陰影のトポロジー

陰影のトポロジー(第1話)

斧田小夜

小説

16,032文字

連載の途中ですが短編をお送りします。

 

時々窓辺で眠りに落ちている彼女をベッドに運んでやるのが、晩年の二人にとってはほとんど唯一の接触といってもよかった。

最後の数ヶ月、ライラは抱き上げても手応えを感じないほどやせ細り、その体温が手のひらを湿らせることもほとんどなかったが、どれだけ深く寝入っていても抱き上げればハジの胸元に吸い付くように頬をよせ、静かにわらった。その顔を見下ろすたびに、ハジは罪悪感に胸が苦しくなった。

「ママはまたここで寝ちゃったのか、しょうがないなぁ」

しょうがないなぁ、とエレノアは首をすくめて真似をした。しかし手にした幾何学模型をいじるのはやめない。

言葉を喋るようになる前からエレノアは幼児用の玩具には全く興味を示さなかった。その代わり床に丸くなって規則正しくカードをならべたり、びっしりとノートに記号をかいたり、ダイニングテーブルの木目の調査に勤しむほうが好きな子どもだ。どちらかといえばハジの子供の頃にそっくりで、おそらく数年後には天才児養成スクールに入学することになるだろう。

「ママに風邪引いちゃうよって言った?」

「言ったぁ! でもね、そこがいいんだって。だからね、エリね、今日はここで遊ぶの」

ライラをベッドに運び、念入りに上掛けでくるんでやる。ここ数ヶ月、ライラはほとんど眠っている。若い頃からあまり体力がなかった彼女だが、極端に体重が落ちてきた今、覚醒を維持できるのはせいぜい一時間だ。その短い時間が授業時間と重なってしまったことが彼は悲しかった。

ライラの分があいた窓際に戻り、ハジはエレノアの向かいに腰を下ろした。幅広の木枠の上には模型が三つばかり並べてある。エレノアがいじっているのは座標点を入力して変形させると数式が自動で計算される教育用幾何学模型だ。

「それはデュパンのサイクリッド曲面?」

「うん。エリ、これ好き。あ、でもローマンも好き」

「ママは幾何学が苦手だったはずだけど、退屈してなかった?」

「してなかったよ。だってママ、数学好きだもん」

きっぱりと言葉をおいて、エレノアはまた口を結んでしまった。ハジによく似たまつげの長い目をぱっちりと開き、やわらかい頬を少しふくらませている。集中をするときの彼女の癖だ。

しばらくハジはだまってエレノアの手元を眺めていた。彼女の指が座標点を置くたびに、幾何学模様は大きくうねって数倍もの大きさになるが、彼女はちっとも驚く様子を見せずに微修正をする。背中を少し丸め、首を突き出して、ずっとそんな格好でいてはさぞかし体が痛くなってしまうだろうとも思うが、集中し始めたエレノアは誰も邪魔ができない。多分、一時間でも二時間でも納得行くまで模型をいじっているだろう。

ハジは息を吐き、窓の外へと視線を巡らせた。

三人が住むのはビューリーズ大学の職員寮である。ハジもライラもこの大学の卒業生で、ハジは数学科の教授になった。二人がここに移ってきたのはハジが生命工学の講師をする傍ら大学院の数学科に入学した年のことだが、馴染み深い場所で最後の時を過ごすのはライラの願いである。

彼らの部屋は職員寮の最上階にあり、講義棟と隣接している。窓を塞ぐように建つ古い講義棟は雨風に浸食されたレンガの角が丸くなり、黒ずんで、今にも崩れ落ちてしまいそうだ。壁は一面緑の蔦の葉で覆われ、職員寮へ入るための小道の両脇には、古木が枝を広げている。

ライラはこの景色をどんな思いでながめているのだろうか、とハジは静かに息を吐きながら思った。少し波打ったガラス窓に額を押し付けていると、いつの間にか頭のなかの熱が奪われてしまう。秋が始まろうとする夕暮れ、外気は思いのほかさがっており、あと数週間もすれば暖炉に火を入れねばならないだろう。それまでライラは持つかどうか――

「ママは数学好きなんだよ」

「そうなの?」

「うん。だってパパの講義、聞いてるもん」

不意に言葉を発したエレノアは確かめるように模型の表面をなでた。なにか納得がいかなかった箇所があるようで、座標点を人差し指にくっつけて調整をしている。ガラスから頭をもちあげ、ハジはそんな娘を見下ろした。

「それは昔のこと?」

「ううん。さっき。ここからなら三三一教室が四分の一くらいみえるでしょ」こましゃくれた調子で言ったエレノアは、珍しく顔を上げてハジを真正面から見上げた。濃い緑色の瞳の中に夕暮れの寂しげな木漏れ日が映っている。「パパはぁ、だいたい二、三分に一回くらい西側に歩いて来て五分くらい止まってるからぁ、授業の全体の時間でいったらえっとぉ、八十%? ううん、違う、六十五%くらいかな。ママはね、口が動いてるのが見ればなにを言ってるかわかるんだって。だからそのくらいは聞いてるの」

