あなたは『寄生獣』という漫画を読んだことがあるだろうか。誰も聞いてこないのでいままで答えなかったが、私はこれまで数千冊の漫画を読んできており、その中でもっとも印象深い作品の一つに『寄生獣』を挙げることができる。最近映画化されたので、若い読者も獲得したことだろう。
とりわけ印象深い登場人物が田宮良子である。『寄生獣』は人間の脳を乗っ取る寄生生物と人類の戦いを描いた物語なのだが、この奇生生物である田宮良子は、主人公である新一と奇妙な交流を持つ。ただ人間を襲うだけの寄生獣たちと異なり、田宮は教師として社会生活を続け、人間を食べない生活を試みたりもする。そして、子供を産み、その子供が自分のような寄生獣ではなく、人間の子供であることを不思議に思ったりもする。田宮についてあまり書いてしまうとネタバレになってしまうのでここらへんにしておくが、彼女は新一にこんな言葉を言う。
私たちは弱いのだ あまりいじめるな
岩明均『寄生獣』
寄生獣によって命を脅かされ、大切な物を奪われ続けた新一は激昂するが、うまく言葉を続けられない。彼女の言う通り、寄生獣はとても弱い。子供を残せないし、数が少ない。少なくとも人間に脅かされる程度には。私がこの文書において伝えたいのは、そうした強いけれども弱い存在についてだ。
あなたはメルカリというフリマアプリをご存知だろうか。スマートフォンをお持ちであれば、一度試してみるといい。あなたはそこで不要な物を売ることもできるし、必要なものを買うこともできる。すでに15年以上前からYahoo! オークション(現在はヤフオク!)というオークションサービスがあり、インターネットにおける個人間売買の歴史は長いのだが、メルカリの特徴は「競り」の要素がないことである。取引はいたって簡素だ。金額が提示されており、それを買う。値下げ要求はできる。以上。あなたがヤフオク! を利用したことがあるのなら、落札直前の値上がりにうんざりしたことがあるだろうし、スタート金額の安さにつられて何度もブラウザをリロードした自分を馬鹿らしく思ったことだろう。メルカリでは少なくともそんなことはない。
たとえば、私は幼い二卵性双生児の親なのだが、娘の方は生後8ヶ月ぐらいからアンパンマンに対して情熱を燃やしている。まだハイハイをしている頃から「アンパンマン!」という言葉を発し、「パパ」や「ママ」よりも得意なぐらいだ。私はほとんど言葉もままならない赤子に「アンパンマン!」と言わしめるやなせたかしという人の偉大さに震撼したものだ。ともあれ、そこまで好きならばおもちゃでも買ってやろうとなるのが親心だが、イオンなどで買うとそれなりに高い。専業主婦である私の妻は、節約のためといってヤフオクなどを探し回っていたのだが、競り落とすのが面倒になったのか、結局メルカリに落ち着いた。欲しいと思ったものがなにも考えずに安く買えるのは、買い物を試みた末に競りで失敗をして落胆が待っているかもしれないヤフオク! でもなく、異常な商品数から注意深く選ばなくてはいけない楽天でもなく、メルカリだったようだ。なにせ、段ボール一杯のアンパンマンのおもちゃを2,000円で買うことができる。出品者によれば、アンパンマン気違いの娘が突如興味を失ったので、処分のため出品したらしい。捨てるよりは2,000円の方がましだということだろう。
メルカリにおける安さには、どこか自暴自棄なところがある。いや、忌憚なくいえば世間知らずの安さなのだ。私は妻も母も専業主婦なので、特に専業主婦に対して侮蔑的な感情を抱いているわけではないのだが、消費価格に対する意識の高さ(より安く卵を買おうとする)と給与所得や資本所得に対する意識の低さ(私の時給単価からいって犬の散歩は6,250円かかっている)を感じることがある。私の母は祖父ゆずりのケチな人で、私が中学生のときに着ていた黄色いラガーシャツ——ユニクロで買った1,000円のもの——をまだ部屋着として愛用しているのだが、証券会社の口車にのり、ブラジル債を大量に買ってウン十万の損失を出して夜中に叫んでいる。こうした歪な感覚はメルカリに充満している。
たとえばあなたの家にガラクタがあったとして、そのガラクタが家の収納を圧迫しているとなれば、捨てようと思うのは自然なことだ。少なくとも、それを売った対価が送料を払ってお釣りがくるぐらいの額ならば、損をしたと思わないだろう。それは私もよくわかる。もしかしたら高く売れるかもしれないが、その機会を探すのは面倒なのだ。いや、面倒なのだというより、そもそもガラクタが売れるかどうかという経済的な問いに頭を悩ませるぐらいなら、2,000円貰えれば十分だろう。心理的コストを考えれば、実に合理的な判断だ。
