでしまえば、かばんにいれて持ち運ぶこともできるので、組み立て暗函と呼ばれたのである。
嘉平さんの借りた暗函は、黒い蛇腹が皮製、レンズボードとピントグラスをはめこんだフレームは木製で、ニスが塗られていてつやつやと光っていた。嘉平さんは何度も蛇腹を伸ばしたり縮めたりして、ピントグラスに映る杉浦の逆像に歓声を上げた。
嘉平さんは四六時中暗函を抱いていたかったようだが、高価なものなので普段は杉浦が保管をしていた。しかし嘉平さんは教練中も暇があればカメラのことを考え、少しでも時間があればカメラを使う想像をし、自由時間になれば杉浦の元へ走って行ってカメラを見せてくれとねだった。
「大丈夫かぁ? 旦那さまも心配しなんぞ。おまいが前線なんぞ出たら、いの一番に戦死せにゃなぁんかぁて」
「だけぇ、いっとう前に出て撮れぇ言われとるけぇ」
「しかし弾は飛んでくるで」
佐助さんは苦い顔をして、うん、と唸った。
嘉平さんは沈黙して、佐助さんの顔をうかがった。たしかに言われてみれば佐助さんの言うとおりだ。すっかり鉄砲に撃たれることを忘れていた。
「いっぱい飛んでくるだか?」
「そらぁ飛んでくるぅわいな」
嘉平さんは一生懸命ロシア人を思い浮かべようとしたが、思い浮かんだのは山に時折出没するツキノワグマだった。そのクマは必死の形相をしていて、鉄砲を持っている。そのうえ目は青く、毛は赤い。この世のものとは思えない化け物だ。嘉平さんは外国人など見たことがなかったし、ロシア人は金髪碧眼、赤ら顔で熊のように大きいと聞いていたせいで、そんな想像をしてしまったのだ。
嘉平さんはぶるりと震えた。そしておそるおそる、あたったらいてぇだか? と佐助さんに聞いた。撃たれなくても睨まれたら一発で死ぬかもしれない、と嘉平さんは心のなかで思ったが、臆病者と誹られるのを恐れてそれは口に出さなかった。
「そらぁ、いてぇに決まっとるがな、だらずいなぁ。鉄砲の弾は飛んでくるし、大砲の玉だって飛んでくるかもしらん」
「大砲の玉なんぞ飛んできたら四ツが壊れてしまう……」
「なぁに言っとるか、だらずがぁ、手足がちぎれたり頭が潰れるほうが先だが」
「さいかぁ」
二人は頭をつき合わせて、はて、どうしたものかと頭を捻った。
佐助さんも一緒に頭をひねっているのは少しおかしくもある。佐助さんは歩兵隊だったので嘉平さんよりずっと死ぬ確率が高かったはずなのだが、しかし彼はいつも嘉平さんのことばかり心配をしていた。そうされるほど嘉平さんのようすが心配でならなかったのか、それとも弟のようなものだからなのか、本当のところは彼の口から語られたことがないのでわからない。おかしいのは嘉平さんがちっともそれを妙だと感じなかったあたりである。
「まぁ嘉平のことだけぇ、弾がかあいそがって避けてくれるかもしれん。旦那さまも尾古の男はそう簡単には死なん、次の男を作るまでは平気だ言よーるし」
「…………」
「んなぁ、そんな疑わしそうな顔すんないや」
軍の大本営の写真班は日露戦争期間中、総計十一名であった。といっても十一名が同時に班に所属したわけではなく、順々に増え、また順々に内地に帰り、総計すると十一名となった形である。
またこの他に、私設写真班も各軍で組織され、鳥取連隊にあたる歩兵第四十連隊には同じく鳥取出身の写真師が酒保員として一人従軍した。嘉平さんもずいぶん彼にはかわいがってもらったそうで、時々彼の名前がでると懐かしそうに目を細める。
各軍の私設写真班は活動が雇用された軍下に限定されており危険な地域には本人が望まない限り――望んだとしても嫌な顔はされたようだ――足を踏み入れることはなかったが、大本営の写真班はそうではない。二名は旅順攻略にてこずっていた三軍に付き、残りの八名が一軍、二軍、及び四軍と行動を共にし、銃弾が飛び込む場面でも撮影はおこなわれたようだ。
ようだ、というのは嘉平さんも詳しいことはよくわかっていないからである。捕虜になった場合を懸念してか、末端の下士官には直近の命令しか伝わってこなかったので、嘉平さん達は必ずしも正確に状況を把握していたわけではなかった。中には都合の悪い情報を隠しているのではないかと疑う者もいて、士官に詳しい説明を求めて詰め寄ったりもしていたが、なにぶん写真を撮れさえすれば満足する嘉平さんである。詳しいことなどどうでも良かったのである。
さて、なにはともあれ新兵としては異例なほど早く大陸に渡ることになった嘉平さんは仲間から大変に羨ましがられた。そして八月初旬には大本営写真班と合流した。
合流の前日、連隊としてははじめての戦闘に望んだ嘉平さんは元気がなかった。思っていたよりもずっと銃声や砲弾の音が生々しく、すっかり怖気づいていたのである。
特に歩兵第四十連隊の第一中隊では敵の奇襲のため被害が大きく、写真を撮ってこいと言われて崖の上から撮影していた嘉平さんはそのようすにすっかり肝を冷やしてしまった。佐助さんは小競り合いをした程度だったので意外に弾も当たらないものだ、戦もたいしたことはないな、などと言っていたが、全景を見てしまった嘉平さんは違う。食事もなかなか喉を通らないし、夜中までいつ敵襲があるかと気が気ではなく、なかなか寝付けなかった。