「…………」

「エリ、整数論は苦手だから本読まなきゃわかんないのに、ママは聞いてるだけでわかるんだからきっとすごいんだよ」

無邪気な声だ。だがハジは答えられなかった。後ろめたさがまた胸をつまらせたのである。

 

 

すったもんだとあるにはあったが、ライラと結婚することになったのはおそらく、ハジの短い人生の中でもっとも喜ばしい出来事だっただろう。ライラにとっても同じだったかどうかはハジにはわからない。いつの間にかそっと肩によりそい、老犬のように静かな呼吸を繰り返していた彼女の体温を思い出すたびに、彼はくよくよと悩んだ。

ハジが大学に進学したのは十五歳のときだ。数千年に一度の天才とまでいわれたハジは大学入学資格を七つで獲得したが、渡航費と学費を用意できなかったせいで八年も足踏みをしていた。しかしそれも悪くなかったとハジは思っている。

彼の家族は非常に貧しい祖国の中でも特に貧しい砂漠の小さな村で羊を飼って暮らしており、大学費用どころか子どもたちに教育を施すことすらままならない。そもそも彼らはハジの才能を理解することすらできず、いっぷう変わった子供で扱いにくいとしか思っていなかったのだ。そんな両親だったが、ハジが好きなことに没頭できるようにと、首都ですごせるように環境を整えてくれた。

両親のかわりにハジの才能を認め、本格的な教育をしてくれたのは首都に住んでいた外国人研究者夫婦である。政治には疎い彼らだったが、ハジの才能を信じて祖国の奨学金枠の拡充を申請したり、最貧国の支援を目的とした奨学金基金の設立のために動いてくれたりとなにかと力になってくれたものだ。彼らがいなければハジは首都に出ることもなかったし、ましてや大学に行くこともなかっただろう。あの砂の中の小さな村で羊を追うだけの一生だったはずだ。感謝はいくらしてもたりない。

そんなふうにしてハジは大学に入った。特別奨学生として採用されたのが十三のとき、それから煩雑な事務処理に追われ、大学に入学する直前に彼は十五になった。

ライラに出会ったのはそれから二年後、ハジが大学三年生になった秋のことである。ハジは十七歳、新入生として寮に入ってきたライラは十八歳、貧しい国からより抜かれた国際留学生の多いビューリーズではかなり歳を重ねてから大学に入るものも少なくないので、ライラは数少ない同年代の若者の一人だった。親しい仲になるのは当然といえば当然だろう。

しかしハジの卒業後、二人の親交は九年にわたって途絶えた。なにか特別な出来事があったというわけではないが、かといって頻繁に連絡をとりあうようなきっかけもなかったからである。再会したのは大学時代の共通の友人の結婚式で、珍しくライラが満面の笑みでハジを呼び止めたのがきっかけだった。

長い空白を取り戻すように、ライラは早口で様々なことを語った。学生時代は比較的寡黙だった彼女だが、聡明な語り口で人を引き込む才能はその頃からだ。

ホテルのロビーでちょっとした立ち話のつもりが、気づけばカフェに移動し、レストランに移動し、そこからさらにバーに移動しても、まだ彼女の口は止まらなかった。彼女の熱に取り込まれるようにして、ハジも多くの話をした。

卒業後、生命工学の研究者に誘われて他の星にいっていた時のこと、祖国に戻って働いていた時のこと、今の仕事のこと、はじめての一人暮らしのこと、大学に戻って数学の道に進もうかと考えていること、今の悩み――ハジはいつもそうだが、出会った人々とその人々が生きる土地のことについて語り始めるとどうも話が長くなる。ライラは唇を軽くすぼめ、時々目を細めてこらえきれないように笑い声を漏らした。楽しい話も悲しい話も、辛く苦しい悩みも、不思議なことにするすると口から流れ出し、思わぬところから会話が広がって話は途切れる気配を見せなかった。

(私――)

ふとあの時のライラの声が耳に蘇って、ハジは論文から顔を上げた。窓の外の空は藍色にそまり、青い瓦屋根の上に白くまたたく星がいくつか見えている。

エレノアに食事を出して寝かしつければ、その後は仕事の時間だ。ライラが起きた時に少しでもそばにいられるように、ベッドルームの窓辺にソファを移動させ、そこですっかり夜が更けるまで過ごすのがこのところのハジの日課だった。木枠の上にのせたコーヒーはすっかり冷め、窓ガラスにげっそりとやつれたハジが半分溶けかけて映っている。彼はため息をついて、ライラの寝息に耳を澄ました。

「私、もう先が長くないから」

あの時も彼女はそう言った。

ホテルのバーの閉店時間が来て椅子から追い立てられた二人は、足をしのばせてライラの部屋に行った。廊下を走り抜けるときはくすくすと笑い合っていた二人である。部屋についてからは、少し疲れているライラのためにハジがレモネードをいれてやり、彼女は目を輝かせてそれを待っていた。そんな不穏な影はなにもないそんな時間の中で、不意に彼女が言ったのだった。