だが、私はメルカリについてどうしてもわからないことがある。メルカリでは小説を売っているのだ。数百円で。その人のためだけの小説を。
メルカリ内で「小説 オリジナル」と検索してみてほしい。すると、オーダーに応じて小説やイラストを書いてくれる人が多数見つかる。だいたい500円ぐらいで短編を書いてくれるのだ。プロフィールには腐女子文化特有のスラッシュ区切り(腐女子は検索よけのためシモネタをシ/モ/ネ/タなどと表記する)で得意ジャンルが書かれており、シチュエーションやカップリングを指定して小説を書く旨が記載されている。一応説明しておくが、腐女子には『銀魂』や『マギ』などといった少年漫画でホモセクシャルな妄想を繰り広げる文化があり、たとえば「弱っている銀さんに平八郎がブッこむ」とか、「金属器を失ったシンドバットがアリババに強気受け」とかいったそれぞれの望むシチュエーションとカップリングが存在するのだ。そうした要望を受け、作者達は買い手の要望に応じた作品を編む。もちろん、二次創作ばかりではなく、オリジナル作品を貫く書き手も存在する。「作品の内容で評価を変えないでください! 評価の基準は作品が手元に届いたかどうかです!」というほとんどわけのわからない注意書きを読んだ時、私の心は得体の知れないものに対する恐怖で震えた。
たった一人の人を想定して書くというのはわかる。私にもそういうことがある。だが、よくわからないのは、それを数百円で売ろうとする動機だ。オリジナリティで希少性を高め、いつか10万円で売ろうと思っているのか? それとも、権利関係の処理をスムースにしておき、よくできた作品を大量に売って元を取ろうとしているのか? こうした草の根ビジネスを拡大していくことによって世界をフラットにしていこうとしているのか? はっきりいってよく分からない。この作者達はそういったことをまったく考えていない気がする。そして、私にはそれが恐ろしい。こうした考えを持つ人が、一人や二人の変人ではなく、iPhoneの画面をスワイプし続けても出てくるということが。このジャンルを「夢小説」と呼ぶことも、依頼主のことを夢主と呼ぶことも、わけがわからない。夢を見ているのは私の方ではないのか?
こうした作者達が無敵の主婦だというのは私の当て推量だ。もしかしたら実家住まいで42歳の腐り果てた独身のキャリアウーマンかもしれない。いや、はっきりいって彼女が現実社会でどんなキャリアを積んでいようがどうでもいい。重要なのは、特定の個人しか読むことができない小説を一週間かけて500円で売るという発想を持つ人たちがいて、その人たちがテキストを作っているという事実だ。
フランス文学の世界では20世紀最高の小説をマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』だとする声がある。あの、どうしようもなく長く、一文が文庫本の見開きページを超えてなお終わらず、タイトルもよく考えたら “perdre le temps” つまり、時間を無駄にするというフランス語の慣用句を主題にしており、コルクばりの部屋で女中にご飯を運ばせながら書かれた、あのどうしようもない貴族による雑談だけからなっている小説である。つまるところ、何部売れようがそれで大して困りもしない作家が書いた小説が歴史的な評価を得ているのだ。これはなにがしかのことである。
いや、認めよう。私は『失われた時を求めて』を超える小説をまだ書いていないし、貴族でもない。日々労働に追われ、その中でなんとか時間を捻出し、小説の執筆にあてようとしているセコい男だ。私が小説に専念するならば、少なくともそれに見合った売り上げをあげなければならない。だが、そうしたからといって私の書いた小説が、主婦や貴族の書いた小説よりも価値があるというわけではないのだ。
私は以前、電子書籍の値段について色々と悩んでみたが、いまだに答えは出ていない。一度書いた作品にコストをかけてその価値が回収できる損益分岐点は? 無料で公開して評判を集めてから途中で有償化するとして、そのタイミングはいつ? 値段を500円あげると読者は何人減る? こうしたうち、答えが出た問いは何一つない。だが、そうこうしているうちに、メルカリには500円でオリジナル小説を落札者のためだけに書く作家たちが現れたのだ。
