「お宅の息子さんぐらいですよ」
そう指摘されて、それはたしかにそうなのだけれど――と反論したい気持ちを抑えながら、申し訳ありません、と呻くように返した。
役人の声は受話器越しに高く鳴っている。声の震えがいったん電圧に変わったからだと考えれば、許せるような気がした。
「《お見送り》が子供たちの《心育》にとってどれほど役に立つか、おわかりでしょう? 失礼ですが、《履歴》を見させていただきました。ご主人は08年生まれですね」
「ええ、私も見送りました。五年生だったかな」
「でしたら、おわかりでしょう。ご自身の経験に照らし合わせて」
この役人はずいぶん若いらしい。05年から10年までの世代が他と決定的に違うということが、感覚的にわからないのだ。もしかしたら、まだ十代なのかもしれない。役所のバイトも、ついにこういう責を負うようになった。自分の頃とは、なにもかもが変わりつつある。
「でも、私の頃はまだ初期でしたから……」
「あ、そうなんですか」
役人の声は勢いを失った。どういう仕組みでこの若者に点がつくのかはわからない。しかし、積み上げた点数以外に、彼の仕事を評価するものはないのだ。
「しかしですね、現在の《お見送り》は当時のように行き過ぎたものではなく、もっと穏やかな形式で子供たちの心の成長を……」
「わかってます」
遮るように言うと、役人は小さく息を飲んだ。ヒッという音が受話器の向こうで静かに凝り固まる。
「息子には必ず、来週までに行かせますので。お亡くなりになるのは、これは……」
「ユズリハさんとお読みするそうです。信越州の出身です」
「それはまた、どういう理由で移ってきたんですか?」
「ご心配されなくても大丈夫ですよ。越境組といっても、排除されてきたわけじゃありませんから。お医者さんなんです。身分はしっかりしてますよ。それに、数値もいい。《心育》など、大学生のときに全国圏に入ってますね」
「そうですか。いや、うちの息子は少し、ストレス耐性の値が低いものですから」
「そんなことありません、大丈夫です。息子さんは充分に許容値です」
「はあ、数値はそうなんですが、なんとなく、親としてそう感じるときが……」
「そんなこと心配しなくてもオーケーですよ」と、役人の声は急にくだけた。「誰だって経験することですから。それに私どもは、ベストの組み合わせを選んでいますので」
「わかりました。来週までには必ず」
「はい、よろしくお願いします。ユズリハさんのアドレスの閲覧許可は出しておきましたから、息子さんが自分で見るようにしてください。お父さんがやってしまうと、《心育》の意味がありませんから」
「わかりました」
「それでは、失礼します。夢虹ヶ浜町役所の北村をよろしくおねがいします!」
点数を確保して明るくなった役人の声は、電話を切っても耳に残った。もう電話など、役所以外では誰も使っていない。
夕方になって通話記録を見た妻は、「なんで電話なのかしらね」と訝っていた。少しはしゃいだ風なのは、怯えているからだ。パーマのかかり具合を確かめるように何度も髪を撫でては、電話の液晶ディスプレイを眺めている。
「メールでよかったのに、電話なんて……そこまですることないんじゃないの」
「一応、メールも来てたからな。向こうも本腰を入れてせっついてきたってことだろ」
「何通?」
「さあ。共有フォルダに入ってるから、見てみろよ」
しばらくのあいだ、親指をカチカチと動かしてから、妻は諦めた。メールは三通来ていた。それだけ無視すれば、行政執行をする権限が発生する。妻は折れそうなくらい細いアゴ先に指を当てたまま、不安を拭いきれないようだった。
「今日、何時に帰ってくるんだ?」
「学校は四時半までだけど、そのあと《プレップ》があるのよ」
「ちょっとぐらいなら寄れるだろ。《地図》で確かめてみろよ」
「でも、勝手に見るのは悪いわよ……」
「いいんだよ。また電話がかかってくるよりはずっといいだろ。どっちみち、俺は今日ぐらいしか都合がつかないんだ」
「あら、また夜勤? ついこないだもそうだったじゃない」