胸の底に触れた冷たい空気にそろそろとハジは視線を上げ、ライラを見つめた。ほとんど色味のないアイスグリーンの瞳でライラもハジを見つめている。薄氷のように繊細なその色の中に、瞳孔が大きく花ひらいている。

彼女はまだたったの二十九歳で、ふつうなら死について考えるのは少々早すぎる年齢だろう。でもハジは知っている。ライラはせいぜい三十半ばまでしか生きられないと余命宣告を受けていた――その言葉を十代半ばの彼女がどうやって受け止めたのか、ハジには想像がつかない。

ほとんど無に等しい表情をのせた彼女の顔はデザイナーズチャイルド並に整っているが、表情がほとんどないせいで本当に人形なのではないかと思うことがある。色の消えかけているほんのりと赤い唇を少し開け、彼女は膝の上に肘をつき、顔を両手で支えている。前下りにカットされたプラチナブロンドの髪の毛が控えめなホテルの照明の下でもうっすらと光を放っていた。

「この間、また言われたの。脳の活性度を調べる検査をしたんだけど、五年前に比べて八%低下してるって出て」

「それは、だいぶ悪いの?」

「かなり。今みたいに働くのは五年が限界かも」

ごく淡々と、実験の被験体の話でもしているようにライラは言い、目を輝かせて手を差し伸べた。熱いから気をつけるようにと注意をして、マグカップを渡してやる。ライラはにこりと笑って礼を言った。

「前はもうちょっと猶予があるって言ってなかったっけ」

「そうなんだけど……前職が、やっぱり効いてるみたい。激務の時もあったし、覚えてなきゃいけないことが多くて――」

「今の仕事は? 大丈夫なの? 新しいことが多いってさっき言ってたけど」

「大丈夫。忘れても問題ないから。それにみんな理解があるし」

子どものように頬を膨らませ、ライラはレモネードの表面に息を吹き掛けている。

小さいころに発作が起きると必ず母親がレモネードをいれてくれた、といつだったか彼女はいっていた。その貴重な記憶を守るため、こうして追体験をしているのである。何度か話を聞いているので、ハジは黙って彼女を見守った。

「私――」

「…………」

「本当に先が見えてきたから、素直になろうと思って」

「いつも素直だと思ってた」

ようやく夢中になってふいていたマグカップから顔を上げ、彼女はにこりと白い歯を見せて笑った。夜も更けているせいか目が少しとろんとして眠そうだ。血色のあまり感じられない頬に珍しく赤みがさしているのは温かい飲み物を手にしているからだろうか。彼女の体が心配になったハジは、適当なところで無理にでも切り上げて彼女を寝かせてやらねばならないと決心した。

「大人なんだから、時々素直になれないことだってあるんですけど」

「へぇ。顔に全部書いとく主義なのかと思ってた」

「そういうの、ハジだけよ。みんな私がなに考えてるかわかんないっていうのに」

「それはみんながちゃんと見てないからじゃないかなぁ」

軽く肩をすくめ、ライラは珍しく声を漏らして笑った。

彼女の指はマグカップを支えるには少し細すぎる。落としてやけどをする前に、とハジは人差し指をふってローテーブルの上にそれを置けと示した。学生時代から、冷蔵庫を開けるだけで一騒動を起こしていたライラだが、そのあたりはあいかわらずのようだ。

「私ね、忘れられないことが増えたのって素直になれなかったからだと思うの」

「えーと、つまり心残りが記憶になるってこと?」

「うん。だってずっと一緒にいたら、忘れちゃってもぜんぜん大丈夫でしょ。私の代わりに覚えててくれるかもしれないし」

ハジはまばたきをして小首をかしげた。

胸に去来した予感は、さして特別な温度は持っていなかったが、彼の頭のなかがチリリと警戒音を鳴らした。これ以上近づいてはいけない、彼女の言葉を聞いてはいけないという知らせだった。ハジは彼女に気づかれないようにそっと手をひいて、静かに息をすった。

「言おうかどうしようか迷ってたんだけど、でも次に会うのがまた九年後じゃ困るから」

「…………」

「私、九年後は生きてないかもしれないし」

軽く舌で唇をなめ、ライラはゆっくりとまばたきをした。髪の毛と同じ色のプラチナブロンドの長いまつげが薄氷のような瞳を押し隠し、そしてまた上がる。

逃げなければ、とハジは思った。早くこの場から逃げなければ。このままこの場にとどまったら、一番見たくないものを見るはめになる。さまざまなものを失い、もしかすると石をもって追われるかもしれない。そんな恐怖が胸をかすめた。

でも。

でも、彼は立ち上がれなかった。

彼はライラを苦しませたくなかった。涙一粒こぼすだけでも発作が起こるかもしれないという恐怖にさいなまれる彼女を、これ以上苦しめたくなかった。とっさに強くそう思ってしまったのだった。

