春を負う – 1

春を負う(第1話)

斧田小夜

小説

19,955文字

森林限界の辺縁にすまう人々にとって春とともに山を登り、冬とともに山を降りる交易びとは特別だ。かれも例外ではなかった。

その男と犬は春を連れ、山を登る。

まだ雪の残る草原を、三頭のユムを引いてゲレクタシは歩いてくる。雪解けの水から沸き起こる湯気に世界が霞み、炎のように燃え上がる夕日でさえもくっきりと世界の影を描くことはできない、そんな季節だ。だが、村人は一度たりとも彼の到着を気づかなかったことはなかった。彼に付き従う片目の犬の声が谷に轟くからである。

村を抱くように流れる川のほとりで足を止め、その犬は全身の力を振り絞って吠える。声に怖気づくように夕霞は割れ、白く、薄く雪の積もった田畑の向こう、家の中で冬が去るのを待ちわびている人々のもとへ届く。その声が届けば、人々はいつの間にか凍みわたる空気が緩んでいたことに気づくのだ。

犬の声は外からやって来る数少ない音だ。あたたかい生き物の気配だ。狼の物悲しい遠吠えとは異なる、人間の気配のする勇ましい声だ。

夕日の勢いが衰えふたたび冬が気配を強める頃には、ゲレクタシも村に辿り着くだろう。村人たちはハイマツを取り払って作った畑が折り重なる斜面をのぼり、彼を迎え、苦労をねぎらう。春が村にやってくる。

交易を担う男たちのなかでもゲレクタシは特別だった、とツァンクーは思っている。たった三頭のユムに山のように荷を運ばせているところは最後まで理解しがたかったが、しかしまだ冬の気配が残る緩んだ雪の中を、凍傷や凍死の危険をも恐れず歩くのは並外れた精神力がなければできないことだ。歴代の交易びとの中では比較的貧弱な体格をした男だったが、かわりに頑強な精神が体の中にぎゅっと固く詰まっている。そんな男だった。

「まだずいぶん雪が残ってただろう。もう十日くらい待てばよかったのに……」

「十日も待ったら雪が緩んで歩きにくいんだよ。だいたいさぁ、塩がなきゃ困るだろ。ツェチュなんてとっくに春になってるってのに」

「でもこの時期はまだ吹雪くだろう。去年みたいなことがあったら――」

「シャカパが吠えたら嵐なんか来ないさ。雪だってわかってじっとしててくれるよ」

「そうは言ってもなぁ」

まぁまぁとガプガワンをいなし、グトが煎じ茶をついだ椀を差し出した。

ゲレクタシの隣にすわっていると、体から研ぎ澄まされた冷気が放たれていることがわかる。凍りついた外衣は囲炉裏の火にあてて乾かしているが、ゲレクタシの体の形のままかたまって布に戻る気配がない。ゲレクタシ自身の手足に巻きつけられた布も、彼が手を動かすたびにしゃりしゃりと音を立てて、肉をうっすらと削っている。

彼の歩いてくる雪原は、たとえ風がぴたりと止んでいても氷点下数十度以下の冬の世界だ。身体に身につけた布が凍るのもしかたがないだろう。

茶の匂いが鼻をくすぐったのか、ゲレクタシは布を解く手をやすめ、くしゃりと相好を崩した。これだけ冷えきっているのだから、湯はありがたいはずだ。

「指はどうかね。ああ、少し黒くなっているな……」

「去年みたいな感じじゃないから大丈夫だと思うけどね。ちょっとこっちは感覚ないけど――」

右手の中指の第二関節のあたりをつまんで、ゲレクタシは眉根を寄せた。その指のとなり、薬指は第一関節から先がない。昨年の春、強い風の中をおして歩いてきた彼は凍傷でその指と左手の小指、そして右足の薬指と小指を失ったのだ。男たちに担がて家に入ってきたゲレクタシのことをツァンクーは今でも覚えている。

彼のすむツェチュからこの村タツェまでは通常、森のなかの道を通って二、三日、荷を積んだユムと歩いて七、八日程度の距離であるが、冬と春の入り交じるこの時期は特に道が悪く、行程は実に十日から十四日にも及ぶのだそうだ。念には念を入れて歩いたとしても命を落としかねない難所が続くのは森の中までで、草原に一歩出ればあとはタツェまで一日で歩ききらなければならない。高原は野宿をする場所がないので嵐や夜がくればやり過ごす場所がないからである。

「ツァンクーや、湯を作ってくれるかね。念の為に温めたほうが良さそうだな……」

「おい、待てよ。手を湯につけてたら茶が飲めないぞ」

「なぁに、飲ませてやるわい」

赤ん坊じゃあるまいし、と顔をしかめたゲレクタシは、グトの手から椀を引ったくり、一息にのどの奥に流し込んでしまった。飲み終わってからはいやに勝ち誇った顔をして鼻をそらし、まるで子供だ。荒っぽい仕草はツェチュの男らしいが、こんなふうに子供じみているのはゲレクタシくらいだろう。

ツァンクーは立ち上がり、台所へ向かった。囲炉裏の鉄瓶から湯をとってもよいのだが、熱い鉄瓶をもつ自信がなかった。それならゲレクタシのために料理を用意している叔母のデキーのところへ湯を貰いに行ったほうが早いし、ついでに水を汲むこともできる。

ツァンクーは七歳になった。雪が解ければさすがに重い腰を上げてカギュツ高原のはずれにあるプチテーツァツォへ行かねばならないだろう。父のガプガワンはなにかと先送りにしているが、プチテーツァツォのほとりに住む神のもとへ挨拶に行くのはタツェの次の長としての使命だ。

「なぁに? おじいちゃんがお湯を? なにに使うの、囲炉裏にもうないの? ……あぁ、ゲレクタシをあっためるのね」

案の定忙しく食事の用意をしていたデキーだが、頼めば快く湯を大きめの椀についでくれた。デキーは数年前までやけに彼と彼の双子の妹ミンヤンにきつく当たるところがあったが、田畑からの収穫量が落ち着いてきた去年辺りからまるで母親のように振る舞うことが増えた。そのとなりでやはり同じように食事の用意をしていたらしい祖母のワンモが櫃の上に腰を下ろし、片手を頬にそえてだいじょうぶかしらねぇ、とゲレクタシを心配している。