「だから、また夜勤なんだよ」
「そうね、私も明日から連勤だし……いいわよね。ごめんね、ナオミちゃん」
妻はそういうと、《地図》を開いた。赤と青の点が二つ、距離をおいて光っている。
「あら、イサクはまだだけど……」
姉のナオミを示す赤い点は、駅前の《ゲットー》にある。
「ほっとけよ。彼氏の家にでも遊びに行ってるんだろ」
「でも……」
「早く落ちないと、また噛みついてくるぞ。アクセス拒否だなんだってな」
「そうね。ナオミちゃん、怒ると怖いから」
妻はぺロッと舌を出すと、《地図》を閉じた。暗転したディスプレイは、すぐにスクリーンセイバーに変わる。猫が戯れているその画面は、見ていて和むからと妻が選んだものだったが、彼女はその猫がこの世に存在しないということは知らなかった。世界最後のアムール豹の赤ちゃんは、保存用遺伝子を取り出す手術の失敗で、すでに世を去った――検索ロボットが勝手に届けてくれたそのメッセージは、他の誰かの目に入る前に消去してある。
「どっちみち、イサクは《プレップ》のあとに行かなくちゃならないな。二時を過ぎるぞ。先方には断っておかないと」
「あら、大丈夫よ。《お見送り》なんて一時間あれば済むでしょ? 《プレップ》の前に行けばいいの。あの子ならできるわ。だいたい、あなたがイサクちゃんにいわないでいたから、こうなったんじゃない」
「それはそうだが……でも、向こうだって都合があるだろ。そんな、一時間でなんて、決められないんじゃないか」
「それはあなたの頃の話でしょ? ポスト10年の人はみんなすぐに済むっていってるわよ。私が見送った人も、さわやかだったわよ。はいよく来たね、はいそれじゃあ死ぬからね、さようなら、って感じで」
「ちょっと待ってろ」
ユズリハさんの《履歴》を開いた。杜豊・信越州長野県松本市出身・独身(離婚1回)……。
「すごい! 《心育》が九〇超えてるじゃない!」
妻は叫んだ。たしかに、九〇を越えるとなると、実際にはお目にかかったことのない人間ということになる。
「なら大丈夫よ! さっさと済ませてくれるわ」
「しかし……」
「イサクちゃんの《心育》にも効果絶大よ。なるべく立派にさよならしてくれるわ」
妻はすっかり安心したようだった。
――わかりました。先のばしはよくありませんね。杜さんのところへいってきます。帰るのは《プレップ》が終わってからになるので、二時を過ぎると思われます。お疲れでしょうから、先に眠っていてください。
「文章うまいわね! さすが、《日本語特進》だけあるわ!」
イサクから返ってきた丁重なメールを読んで、妻は声を上げた。
「とりあえず、イサクが帰ってくるまで待っていよう。あいつはあいつで大変だろうから」
「ナオミちゃんは帰って来るかしら」
「どうだろうな。泊まってくるんじゃないのか。元気くん……だったか」
「あの子、出所不明者らしいわよ」
「なんだ、《履歴》でも見たのか」
「ナオミちゃんがいってたのよ。親がわからないんですって」
「本当か。ほら、《ゲットー》の人の間じゃ、そうやっていうのが流行ってるだろ。うそぶくっていうか」
「うそぶく……」
妻はオウム返しにすると、すぐに検索を始めた。ああ、と一人合点をして、恥ずかしそうに画面を閉じる。
「うそぶくって、そういう意味ね。私、日本語の成績があんまりよくなかったから」
「まあ、古い言葉だからな。今じゃそんなに使わない」
慰めても、妻の落ち込みは止まらなかった。親の日本語能力が子供に大きな影響を与えるという《シデハラ・リポート》がどの民族にも当てはまる普遍的なものであるとされたのは、ちょうどイサクを妊娠していた時期で、それからずっと、妻は自分の日本語力に病的な不安を抱いている。ナオミがああなったのは、自分のせいじゃないか、そのせいでナオミは他人とコミュニケーションが取れなくて、《ディスコミュニケーション》の烙印を押されたんじゃないだろうか、と。
当のナオミが帰ってくると、ようやく妻の動揺は収まった。それもまた、親の抑鬱状態が子供を引き込むという研究成果に怯えてのことだ。心の深い部分では、怯えがにたにたと踞っている。