ハジは短く息をすった。微笑んでいるライラはそんなハジに気づいている様子はなく、またにこりと笑って目を少し細めた。

「だから――私と結婚してほしいの」

 

 

声は震え、舌がしょっちゅう歯につっかえたが、ハジは懸命に弁明した。

女性に対して興味が持てないこと、女性だけでなくあらゆるものに恋という感情を抱けないこと、ライラのことはごく一人握りの本当に親しい友人だと思うし、話をしていて楽しいが、しかしそれはおそらく友情以外のなにものでもないこと、なにか心づもりがあるなら期待しないでほしい、なにもできないから――

ノーといってもイエスといっても彼女が苦しむのに説明せずにはいられなかったのは、説明をすればせめて彼女の心をかき乱さずに済むだろうと思っていたせいかも知れなかった。それくらい彼にとって恋は遠い話なのだった。

「知ってる」

思いつく限りの言い訳を並べ、ついに言葉が出なくなったハジが肩で息をついたのを見届けて、彼女は短く言った。

「今日だってずっと話してたのに、一回もパートナーの話がでなかったもの。だから考えもしないんだなって思ってた」

ライラはまだほほえんでいる。若い頃から何もかも悟っているような泰然とした態度でいることが多い彼女だ。そんなふうにほほえまれれば、心のなかまで全て見透かされていたのではないかと思えてしまう。

ハジは短く息をすい、両手を固く握りしめた。

誰でも簡単に愛をわけあたえるハジ。

大学時代はそんなふうにいわれていたものだが、実際のところハジは誰か一人に心焦がれるような思いを抱いたことがなかった。同性にも異性にも、年下でも年上でも、はたまた異人種、異星種であっても、親愛の情以上の熱を持つことができないのだ。そのくせ親愛の情は誰に対しても抱いてしまうし、その距離感は適切でないらしい。だから誰にでも簡単に愛を分け与え、しかし見返りを求めない変人だと言われていたのだった。

自分の性質が人と異なっていることにうすうすと感づいたのは十代になる前だろう。思春期は周りが年上ばかりだからだとごまかしてきたが、二十代も半ばをすぎれば自分の性質を説明できるようになる。そしてそんなハジの性質は、祖国ではもちろん、いまもなお世界のどこへ行っても異端なのだった。それが愛であればどんなかたちでも許される。でも愛がなければ冷酷だとか、生物として不自然だと気味悪がられる。

彼女はいいの、と言った。足りないところがあっても、忘れちゃうよりずっといいから。ハジがいやじゃなかったらずっと一緒にいたい。だってこんなに話をしてて楽しい人はいないもの。

それから一年後、ハジがビューリーズ大学で生命工学の講師の椅子を獲得すると同時に、二人は結婚した。

「なにか飲む?」

ううん、とライラはかぶりをふった。彼女が少し動くたびに銀糸のような髪の毛がさらさらと音を立てる。

肩にかかる重みに耐えながら、ハジはまた窓の外を見ている。

目覚めたライラはめずらしくソファのところまで歩いてきて、そして小一時間ばかりうつらうつらとしながらハジの肩に寄りかかっている。もう少しこのままでいい? と遠慮がちな声で聞くのは若い頃のままだ。彼女を拒絶しないようにとハジがじっと体をこわばらせてそれを支えているのも、罪悪感をかみしめているのも、ずっと変わらない。

「エリが夕方に言ってたんだけど」

「……またなにか新しい法則をみつけたって?」

「それは言ってなかったなぁ。でもライラがここに座ってる理由を発見したんだって」

「うそ」

くすくすと目をとじたままライラは笑った。

脳機能のほとんどが侵食されて体温調節もままならないライラは常に分厚い毛布にくるまれていなければならない。それでも寒いと訴えるときは、ハジもその毛布の中に入ってライラを左腕で抱えているのが常だった。服の上からでも彼女のやせ細ったからだにふれれば、骨のかたちがわかる。そしてそんなふうに彼女をあたためてやるときはなぜか、ハジも接触を不気味には思わなかった。

「検証してみようと思うんだけど手伝ってくれる?」

「どうやって?」

「基本定理だけを使って1+1=2を証明せよ」

喉の奥でまたライラは笑った。たぶん、エレノアがどんな推測をしたのか、彼女も察したのだろう。

数学はあまり得意でなかったライラだが、大学時代の専攻が情報学だったので計算機科学についてはハジよりもずっと詳しいし、ビューリーズに入学できるくらいなので頭の回転も平均よりはずっといい方だ。いくらエレノアが年齢より成熟していると言ってもライラが負けるわけがないのだった。

