ミス失敗国家の悩みごとは……

紙上大兄皇子

小説

6,351文字

海岸沿いに建つ「みぎわの家」は、猿たちが行列をなす娼家である。そこにいる唯一の娼婦「ミス失敗国家」の口癖は「困ったわ」だった。

名前だけは「(みぎわ)の家」などと立派なくせに、簡素なトタン張りの掘っ立て小屋で、彼女は悩んでいた。しかし、その悩み事というのは、家の古さでもなく、そのボロ家の前に列をなす猿たちでもなかった。

「困ったわ……」

ゆるい砂地に立つ小屋には、窓ガラスがはまっておらず、ベタついた潮風が通り過ぎていく。風の溜まる軒下からだんだん錆びついて、腐食した部分がぽっかりと口を開けている。そこを空気が通り抜けるたびに不気味な声がうわんと鳴るのだが、彼女の悩みはそれではなかった。

猿たちが彼女を抱くとき、家はガタガタと揺れた。もともと建てつけが悪かったため、ちょっとの揺れが増幅する。このままだと崩落するわ――猿にのしかかられながら案じたこともあったけれど、そこまで深刻な考えにはならない。まだ大丈夫、まだ大丈夫、とすぐに思い直し、結局のところまだ崩れていないのだ。そのうち、彼女はこう考えるようになった――家の構造自体が踊っているんだわ。

だから、家が崩れそうなことも彼女の悩みごとではない。たとえ崩れたって、彼女が気に病むことはなかっただろう。家以外のものなんて、もっとずっとたくさん崩れてしまっているのだ。

行列をなす猿たちの数が多すぎることも、これといった悩みの種にはならなかった。たしかに、彼女一人でさばききれる数ではない。岸辺にできた行列は、世界ごと丸のみにできる蛇みたいにどこまでも続いていた。いったん途切れたと思っても、トカゲの尻尾よろしくニョロニョロと甦る。常連の猿はバカみたいに列ぶことはせず、列が途切れる瞬間を狙っているのだ。

「今日もまだたくさんいるわね……」

休憩の隙を狙って、彼女は窓から外を見る。そして、呟く。でも、いいわ。彼女がそう思うころには、もう次の猿がのしかかっている。

天窓には飢えた猿がはりついて、自分の番を待っている。店じまいの迫る午後四時になると、我慢しきれなくなった猿どもが次々に小屋へよじ登るのだ。他の猿を踏んづけてでも覗こうとする。遠くから見ると、薄ぼんやりと湿った渚の夕闇にまぎれ、それこそ黒いうわばみのように見えた。うわばみの(あぎと)に挟まれて、小屋はぎしぎしと悲鳴を上げる。それでも、彼女はこう思うだけだ。

「かわいそうなお猿さんたち。どうせ明日が来るっていうのに。世界は終わるかもしれないけど、明日だけはぜったいに来るのに」

陽がとっぷりと沈む頃、猿たちの目は天窓で星になる。その光を眺めていると、彼女は悩むどころか、嬉しくなりさえする。自分が欲されているからというより、まだ世界に欲望が残っているから。欲望の星が目をつむる頃、彼女もまた眠りにつく。

彼女の住む小屋は市街地から離れたところにあった。国道(ハイウェイ)は荒れ果てていて、さらにそこを猿たちが通るから、礫砂漠のようになっている。体力のある猿が欲望に突き動かされれば、ゴツゴツした石つぶての上を歩くことなど、どうということはないだろう。ただ、彼女の足の裏は柔らかだった。丸みを帯びた石を踏んづけただけでも、足の裏の皮が破れて、鮮血がほとばしる。ほんの少しの移動が血を求めた。

だが、それさえ彼女を困らせなかった。入用のものはすべて猿たちが持ってきてくれた。とくになついている猿は、掃除や修繕などの雑用も引き受けた。

そういう猿がとりわけありがたいのは、吹き寄せる砂が押し固まってできた砂山を取り除いてくれることだ。もっとも、入り口に溜まった砂の山をかきわけてくれる猿が、砂の吸いすぎで窒息してしまうこともあったが、代わりはいくらでもいた。猿たちの欲望には限りがなかった。彼女の他に対象がないのだから。