しかし、そんな嘉平さんも写真と聞けばなにもかも吹き飛んでしまうのだった。
写真班と合流するように、と命令を受けたのは朝飯を炊いている最中だった。
朝飯ついでに昼の弁当まで行李に詰めるのは新兵の仕事である。しかし嘉平さんはすっかりそわそわとして、早く米が炊けないものかと頻繁に飯盒の様子を確認する。あまりにも落ち着きのないその様子に数少ない楽しみである飯が生煮えではたまらないと思ったのだろう。佐助さんが代わりを申し出てとりあえず行って来いと言ってくれたが、それに礼のひとつも言わずすっ飛んでいったので、事情を知っているものは皆呆れ返って笑った。
果たして、夢にまで見た写真班は村のはずれの大きな岩のそばで休んでいた。黒い服を着た人夫がめいめい座り込んだり、石に足をかけたりなどして談笑をしている。その中の一人が足音に気づいて首を巡らせ、それからああと声をあげた。
「おや、手提暗函とは」
はいッと嘉平さんは行儀よく敬礼をして、見知らぬ丸顔の男に挨拶をした。そのとなりに腰をおろして飯をかきこんでいた痩身の男も手提げ暗函と聞けば心が動くのか、そろりと頭をもたげ、目を丸くした。
「あぁ、弁当箱かと思ったが……」
「なるほど。ひもをかければ確かに兵隊さんでも持ち歩きができるなぁ」
丸顔の男は中村、痩身は森金と名乗った。ふたりとも東京の写真館で写真師をしており、経験のあるベテランだった。特に森金は日清戦争でも従軍しており、戦場には嘉平さんよりずっと慣れている。
二人は目を糸のように細めニコニコしている。嘉平さんをみれば誰しも大きいなぁ、敵兵のようだ、などと冗談交じりに言ったものだが、二人の視線は暗函にしか注がれていない。それどころか暗函を立派だ、立派だとさかんに褒める。嘉平さんもなんとなく嬉しくなってはいッ、母がつけてくださいましたッとまた生真面目に返事をした。
さて、その日は人員を各軍に分配するという話があっただけだった。一軍、二軍からも兵が手伝いに来ており、手伝いはそのまま所属の軍下で活動をする。写真は記録を含め、荷物運びなどでは少なくとも二人か三人でまとまって動かねばならないし、軍の動きは実際に隊に所属しているものでしかわからないので、手伝いと写真師が組みとなって動くことになっていた。順調にロシア軍が退却していることもあってか、皆元気で溌剌としている。
「しかし戦場でも役に立つとはなかなか意気地がある暗函ですなぁ、こんなに小さいのに」
「暗函に意気地もなにもないだろう」
「なに、これは意気地の問題ですよ。言うでしょう、一寸の虫にも五分の魂、手提げ暗函にも三分の魂!」
拳を振り下ろしてなにやら急に中村は熱くなった。しかし森金はますます眉根を寄せて、思案するように顎を撫でている。
「聞いたことがないなぁ。しかも語呂が悪くないかね」
「森金さんは信心が足りませんなぁ」
「信心? そうかなぁ」
「信心ですよ。裏のおいなりさんがそう言ったんですからこれは確かですよ。しかし因幡にも写真師がいるとはねぇ。いやはや……兵隊さんは写真術にどれくらいの覚えが?」
この二人の会話は成り立っているのだろうかと怪訝に思いつつ横で聞いていた嘉平さんは、突然話しかけられたので驚いて、へぇ、と小さく返事をした。すると二人は目を丸くして不思議そうな顔をする。
「なかなかおとなしい兵隊さんだ」
「へぇ」
「鳥取の教官は恐ろしくないのかね」
「恐ろしい教官殿もおりますが、優しい教官殿もおります」
「ほう。東京は鬼教官ばかりときくが、すると鳥取は極楽浄土か……」
東京も地獄ではないさ、とまたもや森金が反駁する。彼は中村よりは幾分か年上のようだ。下膨れに細目の上品な顔立ちであるが、時々眼光が鋭く辺りにくまなく視線を配っている辺り、少し将校たちに似ていると嘉平さんは思っていた。
「鬼ではなく厳しいだけなんだよ、あの方たちはね。ちゃぁんと考えはあるのさ」
「それは森金さんの買いかぶりだと思いますがねぇ」
んなぁこたぁない、とまたもや森金は闊達な口調で反駁した。嘉平さんは交互に二人の顔を見やっていたが、なんの話をしているやらさっぱりなので次第に飽きてきた。しかし直立不動の姿勢は保ち、傾聴してみる。もしかすると写真術の話がポンと出てくるかもしれないと思ったのである。
「さて、それで今日はどこに寝泊まりすればよいのかな。君はなにか言われているかな」
「なにも聞いておりません」
「なに、それは参ったな……小倉さんに聞いてこよう」
そうしてください、と森金は鷹揚な口調で言った。自分が聞いてきたほうがよいのかと嘉平さんは提案しかけたが、中村は特に臆面もなくとことこと小倉班長の元へ行き、身振り手振りを交えて話を始める。
「君は」
「へぇ」
「えぇと……いや、すまない。君の返事を聞くとどうも吹雪の中でこたつを見つけたような気分になってしまってね」
「吹雪の中にこたつ……? 炭はどこから持ってくるでありましょうか」
「うむ。それは難しい問題だな。直接火を炊いては足が焼けてしまうし――」
何やら話が脱線して、嘉平さんは混乱した。吹雪の中にこたつというのも訳がわからないが、なぜそんな話が出てきたのかはもっとわからない。それに森金がなにを言わんとしているのかもはっきりしない。これは困った。
「カイロでは少し寒いしなぁ……」