「聞いてたんだけど……途中からわかんなくなっちゃったの。やっぱりノートがないとだめみたい」

「基本定理を忘れちゃったかな」

「そうかも」

「エリ、ママは本なんか見なくたってわかるからすごいって言ってたんだけどなぁ」

「パパより?」

「たぶん。僕は講義しながらノートを見るからね」

「さすが推論クイーンね」

まだライラは笑っている。

小一時間同じ姿勢をしているせいで、背中の筋が引き連れたような痛みを感じる。二の腕あたりにもしびれが感じられ、軽いはずのライラの存在感がぐっと増したようだ。でも彼は、ライラを押し返せなかった。もうベッドで横になったほうがいいと言うべきなのもわかっているのに、できなかった。こんなふうにわかりやすく甘える彼女は珍しく、そしてこれを逃せばもう二度と彼はライラの願いに答えられないかもしれなかった。それが、彼には怖かった。

「わかんなくなっちゃったけど――」

「ん?」

「……ハジが講義してるの見てたら、良かったなぁって思ったの。学生の頃から数学の話をしてる時が一番いい顔してたもの。なのになんで数学を専攻しないんだろうってずっと思ってた。私だけじゃなくて――ファトマもウガニシュも、ヤーニャも……とにかくみんな言ってた……」

「そうだっけ?」

「ウガニシュなんて、本当は数学の研究をしたかったのに、国に帰ってからのことがあるからって取れなかったでしょ。それで、よく怒ってたわ、ハジはなんにも見えてない、あんなに才能があるのにどぶに捨てるなんて気がしれないって」

「ウガニシュは怒りん坊だからなぁ……まったく気がしれないよ、かな」

「そう。そう言ってた。そっくり」

ハジは思わず息を漏らした。久しぶりにきくライラの明るい声に、結婚したばかりの頃が蘇ったような気がした。

この職員寮に引っ越してきた年、二人は賭けをした。秋の最後に落ちる蔦の葉が何色かという賭けだ。負けた方が勝った方のいうことを一年間、何でも聞く。言い出したのはハジだった。

最初の年はライラの勝ちだった。彼女は少し照れたように目を伏せて、夜は一緒のベッドで寝て欲しいといった。誰かと一緒に同じベッドで眠るという経験がなかったハジは、はじめの一週間くらいはまんじりとしないまま夜明けを迎えたが、そのうちに体が慣れてよく眠れるようになった。二人で潜り込む毛布の中はあたたかく、冬の寒さがつらくなかったこともあるだろう。彼は次の年こそは勝つことを誓い、この窓辺に座るたびにライラとその話をした。

翌年も彼女が勝ち、今度は毎日一回ハグをしてほしいと言った。最初はぎこちない抱擁だったが、これも慣れてしまえばそれほど難しくない。ハジが腕を広げるとライラはぱっと表情を明るくして胸に飛び込んでくる。そして少し目をうるませてハジを仰ぐのだ。無表情のことが多いライラがそんなふうに喜ぶのはハジにとっても嬉しいことだ。

彼はそのついでに時々彼女の手をしっかり握りしめることも学んだ。手を握るのは彼にとっても苦ではなかった。ライラが肩によりかかるのも、腕をからませるのも、できるだけ驚いた素振りを見せず、拒否をしないようにこころがけた。誰であれ人を喜ばせるのがハジ好きだ。

三年目はハジが賭けに勝った。彼はライラに、仕事よりも体の静養を第一に考えて欲しいと頼んだ。

生命工学の講師の給料は雀の涙ほどしかないが、職員寮があるから住むところには困らない。生命工学ではなかなか芽の出なかったハジも数学では順調に査読付き論文を出しているし、権威のある学会誌に掲載されたので研究費が出るようになっていた。だから生活のことは心配しなくていい。少しでも外に接点をもっていたいというライラの意思は尊重したいが、体調が良くないことも増えているし、体に負担のない範囲のしごとに切り替えてほしい。できるだけ長く、一緒に暮らしたいから。

ライラはなかなか仕事を減らす決心がつかなかったようだが、二度の大きな発作のあと、ハジの願い通り在宅勤務に切り替えた。

そして四年目。

賭けに勝ったライラはなにをしてほしいのか、翌年の秋が深まるまで言わなかった。ハジが不思議がって聞き出そうと根掘り葉掘り聞いている間も、彼女は再び秋が巡ってきた中庭に視線を向け、軽く下唇を噛んでいた。

ハジが彼女の手をにぎってようやく、ついに根負けしたように彼女は言った。キスをしてほしい、と。

 

 

両手を突き出し、ぎゅっと顔をしかめていた女の子のことを今も時々夢に見る。おとなになってからも夢に見るのは、ハジにとっての根源的な恐怖だからだろうか。相手はまだ言葉もはっきりしない幼児だったし、ハジだって五つか、六つか、とにかく小さな頃の話だ。

天才児として見出されたハジは、教育を受けるために五歳から首都に住む外国人研究者の家に世話になっていた。まだ若い研究者夫婦にはこどもがおらず、ハジをどうやって扱えばいいのかといつも困っていたから、彼らの同僚家族がよく三人を外に連れ出してくれたものだ。小さな子どもたちがいたのでハジに友だちができていいと思っていたのかもしれない。