「あんたは聖女だよ」と、ある猿が言った。「いや、神さまだな。この国に一人の女だし、この『一人』ってのはなんだか立派な感じがするぞ!」

かといって、彼女が熱っぽく崇拝されることにはならなかった。猿たちの想いは決まって胸の中に秘められたまま、欲望となって彼女にぶつかってくる。猿たちには話しあうことなどなかった。会話が生まれたとしても、それは独白をより集めたモザイク画のようなものに過ぎなかった。信仰が生まれるには、絶望が深すぎたのだ。

結局のところ、彼女はいつも困っていた。その悩みについて、誰にも語ったことがなかった。猿たちは、自分が今のしかかっている女が「困ったわ」と呟いても、あえぎ声か何かだろうとしか思わない。彼女はいつも、一人ぼっちで悩んでいた。

 

 

ミス国家を選ぼうという試みは、その国にとって最後の国家事業となった。「国家」という名前がつくのはこれで最後になるだろう――言いだしっぺの保健省官吏がそう思っていた。

当時、かろうじて残っていた政府は、その本来の役割を何一つ果たせずにいた。徴税も、軍備も、福利厚生も、教育も、何一つ。それでも組織としては残っていたため、少しは発言力があった。

「わが国には溌溂とした雰囲気こそが求められています。美しく、元気で、人間的な女性を選び、わが国復興のシンボルとすれば、少しは明るくもなるでしょう」

ニュース映像の中にある保健省大臣の顔には笑みが浮かんでいた。そして、その笑顔の端には皮肉な皺が刻まれていた。それにはいくつかの理由がある。「わが国復興」という使い古されたフレーズの響きや、「人間的」という言葉の持つちぐはぐな堅さや、そもそもミスの名に値するほどの貞潔を保った女がほとんど残っておらず、仮にいたとしても、三ヶ月にも満たないうちに彼女はミスの資格を失うことが明らかなことや……。

それでも、五人の女が候補に挙がった。どれも死んだような笑顔を浮かべる女ばかりだったが、それでも笑えないよりははるかにマシだった。

選考過程が進むにつれ、一人が脱落した。ウェディングドレスを着る審査の途中で、なにもかもが馬鹿らしくなって、ウェディングドレスを脱ぎ捨てたのである。白いレースをふんだんにあしらったドレスは、控え室に一番近いトイレの便器で、下水管を詰まらせていた。

四人になって、結果発表を待つあいだ、さらに候補の一人が殺された。こんなコンテストに出るぐらいだから何か持っているだろう――そう考えた浅はかな猿に殺されたのだ。控え室で発表のドラムロールを待っていた彼女の持ち物といえば、会場まで彼女を運んできた自転車と、簡素な一枚服、そしてほんの偶然から残されたに過ぎない貞操だけだった。彼女の貧しさに失望した猿は、すぐさま駆けつけた官憲に撲殺されたので、反省する暇がなかった。

コンテストの開催中に候補者が殺されたことで、中止も検討されたが、急造の中止検討委員会が討議を重ねているあいだに、なんの手違いか、ドラムロールが鳴り始めた。期待に胸を膨らませている猿たちは、聞くに堪えない怒号を上げた。会場を覆う天幕は、欲望を受け止めて膨らんだ。それを聞いた候補者の一人が壇上から逃げ出した。あてを失ったスポットライトは、うろうろとステージを彷徨してから、二人残った候補者のほぼ中間に落ち着いた。どう見ても等距離にあった。しかし、さる民兵組織の下士官の娘より、小銃の運び屋の方が近いということになった。背中につけた孔雀の羽飾りが、わずかに光を捉えていたのである。

選ばれなかった方はほっとした顔をしていた。民兵組織の伍長の家へ嫁ぐことが決まっていたのである。

一方で、選ばれた女は困ったような顔をしていた。ちっとも嬉しそうではなかった。なんであんな女が選ばれたんだ? 誰もがそう思っていた。しかし、拍手は鳴り止まなかった。

ミス国家に選ばれた七日後、彼女はミス失敗国家になった。政府は消滅し、彼女に与えられるはずの公務もなくなった。小銃の運び屋はもう店じまいしていたので、彼女は春を(ひさ)ぐことにした。もうそれしか残っていなかった。

