村は重苦しい空気に包まれている。どの家も軒先に喪に服していることを示す鈍色の布を吊るし、人々も鈍色の服を身に着けているのはが死者を弔っているからだ。
ガプガワンが、死んだ。
その死は定められたものだった。多くのものが彼の死のために準備をし、彼の死を見送るために長い時間を費やした。そして予想されたとおり彼は死んだ。
だが、ガプガワンは苦しんでいたというよりはむしろ死に近づくにつれ穏やかになっていったように思える。死に顔も憑き物が落ちたように安らかで、森に還ることを、還れることをなによりも喜んでいるように思えた。森は彼に苦しみ以外を与えなかったのに、だ。
チェギ・チェウと出会い、森に災厄を引き込んだといわれるガプガワン。春が来るのが少しでも遅く、夏の気温があがらないと、そのたびに村人は彼を責めた。森が落ち着きを取り戻し作物が実るようになっても、いつまた災厄が戻ってくるかと人々は怯え、その徴候がみられれば彼を責めた。
しかし今はもう誰も彼を責めない。それどころか、また戻ってきてほしいとさえいう。ツァンクーでは頼りないからだ。
「ツァンクー? いる?」
ミンヤンの声に彼は顔をあげた。さきほどまで機織りの音が聞こえていたはずだが、ミンヤンが廊下から囲炉裏端を覗きこんでいる。
「なんか人が来たってシェパが言ってるの……ツェチュかららしいんだけど……」
薬の整理の手を止め、彼は眉根を寄せた。隣でぶつぶつと畑の刈り入れの時期と順番について自説を語ってはダツェンに窘められていたイェシェもはっとしたように顔を上げ、ミンヤンを凝視する。気味の悪い沈黙にツァンクーはますます眉根を寄せた。
予感がする。嫌な、予感だ。
「……ツェチュ? ゲレクタシが?」
「ううん。ゲレクタシとは言ってなかったわよ。シャカパの声もしないし」
ツァンクーは大きく息をすった。
タツェの若者が獲物を深追いしすぎてツェチュに宿を借りるのは時々あることだ。だが、森のなかで狩りを許されているのはタツェだけだということもあり、その逆は滅多にない。たまに茸狩りの途中だというゲレクタシがふらりとあらわれることはあるが、それでも毎度シャカパが吠えるので、驚くほどのことではなかった。それ以外でツェチュから人が来るとすれば、よほど彼らには対処できない何かがあった場合だけだ。
例えば、岩盤が崩落し十数人が下敷きになったとか、川が溢れ、村がのみこまれたとか、あるいはタプタコの民に襲われ、ほうほうのていで逃げ出してきたとか――
若い衆に声をかけ家から出ると、村から崖に降りる階段ではすでに村人が集まっていた。川の方から登ってくるツェチュの人々が次々と迎え入れられている。
人数が多い。
最初に思ったのはそれだ。人数が多い。しかも男ばかり、十数人。
ツァンクーが出てきたことに気づいたのか、ツェチュの男の一人が振り返り、すぐさま走り寄ってくる。
「ガプガワンは――」
見知らぬ男だ。しかし厚い胸板と太い腕をみればツェチュの男だというのは明らかである。頭には白髪が混じっているが精悍な顔立ちをした男だ。おそらくガプガワンと歳は変わらないくらいだろう。
「先代は死んだ。何かあったのか」
「死んだ――」
はっとしたように男たちが顔を上げ、ツァンクーに一斉に視線を向けた。誰一人として知っている顔はいない。ほとんどは壮年の男だが、二、三人少年が混じっている。その中の一人はツァンクーと歳が変わらないくらいだろう。他の男に比べれば背が小さく、体も貧弱だ。もっともそれでもツァンクーよりはずっとたくましく見えるのだが。
(ゲレクタシがいない……)
(なぜだ)
「次の、チェギ・ルトは……」
「俺だ」
やはりゲレクタシはいないと確認してツァンクーは目の前の男を仰いだ。この男から見ればツァンクーなどほとんど子供に見えるだろう。喪があければ彼もガプガワンのあとをついで長になるが、今はまだ十二だ。そのうえ村の若い衆のなかでも一番貧弱な体格をしている。その失望したような表情も仕方がない、と彼は冷静に思った。
「ツェチュでなにかあったのか?」
「いや、うちはなにもないんだが……ゲレクタシがもう何日も帰ってこないんだ。山に登りに行くって言ってたらしいんだが、もしかしてタツェに寄ってないかと……」
人々の目がツァンクーを見ている。だが彼は思わず背後を振り返り、パトクを仰いだ。その峻厳な白い峰は今日も風にけぶっている。
紺碧の空に薄くたなびく煙のように白い雪が舞っている。目に痛いまでに白い山峰が空をぎざぎざと切り取っているが、パトクだけは常に煙をはいていた。どこかのどかな風景も地上でみればこそだ。その頂上にのぼれば、吹き飛ばされるほどに強い風が吹いているはずである。
夏の盛りのこの時期、ゲレクタシは交易にいかない。それよりも崖に生える茸をとったり、まだ登ったことのない崖を一つ一つ登ったりするので忙しいからだ。それは毎年のことで、いつだったかラシャに登ったというのもその夏の盛りの時期のことだった。ここ数年はなんどもパトクに登ろうとして、途中で帰ってくる。そして交易に来るたびにガプガワンに小言を食らっていた。
この春先、彼が来た時、ガプガワンはいつもよりも長く説教をしたものだ。この夏のはじめに死ぬことが決まっていた彼が、今まで言い足りなかった分まで熱を込めて説教をしたのは想像に難くない。ゲレクタシもいつもより神妙な顔で聞いていたが、ガプガワンのいないところではおどけた調子で肩が凝るという仕草を見せる。あれは、あの二人なりの別れの告げ方だったとツァンクーは知っている。
ツェチュからついた男はツォンカパと名乗った。ゲレクタシと同じく交易人だが、もう少し標高の低い地域を歩いているという。幼い頃からゲレクタシとは仲がよかったが、崖登りの趣味だけはわからないと彼は苦々しい顔で言った。
「食料は十日分くらい持っていったそうだが、この時期にあっちまで行くならタツェに寄るだろうと思って……でも来てないってんだったら、どこかで落ちたのかもしれない」
「ユムは連れていたのか」
「トンサを連れて行ったらしい。冬用に蓄えてる草も一袋なかったし……」
ツァンクーは目を細めた。
食料を何日分持っているかというのはあまりあてにならない。森のなかで木の実を集め食料にするのは、長く交易人をやっていたゲレクタシならわけのないことだ。それに彼は茸とりの名人でもある。狩場もよく知っているだろう。
だが、ユムに草を乗せていったとなれば話は別だ。
高原に出ても、ユムの食む草は無限にある。わざわざユムのための食料をのせていったということは、草のない地域に数日いくつもりでいたということだ。つまりそれは――
(パトクか)
そわそわとツォンカパは手をもんでいる。
交易仲間が交易中の滑落で死ぬのは珍しくないことだと、いつかゲレクタシは言っていたが、そうはいっても仲間が死んだかもしれないのに平気でいられるものは多くない。誰だって遺骸が見つかるまではいてもたってもいられないし、死を確認してからしばらくは悲しむものだ。
「何日前に発った」
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