瞑目トウキョウ 第二章 父(2)

瞑目トウキョウ(第7話)

斧田小夜

小説

16,525文字

病気の母親に付き添って岡山に出た父、やはりどこにでも写真はついてまわるものだ。

祖母の持っていた名刺には「合同新聞」とあった。

父は言われたとおり、病院前で祖母と別れ、一人で岡山の街へと繰り出した。とはいえ、父は岡山のことを何も知らない。菓子折りを買いに行くにしてもどこへいけばよいかすら見当がつかなかった。

ひとまず駅前をぐるりとまわったがなにがなにやらよくわからなかったので、父は交番で菓子折りが売っている場所はどこかと聞いた。警察はぶすっとした顔をして早口に何かをいい、それから鷹揚に南側をさした。父はうんざりしたが、ぼそぼそと礼を言って南側へ向かった。なんとか天満屋という名を聞き取ることはできたので、道すがら誰かに聞けばわかるだろうと判断したのである。

岡山は終戦間際の大空襲で市街地のほとんどが焼けたが、父が訪れた昭和三十二年にはすっかり復興して市内もにぎわっていた。碁盤のようにきれいに区画整理された町並みはあちこちに商店があり、大きな建物も建設されている途中である。

内村が尾古を訪ねてきた昭和二十一年ごろはまだまだバラックがあちこちにあって混沌としていただろうが、いまや街をゆくひとびとの顔ははつらつとして、そこかしこから威勢のいい声が聞こえる。道端でふざけている子供の中にはいやに腹が出ているものがいたり、薄汚い恰好をしているものもいたりするが、それほど深刻な雰囲気は漂っていなかった。

天満屋で散々迷った挙句、一番話しかけやすそうな売り子がいる店で父は菓子折りを買った。ついでに売り子に合同新聞社はどこかと尋ねてみるが、父とたいして年がかわらないであろう、唇に紅をさした売り子は細い目をさらに細めて細かく首を振るばかりだ。父は困惑して名刺を見せ、この人を訪ねたいのだが、とできる限り丁寧な標準語で彼女に伝えた。

「昔世話になった人なんで、挨拶にいきたいんですけど」

「ああ、ちょっと待っとってもらえます?」

彼女の白く細いうなじに後れ毛がかかっている。漆のような輝きを放つ黒い髪の毛だ。あまり女との接点がなかった父は幾分かどぎまぎして、大人しく頷いた。

にこりと笑った売り子はぱたぱたと奥へ走って行き、誰かを手招きしている。彼女の右手にある名刺は黄ばみ、端がぼろぼろになっているが、その白い手の中にあるせいかなにか特別なもののように思える。父は自分の日に焼けた手を見下ろし、慌ててそれを背中に追いやった。手持ち無沙汰になったので、仕方なく父はショーケースの中に視線を落とした。

ショーケースの中に見たことのない洋菓子がところせましと並んでいる。カステラ、卵ケーキ、エクレア、シュークリーム――銀色のお盆のうえに並べられている菓子の前には、飾り文字のかわいらしい値札がちょんと澄まして座っている。それを眺めながら父はやはり和菓子のほうがよかっただろうかと思ったが、その後悔をぐっとこらえて売り子が戻ってくるのを待った。

「うん、そうなんよ、昔お世話になった言いんさってぇ……」

売り子の方言はどこか懐かしい響きがある。あれは山陰の方言だと父は思った。きっと年のころからしても、集団就職で都会に出た若者だろう。鳥取からも大勢が東京や大阪へ行ったときいている。父はあまり熱心に学校に通わなかったので同級生がどうなったのかはよく知らないが、もしかすると同じ地方の出身かもしれない。だから声をかけやすかったのだろうかと父は思ったが、彼女をとっくりと眺める勇気はなかったので、かわりにじっくりと値札を見つめた。

「合同新聞なんて聞いたことないし……」

「あぁ、名前が変わってな、山陽新聞になったんよ。ほれ、いつも新井さんが読んどるじゃろ。何年前だったか……記念だとかなんとかで」

「山陽新聞ってどこにあるん?」

「市役所筋の方よ。どのお客さん? あんたじゃわからんじゃろ……あの子?」

ひょいと柱の陰から女性が顔を出したのが、かろうじて父の視界に映った。だが、父はできる限り顔を動かさず、表情も変えないように努め、まだ値札を読んでいた。デパートの空々しいまでに明るい雰囲気にはどうにもなじめず、身の置き所がすっかり判らなくなっていたのだ。