「無理はしないようにって言ってるんだけど、昔からあの子はちょっと変わってるからねぇ」

「あの人、なんであんなに無謀なことが好きなのかしら。ツェチェの人ってすぐ危ないことするわよね。バカみたい」

「そうねぇ、たしかに気が荒い人が多いわね……」

水瓶の中の薄氷をわり、ツァンクーは柄杓で水をすくって湯をうめた。指で熱さを確かめてみるが、火のそばから離れるととたんに指先がかじかんであたたかさがわからなくなる。

「そういえばシャカパは? こんなに冷えてるのに外にいるのかしら、寒くて死んじゃうわ」

「さぁ……ユム小屋じゃないかしら。あそこならあったかいし、シャカパは人間が嫌いでしょう。ユムと一緒にいるほうが落ち着くのよ」

「そんなこといったってご飯をあげなきゃ森が怒るわよ……もう! お母さんは呑気なんだから! ツァンクー、それがすんだらシャカパ探しに行ってらっしゃい。噛まれないように気をつけるのよ」

「あら、ツァンクーはゲレクタシの怪我を診てあげるんでしょう。プンツォかガプガワンに持って行かせればいいわよ」

「お母さんが行かなくたっていいじゃないの、もう! パサン! パサン、お父さん呼んできてちょうだい!」

もう一度湯に指をつっこみ、ツァンクーはじっと虚空を睨んだ。騒がしさのせいで湯の温度がよくわからない。

 

ゲレクタシの最愛の相棒、シャカパは犬である。子供の時に手ひどく傷めつけられたせいで片目がつぶれているこの犬は、ひどく神経質で、人間が近づくと吠えたり唸ったりして威嚇をする。今でもまだ、人間が怖いのだというのがゲレクタシの言である。

そんなシャカパがゲレクタシの相棒になったのは五年ほど前のことだ。

その時、ゲレクタシは相棒を滑落死させたばかりだった。気のいい犬だったが、年をとって足を踏ん張れなくなっていたのだろう。もしかすると目と耳も悪くなっていたのかもしれない。鳴き声を上げる間もなく奈落の底におちた犬の死をゲレクタシは今もかなしんでおり、その崖の淵に立つと干し肉を投げ込んでやるそうだ。だが死を悲しむことと新しい相棒を見つけるのとはまったく別の話である。森を歩くというのに連れて歩く相棒をもたないわけにはいかない。

犬はよき相棒だ。狼が近づけば吠えて追い払い、人をも狩りの獲物にするタプタコの民が気配を殺し近寄ってくれば、危険を人に教える。長い旅の間の話し相手であり、遭難時や嵐に閉じ込められた時にはぬくもりをわけあうこともある。そんな犬を交易人は森から贈られるのだ、とゲレクタシはよく言った。

森から遣わされたシャカパのことを森が危険な目にあわせるはずはない。シャカパが言うなら、どこへ行ったって安全なんだよ、と。絶対に死なないよ。

二人の出会いはゲレクタシが悲しみを胸に辿り着いた村の入り口だったそうだ。傾いた太陽の光で橙色に染まった木漏れ日の下、シャカパは座って彼を待っていた。体は小さく、耳は垂れ、しっぽも麦穂のようにほそい子犬だ。しかしシャカパはゲレクタシに無邪気にじゃれついたりはしなかった。しっぽは地面に垂らしたままぴくりとも動かさず、鋭い片目で炯々とゲレクタシを睨んでいる。潰れた片目は膿んで虫がたかっており、泥まみれの汚らしい子犬だったが、その眼光にはなにか熱さと迫力があった。決して死にかけた、かわいそうな子犬ではなかった。

ゲレクタシは無言でシャカパを抱き上げ、懐に入れてやった。そうして一人と一匹は相棒になった。

「あいつは俺が呼ばないと来ないよ。飯も人に見えるところじゃ食わないしな」

凍傷が心配されたゲレクタシの指だが、幸い湯に浸しているうちに解凍されたようだ。赤く腫れ上がってはいるが感覚はもどり、今は軟膏を塗りこんで包帯を巻いている。

「でもなんでツァンクーにはなんも言わねぇんだろうなぁ。唸りもしないし……やっぱなんかわかってんのかな、あいつも」

「犬は森の声がきこえるそうだからなぁ。仲間はわかるのかもしれん」

ツァンクーはむっとしてグトを睨んだ。確かに犬は森からの遣い神といわれているが、そうはいっても獣である。ユムならともかくとして、犬と同じ扱いをされるのは我慢がならなかった。

「まぁそう怖い顔をしいでないよ。あれは賢い犬だ……森もよほどあれを気に入っていると見えるし、仲良くできるのはよいことだよ」

「足を怪我していた」

「おや。そうかね、診てやらねばなぁ……」

「吠えつかれっぞ」

「油脂を塗っておいてやった」

そうかそうか、とグトは二人の声に相好を崩して笑った。

もともと人と衝突をすることを好まないグトだが、この冬の間に急に老けこんだように思われる。原因は腰をいためたせいもあるだろうし、単純な加齢もあるだろう。しかしツァンクーはあまりそれが嬉しくなかった。

「さぁて、ツァンクーもそろそろ寝るかねぇ――」

うん、とグトがうなって腰をあげようとしたその時である。

がたりと表で音がした。間髪をおかず、台所にいたらしいシャカパが狂ったように吠え始める。半分は警戒心によるものだが、もう半分は驚かされた文句だろう。こんな夜更けに帰ってくると言ったら、一人しかいないからである。

「シャカパ! あんまり吠えんなよ! だぁれもとってくいやしねぇよ、まったくもう……おわ、ガプガワンか」

ぎしり、と床板がきしみ、背の高い影が部屋の中に入ってくる。うっそりとした冷気まで忍び込んできたことを悟って、ツァンクーはゲレクタシに身を寄せた。彼の体は温かく、囲炉裏端にいるよりずっと体があたたまるのである。

「夜遅くまで大変だねぇ……さ、商談するぞ、商談」

あとにしてくれとにべもなくガプガワンは言い捨て、静かに囲炉裏端に腰をおろした。どうやら機嫌が良くないらしい。とはいえ、この時期はいつものことだ。春がくるのが遅れるたびに、男衆に責められるからである。

ツァンクーの父ガプガワンは十二で父を亡くし、その後を継いで十三でタツェの長になった。これは代々のタツェの伝統であり、ツァンクーもガプガワン亡き後はあとをついで長になることが決まっている。長の家系のことを村人はチェギ・ルトと呼ぶが、これは初代の長の名前だそうだ。

そんなタツェの長のなかでガプガワンほど評判が悪いものはいないだろう。禁忌をおかし、森の守り神となる女を孕ませたからである。しかも女はツァンクーとミンヤンを産んで死に、その後およそ五年にわたって森は大飢饉に襲われた。すべてガプガワンのせいだと村人は言う。