だが大人の思惑に反して子どもたちとハジは合わなかった。ハジと同い年の男の子は何が気に入らないのかすぐにハジのことを突き飛ばしたし、反対にもう一人の小さな女の子はハジにべったりとまとわりついてこれまたハジを消耗させる。しかしハジは大人を悲しませてはいけないと、それに耐えていた。

だがそんな彼でも、頬にキスをされるのだけは我慢ならなかった。ほとんど反射的に腕をつっぱって――その先の記憶は曖昧だ。肌に異物が触れたという嫌悪感と、彼女を突き飛ばしてしまったという罪悪感、そして「ふつう」は突き飛ばしたりなどしないという直感が同時に胸元に刺さり、彼はパニックになった。

どうしたのかと聞かれても、突き飛ばしたことを糾弾されても、いけないことをしたのだから謝りなさいと諭されても言葉が出ず、彼は泣いた。彼にとって他者とふれあうというのはそういうことだ。耐えられるのは手が触れるところまで、それ以上の肌の接触は気色悪さがまさってしまう。

言いにくそうに願いを口にしたライラは、無表情にハジを覗き込んでいる。その瞳の中に、青ざめて顔をひきつらせているハジが映っている。なにか言わなければと焦れば焦るほど喉の奥に言葉がつっかえ、ハジは混乱した。

「わかってるから、できればでいいんだけど――……」

「…………」

「それと、この間定期検診に行った時に言われたんだけど、そろそろ子どもを考えなさいって。もう何が起こってもおかしくないから……」

ガツン、と頭を殴られたような衝撃をうけ、ハジはぎゅっと拳を固めた。

確かに故郷の兄弟たちは結婚をすると数カ月後には子どもができ、一年後にはだいたい親になっている。それをハジは何度も見てきたはずだが、彼女に言われるまで自分が子供を持つということを全く思い出しもしなかったのだった。

うつむいているライラは指をせわしなく組みかえている。まばたきをするたびにつんと尖った睫毛の先が震え、木漏れ日が動いた。ハジは息を吸い込み、また一生懸命に弁明をしようとした。

子供のことなら医療機関でほとんどすべてのことはやってくれる。だからすぐにでも連絡を取ろう、子どもを家に迎える準備もあるし、学んでおかなければならないこともある。子供の面倒をみるのは大変だけど楽しいことだから大丈夫、でもたぶんサポートサービスを頼まなければならないし、その調査も――

うつむいてしまったライラはきゅっと唇を結んでそれに答えなかった。膝の上でゆるく指を組み、だんだん勢いが弱くなるハジの言葉をじっとやり過ごしている。

ハジは泣きたかった。ライラがなにを望んでいるのかがわからなかった――いや、本当のところはうすうすと感づいていたが、彼女の期待にこたえられないことが怖かった。そのせいでライラが悲しむことが、そんなふうに彼女を悲しませることしかできないことが、そしてそのせいでいつか見限られるのではないかという恐れが、心を急き立てている。

ハジが言葉に詰まって、しばらく気まずい沈黙があった。ガラスの向こうの葉擦れの音はここちよいざわめきだったが、二人の間にある暗く深い溝を埋めてはくれなかった。ライラはそっとハジの手を押し返し、そしていいの、と言った。わかってるから。大丈夫。無理言ってごめんなさい。そして彼女はたちあがり、部屋を出て行ってしまった。

彼女が部屋を出て行ってもハジは呆然と窓辺に腰をおろしていた。隣の部屋からは彼女のすすり泣く声が聴こえる。そうやって泣いていては体に障るのではないかと心は心配していても、彼は立ち上がれない。どれだけ言葉を尽くしても、どれだけライラのことが大事でも、ハジには彼女が心から願うものがわからない。わかったとしてもきっと、叶えられない。

ライラは決して感情を豊かに表現するタイプではなかったが、しかし彼女はやはりハジとは異なっていた。わずかながらも体温に触れることを喜び、肌を寄せ合うことに安寧を抱く種類の人間だったのだ。ハジのことばでいえば、ノーマル、対するハジはノーマルではない。その壁は厚く、溝は深く、永遠に彼女に手が届かないような気がした。

ハジが立ち上がれるようになったのは小一時間たってからだっただろうか。隣の部屋からはまだ鼻をすする声が聞こえていたが、そんなライラになんと声をかけたかは覚えていない。

きづけば彼はレモネードを片手に、胸にもたれかかるライラの重みに耐えていた。ぎゅっと膝を抱えて丸くなったライラの体は熱っぽく、また体の具合が悪くなってしまったのではないかと彼は心配でならなかった。

その年の賭けはハジが勝った。なにを頼んだのかは覚えていない。

 

 

それから一年か二年か、時は静かに過ぎた。何度壁に挑んでも、ハジは決してそれを乗り越えることができなかった。悩み惑う夜の中でハジの心がぽっきりと折れてしまうこともあったし、ライラが形容しがたい表情でハジを押し返すこともあった。