「はい。暗函にもよくないであります」
「たしかに……あぁいや、下手な例えはやめだやめだ。それで、君は第何師団の所属だね。あぁ、まてまて、君は四軍だったね。すると……第五師団のほうかね」
「後備歩兵第十旅団後備歩兵第四十連隊であります」
「後備歩兵第十ということは……ふむ、わからん。昨日の柝木城の攻撃には……?」
「はい、参加しました」
そりゃぁすごい、と森金は手を叩いた。いやに喜んでいる。嘉平さんはうっかり折り重なる死体を思い出してしまい涙ぐみそうになったが、どうにかこらえて息をすった。
あの戦闘で後備兵にはさして被害がなかったが、兵営地で同じ部屋だった二等卒が運悪く死んだ。そうなってはじめて嘉平さんは戦時にいることを実感して気弱になっていた。同じ連隊の者達が豪傑に笑っていても、どうにもうまく表情が取り繕えそうにない。
「私は清と台湾にも行ってね」
「へぇ」
「あの時は写真師ではなく助手としていったわけだが、いやぁ、兵が折り重なるように死んでいるところを見ると世の無常を感じる。しかし写真を撮るとなるとこれがまた全部吹き飛んでしまうんだから不思議なものじゃないか」
どう答えたものやら、と嘉平さんは思いながら顎を引いた。森金は口元に嫌味でない程度の笑みをうかべている。貫禄だ。余裕が感じられる、と嘉平さんは感心した。
「私は突撃をしたことがないのでわからないが、もしかすると銃眼を覗いておるのやら突撃やらは写真を撮るのと同じなのではないかなぁなどと思っていてねぇ。確かなことはわからないが、しかし」
「…………」
「なにか現実感がなくなってくる」
たしかにそのとおりだと嘉平さんは思った。
昨日は暑い日だったこともあって、ただじっと待機しているだけでも夢のなかにいるようだった。
しかも、長時間砲弾の音を聞いていると、だんだん耳が慣れてしまっておそろしくなくなるのである。最初は砲弾が空を切っていく音がするたびに肝を冷やしたが、やがてすっかり慣れて、兵士どうしであれはドゥーン、リュウリュウリュウだとか、いやバウーン、ヒュルヒュルだとか音の鳴きまねをするものもあるほどだった。威勢のよい者などあれは昇り笛付き龍だな、あれは煙龍だ、敵もちょこざいな、やるならもっと狙って撃ってこいなどとふざけたりする。
「どうだったね、砲弾の音や銃声は」
嘉平さんは困惑して森金の顔を見返した。森金はにこにことしているばかりである。
「……轟きます」
「ほう、轟く」
「腹に響きます」
「――なるほど。なかなかうまいこと言うものだなぁ。機関砲は見たかね。いや、何十発どころか何百発も弾が尽きるまで激しく撃ちつける武器だという評判を聞いてね、一度実物を見てみたいものだと」
「機関砲なら第四十連隊も保有しております」
「なんと、ほんとうかね? それはあとでぜひ見学に行かねば……とてつもない威力なので実に頼もしいという話を聞いたものでねぇ。昨日は使われていたんだろうか。わかるかね」
嘉平さんは上を見上げてはてと頭を捻った。兵站が遅れ気味の四軍では昨日の戦闘で機関砲は使用しなかったが、敵はわからない。しかも塹壕から反撃してくるので、武器はあまり見えなかったのだ。ただ、確かにパチパチパチパチと迫力がない音が空気の中に響いていたことは覚えている。同じ場所に何人も敵兵がいるのだろうと思っていたが、あれは機関砲だったのだろうか。しかし確証はない。
「わからないか……」
「敵兵は濠に潜んでおりましたので、私のところからは武器は確認できませんでした。姿が見えなかったので狙い撃つのも難しく、被弾者が増えたと聞いています。曹長の話では攻めより守りのほうがずっと楽なのだそうです。私の所属しておりますのは後備隊ですので第一線には出ませんでしたが、えぇと、確かに第一中隊のあたりでピカピカ光っていたものがあったと記憶しています」
「ピカピカ光るのかね、なるほど……ぜひ撮ってみたいものだなぁ。暗函によく似ていて三脚を立てるそうだから、相手が少し怖気づいてくれればいいのだが、ひどく撃ち付けられるかもしれない。まぁ、それも一興だな」
森金はまた楽しそうに手を叩いている。嘉平さんはそんなわけあるか、と珍しく思ったが口には出さなかった。その代わり自分の暗函を腕に抱き、一つため息をついた。
しかしそれにしても戦場も意外に呑気なものである。もちろん緊張する場面もあるのだが、嘉平さんはそれをあまり覚えていないし、話をすることもなかった。虫も殺せないといわれていたくらいの人なので、多分心のなかに封じ込めてしまったのだろう。本人が記憶を消してしまえば、もう誰もそれを知ることはできない。
さて、八月も終わろうとする三十日未明、ついに遼陽にて総攻撃の命令が出た。日露戦争最初の両軍主力の会戦、遼陽会戦である。
嘉平さんには特別に写真班の警護をしろという指令が出た。なんでも無鉄砲に突撃していく写真班員をひきとめ、怪我をさせぬようにとのことで、はて、今までどういう状況だったのかと嘉平さんは首をひねった。
確かに森金と中村の肝は座っている。しかし砲声が聞こえれば命の危険を感じるだろう。暗函が打ち壊されても困るのだから、あまり危ないところへは飛び出していかないはずだ。引き止める必要があるのだろうか?