「んだよ……吠えたからってそんなに怒んなくたってさ。な」

「…………」

ゲレクタシにもたれかかるのはなぜか安心すると眠気のはざまでツァンクーは思っていた。彼の声は低く、その声が体の中を伝わって耳に届く。音そのものより、体を伝わって届く振動のほうを彼は好んだ。シャカパが無言でゲレクタシの足の間に体を割りこませる理由がよくわかる。落ち着くのだ。

「あれ? シャカパだと思ったらツァンクーじゃねぇか、いつの間に入れ替わったんだ……」

「ツァンクー、もう寝なさい。また熱が出るよ」

囲炉裏にかけてあった鍋から当然のようにガプガワンは残り汁をよそっている。忙しいのはしかたがないこととはいえ、ガプガワンはめったに家におらず、家族揃って夕食を共にすることも珍しかった。そんな家庭はタツェにはない。

子供も二人しかいないとはいえ、ほとんど祖母や妹のデキーや、グトに任せっきりで、それゆえにまた村人たちから陰口をたたかれるガプガワンである。ツァンクーはなにとはなくむっとしてゲレクタシの袖口をつかんだ。

「グトもすぐ甘やかす――」

「まぁ、たまにはなぁ」

「でも」

「この時期の咳は長くは続かんよ。そう心配するでない……それにゲレクタシから森の話を聞くのもチェギ・ルトの務めだろう」

「森の話ならいいけど、どうせ山の方の話をしてたんだろう」

つめたくグトの言葉をあしらったガプガワンは、ムキになったように具を椀によそった。よほど機嫌が悪いらしいが、その理由をツァンクーは知らない。

ガプガワンは村の男衆相手にどれだけ責められても、陰口を叩かれていると知っていても、きつくあたることはない。だが、ゲレクタシへの態度は別だ。昨年彼が指をなくした時もくどくどと説教をかましていたし、ゲレクタシがなにを言ってもなにか一言は反発をする。

理由は山だ。

「パトクには絶対に登るなよ。さすがに森だって許しゃしないぞ」

「パトクが呼ぶんだから仕方ないさ。それに行きたがるのはシャカパだし、俺はついてくだけだよ」

「だめだ」

「んなこと言われてもなぁ。夏くらいいいだろう。冬は家に篭ってるし……」

「冬山にも登ってるんだろう。だいたい去年の夏、ラシャに登っただろう。わかってるんだぞ、ミンヤンが全部見てるんだからごまかしたって無駄だ」

くい、と顎をそらし、ガプガワンはゲレクタシを睥睨した。冷徹な視線だった。

 

ツェチュは塩で栄える村である。

土に含まれる塩分のせいで農作物がほとんど育たない土地に根付いた時から、ツェチュが交易を担うことは定められていた。彼らは塩谷から塩を切り出してはそれをユムに乗せ、森に点在する村々を訪ね歩く。そして塩と引き換えに食料や薬、布や宝石を手に入れるのだ。

時にはそれらを他の村に持って行きまた別のものに交換することもあるが、とにかく彼らは数少ない森を歩く人々であり、点として存在する森の集落をつなぐ線であり、孤独を共に何日も、何ヶ月も旅をする。

現在ツェチュには六人の交易人がいるという。この中でも標高三千メートル付近にあるツェチュから四千五百メートルを超えるタツェまでのもっとも高い地域を歩く交易人は、ツェチュの交易人の中で最も尊敬される存在だ。

標高が高くなるほど森は険しく、道は狭く、薄い空気の中での活動は厳しくなる。天気が変われば遭難する危険もあるし、村の数も少ないので救助が来ないまま衰弱死することもあった。彼らにとって信じられるのは、今自分が踏みしめている地面と、森と、そして相棒だけだ。森の民を狙うタプタコの民の集落が近いことも、この地域での交易を難しくさせているが、すくなくともツァンクーが知る限りゲレクタシはこれっぽちもそれを恐れたことはなかった。そういう男だった。

「確かにラシャには登ったな。さすがにチェギ・チェウ相手に隠し事はできない、か」

「…………」

「ちょっとだけだよ。夏だし、そばに行って歩いただけさ。だいたいさぁ、腕ならしが大事なんだよ。荷物が落ちた時に崖を登れないんじゃ財産パァだろ。ユムはしょうがないとしても、荷物だけでも引き上げないと。それに茸が見つかることもあるし――」

「…………」

「そんなに怒るなよ。森が連れてってくれるんだからいいじゃねぇかよ。確かにラシャは苦労したよ、絶壁だし雲は出てくるし――でもシャカパが行けるっていうんだからさ、いけるんだよ」

「ラシャだぞ」

天井を仰いだゲレクタシは弁解の言をとめ、きっぱりと口を結んだ。こうしてゲレクタシとガプガワンが口論をするのは今に始まったことではない。少なくともゲレクタシが春を連れてくるたびに同じ光景は目にするし、秋の最後の交易の時もガプガワンは最後に絶対に山には登るなと念を押して彼を送り出すものだ。それでも、ゲレクタシは登る。シャカパが登ろうというからだ、という。

「冬のチェタムやアツィツィだって危険なのに、なんでラシャに……夏山に気分転換で登るのも、ちょっと茸を取りに行くのだって私は文句は言わない。でもラシャやパームツェや、ましてやパトクなんて言語道断だ、なんで登りたいなんて考えるんだよ」

「なんでって言われてもなぁ」

またもやツァンクーがシャカパでないことを忘れたのか、ゲレクタシはツァンクーの脇腹をなでた。彼の口から漏れた白い息が闇ににじむ。

ルソヌアは大陸がひとつしかない小さな星である。そしてその大陸の八割は山岳地帯であり、南側には八千メートルから九千メートル級の峻峰が連綿と連なっているのだった。空を切り取る峻峰から流れ落ちる氷河は大地を潤す川となり、川は山を削り、深い森を作り、そしてやがて大河となって海へと流れでる。生き物は全て山のもとに生き、森とともにある。それがルソヌアだ。

そんなルソヌアの頂点となるパトク。磨きぬかれたような峰にはなにものも寄せ付けない気高ささえも感じられる。頂上は成層圏に飛び出しているがゆえに常に偏西風でけぶっており、全貌を見たものはいないとまで言われるその山に神を感じるのは別段不思議なことではないだろう。