それでもライラはハジを詰らなかった。詰れなかった。ただ一人で苦しみ、悲しんでいただけだ。すすり泣くことですらずいぶんと負担になるだろうに、一人でじっとそれに耐えていた。

ハジは無力だった。

あの壁を――どうすれば超えられたというのだろう。

エレノアが二人の元へやってきた時、彼女はむしろさっぱりした顔をしていたように思う。人工授精ののち、人工子宮の中で生まれ育ったエレノアを受け入れるのは、ふたりからすれば養子を貰い受けたという方がぴったりと来る。くわえておおよそほとんどの世話を介助器がしてくれる子育ては、ハジからすればほとんどままごとのようだ。

しかしそれでもライラにとっては一事が万事、すべてが大冒険だった。エレノアが泣けばこの世の終わりのようにおろおろし、エレノアが笑えば有頂天になって喜び、危なっかしい手つきで手を震わせながら哺乳瓶でミルクをやり、寝顔をいつまでも眺めている。特に彼女はエレノアを抱いていることを好んだ。介助器が抱きすぎだと忠告しても、彼女は体力が許す限りエレノアを抱いていたように記憶している。そのかわりハジにスキンシップを求めてくることはなく、そのことにハジはまたくよくよした。

(私、今年はイエローブラウンで賭ける)

(僕は……シナモン――あぁ、待って、去年暗めの色にして負けたんだった。ここはキャロットオレンジでいく)

(勝ったらどうする?)

(勝ったら――……)

ハジはまばたきを一つした。ライラの幻影は消え、向かいにはタビーが腰をおろして窓の外を眺めている。

しずかにゆっくりと、ライラはその一生を終えた。最後の二月は起き上がることができなくなり、最後の二週間は心臓が動いていただけだった。特別な用がなければハジとエレノアはそんな彼女の傍らで過ごし、彼女が寂しくならないようにと見守っていた。静かな最後だった。

「もう晩秋なのね」

「ここは秋が長いから」

「そうねぇ、シテにいると季節感がなくなっちゃって――ほんとうにいい景色ね」

タビーは、幼いハジを養育してくれた外国人研究者だ。正確に言えば彼女の夫が惑星史学の研究者で、彼女は夫についてあの星にやってきただけだった。寡黙で、穏やかな淑女だ。彼の夫は子どもが苦手で、けれどもどんな相手にも敬意をもって接しなければならないと思っていて、そのうえどこか子どもじみた正義感で曲がったことが許せない。決して世渡りのうまい人間ではなく、子どものハジからみても危なっかしさのある男だったが、そんな彼に寄り添うタビーはきっと命綱なのだろう。ハジにとっては第二の母だ。実の母親よりも一緒に暮らした時間が長いかもしれない。

ライラが昏睡状態に陥ったと連絡を入れると、すぐに彼女は駆けつけてくれた。家事や介助はいくらでもツールがあるが、情緒不安定なエレノアの面倒を見るのはハジだけの手では足りない。彼女の存在はありがたかった。

「そこはライラの特等席だから一番いい席だよ」

「あら、そうなの。たしかにあっちの方までよく見える……」

「そこから教室が見えるんだ。三三一教室が四分の一くらい。僕の整数論の講義は三三一教室でやるらそこからこっそりみて勉強してたんだって」

口元と目元にしわをよせ、タビーは優しく笑った。

膝の上の手を組み直しながら、ハジは視線を巡らせた。三三一教室にはちょうど午後の光が差し込み、机の天板が光っている。影の中にぼんやりと浮かび上がるであろう自分の姿を思い浮かべながら、彼はライラの心中を思った。

水を打ったように静かだった。葉ずれの音はガラス越しには聞こえず、キャンパスの中に満ちているはずのけだるい歓談の声もどういうわけか聞こえない。木漏れ日が古いレンガの上で揺れている。薄青い影が重なっては離れ、複雑な文様を描いている。

「ライラはそう言ってたけど、たぶん本当は違うんだと思う……」

「そうねぇ。勉強したいのもあったんでしょうけど」

「…………」

胸の奥がぐっと押しつぶされたような錯覚をして、ハジは目をつぶった。目をつぶってもまぶたをすかす木漏れ日が見えている。

男にも女にも興味がないと、ずっと彼は冗談めかして公言していた。スキンシップを好まないことはタビーもよく知っているし、女の子を突き飛ばした時は、ハジなにかトラウマがあるのではないかと心底心配していた彼女だ。

でもハジの口からハジの率直な思いを聞いたのはライラだけだった。ライラだから、ハジは言えたのだった。ライラだったからハジは醜くあがいてでも彼女の元へと向かおうとしたのだ。しかしどれだけもがいても、彼はライラには届かなかった。