しかし内容はなんであれ、この命令は杉浦中隊長――はじめ彼は小隊長だったが、中隊長の戦死により歩兵隊の中隊長に格上げされていた――から受け取ったものだ。嘉平さんにとってはまさに天命にかえても全うすべき命令である。それで嘉平さんはひとことも疑問を挟まず、いつものようにはいッと勇ましく答えて二人を探しに行った。
「あすこに機関砲がありますな。少し遠いが……」
ほう、あれが、と中村は感嘆の吐息を漏らしている。嘉平さんも目を凝らしてその姿を認めた。ロシア軍の陣地は塹壕が張り巡らされており、敵の動きはよく見えない。
視界にはひっきりなしに蝿が行きかい、うざったいことこの上なかった。沿岸部ではそれほど気にならなかったのだが、内陸に来れば来るほど蝿がふえる。兵営地となった家の壁にびっしりと蝿が止まっているのを見たときは、さすがに嘉平さんも顔をしかめたものだ。
「ずいぶん集まっておりますな。小癪な」
「そりゃあ、中村さん、あちらさんも同じことを思っておいででしょうよ」
朝焼けが高粱畑を染めている。畑を渡る風は乾燥し、嘉平さんの知っている夏の風ではないが、そのざわざわとした音は一面に広がる田圃を思い起こすのだった。高粱畑の上には深い藍色の空が広がり、秋の雲が延びている。白い雲は綿花のようだと嘉平さんは思った。金の綿花と紅の綿花が空に伸び、神々しい夜明けである。
嘉平さんは大きく息を吸い、そのまま止めた。まもなく砲攻撃がはじまるはずだ。相手方も蟻の群れのように砲台の方へと集まっている。
ヒュルヒュルヒュル、と空の鳴く声が聞こえ、嘉平さんは目玉をぐるりと動かした。
音は右翼側、日本軍からの攻撃だ。他の陣地でも攻撃を始めたのか断続的に地響きが聞こえ、空に白い光がカチカチとまたたいた。中村と森金はその中で落ち着いた顔をして、どう撮ったものか、今は撮らずにあとで再現をしてもらうかなどと相談している。
撃てーッ! と号令が聞こえ、嘉平さんは顔を巡らせた。よく通る士官の声が朝の緊迫した空気の中を走り、一斉に砲声がその後を追う。嘉平さんは森金から託された時計を見て、森金が諳んじたとおりに紙束にその文句を書きなぐった。そして天気、時間を書き添え、最後の乾板の通し番号を書く。森金の手さばきは早い。あっという間にピントを合わせ、写真を撮ってしまっている。
次はあちらを、と二人は暗函の向きを変えようとしている。敵の第一線の小銃射程範囲内にあるので、嘉平さんは彼らを制し、注意深く敵の様子を観察した。頃合いを見計らい合図をすると、二人はすばやく暗函の位置を変える。その間に嘉平さんは乾板を背嚢にしまい込んだ。
砲兵は実にきびきびと動いているものだと嘉平さんは思った。弾を込め、撃ち、素早く中を掃除し、また次の弾を込め、撃つ。まるで機械人形のような動きである。しかしそれは敵方も同じことで、時折飛んでくる砲弾はブウゥン……という不吉な音を立てて地に迫り、音ともなにともつかない騒音を撒き散らし爆発する。弾が飛んでくればさすがに皆さっと退却するが、砲台は野砲とはいえそう簡単に動かせるものではないので、被弾して使い物にならなくなってしまう。
おりしも悪天候が続いていたこの時期、主力となる重砲の到着が遅れており、第四軍には野砲しかなかった。敵陣の砲を十分に叩くことができず、どうしたものかと将校がようすをうかがっている。そろそろ突撃命令が出るかもしれないと嘉平さんは思ったが、同時にこれは危険だろうとも思った。
題が思い浮かばないな、とこういう時だというのに森金は呑気なことを言っている。嘉平さんは片膝をついた姿勢で彼が題名を思いつくのを待った。あとで乾板を整理する時にいつのどんな場面を撮ったか記録しておかないと、記憶の行き違いができる。それにこれは軍部の記録のための写真なのである。ぼんやりと撮ってでき上がりを楽しむ類のものではない。
撃ち方用意ーッ! と野太い声が耳に飛び込む。焦って嘉平さんは腰を浮かしかけたが、またあわてて腰を落ち着けた。動き始めたのは岡山連隊である。なにやらラッパが焦ったように頓珍漢な音を出したが、笑っている場合ではなかった。
「行きますなぁ、いよいよですな」
「しかし十分にいじめてやったとは思えんのだが……」
「なに、我が軍の勇敢なること、これきしなんということもないですよ」
「そういうわけにはいきませんよ、中村さん。まずは大砲で十分に叩いてから歩兵はうごかさねば……悪手にならないとよいが……」
中村はなにかと楽観的な論を述べ、それを森金がたしなめるというのは毎度の光景である。嘉平さんは彼らの言葉を聞き流しながら、自分の所属する隊がどう動くか見極めようと首を伸ばした。
撃ち方はじめーッ! という号令がかかる。嘉平さんは耳をそばだてた。聞き慣れたその声は杉浦中隊長だ。
ばらばらとなる小銃が篠突く雨のような音を立てて鳴り始め、慌てて嘉平さんは頭を引っ込めた。しかし中村と森金は鼻を土の上にちょんと乗せ、あたりを伺っている。やはり豪胆なふたりである。
と、アレですな、ちょこざいな、とまた中村が文句を垂れた。
「撮りましょう、遼陽に於ける敵兵の機関砲、題名はこれだな」
乗り出すようにカメラを構え、森金はもうピントグラスを覗いている。嘉平さんはあせって紙に書きつけようとしたが、指がぶるぶると震えているのでうまくかけない。それどころかカメラが向いたことに気づいたのか、銃声の方向が乱れるように変わったので、慌てて森金を引きずり倒し、暗函を倒した。
機関砲をひきつけたのが隙となったのだろうか。自軍側からまたなにか号令がかかってますます嘉平さんは焦った。引きずり倒された森金は目をまんまるに開き実に驚いた顔をしているが、怪我はない様子である。
「怪我はないでありますかッ」
「暗函は無事かね? 無事? あぁ、それは良かった。はぁ、しかしひどく撃ちつけてくるものだな」
怒号が響いている。砲弾は数を増し、まばたきをする間に二発、三発と着弾して激しい土埃を巻きあげるが、号令がかかった。散兵壕を一斉に兵隊が飛び出し、ますます激しい土埃が舞う。土煙を引き裂くように時折ピカリと銃弾が光るのが見えるばかりだ。