一方パトクの連峰となるラシャやパームツェはパトクにくらべてさして目立つ山ではないが、それでもパームツェは八千メートル級、ラシャでさえ六千メートル級の山だ。どちらも神話の舞台であり、その地を踏むのは禁忌とされている。なにより万年雪を擁するその山に登るのは気軽にできることではなかった。行くのなら、死を覚悟せねばならない。

「登ったって言ったっててっぺんまでは行ってないぞ、ほんとに。途中の尾根まで行って氷河湖見下ろして帰ってきただけだよ。シャカパも満足してたし」

ガプガワンは無言でゲレクタシを睨みつけている。さすがのグトでさえ嘆息しているのだから、彼のそんな表情も仕方がないことだ。だが、ツァンクーはガプガワンから顔をそらし、鉄瓶からわきあがる湯気を睨んでいた。

心がくさくさとする。

「死ぬようなことはしないさ」

「…………」

「森が――」

「いつか死ぬぞ」

「もし死んだとしてもさぁ、仕方ないことだろ。死ぬかどうかなんて森が決めることさ、俺がどうにかできることじゃない――」

「死ぬかどうかだけじゃない、ラシャは――チェギ・ルトが神と会うための神聖な場所なんだ。そこに勝手に踏み入るなんて……」

「頂上までは行ってないって言ってんだろ。だいたいそんなの、たかが神話じゃないか」

「たかが」

太ももをこぶしで叩いたガプガワンは息を一つ吐き、勢い良くゲレクタシから顔をそらした。先ほどからグトはそわそわと手を揉んでおり、早くもこの空気を居心地悪く感じているらしいことが伺われる。

ガプガワンが黙り込んだせいで、ぷっつりと会話が途切れた。

しんしんと夜気が染み入ってくる。外ではまた雪が降り始めたらしく、壁を叩くかすかな音がする。だが草原を吹き荒れる風の音は遠く、残り雪が降っているだけだろうことがさっせられた。時折ちりちりと鉄瓶が神経質な音を立てるのがいやに耳に響く。ツァンクーはゲレクタシにもたれかかり、緩急をつけながら迫ってくる眠気を眺めていた。

まだ心はくさくさとしている。

「……悪かったよ」

「…………」

「ツァンクーもごめんな。お前もチェギ・ルトだったな」

「…………」

「ねむいなら寝な。夜更かししてたらギュワがくるぞぉ」

「一緒に寝る」

とりつくろったようにふざけた声音をだしていたゲレクタシは、ん、と妙な声を出して口を閉じた。こりゃとグトもすぐに声を出したが、ツァンクーはあくびをしてそちらを見なかった。

指先がかじかんでいる。

 

目覚めた時、寝床の中にミンヤンがいたのでツァンクーはむっとして彼女の足を蹴飛ばした。

昨晩はゲレクタシの寝床に入れてもらったと記憶している。ミンヤンはとっくに寝ていたし部屋も別だったというのに、なぜ同じ寝床にいるのか。しかもここは子供部屋だ。

すやすやと安らかな寝息をたてているミンヤンは蹴飛ばされたことには気づいていないらしい。ますますむっとしてツァンクーは彼女から毛布をはぎとり、それにくるまった。忌々しかった。

寝ている間にゲレクタシに子供部屋に運ばれたのはわかっている。問題はどうして彼がそうしたか、だ。別段同じ布団で一日寝るくらいたいしたことではないし、むしろ体温の分温かいはずだ。

「…………」

もにょもにょと何かつぶやいたミンヤンはかすかな音とともに背をまるめた。まだ夢の中にいるらしいが、からだは正直だ。寒くなれば丸まり、暖かくなればのびのびと手足を伸ばす。

(ラシャ)

壁の向こうからユムのおしゃべりが聞こえる。風の音はなく静かな朝だ。鎧戸の隙間に金色の光が溢れ、外に春が訪れていることが想像できる。まだ芽吹かない木々も、溶けない雪もどこかそわそわとする春が――

布団から這い出し、ミンヤンを踏まないように気をつけて床に降りたところでツァンクーは立ち止まった。ミンヤンはまだ体を丸めて眠っている。寝床が広くなったことにきづいているふしはなく、眉根を少し寄せているだけだ。長いまつげが心音に呼応するように時折細かく震えている。

きゅっと唇を噛んで、ツァンクーは毛布を広げた。そしてそれをミンヤンの上にひっかけ、朝餉の匂いがする台所へとかけて行った。

 

ゲレクタシの到着とともに、あれほどしつこく続いていた吹雪はぴたりと止み、青空がやってきた。もとより日差しの強い高高度地域は吹雪さえ止めばあとは勝手に雪が解ける。気温があがるにはまだ少し時間はかかるが、人々は冬の気配がひそんでいる上着を肩に引っ掛け、日光をむさぼるために外へと出てくるのだった。

そんなときに輪の中心にいるのはゲレクタシだ。

話のうまい彼は、どこかの村のできごとを針小棒大にはなしては、人々を楽しませるのを、滞在中の日課にしていた。交易人以外とはほぼ交流のないタツェでは彼のような存在は珍しく、時間がたてばたつほど人々は集まってくる。ゲレクタシも嫌がらず、時には声を張り上げ、時には声をひそませ、またある時は村の誰かをあげつらったりからかったりして存分に彼らを楽しませていた。

人気のないひだまりで昼寝をするシャカパのノミをとってやりながら、ツァンクーもその話に耳を傾けていた。彼の話はよくきけば、昨年と同じ話がある。ひどい場合、数年前のタツェで起きたことの顛末をディティールをかえて話しているだけのこともある。あるいはどこかで変容した古い神話――彼自身が手をくわえたのか――なんにせよ飽きるものではなかった。時には呆れ時には感心し、ツァンクーはひとり、ノミを取っては潰した。シャカパはくうくうとよく眠っている。

「ラシャに行ったって本当なの? 夏にミンヤンが夢に見たって……」

「そうだよ。さすがチェギ・チェウはなんでもお見通しだなぁ、隠れてするもんじゃないな!」

どっと人々が笑う。シャカパは左耳をぴくりと動かしたが、自分に危害が及ぶわけではないと判断したのか、目は開けなかった。

「すごいところだったよ。今までいろんな岩壁を昇ったりおりたりしたけど、あんな山はみたことがない。いや、ほんとうにまったくもって、すごい山だ。俺はいまもなんだかあそこから見た景色は夢だったんじゃないかって思う。|美しい山《ラシャ》なんてなんちゅう名前だ、鏡でも見てから言いやがれって思ってたけど、あんなにきれいなところはあるもんじゃないよ」