頭に三角巾をかぶった女性は、先ほどの売り子よりは幾分か年上だろう。一つに縛った髪の毛は長く、ゆったりとうねりながら背中に落ちている。

二人はまだごにょごにょとなにか話している。値札に見飽きた父はそっと首を動かし、隣の洋菓子屋をみやった。

そちらも同じく洋菓子店だが少し趣がことなり、白いケーキがたくさん並んでいて、しきりに甘いにおいが漂ってくる。白づくめ衣装の売り子はくるくると忙しそうに働いているし、お客さんもひっきりなしに来ているようだ。こんな人気のある店と、なかなか客が来ない店が隣り合っているなど難儀なこともあるものだと父は思ったが、黙っていた。黙って、嘉平さんならどんなふうに写真にとるだろうかと考えていた。

嘉平さんならきっと嬉々として撮るだろう。露光時間は長くして、客が線になるようにするだろうか。それともレンズを開放にして背景をぼかし、売り子が浮かび上がるように撮るか。

父は頭のなかでそれをイメージし、嘉平さんが愛してやまなかった四切暗函を空想の手で操作した。この明るさならレンズを開放にした上で露光時間をやや長めにすべきか、と父が思ったとき、その空想を割って声が聞こえた。

「お客さん、お客さん? すんませんね、お待たせしてぇ。合同新聞なんじゃけど、何年か前に山陽新聞ちゅうて名前がかわりましてね」

はぁと父は名刺を受取りながらそぞろに答えた。まだ嘉平さんの感覚が体に残り、どうにも抜け出しがたかったのだ。売り子二人はにこにこして、父のことを見つめている。父は居心地が悪くなって、また視線を落とした。

「ここ出てぇ、えぇと、駅。岡山駅まで行ったら市役所筋がありますから、市役所筋はわかります? いっちばんひれぇ通りじゃけ――」

父は目をしばたたかせて彼女たちの声にうなずいた。声は耳を素通りし、父の中に残らなかった。

 

 

天満屋を出たのは昼過ぎだったはずだが、昼と夕の境目ごろにようやく父は山陽新聞社の社屋の前にたどりついた。

影が長く伸びている。目の回るような街だと父は思った。ぶらぶらと歩いていたわけではないし、何となく頭の中に残った情報からすると市役所筋に行けばいいらしいということはわかっていたが、体が浮ついてうまく動かない。何度道行く人に山陽新聞社はどこかときいても目的地は遠かった。地の果てまで来たのではないかと思うほど、父は疲れきっていた。

そしてようやくたどり着いた大きな建物は重厚な印象で、とても気軽に敷居をまたげる雰囲気ではない。いきなり入って行ってもよいものなのか、と父は思った。扉を開けた途端につまみ出されるかもしれないし、入る時には紳士ぶらねば追い返されるかもしれない。田舎の貧しい農夫が来るところではないと罵倒されるかもしれない。父はじっと重そうな扉を睨みつけ、立ち尽くしていた。

かれこれ十数分は逡巡していただろうか。細い路地で遊ぶ子供がじっと大きな目を見開いて父を観察しているのを憎々しく思う時間はあったようだ。何十度目かのため息をついてようやく決心がついた父は、口をへの字に曲げ腕を大きく振って山陽新聞社の扉に手をついた。意外なことに抵抗もなく扉はあき、それと同時にわっと煙草の煙のにおいが飛び出してきて鼻にかみついた。父は顔をしかめ、頭を大きく振った。

新聞社の一階は薄暗く、ひと気はほとんどなかったが、喧騒に満ちていた。受付嬢がいて、あとは病院の待合室のようにソファが置いてある。だが、少し奥には扉があり、すりガラスの向こうに人がいるようだ。がやがやとうるさいのもそちらかららしい。受付嬢の隣には階段があり途中で壁に反射して二階へとつながっている。

「…………」

「なにか?」

父はぎくりとして息を吸った。その拍子にたばこのにおいが鼻を刺激して喉が痙攣する。赤い唇をぽかんとひらいた受付嬢は激しく咳き込む父をまじまじと見つめているだけで、背をさすってもくれない。

受付嬢は富士額のふくよかな女性だった。髪の毛はかなり短く、パーマをかけているのであまり艶がない。顎がはり、頬骨が突き出していてどこかいかつい印象があるが、しかし額は秀でた美しい形をしており、それだけで彼女はなにものよりも美しい女に見えた。

村ではまだもんぺを履いている女性が多かったが、さすがに彼女はそんな古臭い格好ではなく、襟の大きくあいたシャツを着こみさらにチャコールグレーのジャケットを羽織っている。父はくらくらとして彼女から視線を逸らした。

彼女の座っている前には木の机があり、なにやら紙束が置いてある。彼女の隣には電話があり、電話の隣にはいやに豪勢な花束が活けてあった。薄暗い空気の中にひときわ明るく白い百合が輝き、甘ったるいにおいを漂わせていたので、花に興味のない父も覚えているのである。