嘉平さんは暗函の様子を確認している中村を手伝い、ふたたび三脚を立てなおして様子を伺った。敵は第一線を捨てるようだ。土煙の中をぼんやりとした影になって敵兵の伝令兵がうさぎのように走っている。機関砲もすっかりなりを潜め、どこへいったのやらすでにわからない。
「あぁ、撮りそこねたなぁ……実に惜しい……まぁ、ここは仕方ないな。題名は変えて、アー……」
まだ指はぶるぶると震えている。嘉平さんは息をとめ、歯を食いしばって紙に鉛筆を押し付けた。字は震え、定まらない。それでもどうにか書き留めて、嘉平さんは勢い良く息を吐いた。
砲弾の音は絶えず、山々に不気味な声がこだましている。銃弾の軽い音は重なりあって雨音のようにも聞こえるが、腹に響くのはそれよりも怒号の方だった。前へ、前へ、と杉浦は冷静に指示を出している。声がはっきりと聞こえる。嘉平さんはまた息を強く吐き、ぐい、と口元を拭った。
落ち着いた様子で森金はカメラを操作している。彼の夏服の下でたくましいとはいいがたい体がゆっくりと上下するのがわかる。
不意に、撃ち方やめ! ときびきびした声が風にのって嘉平さんの肩を叩いた。
あの時、なぜ嘉平さんは顔をあげたのだろうか。
背を丸め、壕から頭を出さないように気をつけて、嘉平さんはじっと目を凝らした。となりでちょうどカシュッ、とかすかなシャッター音が聞こえ、森金の撮影が終わったが、なぜか嘉平さんは動けなかった。
リュウリュウと音を立て、砲弾が迫っている。霞む景色の中に決して大きくはない背中が軍刀を片手に立ちはだかっている。雄々しい背中だと嘉平さんは思った。
その間違いなく、杉浦だった。彼の前方には敗走する敵があり、敵の第一線の確保に努める味方がおり、そして前後左右に転々と倒れている兵がいる。
私は外国語が得意でなくてねぇと目を細めている杉浦の顔が、嘉平さんの脳裏によみがえった。やっとこ大尉にはなったはいいが、後備で指をくわえていることしかできない、若いうちにもう少し学を積むべきだったなぁ――
嘉平さんは無意識のうちに息をすい、砲弾が吸い込まれていく地点へ目を凝らした。一瞬にしてあらゆる音は消え、そのかわり嘉平さんの視界が一点に絞り込まれるようにフォーカスする。それはまるで双眼鏡を覗いている時――いや、カメラのファインダーを覗いているかのようだ。
ぼんやりとした像が腕を掲げ、背をぴっしりと伸ばして号令をかけようとしているのが見える。背中にゆっくりとピントが合うが、その代わり周囲の景色はにじみ、ぼやけ、輪郭がわからなくなる。長い行軍にもかかわらずしわひとつない軍服と、その背中にひと刷毛分ほどついている白い砂まで嘉平さんにははっきりと見えた。砲弾の先が視界の隅から侵入し、ばりばりと景色を引き裂いて、そして――
「杉浦中隊長殿……!」
「筺原君! 頭を――!」
ぐらり、と世界が揺れ、慌てて嘉平さんは頭を振った。中村の手が腕に触れている。いつのまに彼は隣に来たのだろう、と嘉平さんは思った。彼の声が聞こえると同時にまた一斉に音が戻ってきて、ますます頭のなかが混乱する。視点が定まらない。世界のすべてのピントがぼやけ、いやに色彩が鮮やかだ。そのうえ濃淡がはっきりしない。
「敵は死に物狂いですなぁ。しかし撃ちつけてくる」
「筺原君、大丈夫かね。顔色が悪いが……中村さん、筺原くんの水筒を」
膝が震え、嘉平さんは思わず泥の中に膝をついた。壕の壁が少し崩れ、爪の中に乾いた土がぼろぼろと入ってくる。図々しい蝿が爪の先に止まっているが、嘉平さんは追い払わなかった。動けなかったのだ。
息が体の浅いところでとまり、また出て行く。体は熱く、頭のなかがぼんやりとしてなにもかもはっきりとしない。嘉平さんはのろのろと頭を振った。
「おお、かなり進みましたな。はやく第一線に行きたいものだ……」
「しかし筺原君がこの様子じゃなぁ。落ち着いたかね。や、すこし派手な砲撃だったね。敵ながらあっぱれだ」
野砲隊はほとんど沈黙している。第一線を越え、そのまま第二線へと肉薄する日本軍の歩兵隊に、敵の重砲は標的をうつしている。一体どれほど余裕があるのかと思うほどの砲撃だ。しかし、進撃はとまらず、足音が地面を揺らしていた。なだらかな丘陵地帯にわぁわぁと怒号が轟いている。
「六時か……この調子なら昼過ぎには第二線も落ちますかなぁ、つまらんなぁ」
「中村さんはまたそんな呑気なことを言っている。つまるもつまらんもありませんよ、戦争なんですから。真につまらないのは、我々が露国に占領された時ですな」
「それはたしかにつまらないな」
先の会戦でも戦場という場所は過酷だと嘉平さんは思い知ったはずだった。だが、この時の衝撃はそれをはるかに上回り、完全に嘉平さんの心を打ち負かしてしまっていたのだった。嘉平さんは杉浦を思った。この攻撃が始まる前に、落ち着いてやりなさいと声をかけてくれた杉浦のことが思い出されてならなかった。
天を仰ぐとあけてきた空にぷかりと綿のように白い雲が浮いている。ただ高粱畑と荒地が広がるだけの満州の荒涼とした大地を覆う空は寒々しく、嘉平さんはどうにも好きになれなかったが、今はなおのこと憎々しくてならなかった。六時を過ぎ、高粱畑を撫でる風はまだ冷たいが、日差しはきつくなっている。いやに濃い影がくっきりと地面に焼き付いていて、そのコントラストにまためまいがする。
「筺原君、大丈夫かね。水は飲んだかね? 飲んだ。うん、まぁ、なに、遠慮はいらんよ、もっと飲みたまえ。君の水だ」
嘉平さんは深く息を吸い、また吐いた。肩を使わねば呼吸ができない。こんなことではいけないと嘉平さんは自分を叱咤したが、しかしどうにも心臓は落ち着く気配を見せないのだった。
背中に森金が触れている。嘉平さんはただ無言で、自分の暗函を腕に抱えた。その硬い感触が嘉平さんの唯一の縁だった。瞼の裏には先程の光景が繰り返し、繰り返しよみがえる。歩兵もたくさん死ぬが、上官だってみな弾の前では無力だ。撃たれれば死ぬほかない。嘉平さんは自分に言い聞かせ、息をすい、そして吐いた。