いまライターやデザイナーという世界では「ソーシャル・アウトソーシング」と呼ばれる業態が脅威となっている。ライターではそれなりの媒体であればページ1万円ぐらいは貰えたものだが、いまCrowdWorksやLancersなどといったWebサイトではキュレーションメディア——私の嫌いな媒体——のライターを1記事数百円で募集している。その仕事は引用(という名のコピペ)が中心で簡単なものなのだが、その仕事の質の低さと価格の安さから、既存のライター達から批判の声が挙がることが多い。しかし、メルカリの恐ろしさはそれどころではない。インターネットの繁栄に伴い、日本人は海外の低賃金労働者と戦わなければいけなくなる——かつてはさかんに喧伝されたその種の言説でさえ、メルカリにある恐ろしさにはかなわないだろう。技術の発展につれ、私たちは思わぬ敵を相手にしなければならなくなった。それは富を渇望する東南アジアの若者ではなく、主婦だったのだ。子育てと家事に疲れ果て、子供達が保育園の年長ぐらいになった頃にようやく落ち着き、ほんのすこしの空き時間を使って自分の好きなキャラクターを題材にした小説を書き、それで数百円もらえるだけで、十分励みになる——そんな弱くて無敵の主婦だ。
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そろそろ終わろう。そうそう、主婦の小説について散々書いてきて、いきなりこんなことを書くのもなんなのだが、最後に一つ、私が書こうかどうか悩んだ末に、いまやはり付け加えておくべきことがある。
冒頭で挙げた『寄生獣』の連載終了から数年経ち、神戸少年連続殺傷事件があった。当時はまだ人権無視の報道が横行していたので、被害少年の遺体の激しい損壊が週刊誌に書かれていた。私はその描写を読み、おそらくこの犯人は『寄生獣』にひどく影響を受けたのではないか、と思った。『寄生獣』には田宮良子以外にも浦上という興味深い登場人物がいる。彼は猟奇的連続殺人犯で、女性を殺害してその体で「あそぶ」のだが、その結果、はためには人間と見分けがつかない寄生獣を一目で見抜く力を持っていた。この浦上は物語の終盤まで重要な役割を果たすのだが、彼の回想に現れる「遊ばれた」屍体の一つが、週刊誌に載った被害少年の遺体描写にそっくりだったのだ。加害少年が逮捕され、影響を受けた作品の一つとして『寄生獣』が挙げられたとき、私は「やっぱりな」と思った。
そのとき私はまだ高校生で、無邪気に漫画の影響力に驚いたのだが、それと同時に作者の責任についても考えた。当時の私が下した結論はこのようなものだった。作者はあの事件に少し責任がある。だが、それでも『寄生獣』は素晴らしい漫画だったから、やはり描かれるべきだった、と。その思いは20年経った今もあまり変わらない。私の書くものは誰かを傷つけるかもしれないが、それでもなお価値のあるものだけを書いていきたいものだ。仮に誰かの書いた作品の描写と同じように、私の子供達が殺されたとする。そうしたら、私は深く傷つくだろう。少しでもその事件に影響を与えた作者を恨むだろう。仮にそれがどんなに素晴らしく深遠な作品であったとしても二度と見たくないと思う筈だ。人類の恥ずべき罪である焚書でさえ、その作品には例外的に適用されるべきだとまで思うかもしれない。だが、私が書くのならば、そういった罪を孕んだ作品だとしても重要ならば書くだろう。もしその二つが同時に私に起こってしまったら? 私の作品が原因で無辜な血が流れ、なおかつ誰かの書いた作品で同じように私の愛する子供達の血が流れたら? 私はどうすべきか? はっきり言って、そんな問いに答えを出すことはできない。そんなものはサンデル教授にでも任せておけばいい。
解きようのない問題よりも、メルカリ発の夢小説に白旗を上げないためにはどうしたらよいのかというのが、私やあなたの目下の悩みなのだ。卑近な問いに真摯に向き合うことでいつか私やあなたも深遠に至る日が来るだろう。
消雲堂 投稿者 | 2015-05-20 11:33
最近は「凶悪」と言うよりも、まるで「異世界」のように想定外の残虐事件があとを絶たない状況ですが、これはもしかしたら様々なメディアの(特にネットや漫画の…)影響があるのかな?と思っています。昭和40年代頃に「テレビや漫画はバカの根源」と盛んに言われましたが、あれとは根本的に違う何か得体の知れない凶悪ウイルスが一般市民を浸食し始めているのかもしれないと思うのです。しかし、いかにも単純な媒体の情報に、それほどまでに簡単に影響を受けてしまうのか? 人間というのはこれほどまでに弱いものなのか? と憂えておりまする。
高橋文樹 編集長 | 2015-05-20 14:36
コメントありがとうございます。
いきなり否定から入るのもなんなのですが、統計的に凶悪犯罪は減っているはずですよ。テレビもインターネットも私たちが見たいものを見せてくれるメディアなので、そういったものを人が求めているだけという話の気もします。