一番目の客はかつての政府の首長だった。彼は自分が携わった最後の仕事の仕上げとして、元ミス国家を抱くことを選んだのである。

「こういうことになっちまったのは」と、彼女を抱いたあとに首長は呟いた。「誰かが悪いんじゃない。どうしようもなかったことなんだ。わかってくれるだろう?」

彼女は頷いた。そんなことは政府の消滅以前に、とうにわかりきっていたことだった。首長は許されたように笑った。

「ありがとう。おまえはもうミス失敗国家だ」

その冗談を最後に、首長は自ら命を絶った。帰り道、猿たちに睨まれながら、火のついたダイナマイトを抱き締めて。

そんなことがあった後でも、客はすぐに増えた。すぐに処理しきれないほどの数になった。しかし、彼女はその点に関しては困らなかった。幸い、汀の家は行列を作るのにうってつけの海岸に建っていた。

そのうち金を取ることもやめた。そんなものはもう役に立たなかった。猿たちが自発的に持ってくるものを食べていれば、生きられた。もともと欲しがらない女だった。

 

 

彼女の悩みが解決しないうちに、奇妙なものが海岸に漂着するようになった。黒いススのようなもので、焼けた流木に見えた。はじめ猿たちは面白がって集めていたが、次第に大きな塊が流れ着くようになると、怯えてキイキイ鳴きだした。その塊は猿にそっくりな格好をしていた。

やがて、民兵たちが来て、その塊を集めた。撤去して得意げな顔をするつもりだったのだろう。が、それもすぐにやめてしまった。塊は海岸線をびっしりと埋め尽くすほどたくさん漂着した。民兵はかつて漁師がカジキマグロを釣り上げるときに使っていたカギ棒で塊を引き上げた。

「こりゃ、どっかで戦争でもやってやがる!」

その民兵は吐き捨てるように言うと、黒い塊を投げ捨てた。白い砂の上に、砕けた黒い四肢が散らばった。それはおそらく猿たちの仲間で、焼け焦げて悶え死んだ名残だった。そういわれると、どれもこれも生まれてしまったことの苦痛に耐える胎児のような姿勢をしていた。

どこか遠いところで戦争がはじまり、もうすぐ世界は終わるらしい――そんな噂が猿たちの間に流れた。

汀の家から伸びる列は、さらに長くなった。ミス失敗国家にのしかかる猿たちの網膜には、流れ着いた猿の焼死体が焼きついていた。牙を剥き、爪を立て、毛という毛を逆立てて、彼らは怯えていた。そして、その怯えがすべて彼女の上にのしかかってくる。恐怖の代償には絶頂が求められた。彼女はその一々に応えねばならず、古い木綿のように疲れきってしまった。

ほどなくして、大人たちの元で働く猿がこんな噂をもたらした。

「どうやら、沖の方でフェリーが焼けたらしいぞ。二十万人以上が死んだそうな。だから戦争じゃねえ。ただの火事だ」

噂が収まると、猿たちはかつての肉欲を失った。果てしない行列は少し縮まり、世界を丸のみできる蛇ほどの大きさに収まった。夜に煌めく太陽のようだった瞳は、星ほどに落ち着いた。それでも彼女は「困ったわ」と呟いていた。

年月の歩みを追い越して、彼女の身体は衰えていった。生まれてからそんなにたっていないというのに、驚くべき速度だった。しかし、猿たちはそんなことなどかまわなかった。誰も彼女の衰えには気付かない。猿たちには今しかなかった。

 

 

ミス失敗国家がミス国家であった頃よりもずっと前、彼女は小さな家庭の女王だった。適齢期をとうに越した雌猿が命と引き換えに生みおとした子供は、その家庭のすべてを吸い上げて成長した。食い物も、空間も、金も、愛情も……。

雌猿は美しく育った。もちろん、彼女の家庭の基準に従って。他の誰にも伝わらない「美しさ」は、小さな家の中で独裁者として振舞った。好きなときに、好きなことを、好きなだけやった。誰もが可愛らしい暴君の命令に従った。