と、その時だ。
「前進ヤメッ! 進撃中止ッ!」
はっと嘉平さんは顔を上げ目を瞠った。その声は紛れも無く、杉浦の声だった。
砲撃は夜までつづいた。
第一線はあっさりと陥落したものの、敵の第二線はなかなか落ちず、膠着状態に陥っていたのだ。特に日本軍は砲弾不足のため攻めあぐねていた。だからといって攻撃をやめれば、ロシア軍がふたたび一線を奪い返しに来る。一度大規模な砲撃があったが、その結果を嘉平さんは知らない。ただ、夜になってもなお退くに退けない状況が続いていたことを知っているだけだった。
じりじりと経つ時間が彼らの士気を薄く削いでいる。両者が対峙する中間には、負傷者した兵士が点々と倒れているが、しかしどちらからも救出へ向かうことができない。塹壕から飛び出せば銃撃されるからである。
夜になり嘉平さんは司令部のそばに戻っていた。一旦は生気が抜けてしまった嘉平さんだったが、深呼吸を繰り返すうちに徐々に冷静になった。嘉平さんは写真班とともに行動せねばならなかった。その写真班は第一線にでて勇ましい攻撃の様子を撮りたがっている。彼らの助力になるようにと入営して間もない時期から杉浦がなにかと便宜を計ってくれたというのに、ここでそれを無碍にすることなどできるわけがないのだ。しかし嘉平さんの胸の中には嫌なものが残っていた。繰り返し、繰り返し砲弾が視界を切り裂く画が思い浮かぶ。
第一線には動きがなく、しかも前に出れば機関砲で狙われるという状況であったため、森金念願の機関砲の撮影をしたのち、彼らは遠景撮影に精を出していた。小隊長の指示で嘉平さんは隊を離れて写真班と行動することが認められ、どこかの隊と合流するたびに写真班であることを報告する。そして次の移動場所の指示を受け、二人を連れて走った。
途中砲兵の方へも撮影に行ったが、そちらもうっかりしていると砲弾が飛んでくるのでのんびり暗函を構えている場合ではない。結局這々の体で司令部に戻ってくる羽目になったが、のちのち場面の再現のために嘉平さんは配置やら場所やら、森金に言われたとおりにそれを書きとめ、わからないときは隊長に聞きに行くので忙しく、じっくりと考えている暇がなかった。
第一線から敵襲の声が上がったが、銃声は長く続かなかった。伝令兵がすぐにすっ飛んできて敵は退却としらせたので一瞬ざわめいた将校たちも今は煙草をくゆらせながら、明日以降の作戦について険しい顔で相談している。嘉平さんは司令部のそばで見張りをしていた。
トンカン、トンカンと工兵が作業をしている音がする。あとは虫の音が聞こえるばかりでひどく静かだ。入隊したばかりの頃になにかと嘉平さんを怒鳴りつけた一等卒はどうなっただろう嘉平さんは思った。伝令が来る度に聞いてみるのだが、野戦病院に誰がいるのかは誰もわからないのだという。負傷兵は多く、野戦病院にすら運び込まれていない者もすくなくない。そしてそんな風にゆくえのわからないものの中に佐助さんも入っており、嘉平さんの胸は騒いだ。
嘉平さんは他のものに知られないようにひっそりと泣いた。目が赤いので中村と森金は気づいているふうだったが、気を使っているのかなにも言わない。嘉平さんも口をしっかりつぐんで話さなかった。
遼陽の夜は暗い。さすがにすっかり疲れて嘉平さんは松の木のかげに入り、ぼんやりと戦場を眺めていた。点々とあかりがついているのはロシア兵の露営だろう。双眼鏡を使えばおそらくくっきりと彼らがタバコを吸っているところが見えるはずだが、あいにく嘉平さんは持っていなかった。治郎吉さんに託された暗函にふれるたび、嘉平さんはほっとして少し元気を取り戻した。
司令部には重い空気がのしかかっているが、相変わらず写真班はのんきなもので、近くの清国人の村で休んでいるとのことだ。接収した家で今頃文句を言いながら飯を食っているだろう。
嘉平さんはまた鼻をすすり、目をこすった。麓にあるという野戦病院まで許可をとってかけて行けば良いと頭ではわかっているが、その勇気がなかった。ようやく初めて、嘉平さんはここが戦場であることを実感していた。わかってはいるつもりだったが、しかし戦場では人が死ぬという当たり前の事がやはりまだ自分の身に引き寄せて考えられていなかったのである。
かさり、と背後で微かな音がする。
気が落ち込んでいるとはいえ、嘉平さんも警戒を怠っているわけではなかったので、飛び上がって銃を構え、敵襲と叫ぼうと息を吸った。だが、影は驚いたように両手を掲げ、やぁやぁと親しげに声を上げた。
この声は小倉だ。
嘉平さんはあわてて銃口をおろし、深々と頭を下げた。それからはっとして敬礼をした。
「大丈夫かね、森金さんから随分気落ちをしているようだと聞いたが」
「…………」
はい、と言おうと口は開いたものの息が吐き出せない。嘉平さんは困惑してじっと小倉の顔を見返した。喉の奥に餅がつかえているような心地がする。はじめて小倉にあった時とは違う息苦しさに嘉平さんは苦しんだ。
「あの……」
「なんだね」
「杉浦、中隊長殿は――」
そこまでいって嘉平さんは口をつぐんだ。杉浦は無事だとあの時確認したはずだが、なぜその名前が出てきたのか嘉平さんにはわからなかった。聞くべきは佐助さんのことではないのか。しかし、瞼の裏ではまた、杉浦が砲撃をうけている。
いつのまにか月が出ている。
青白い月光が、精悍な小倉の顔を照らしだしている。この後にやってくる豪雨などしらず、虫の音が細く、弱くただ平和に響いている夜であった。
小倉は小さな丸い目をぱっちりと開いて嘉平さんを見ている。自分の弱々しい声にうっそりと恐怖した嘉平さんは、それ以上言葉を続けられずに視線を落とした。
「……聞いたかね」
「いえ――姿が、見えなかった、もの、ですから」