帰ってくるなり自分の部屋にこもってしまったナオミが居間に来て、「パパ、これ吸う?」と差し出したのは《クサ》だった。
「どうしたんだ、こんなもの。高かったろ」
「タダだよ。ゲンキートの友達がね、作ってんの」
「へえ、農業ができるのか。凄いな。なんで《ゲットー》にいるんだ?」
「ガイジンの血が混じってるからに決まってんじゃん。ほかになんかある?」
吐き捨てるようにいうと、ナオミは《クサ》の詰まったジョイントに火をつけた。巻紙の前で大きな炎が上がり、青臭い匂いが鼻をつく。深く吸い込むにつれて熾りが赤々と光った。ナオミはジョイントを口から放すと、こちらへ突き出した。そして、煙を漏らすまいと唇を結んだまま、小さく頷いた。
妻もその輪に加わって、《クサ》のもたらす酩酊がかりそめの団欒をもたらす。なにもかもを許せるような気分は二時間と続かないが、酔う以外に打ち解ける方法は少なかった。
「今日、イサクが《お見送り》なんでしょ」
ナオミはチョコレートをかじりながらいった。
「あの子、きっと落ちて帰ってくるから、あたし、いてあげようと思って。偉い?」
「ああ、偉いよ。なんだかんだいって……」
そういいかけると、妻が「あら、大丈夫だってば」と遮った。
「今日の人は《心育》が九〇超えてんだから。うまいことやってくれるわよ。最近じゃ、悪影響が出るってことはないらしいじゃない」
「そう? あたしぜんぜんだったよ」
ナオミはそういうと、床の上に転がって、仰向けになった。足の付け根まで丸出しのショートパンツから、長く細い足が伸びていた。
「サイテーなババアだったし。あんなの、勝手に死にゃいいんだよ」
「ちょっと、ナオミちゃん、そういうこといわないで」
「うるさいなあ、ママだって行けばそう思うよ。マジ汚いし、うっとうしかった」
「どれぐらいかかったんだ?」
「ちょっとパパ、サイテー。知らないの? 娘のことなのに」
「だって、おまえはあの日、帰ってこなかったから」
「そんなの《地図》見りゃわかんじゃん」
「勝手に見るのは悪いと思ってな」
ナオミはふんといって、体ごと反対側へ向いてしまった。しなやかに伸びた体を《ゲットー》の男に預けるようになったのは、中学に上がってからすぐだ。彼女が見たのは、生きることの空恐ろしさだったのかもしれない。
三人とも黙りがちだったのが、ナオミがポツリと呟いた。
「パパの頃はどうだったの? なんか、失敗が多かった頃なんでしょ」
「ナオミちゃん、あれはね、失敗というより……」
「いや、失敗だった」
妻の言葉を遮ると、ナオミの身体がこっちを向いた。
「失敗って?」
「あの頃はまだ、自分の死を選ぶっていうのがわからなかったんだ。生きられるだけ生きるのが当り前だと思われてたからな。《お見送り》が家にやってくると、怒る人だってたくさんいたんだよ」
「たくさんいたかどうかなんて、どうでもいいの」
と、ナオミは起き上がり、あぐらをかいた。そして、長すぎる足をもてあますように、うしろに手をついて身体を預けた。
「あたしが聞きたいのは、パパがどんな人を見送ったとか、どう思ったとか、そういうことなの。やな奴だったんでしょ?」
「まあ、やな奴というか、あの頃はまだ《心育》がなかったから……」
「あの頃あの頃って、もういい!」
「ナオミちゃん、そんなんだから……」
「もういい! パパもママももういい!」
ナオミはまたふて腐れてしまった。しかし、彼女が部屋を出て行かないだけ、この家族にはまだ壊れていないものがある。
静かな時間が流れ、一時になった。会話はまったく生まれていないのに、誰も居間を出て行かなかった。
「もうすぐ、帰ってくる」
ナオミが呟いた。
「《地図》を見たのか」
「ううん、感覚的にわかんの」
ナオミの言葉を信じたのか、妻は胸に両手を当てて、きゅっとしぼった。
「コーヒーでも入れるわね」
そう呟いた語尾がかすかに震えていた。
防犯カメラの画像がパッと明るくなった。
「帰ってきた」