今度はぴん、と右の耳をたてたシャカパだが、やはり目は開けなかった。ひどく毛深いこの犬にとって、タツェのような寒い地域はむしろ居心地の良い場所のようだ。タツェには他に犬もいないし、ゆえに森の遣い神といわれる犬を村人たちは大事にする。石を投げたり棒を持って追いかけたりすることなど皆無だ。それで、きっと人間嫌いのシャカパもいくぶんかほっとしているのだろう。

「最初はな、シャカパが行こうって言ったんだ。俺はさ、なにしろラシャだろ。ま、でも足元からながめてみるくらいなら話のネタになるし、あぶなくなさそうだしって、そんなつもりで草原を歩いてった。夏だったからね、風はそんなに吹いてなくて、気をつけなきゃいけないのは狼だけだな。でも狼だって俺達みたいな大して肉のないやつには興味ないからそんなに大変じゃない。それで五日くらい川沿いを歩いたかな、もっと歩いたかな、いつのまにか草もなくなって、岩だらけになって、気づいたらラシャの中に入ってた――天まで続く絶壁の前にいたんだ。高い崖だった……」

ツァンクーは顔をあげた。

眼前には雄大なパトクが見えている。万年雪を擁するパトクの峰は年中白いが、春のはじめということもあって裾野まで完全に雪で覆われている。そのとなりに肩を並べる水平な天辺をもつ台形の山パームツェは、その昔昼の神の寝床となっていたという神話をもつ山だ。太陽が登るときにその山が赤く燃え、火の燭台のようになるためだろう。

そしてパトクからかなり東側、稜線から不意に立ち上がったように岩肌がむき出しになったラシャ。美しい山という名をもっているが、美とはかけ離れた円柱状の無骨な風貌である。周囲の峻峰とくらべても見劣りするその不思議な山は、その容貌ゆえにこの地に訪れた賢者が神と対話した場所だと信じられているのだった。

そのラシャにのぼった。

確か登る道はどこかにあるはずだ、とツァンクーは思った。すでに風化し岩が崩落しているに違いないが、それでも昔、そこに道はあった。登るのは楽ではなかった。しかし彼らは登った。たしかに、森と対話をするためにあの道を――

のそりと顔をあげたシャカパが首を九十度にねじまげ、ツァンクーを見ている。毛におおわれ見えない左目とは対照的に、右目は澄んで穏やかだ。

ラシャに行きたい、とツァンクーは思った。そしてそれを直戴にゲレクタシに告げた。数日前のことである。

ゲレクタシの答えは簡潔だった。目の前にある壁を登ってみろ、それができなければラシャには登れない。

とっかかりすらない壁の前で、ツァンクーはかなり粘った。手がもしかすれば土壁に吸い付くかもしれないとか、爪がわずかな窪みに引っかかるかもしれないと願ったのだ。しかし彼の体はほんの少しも持ち上がらなかった。そもそも彼には腕力がなかった。

「無理だな」

「…………」

「そんな顔したって無駄だよ。ツェチェにはこんくらいの壁ならわけなく登れる奴はたくさんいる。ドゥクチェンってやつなんかお前とおんなじ歳だけど、すいすいって天井まで登るし、十五くらいになったらみんな縄一本で崖を往復するのが当たり前さ。タツェのやつには絶対できないだろ」

「できる」

「できないよ。俺達がユムには乗れないみたいに、お前たちを崖は登れないんだ。だから、ラシャには登れない」

厳然とした声。その声には自信があふれていた。

ため息をついてツァンクーはシャカパにもたれかかった。この犬はツァンクーより大きく、背中に乗ってもおそらく軽々とあるくだろう。すこしうざったそうにはするかもしれないが、子供一人を背に乗せることくらいわけもないはずだ。

(確か入り口は)

(湖を見ながら登った――雪渓をあるいて……)

どっと空気が湧いた。たぶんゲレクタシがなにかおもしろいことを言ったのだろうが、ツァンクーにはなにもかも遠いことのように思えた。誰も彼も、ツァンクーから遠いところにいるように――彼を突き放そうとしているようだ。七つになり、物事の道理がわかるようになればなるほど、彼はそう感じるようになっていた。

つまり、自分は望まれていない子なのだ、と。

 

森を闇に陥れるギュワ。そのギュワが森に災厄をもたらさないよう、その昔賢者は自らの肉を抉り、骨をたち、二人の人間を作ったという。それが昼の番人チェギ・ルトと夜の番人チェギ・チェウだ。知を司るチェギ・ルトが目を凝らし、知をつかってギュワを退治するのに対し、闇に視界を奪われたチェギ・チェウは夢で森からの顕現を受け取り、力を持ってギュワを制するという。神話ではかならず語られる話だし、ツァンクーにとっては最も身近な話題だ。彼はチェギ・ルトであり、チェギ・チェウであり、そしてギュワでもあるからだ。

「ツァンクーさぁ、なんかシャカパと同じ臭いしないか。くせぇぞ」

「……蚤を取ってやった」

「あぁ、そういうことか。いやがんなかったか? 全然? 珍しいなぁ、あいつが……よっぽど同じ匂いがするんだな」

ツァンクーはむっとしたが、ゲレクタシにもたれかかるのはやめなかった。

ゲレクタシがタツェについて五日になる。忙しいガプガワンもその合間をぬって、ゲレクタシと交易の話で額を突き合わせる毎日だ。ガプガワンはこの村の村長であり、責任をもってゲレクタシと交易せねばならない。村人たちの一夏の食事はすべてガプガワンの肩にかかっている。

はしゃいだ声でガプガワンに話しかけているミンヤンの声は気にならない。それよりも背をぴったりとつけてもまだはるかに大きいゲレクタシの存在が心地が良かった。

どれだけもたれかかっても彼が倒れることはない。気づけば背筋が冷たくなるようなうっそりとした目でツァンクーを見下ろしていることもなければ、にべもなく駄目だしをすることもない。義務感としか思えない態度で彼を抱き上げるわけではないし、なにかを失敗したりうまくやれなかったりしても、切って捨てるような口調でツァンクーを責めたりはしない。

あたたかい、とツァンクーは思った。ゲレクタシはあたたかい。安心する。

村の人間ではこうはいかない。ツァンクーにあたたかい目を向けるのはグトと祖母くらいで、あとは仕方なく面倒を見ているデキーが時々あまえさせてくれる程度だろう。愛嬌のあるミンヤンでさえも、村の人々はあたたかい目で迎え入れているわけではなかった。彼らの両親の所業のせいである。