声が喉につっかえ、嘉平さんは唇を固く結んだ。胸の中をひたひたと埋める不安に息がくるしかった。それ以上声を振り絞れば、なにか嫌なことが起きるのではないかと――尾古の男として、彼はそう思ったのだった。
「杉浦さんは敵の砲撃により怪我をおわれたそうだ。それで、手当をうけていたのだが、先ほど戦死された、と」
ふ、と虫の音がやんだ。
嘉平さんは突っ立っていた。別段足元はふらつかなかった。朝はあれほどまでに動揺したというのに、不思議なことに何も思わなかった。嘉平さんはただ無言で頬の裏側をかみ、視線を小倉の顔の上から動かさなかった。
「杉浦さんには随分世話になったのだが……実に惜しいひとを亡くした……」
近親者の死に出会ったことのなかった嘉平さんは沈黙したまま答えられなかった。ただ心は無で、悲しいともなんとも思わない。小倉も飄々とした顔つきで、口ひげだけが心なしか悄然としたようにひしゃげている。だが、それ以外は今ひとつ悲しんでいるふうがないのも嘉平さんを混乱させた。
おそらく小倉とて、写真班を結成するにあたって協力的だった杉浦の死は痛恨と思っていたに違いないが、彼も混乱をしていたのだろうか。遼陽ではそれ以前に比べても多くの士官が死んだ。その日何人の訃報を小倉が受け取ったのか、嘉平さんが知らないので僕も知らない。
しばらく、不思議な沈黙が降りた。居心地は悪いが不快ではなく、静かだが冷淡ではない沈黙だった。嘉平さんは唇を噛み、小倉の首元あたりをぼんやりと見ていた。
北にあるせいか八月の終わりでも遼陽の風は冷たい。秋の気配を感じるという程度ではなく、はっきりと冬の厳しさをしらしめるような風の冷たさである。だというのに昼間は真夏より気温が上がるのだから、頑強とはいえ兵隊もみな体力をすり減らしていた。
随分永い間黙りこくっていた小倉は不意にふう、と音をたてて息を吐き、口を開いた。
「そういえば内地から、筺原君が以前に撮った写真が届いた。杉浦さんが昨晩見せてくださってね……」
取り繕ったように明るい声だったが、嘉平さんの耳にはそれほど奇妙には響かなかった。嘉平さんはもごもごとそうですかと答え、また鼻をすすった。
「その暗函で撮ったものだそうじゃないか。いや、しかしなかなか出来がいい。杉浦さんも褒めていらした。やはり見込みどおりだと」
「……はい」
今日は月が明るくていい、と独りごちながら、小倉は胸ポケットからなにか取り出した。内地――つまり日本からは補給とともに慰問袋と呼ばれる荷物がよく送られてきたものだった。慰問袋の中には、生活に必要な物だったり、少額のお金だったり、日持ちのする食料だったり、写真に手紙、それから細々とした心づけが入っている。地元の人々が協力しあって送ってくれるものだ。
杉浦が写真を受け取ったということはおかみさんか誰かが慰問袋を送ったのだろう、と嘉平さんは思った。確かに筺原の家から慰問袋は届いた。昨日佐助さんと受け取って心を踊らせながら中身を覗いたので、それは確かだ。
「なんでもその小さな暗函で本当に撮れているのかと、大隊長が心配していらっしゃるそうで、それで証拠のために送ってもらったんだそうだ。君の腕は確かだと言っていらした」
へぇ、と体に力が入らないまま嘉平さんはそぞろに返事をした。上官に何を言われているのかあまり気にしていなかった嘉平さんのことである。小倉の言葉にぴんとこなかったうえに、慰問袋と聞いて故郷を思い出してしまったのだ。それで腹に力が入らなかったのである。
小倉はとっくりと写真を眺め、口元をわずかに歪めた。その隣ににこにこと杉浦が笑っている姿が見え、嘉平さんは唇を噛んだ。
杉浦は朗らかな人物だった。教練では厳しいが、しかしそれは理不尽な恐ろしさではなかった。言葉は明瞭で指示は簡潔、西洋兵学の知識に明るく、暇があればその理論を噛み砕いて誰かに教えている、面倒見のよい人物であった。大尉からはからっきし昇進できないと彼は闊達に笑っていたものだが、さすが戊辰戦争を経験しただけある、人格が違うと上等兵もひそかに言っていたほどだ。
眉根がよってしまう理由がわからず、嘉平さんは困惑していた。
死は死だ。そこにいかなる意味も付与することはできない。
数多の死を越え、その記憶を持っている尾古はなによりもそのことを知っているし、嘉平さんももちろんそうだった。しかし戦闘中の死は名誉の戦死と、そう言うのが決まりだと彼は習った。それで素直にその言葉を口にした。
「これは、いつ撮ったのかね」
「……昨年の十一月であります」
「何枚目かな」
「八十三枚目であります」
にかり、と小倉はまた歯を見せて笑った。小倉の手の中にあるのは、佐助さんが暇をもらって帰ってきた時の写真だ。治郎吉さんの隣で軍服を着てかしこまっている佐助さんだが、顔だけは呑気に笑っている。おにぎり頭で目も口も大きい佐助さんは笑顔になるときゅっと目尻にしわがより、口がぱかりと開いた。印刷は大西さんがしてくれたのだろうか、綺麗に陰影の浮かび上がった写真の中の人々は今にも動き始めそうだった。
「これはお兄さんかね?」
「はい……筺原佐助上等、兵であります……」
「兄さんは無事かね」
「ゆくえがわからないと、聞いております」
「そうか……無事であるとよいが……こちらは最初の一枚だったと聞いたよ。最初からうまいもんだ。なかなかこんな風にとれる写真師はいない――だいたい最初の一枚というのは明るすぎるか、暗すぎて目を凝らさないと見えないものだ」
ありがとうございます、とつっかえつっかえ嘉平さんは答えた。小倉はほほ笑みを浮かべ、うん、とひとつ頷く。
「しかもみんないい顔をしているねぇ」
「はい……旦那さんが、暗函買ぁて来んなった日で、私は、ずっと写真館の見学にいっていたので、旦那さんがお前、撮ってみぃ、できるだろ言わん、さって、そいで、撮りました」
「ははぁ、その写真館で四ツの使い方を習ったのか。随分勝手がちがうだろうに、勘がいいんだろうなぁ」