ナオミはひょこりと身体を起こし、玄関へ駆けていった。トトトと床を鳴らしながら弟に駆け寄る彼女の健やかさは、《ディスコミュニケーション》の一語でくくられてしまっている。
居間に入ってきたイサクは、そんなに疲れた風でもなく、とりあえずは無事に終わったらしかった。
「イサクちゃん、どうだったの?」
「ええ、すごく立派な方でしたよ」と、イサクは妻に答えた。「信越州から越境してきたのも、役所に呼び出されたからなんです。自分を犠牲にすることができて、他人を尊重できて、人間の鑑みたいな方でした。《心育》が九〇を超えているというのも納得です」
「そう、じゃあ、イサクちゃんもきっとそうなれるわね」
「はい、がんばります」
その笑顔が痛々しいので、「よくやった」と声をかけると、イサクはにっこりと微笑んだ。
「さすがだな。《プレップ》を休んでもよかったんだけど」
「いえ、休むと追いつくのが大変ですから。それに、奨学金を取らなくちゃなりませんし」
「そうよ、ガンバッテ、イサクちゃん!」
「はい、ママ」
妻はイサクの応えに満足したのか、いそいそと台所へ走った。いつかいいことがあったときのためにと買っておいた冷凍マグロが、冷凍庫の中でカチカチに凍っている。妻はそれを取り出し、レンジにかけた。レンジは唸り声を上げながら、マグロの塊を慎重に融かしはじめた。
イサクは子供らしからぬ静かな微笑みで、祝いの料理が出るのを待っている。イサクの静謐さは、宗教家のそれに似ていた。
「問題はなにもなかったのか?」
すっかり安心しきってそう尋ねると、イサクの笑顔にわずかな翳りが生じた。
「何かあったのか?」
「問題というほどのことでもないんですが……」
「見送れなかったのか?」
「いえ、見送りはしましたが……」
「なにか、嫌なことをいわれたのか?」
「そうじゃありません。とても立派な方でした。ただ、どうしても薬液投入のボタンが押せなかったので、ぼくが代わりに押しました」
イサクは最後の部分を囁くようにいった。他人にはほとんど届かない静かな声には、伺うような響きがあった。
私と、同じだった。
立派な人だった。なにもかもをわきまえ、人生における辛さのすべてに対して向き合ってきたような人だった。それでも、自分で自分の死を決断することはできなかった。お願いだから、押してくれ。あの老人は頼んだ。君が悪いんじゃない、私が弱いからだ。お願いだから、押してくれ。その響きは今でも耳に貼りついているし、ボタンを押した瞬間に抱いた感情がなんだったのかも、いまもってよくわからない。
イサクの持つ強さには、他人にそういわせるなにかがあった。そして、たぶん、その言葉は彼に傷をつける。何年も痛む、癒えない傷。私はそれを恐れて、すべてを先延ばしにしていた。
「どうしたら、いいんでしょうか」
イサクは微笑を絶やさないまま、眉根をよせた。
「どうもしなくていい。わからないことがあっても、そのままにしておいていいんだ」
「はあ、そうですか……とにかく、がんばります」
「いいのよ、がんばんなくて!」
ナオミが口を挟んだ。彼女は笑っていたが、神経質に足を組みかえるのは、心穏やかでない証拠だった。
「パパもママも、あんたに頼りすぎなのよ。一日九時間も勉強して、そのあと《プレップ》なんか行って四時間も勉強して、ほとんど寝ないで、バカ丁寧な言葉喋って……まだ九歳なのに! 別にいいじゃない、《ゲットー》に落ちたって! あたしだけは、あんたを軽蔑したりしない!」
ナオミはそういい終えると、立ち上がり、両手を広げた。
「おいで! お姉ちゃんがあんたを抱きしめてあげる!」
イサクはにこにこと笑顔を浮かべたまま困ったような顔をしていたが、ナオミが近寄ってきてむりやり抱き締めた。最初はもがいていたイサクも、やがて抵抗しなくなった。もしかしたら、泣いているのかもしれなかった。
電子レンジがマグロの解凍を告げた。切り分けて皿に盛ったマグロを持った妻は、二人を見て、「仲がいいわね」と頬笑んだ。
――(了)
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