ほんの数年前まで、タツェには――いや、森全体に飢餓が蔓延していた。夏になっても気温がは上がらず、どうにか育った作物も霜で次々に枯れる。木々は実をつけず、厳しい冬をまえにしてもなお獣はやせ細り、時には飢えて死んだ。

もっとも厳しかった年はツァンクーとミンヤンが生まれたあの年だという。タツェではユムがいるおかげで餓死は免れたが、それでも普段は食べない雑草を摘んでスープにしたり、木の根や皮で空腹を紛らわしたものだ。他の村の状況は更に悪く、間引きが常態化したり、大型の肉食動物に襲われ村が壊滅したりした例もある。いずれにせよ、これはそれほど過去の話ではないのだ。そして飢餓の原因は、ガプガワンと先代のチェギ・チェウだった。少なくとも村人はいまでもそう思っている。

昼の番人チェギ・ルト、その血筋を引くガプガワン。そして夜の番人チェギ・チェウの血を引くといわれるツァンクーの母パドゥパ。その二人が森の意思を無視して子をなしたせいで、森が怒っているのだ、と。子らは森を苦しめるギュワそのものだ、と。

チェギ・ルトとチェギ・チェウの家系がタツェを作って以来、その二つの血筋は一度たりとも交わることはなかった。森の知恵を授かったチェギ・ルトと、森の力を授かったチェギ・チェウは相反してある昼と夜の番人であり、その二人が出会う時はすなわち、夜と昼が消える――世界が終わるときだからである。

二人が子をなすのにどれくらいの時間がかかったのか、どんな決断が行われたのか、ツァンクーはしらない。しかし、二人の行為の結果、タツェだけでなく森全体を飢餓が覆った。獣はやせ衰え、木々は実を付けず、壊滅した村もあると聞く。それだけの事態を招いたことをガプガワンが非難されるのはしかたがないことだ。彼は森の知恵であり、それを予期できる立場であったのだから。彼は決断し、実行し、失敗した。森を相手にした賭けに、完敗したのだ。

「ツァンクー、重たいぞ」

「…………」

「こんな甘ったれでラシャに行きたいだとぉ? 冗談言うにしてももうちょっとひねれよな」

「行ける。いつか行く」

「無理だよ。お前はラシャに登れるやつじゃない。森はさ、道を教えてはくれるけど、でも落ちたらそれまでだぞ。森だってどうにもできやしない。それに歩くのは自分の足だ……」

ガプガワンが帳簿の手をとめ、ちらりとツァンクーに視線を寄越した。その視線の意味はわからなかったが、冷たい色の光は目の端に止まった。ガプガワンはすぐにまた作業に戻ってしまったが、肌に不快な冷たさが残った。

「同じ森の民だ。訓練すれば――」

「へーえ、自信あるなぁ!」

「ツェチュの男でも練習すればユムに乗れるはずだ。腕力はあるし、脚力だってある。乗れない理由がない」

「おまえってほんと小難しいこと言うよな、さすがチェギ・ルトだ」

「本当のことだ」

「まぁそんな怒んなよ。なかよくしようぜ、な」

にかり、と白い歯をみせたゲレクタシはなにを思ったか突然腰を上げた。あわててその背中にしがみつくと、気持ちのよい声をあげて笑い始める。なにをするにも衝動的な男だ。そのくせからりとして、深刻な顔をみせることがない。

「おう、重くなったなぁ、ツァンクー! ちょっとシャカパとも仲良くしにいくぞ。あいつすぐ拗ねるからな」

ゲレクタシの首は太い。どうにかその肩に手をひっかけ首にかじりつこうとするが、ゲレクタシはふざけてツァンクーを落とそうとする。グトが笑っている。

「いいなぁ、ミンヤンも! ミンヤンもして!」

「だぁめだよ。ミンヤンにはいいガプガワンがあるだろぉ。高い高いしてもらいな」

あるってなんだ、とガプガワンが笑いながら答えたが、ゲレクタシはふざけて手をふっただけだ。山の話以外では仲の良い二人である。

ゲレクタシの首にかじりついたまま、ツァンクーは手を伸ばし、天井の梁に触れようとした。さすがに手は届かなかったが、ずいぶん景色が違う、と思う。ガプガワンはめったにツァンクーを抱き上げないので、こんな景色は新鮮だ。

「なんだよ、あれ触りたいのか?」

「ん」

「おとなになったら触れるさぁ。頭気をつけろよ、くぐるぞ」

ぴたぴたと裸足で板間をあるく音が聞こえたのか、台所の入り口で丸くなっていたシャカパが顔を上げたのが見えた。ゲレクタシにしか見せないすこし間の抜けた顔をしている。おそらくうとうとしていたのだろう。

「よっこいせぇ、と。やっぱ靴下はかないと足つめてぇな。おい、シャカパ、飯食ったか? ん? あぁ、水か。水な。水はどこかね。あぁ、あそこか。ツァンクー、取ってこい」

さすがにゲレクタシに対してはしっぽをふるシャカパである。甘えて彼に鼻を擦りつけたシャカパはついでにツァンクーの足の匂いを嗅いで、またゲレクタシに頭をすりつけた。他の誰かなら手が付けられないほど吠えているか、白い牙を見せて唸り声をあげているところだ。

「良かったなぁ、あったかいところに入れてもらえて。しかもあれだぞ、チェギ・ルトが水を入れてくれんだぞ。お前、チェギ・ルトを鼻で使えるなんて犬ん中で一番偉いかもな」

「鼻で使ってるのはゲレクタシだ」

「なぁにいってんだよ、人を乗り物扱いしてるくせにさ。お互い様だろ」

む、とツァンクーは口を曲げたが、言い返すのはやめた。ゲレクタシ相手ならムキになって言い返そうという気持ちにもならない。それがいいことなのか良くないことなのか、彼にはわからなかったが、言い返せば怒る大人が多いのも事実だ。ゲレクタシとは対立したくない。理由はわからない。

「なぁ、シャカパよ。ツァンクーってなぁ、森で一番偉いんだってさ。ほんとだぞ。なんたってチェギ・ルトでチェギ・チェウなんだからな! え? 信じらんないって? ほんとなんだってよ、昔いた賢者とおんなじなんだぞ、おんなじ。なに? それくらい知ってる……? ははぁん、俺が知らないだけってか。そんなバカにした顔すんなよ、俺は人間なんだ。何でも知ってるわけじゃねぇんだよ」