受付嬢は父が涙目で咳き込んでいるうちにようやく我に返ったのか、もう一度なにか? とたどたどしい標準語で尋ねた。イントネーションがわずかにずれ、まるで外国語のようだ。父は首を振り、胸をたたいて、一つ深呼吸をした。

「あのう――」

「だれかお尋ねです?」

「あのう……内村さんという方はおられますか。前に世話になりまして、ご挨拶に……」

「内村さん」

受付嬢は悩んでいる様子である。父はつまみ出されてはたまらないと、あわててポケットから名刺を引っ張り出し、彼女の前に差し出した。空気にたばこのにおいが染みついているせいか、息をするたびにむせそうになる。そのうえ百合の香りがまざりあって、父は吐きそうだった。

「合同、新聞……?」

「名前が変わりんさって山陽新聞になったて聞いたんですが」

「はぁ……あ、ああ! 内村、内村さんですか。ちいと待っといてもらえます? 今聞いてきます」

ガラスの向こうはいやにさわがしい。数秒ごとに電話の音が聞こえ、誰かがどなり、ますます混乱しているようだ。上の階も人がいるのだろうか。先ほどからどたどたと靴の音がする。父は小さくなって、受付嬢に言われるがまま、のそのそと廊下の隅の椅子の方まで歩いていった。

受付嬢はまっすぐに作り付けの扉をくぐり、奥へ消えていった。入れ替わるように男が二人出てくる。二人とも背広をきてネクタイを締め、まるで銀塩スターのようだが、顔は相撲取りにそっくりだ。大きな手に背広と同じ色の帽子を携えている。父は二人が外へ出ていくまで見送り、つま先に目を落とした。

腰を下ろすと同時に疲労感が押し寄せてくる。父は額を叩いてぎゅっと目をつぶり、今度はカッと目を剥いた。そうでもしなければ寝てしまいそうだったのだ。かかとがじんじんと痛み、背中にも引き連れたような痛みがある。なにより先ほどからそこはかとなく頭痛がして、父は苦しんでいた。

えらいとこにきたもんだ、と父はつぶやいた。まったくここは大変なところだ。せいぜい郡家までしか行ったことのない父にとっては、何もかもが風と錯覚するほど早く動いている。嘉平さんの記憶を辿っていけば、確かに大阪もこんなふうに時間の流れが早いところだった気がするが、実際に体感してみると何倍も何十倍もせわしなく感じられるものだと父は思った。

膝の上においたカバンがずっしりと重い。道中もずっとカメラが鞄の中に入っていることはわかっていたが、父は無言でその重みに耐えていただけだった。一枚くらいは撮らねば楽しみにしている治郎吉さんに悪いということはわかっているのだが、立ち止まれば誰かにぶつかってしまいそうな気がする。写真撮影などもってのほかだ。

それに父はなんとなく写真を撮る気になれずにいた。一度は鞄の中に手を突っ込んでみたのだが、ついにひっぱりだすことができなかったのだ。

景色を見ればなにをどういうふうに撮ればよいのか、父にはわかる。だがそれを撮ろうとする時、指は迷う。そのカメラは嘉平さんの慣れ親しんだ大きな暗函ではなく、その十分の一程度の大きさしかない、両手で包めるくらいに小さなカメラなのだ。しかも父はそのカメラをなぜか恐ろしいと思っていた。その理由がわからず、父は苛立っていた。

ばたばたと父の前を中年の女が通り過ぎ、逆方向から紙束をかかえた白髪頭の男が通りすぎる。彼らはちらりと父のことを見るが、特に気に留める必要はないと判断するのか、さっさと目的地に向かって歩いて行ってしまうばかりだ。そのことも父を小さくさせていた。父は鞄の肩紐をぎゅっと右手で握り、口をへの字に結んで頭を動かさないように耐えていた。

「まぁた名前聞いてねぇが? まったくみっちゃんはぁ!」

「じゃけぇ……用件はきいとうけん……」

「用件きいとってもいっとう大事なんは名前じゃろが! 言い訳ばぁして……どこにおるんじゃ……あぁ、あの坊主か」

はぁ、と先ほどの受付嬢の声が聞こえたので、父は顔をあげた。作り付けの扉から顔を半分だけだして、先ほどの女性が父を見ている。彼女より先に部屋を出たらしい恰幅の良い紳士は、彼女を部屋の中に押し戻すように何か大声で言った。

彼らの言葉はいやに攻撃的に聞こえると父は思った。山陽の人間はみなそうだ。早口で声が大きくて、なにをいっても仏頂面をしている。

「あぁ、えぇよえぇよ、わしが相手するけぇ」

「後藤さん、名刺」

2016年5月30日公開

作品集『瞑目トウキョウ』第7話 (全13話)

瞑目トウキョウ

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© 2016 斧田小夜

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