どう答えたものだろうかと思いながら、嘉平さんはぱちぱちとまばたきをした。目頭は特に熱くなっていないし、激情がこみ上げてきたわけでもないが、しかし目からぽろり、ぽろりと涙が落ちることを彼は不思議に思っていた。頬を伝う水の感触は冷たく、鼻筋を伝う涙は容赦なく口に入ってくるが、嘉平さんは動けなかった。動けば声を上げて泣き出してしまう気がしていたのだった。
「勘が良いというのは、つまり、普段からしっかり景色を見ているということだ」
「…………」
「筺原君」
ふう、とまた小倉は息を吐いた。彼の顔は穏やかで満ち足りている。あたりの空気も静かで、日中ここで戦争が行われているなど信じられないような穏やかな気配である。嘉平さんはどうにか鼻をすすって、またまばたきをした。唇の脇を通った涙が顎先まで伝い落ち、闇がその涙を吸い込んでいる。
「写真は――面白いものだ。見たものが見えたように映るかとおもいきや、時々予想もしない写りになっている。こうだと思って撮ったつもりが、まるで逆のようにみえることもあるし、その逆もある。自分が見たものをそのまま写し取ったつもりでいても、できあがってみてこれだ、と思うことはあまりないものだ。人と比べるとますます不可思議になる。同じものをとっているはずなのに、まるで違う。写真の説明をするとこれまた意見が相違するし、説明を受けるとはぁ、なるほどとなることがしばしばだ。実に奥が深い」
目のふちが熱い。嘉平さんは少しうつむいてまた鼻をすすった。小倉の声はおだやかだがどこか熱さがあり、なによりも優しかった。
嘉平さんの周りにはそういう人間ばかりだ。まるで嘉平さんの人柄を表しているように、みな嘉平さんのことを可愛がりおもんぱかってくれる。そんな世界の中で嘉平さんがすくすくと白木のように成長したのも当然といえば当然だったのだろうか。
すこし言いよどんだ小倉は緩慢に二、三度首を横に振った。
「思うに――写真というやつは、もうひとつの眼なのかもしれない。だからひとによって映るものが違うのだろう。人は見えるものしか見ない。写真には自分の見えているものだけが映る。物事をしっかりと捉えない愚図のとった写真は、やはり間が抜けている。しっかりと目を見開き、あたりに気を配っている人物であれば、細々と恐ろしいほど詳細に景色をうつしとることができる。しかも時折この目は主人を裏切って、なにも見ていやしないことを教えてくれさえする。なんでも見えている気になるなよと言わんばかりに……いや、実に奥が深い」
嘉平さんはゆっくりと視線を上げた。彼の口元、口角がすこし上がり、分厚い唇の端に歯が見えている。その上の口ひげは疲れきった鳥のようだ。日焼けした顔は赤らみ、目の下にはくまができている。しかし、そんな疲れきった顔の中で、彼の目だけは命を燃やし続けている。漆をぬった器のように黒い瞳が嘉平さんをみている。その目の表面に光が映りてらてらと光っているのだ。嘉平さんはぼんやりとレンズを連想した。
「そう考えてみると、筺原君は――実に素直なよい目をしているらしい。ただありのままを、克明に残す――まるで君自身が暗函か、あるいは暗函が君自身かと思うほどだ。これはなかなかできることじゃあ、うん……ない。よいことばかりではないし、辛く思うこともあるだろうが――」
「…………」
「杉原中隊長は、君のそういうところがいいと言っていた。私も、そう思う――」
鼻の脇を涙が通り、また顔の輪郭に沿うように滂沱の涙が流れている。嘉平さんは自分のその姿を見ることはできなかったが、涙が流れていくその感触ははっきりとわかった。
小倉の目が濡れたように光っている。その光は月明かりのせいだろうか。彼の手の中には二枚の小さな写真があるきりだ。のんきに笑う人々。誰よりも楽しそうに相好を崩している治郎吉さんの顔が、嘉平さんの立つ場所からもはっきりと見えた。
「中隊長のご期待にそむいてはいかんよ」
「……はい」
「明日未明から一軍、二軍ともに大きく動くそうなので、森金さんと中村さんにはそれぞれ別の隊についてもらうことになった。四軍はどうにも動けそうもないが、近衛師団の方で手が足りないので、君は私と来たまえ。猪口君は知っているかね? 知っている。それは良かった……彼も来てくれるそうだ」
はい、と鼻をすすりながらどうにか嘉平さんは答えた。小倉の顔はついににじみ、表情はよくわからない。だが、声だけは変わらずにあたたかかった。
「四ツのコツを教えてあげよう……それから印刷も手伝ってもらいたい」
「はい」
まるで叱られた子どものように裏返った声で答え、嘉平さんはごしごしと二の腕で涙を拭った。鼻水もついでにべっとりと服についたが、些細なことだ。
「大隊長には話をしておいたが、交代の時間になったら司令部に来たまえ。明日の行動について話をするから」
「……はい」
かすかに笑い声をもらした彼はため息をひとつついて、それからのろのろと写真をポケットにしまった。彼の横顔は影になり、月明かりの下にくっきりと顔の皺が浮かび上がっている。まばたきをしていなければ、その映像はまるで写真だ。どんな設定でそれを撮ればよいか、嘉平さんは瞬時に頭の中で弾き出した。それがどうやって乾板に焼き付けられるか、すぐにイメージがついた。間違いなく嘉平さんは優秀な写真師として成長しており、またそんなふうに判断を下すのは情熱のなせる技だった。
「筺原君」
「はい」
「今、写真のことを考えたね」
小倉は微笑んでいる。今度は口元だけでなく目も細め、確かに笑っている。嘉平さんは少し恥ずかしくなって、鼻水をすすった。写真のことを考えていたのは事実だ。しかし嘘をつくことでもない。嘉平さんは正直にはい、と答えた。小倉はさらに白い歯を見せて笑い、そして、言った。いつかと同じ声音だった。
「写真は好きかね」
柔らかに小倉の顔の陰影が嘉平さんの脳裏に映っている。月明かりの僅かな光量の下でじりじりと、その光景が焼き付けられている。嘉平さんはまばたきをひとつした。それから深く息を吸い、腹に力を込めてはいッと答えた。
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