「うるさい」

「おまえ、ほんとにシャカパとおんなじこと言うなぁ」

まったく良く動く舌である。ツァンクーは半ば呆れていたが、ゲレクタシを仰いで愛想半分にしっぽをふる犬のために地面に水の入った椀をおいてやった。たしかにこの犬も呆れたような顔をしている。旅の途中もずっとこんな調子なのですっかり慣れたというようにも見えるが、ツァンクーはいまはじめてシャカパを少々不憫に思った。

「そうそう、こいつラシャに登りたいんだってさ。俺はねぇ、絶対行けないと思うんだけど、お前どう思う? ……だろー、無理だよなぁ。あそこを登れるわけないよな」

「昔は入口があった。崩落しているかもしれないが、崖を登らなくても登る道があるはずだ」

「昔ぃ? 行ったことあんのか?」

「ずっと昔だ。いつかまた行くときのために記憶が残っている」

「あぁ、チェギ・ルトの話か。いつのチェギ・ルトかしんないけど」

上り框に両腕を使って登る。尻はゲレクタシが押してくれたが、筋肉が不足しているのはツァンクー自身もみとめるところだ。もともと彼はあまり丈夫ではないし、寝込んでいることが多いこともあって外で遊ぶ機会が少ない。しかも少し走り回ればすぐに怪我をするので、大人になんでもかんでも禁止される始末だ。そのうち丈夫になる、大丈夫だとグトには励まされるが、彼自身彼のふがいなさが歯がゆかった。

もっと大きくなりたい。強くなってそして――

(そしてギュワになるのか)

「ふしぎだよなぁ、ご先祖のことを覚えてるなんてさ……俺が覚えてたらどうなんのかな。やっぱ最後は崖から落ちて死ぬのかね」

「…………」

「ま、そうなりゃ本望だな。難所で落ちて森に還るなんて交易人冥利に尽きるよ。山でもいいなぁ、崖登ってる途中で力尽きて死ぬとか。ツェチュの男ならそうでなくちゃ……ツァンクー? なぁ、返事しろよぉ、ひとりごとみたいだろ」

なぜラシャなのだろうとツァンクーは考えていた。いままでだってゲレクタシが山に登るという話は聞いていたはずだ。ガプガワンの説教を意にも介さずあちこち登りに行くゲレクタシに胸のすくような思いを感じていたのは確かだが、自分が登りたいと思ったことは一度だってなかった。だというのに、ラシャと聞いたとたん頭がおかしくなったのだ。

(ちがう)

(覚えているからだ)

「ツァンクー? ねむいのか? おこちゃまだなぁ」

「いや……どんな景色だったかと――」

「なにが」

「ラシャだ」

「あぁあ」

大きい、と思う。ゲレクタシは大きい、と。

身長でいえばガプガワンのほうがよほど大きいはずだ。心の広さにしたって、すぐに喚いたり、取り繕ったり、ふざけてごまかそうとするゲレクタシよりガプガワンのほうがよっぽど大きいだろう。

だが、ゲレクタシは大きい。

のそりと、シャカパがゲレクタシの足のそばに腰をおろした。珍しく甘えたい気分だったのだろうか、足の甲にいそいそと顎をのせ、目を細めている。薄茶色の毛が丸まっているところなど毛皮が落ちているのかと思うほどだ。

一息をついて、ツァンクーは続きを口にした。いつもは饒舌なゲレクタシがだまっていたので、なにか急かされているような心地がした。

「雪渓を……のぼったと記憶してる。途中から絶壁になってのぼれなくなったから、そのあと――どうしたか覚えていない。登攀したか、抜ける道があったか――てっぺんから湖が見えたのは確かだが……」

「まぁ、確かに湖はあるな。青くて、ちょっと緑が入ってる――」

「また見たい」

「無理だよ。お前には無理だ」

「行ける」

「ま、もしかしたらそのうち行けるようになるかもしんないけどさ。お前はチェギ・チェウでもあるし――」

「今行きたい。行って――」

突然ぐい、と首根っこを摘まれ、ツァンクーは首をすくめた。皮膚越しに、厚く固いゲレクタシの感触がよくつたわる。乾燥して、ところどころ皮が向けており、しかも日に焼けてくろくなっている手だ。わかる。指の関節は少し曲がって硬くなり、腱がうかびあがっているのだ。

「お前な」

低い声だ。しかもツァンクーの首をつかんでいる指と同じくらい固く、そして力強い。ツァンクーは首を引っ込めた姿勢のまま、ゲレクタシを仰いだ。突然そんなふうに声が変わった理由が解せなかった。

「ガプガワンのあてつけで行くようなところじゃねぇぞ、あそこは」

カッと頭のなかに白い光が飛んだような気がした。体温が高くなり、目の前のゲレクタシがぼやけ、また元に戻る。ツァンクーは息を吸った。

「あの山はそんな気持ちで行って登れるような場所じゃない。だいたいさぁ、あいつの前じゃさすがに言えないからここで言うけど、俺にひっついてあいつの気をひこうとしたって無駄だよ。どっちかってぇともっともっとあいつはお前のことが嫌いになる」

日に焼けたゲレクタシの目元にはしわがよっている。切れ長の目を細めた彼は短いまつげを上下させ、それからいらだたしそうに息をひとつ吐いた。

「そうやって人を試すようなことをすんのは、一番やっちゃいけないことだ。そんなことすんなら嫌いだって言えよ。ミンヤンばっかかまってお前のことはほったらかしてる父親なんか大嫌いだって、言えばいいだろ。チェギ・ルトなんて代々そうだったんだから別に誰もお前を叱ったりしないよ。悪いのだって大人げないことしてるガプガワンの方だ」

「…………」

「なんだよ、睨んでさ。腹立ったのか?」

「……立って――」

「嘘つくんじゃない。腹立ってるって顔してるじゃねぇかよ。なんで素直じゃないのかねぇ。怒ればいいんだろ、俺はお前を怒らせようと思って言ってんだから」

指が肌に食い込んでいる。痛い、とツァンクーは思った。痛いのに、しかし彼の指はあたたかかった。夕餉をおえ、片付けられた台所の隅ではかまどの火が燃えるだけで、あとは闇と、冷気が居座っている。それ以外にはなにもない。彼の指だけがあたたかい。

「ツァンクー」

耳を塞がなければと彼は思った。ゲレクタシの言葉はそれ以上聞きたくなかった。ツァンクーだって、本当はわかっているのだ。彼は父親ではないし、父親になることもないし、どれだけ甘えてもそうたたずにツェチュに戻ってしまう。彼はタツェの人間ではないのだ。でもそれは聞きたくなかった。

