<title><postlude ; monologue>
あとがき、あるいはひとりごと
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<doctype ; wishful>
この回想録の中心にいつづけた探索者の歴史は、これよりほんのわずかな時間で終わる。私にとってはまばたきにも満たない、ほんのわずかな時間だ。これより後の記録は残っていない。彼の脳に埋め込まれていた人工海馬<artificial hipppocampus serial : XB9003456>は外されてしまったからである。
この続きはとある一冊の書物――この単位もとうに使われなくなってしまったが――『ミタツネの子供たち』<isbn : 9876-2235-0982-33>において短く言及されるだけである。
<quotation>
一九九七年三月二十一日、若き――そして、それゆえに無力な――一厚生官僚に過ぎなかった三田恒有はある一枚のA4文書作成に携わった。「ヒトのクローン研究に関する考え方について」というその文書はヒト・クローン研究を原則禁止するものであったが、彼がそこに「当面」という言葉を二度も書き加えたのは、単に彼が科学的に無知だったというだけでなく、ある個人的な理由からだった。
彼の祖母はその前年に施行された「らい予防法廃止に関する法律」には間に合わず、熊本の療養所で孤独な死を迎えている。愚かな法の犠牲になった祖母の死は小さな棘となり、彼を慎重な男――座右の銘が「決め付けはよくない」という退屈なアフォリズムであるような男――にした。それゆえに彼は「絶対に」という言葉を「当面」という言葉に変えて法律文書に潜ませたのである。
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一九九八年当時、大阪大学生命機能研究科に在籍していた里崎昭人は個人的にクローン技術の応用実験を行っていた。体核細胞ではなく、生殖細胞を使ったクローンを生成する実験には、はじめの何度か成功した。生成させた「固体」はすべて胚のうちに死んでしまったが、次の段階――つまり、その「固体」が胎児になる段階――へ至るには、エリオット・ローズウォーターによる発明を待たねばならなかった。
ローズウォーターが発表したのは、ドナー細胞の二倍性を崩さずに培養する方法である。それはクローン羊ドリーの産みの親イアン・ウィルムットの方法を踏襲し、細胞培養地の血清濃度を下げることで細胞へのストレス負荷を上げるというものだが、脱カルシウムFCS含有培地の血清濃度を〇・三八~〇・二九%の間に保つという職人的微調整をこなすことで、飢餓状態になったドナー細胞を脱分化させることに成功した。
里崎はその方法をすぐさま利用し、ヒトクローンの成長に成功した。彼は理論的に優れた科学者ではなかった。革命的なアイデアは一つも生んでいない。しかし、大量の論文を渉猟する根気と、実験を繰り返す愚直さが彼を画期的な科学者にした。
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ゲノム中にあるすべての機能因子を明らかにするENCODE計画が始まった頃、里崎はミシェル・ジェルジンスキによる「XX染色体のインプリンティング解除」に関する研究成果を知る。女性の持つXX染色体は、片方のXがサイレント状態(インプリンティング)になっている。つまり、二つあるX染色体を一つしか使っていないのだ。発動している染色体に異常があれば、たとえサイレント状態にあるもう一方が無傷でも、異常が発現してしまう。ジェルジンスキは、脱メチル化によるインプリンティング解除に成功し、女性に多い膠原病の究明への道を開いた。
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