その幸福な独裁が壊れたのは、長い長い夜のせいだった。

蜂起した民兵たちは彼女の親の倉庫から武器を奪い取ると、その効果をすぐに試したがった。彼女の臣下たちは様々な実験を施された結果、みんなそろって儚い肉片に変わった。女王だけが倉庫に隠れていることを許された。一人ぼっちの独裁国家で、彼女はかたかた震えていた。

民兵たちは彼女を連れまわしたが、犯すには幼すぎた。愚かな民兵たちはなにかにつけて徹底していなかったのだ。彼女は民兵たちに連れまわされることを、女王陛下の新しいお勤めだと考えるようにした。

ほどなくして、民兵たちは壊滅した。大人たちの介入を受けた政府の反撃を受けたのである。彼女は倉庫の奥に隠れていたため、見つからなかった。もう震えることもなかった。倉庫に隠れていれば見つからないというのは、わかりきったことだった。いくつもの武器を孕んだ暗闇の奥で、彼女はじっと息を殺していた。

政府軍が去ったあと、民兵たちの死体を片付けながら、政府の人間に対して好ましい想いを抱いた。民兵たちの死体はどれもこれも綺麗だった。必要以上の砲撃を受けていない。彼女は政府の美意識に尊敬さえ抱きながら、民兵たちの死体に火をつけた。猿たちは炎の中で縮みながら、黒煙を吐き出して空を汚した。

誰もいなくなった倉庫の中で、彼女は掃除をはじめた。臣下だった家族や民兵たちの思い出に包まれて生活するのは、あまりに悲しすぎた。彼女は倉庫の中の武器をすべて売ることに決めた。

華奢な少女の銃は、飛ぶように売れた。純潔を保った少女の銃で撃てば、必ず当たるという迷信がはびこった。猿たちは列をなし、在庫はすぐになくなった。

がらんどうになった倉庫を見て、彼女はちょっとした悲しみを覚えた。自分を女王にしてくれたものは、すべてなくなってしまった。今、彼女はただの少女になってしまった。

もっとも、それだってつかの間の悲しみに過ぎない。目端の利く猿は、彼女に銃を仕入れさせ、その上がりを得た。彼女の手が触れただけで、どこにでもある小銃は神器となった。

転売を続けているうちに、彼女の名は国中に知れ渡った。清らかな乙女が銃を売っている。その銃は絶対に命中するらしい。猿たちは噂が好きだった。

現実にはその反対だった。粗雑な銃はすぐに暴発し、運の悪い猿の頭は吹き飛んだ。うまく発射できたとしても、弾は見当違いのところへ飛んで、敵兵をびっくりさせるだけだった。

ただ、その銃は果てしなく続く内戦に大きな変化をもたらした。滑稽味を与えたのである。

滅多に当たらない銃である。進んで照準に入り、ニヤニヤ笑うのが流行った。撃たれて死んだ猿は、興ざめな奴だということになった。そのため、猿たちはいつまでだって内戦を続けていくことができた。おかげで銃は際限なく売れた。彼女の手元を右から左へと通り過ぎていった。

あどけない死の商人は、どんどん有名になった。猿たちの妄想がはちきれそうになった頃、彼女をミス国家に推薦しようという大人が来た。この大人はもともと猿だったが、努力という古びた呪術のおかげで、回される側から脱していた。

「なあ、君ならきっと、この国を救う女神になれるよ」

女神――彼女はそういわれて、うっとりとなった。銃を右から左に渡すのはもうつまらない。女王陛下のお勤めではない。みんなの女神になって、微笑みを浴びせかけたい。みんながもう嫌だって言うまで。

 

 

彼女がミス失敗国家になってから、上手に笑うことは難しかった。彼女には心労が絶えない。どうしたら、この国をよくできるのかしら、どうしたら、国民はみんな元気になって、「わが国復興」ができるのかしら――彼女の悩みは解決しようがなかった。なぜなら、もう国家など存在しないのだから。

「困ったわ……」

それでも、ミス失敗国家は悩み続けている。どうしたら国家を建て直せるのかという、ありえない夢想について。

 

――(了)

2007年5月15日公開

© 2007 紙上大兄皇子

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