しかし手は動かなかった。冴え冴えとしたゲレクタシの瞳に彼は映っている。ゲレクタシはいつだってまっすぐに人を射る。それしか知らないと本人も言う。愛想なんて知るもんか。俺は楽しいことと面白いことが好きなんだ。やりたいことをやるし、言いたいことを言う。それのなにがわるいんだよ。ゲレクタシはそういう男だ。

「俺はな、お前の父さんにはなれないんだよ」

「…………」

「別にお前のことはきらいじゃない。結構話してて面白いし、からかうとすぐふてくされるし、シャカパにも似てるしな。でも俺はお前の父さんじゃない。甘えられたって応えられないんだよ。わかるか」

「……わか……る……」

「そうだな。お前ならちゃんとわかるはずだ。別にさ、泣き言があるなら聞くし、相談事があるなら一緒に頭悩ますのだってするよ。励ましてほしかったらそうしてやる。教えてほしいことがあるなら教えてやるし、山に登りたいってんなら、お前すぐに根ぇあげそうでやだけど、でもちょっとくらいは付き合ってやるよ。そんなの別に全然大したことじゃないし、シャカパみたいに喋らない奴より、喋ってくれる相棒がいたほうが俺だって楽しいさ。だけど、線引はいる。おまえはちょっと、俺の方に倒れかかりすぎてる」

ツァンクーは顎を引いた。ゲレクタシの声は容赦なく頭の上から降ってくる。声音を変えるような器用なことができる男ではない。いや、不器用なのではなく、その必要性をこの男は微塵にも感じていないのだ。率直で素直で、正直であることがなによりも正しいと思っている。

「俺は――」

シャカパは目を閉じて動かない。今この瞬間だけは誰からも襲われることはないと信じきっているように耳を伏せ、しっぽをだらりと弛緩させている。本当に眠っているのかもしれないし、そんなふりをしているだけかもしれないが、ツァンクーはなぜかそれが憎々しかった。なぜ自分が犬ではなかったのかと、そう思えてならなかった。なぜチェギ・ルトに生まれついてしまったのかと、それもチェギ・チェウの血をも引くチェギ・ルトに生まれついてしまったのかと、そう思わない日はない。人々から疎まれ、自分の父親からさえも望まれない子として見られる自分の境遇が苛立たしくてならなかった。

指が離れる。だが、すぐにまた固い皮膚があたって、ツァンクーはますます首を縮めた。

「……ごめんな。ちょっと痛かったか。なんか力はいりすぎた」

「…………」

「俺はさぁ……交易人なんだ。いつ死ぬかわかんない道をたった一人でユムと犬と一緒に歩く交易人なんだよ。すっごい寂しいし、だけどそれに耐えなきゃいけない。もうダメだって思うことはたくさんあるし、ここで休んだら楽になるんじゃないかとか、このまま落ちたほうが楽じゃないかとか、寒いけど動きたくないとか、そういう誘惑に全部打ち勝たないといけない。たった一人でだ。でも、たった一人だからできるんだ」

ツァンクーは彼の腕を払った。首の付根にはまだ、彼の硬い皮膚の感触が残っているが、今はそれも厭わしかった。

「……タツェに来る交易人ってのはそういうやつじゃないと来れないんだ。森が認めてくれないんだよ。それにさ、俺はさぁ、ガプガワンに何度も止められてるけど、崖を見たら登りたくなるんだよ。登っちゃうんだ。少しでも時期がずれたら死ぬってわかってるけど、でも足が勝手に動くんだ。それで死にそうになったことは何回もある。俺は、いつどこで死んだっておかしくない、そういうやつなんだよ」

「……森は交易人を殺さない」

「交易人じゃなくなったらあっという間に死ぬさ。それにもう次の交易人は多分決まってるし、俺も長くないよ。だから――……」

かまどの中で静かに薪が森に還っている。かすかな沈黙の音を空気の中ににじませ、ゆっくりと静かに、森に還っている。まるで人間そのものだ。いや、人間が木と同じなのかもしれなかった。森のなかに住む全ての生き物は、みな森に還るのだった。

「だから――……危ないぞ。あんまり俺によっかかってると一緒に崖から真っ逆さまに落っこちるかもしれない」

「交易人は、死なない」

「死ぬよ。いつか」

「死なない」

ゲレクタシの黒い虹彩に泣き顔をした子供が映っている。これは自分ではないとツァンクーはいつも思う。なぜこんなに小さな子どもが映っているのか、自分はもっとたくさんのことを知っているし、もっとたくさんのことができていたはずだ。チェギ・ルトだから、その記憶があるからだ。だが実際に手を動かそうとすると届かない、力が足りない、動けない――できない。

子供っぽい甲高い声にツァンクーは口をつぐんだ。ゲレクタシの目の中の子供も歪み、輪郭がぼやけ、そしてまた元に戻る。

「しな、ない」

「俺は永遠に生きるチェギ・ルトじゃないんだ、いつか死ぬ。みんな死ぬんだよ。それが森に生きるってことだろ」

「しな、ない。ずっと、死なない……!」

なぜ目の淵が熱くなるのだろうとツァンクーはいつも不思議に思う。頭のなかは静かなのに、どうして額のあたりが熱くなるのだろう。目が痛み、鼻の奥がつんとして涙が溢れるのだろう。グトはそれを悔しいからだとか、悲しいからだとかというが、そんな感情はわからなかった。いつもと同じだ、だが体の示す反応は違う。

くしゃりと相好をくずしたゲレクタシは荒っぽくツァンクーの額を叩いた。唇を噛み、笑いを噛み殺している顔をしている。なぜそんな表情をするのか、ツァンクーにはわからない。わからないことばかりだ。なにもわからない。チェギ・ルトなら何もかも知っているはずなのに、ツァンクーにはわからない。

「まったく……」

「ツァンクー? あら、こんなところにいたのね、声が聞こえたから――……」

にやにやとゲレクタシはまだわらっているが、いつものようにツァンクーの肩を抱いてぐっと脇腹にひきよせた。氷のような冷気はかんじない。あたたかい、ひだまりのにおいがする。

「まあま、どうしたの。泣いたりなんかして……」

「いやぁ、ちょっといじめちゃってさ。ツァンクーもまだまだ子供だな」

祖母だ、とわざわざ頭のなかで確かめながら、ツァンクーは鼻をすすった。そしてまた、ゲレクタシは大きいと思った。

2016年3月7日公開

作品集『春を負う』第1話 (全2話)

春を負う

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© 2016 斧田小夜

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