「あぁ、あのあたりが例の蔦ね」

「例の?」

「賭けの。してたんでしょう、何色になるのかって」

「なんで知ってるの……ああ、ライラから聞いたのか」

「毎年報告してくれたわよ。あなたがいつも負けるっていうから、私、おかしくて」

仕方なく目を開き、彼は口元を歪めた。タビーはまだ灰色がかった緑色の目で景色を見ている。横顔は記憶の中よりずっと年老いて骨に皮が張り付いている。やせた鼻は少し上をむいているが、なめらかできれいなカーブを描いている。ライラの真っ直ぐで美しい鼻梁とは違っている。

「ライラ、今年は何色になるのか、言わなかったんだよ。何色になると思ってたんだろうな」

「あら、教えてくれなかったの?」

「うん……なんだか――」

大小に揺れる木漏れ日。まだらに染まった茶色いレンガがぼやけ、また元に戻るまでハジは体をこわばらせてじっとしていた。指先に冷たいガラスが触れて、その向こうで橙色の鮮やかな夕日が踊っている。

「なんだか……見限られたような気が、して、聞けなかった――……」

指先に触れる木漏れ日がかすかにあたたかい。そこにライラの指があるようだ。まだ元気だった頃の彼女がそっと手を握ってくれているような気がする。ライラはいつもなにもいわなかった。ただ無言で、そっと指先に触れていただけだ。それこそがハジの望んでいることで、彼女ができる唯一のことだと知っていたからだろう。

「ハジ。自分を責めなくたっていいのよ」

「でも――……なにもできなかった……」

なぜなにも音を返してくれないのかとハジは世界を呪った。世界が静まり返り、指先が冷たくなっている。

「もう少し――歩み寄れてたら……あんなに悲しませることもなかったのにって、思うんだ。一時間も起きてられないのに、ここからずっと見てたなんて、そんなことどうして――」

「ハジ」

生前、同じ場所に座り彼女が眺めていたものと彼女の心中を想像する。講義室の窓はきっちりと閉められ、今は明かりも灯っていないが、授業の時間になれば学生がぽつぽつと座り、教壇に立って講義をするハジを眺めているだろう。たった四分の一の空間にハジが入ってくることを楽しみにしてずっと座っていたライラのことを思う。

ライラはきっと口元をわずかにほころばせ、ほとんど無表情のまま、ほんの少しだけ目を大きくして窓ガラスにもたれかかっていただろう。若い頃からずっとほっそりとした体型だったが、晩年はやせほそっていまにも風に飛ばされてしまいそうだった。体温調節がうまくできないので、いつも分厚い上着を羽織り、寒そうに手をこすりあわせている。窓際は寒さが忍び寄ってくるだろうに、それでも彼女はそこに座って眺めていたのだと思う。その情熱をハジは理解することができない。それがいつも後ろめたかった。

眼の奥が痛んでいる。

額に触れるガラスは冷たく、まるでライラの掌のようだ。タビーの視線はまだハジの頬のあたりにある。まるで、頬に手を添えられているようにすら感じる温かい眼差しだった。だが、そちらを見ることができない。

今もまだ、背に触れる丸い額の感触が思い出せる。微かに布を湿らせる彼女のため息の温度が蘇る。頭でそうしなければならないとわかっているからハジはじっとその重みに耐えていた。口をつぐみ耐えていただけだった。困惑し、後ろめたさに逃げ出したい気持ちを噛み殺して、その場にじっと座っていただけだったのだ。どんなに言葉を尽くしても分かり合えないことがあるのだと、そんなことがあるのだとは再会した時には思わなかった。

重なりあう葉の影が壁の上に文様を作っている。どれだけ眺めてもそこに規則性が見いだせずに唸っていた十七歳の秋――あの時、ライラに会わなかったら。もし会っていなかったとしたら、自分の人生はどうなっていたのだろうかとハジは思った。

「ハジ、そんなふうに思わなくたっていいのよ」

「…………」

「あなたは優秀だから、あんまり人の期待を裏切ったことはないかもしれないけど、でも期待に応えられないことのほうがずっと多いものよ」

「…………」

「特に、人と人の間のことは、どんなに歳をとってもわからないし、間違ってたんじゃないかって後悔することはたくさんあるわ。だからみんな笑ったり泣いたり、なんでもないことでよろこんだり、怒ったりするんでしょう。ライラも、あなたのことはちゃんとわかってたと思うわ」

睫毛がしなり、爪に涙が弾ける。ハジはまだタビーを見ることができなかった。眉間にしわが寄り情けない顔になっていることはわかるが、それをどうしたらいいのか全くわからない。こんなふうに涙が溢れることがあるのだということさえもう随分長い間忘れていたような気がする。

「ライラ、今年は秋の終わりまで持たないって賭けてたの。たぶん勝つから、黙って先にいろいろやってもらうわって――でも先に言うとあなた、また見てられないくらいに落ち込んで自分を責めるから言わないであげてほしいって頼まれたのよ」

そっとためらうようにタビーはハジの両手を包んだ。ハジは唇を噛んで息を吐いた。息を吐くことしかできなかった。

 

 

2016年6月2日公開

作品集『陰影のトポロジー』最終話 (全1話)

© 2016 斧田小夜

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