まだ見ぬ散歩するあなたへ──「サバンナの目覚め」論

島田梟

エセー

13,386文字

異常論文の公募に出したやつです。論文というよりはエッセイかも。

 私はルドンのように、大きな一個の目玉となりたい。

私のデッサンは私を裏切ることしか知らない。

 

1 「サバンナの目覚め」とはいかなる絵画か

 

「サバンナの目覚め」は、残念ながら人口に膾炙しているとは言い難い。まずは絵の構図について、簡単に説明しておきたい。

景色は、恐らく乾季のサバンナである。草はぽつぽつ生えているのみで、地肌が透けて見える。丈の高い木や山といったものはなく、地平線が続いている。空には雲の塊がひとつ。

これらの景色は写実的に描かれており、作者の暗い情念や政治的主張を見出すことは困難である。衒いのない、素直な作風だが、このサバンナに似つかわしくない存在が絵の中央にいる。それが、少年である。年の頃は小学校の低学年くらいで、パジャマを着ている。ぬいぐるみを片手に、画面左手に目を向けている。空いた方の手は目をこするのに使われ、髪の毛は寝ぐせによって暴れている。

構成要素はすこぶる単純である。しかし、描かれた舞台と人物の組み合わせが、鑑賞者の想像力を掻き立てる。

最初に、多くの人が抱く疑問は、「少年はなぜそこにいるのか?」であろう。少年の様子を見るに、たったいま自宅のベッドから起き出したといったところで、置かれた状況に対して、戸惑い、不安等のネガティブな反応はない。

常識的な解釈をすれば、少年は誰かに(誘拐犯?)連れてこられたと考えられる。親が要求をのまずに捨てられた。いや、脅迫用の写真撮影か。弱肉強食のサバンナにおいて、少年はあまりに無防備かついたいけだ。考えたくはないが、大賀肉食動物が目の前に出現すれば、ろくに反抗もできず、餌食となるだろう。だが、少年の周囲には身をひそめる恰好の草むらはない。少年が冷静に四方を警戒すれば、不意打ちを受ける心配はないだろう。少年に、冒険小説の主人公並みの機転と胆力があれば、という前提はつくが。

無論、常識的な解釈だけではなく、他の解釈も十分に成立する。

やや突飛な解釈にはなるが、少年は自分の意志でサバンナにいるという考えもできる。因習的な故郷の息苦しさ、あるいは厳格な親のしつけに耐えかね、たった一人の友達を連れて、全速力で逃げてきた。振り返る暇もなく、とにかく地上の端まで逃げてやる。だがその決意もむなしく、猛烈な眠気を催し、膝から崩れて寝てしまう。そして朝が来て、絵の場面に行き着くのだ。

筆者はあらかじめ、突飛、と言い訳した。しかしそれはまるで根拠のない出任せではない。

あなたが注意深い観察者であれば、ぬいぐるみの状態を見逃しはしまい。体は桃色で、水色のパジャマとは好対照をなしており、手足は体のサイズに比して異様に短い。顔は子供が親しみやすいように丸みを帯びて可愛げがある。熊のデフォルメか、虎のデフォルメか、いずれにしろ愛苦しいと言って良い。子供が愛着を抱くのに申し分のないデザインだが、首元に目をやると、ちょうど喉の辺りまで糸がほつれ、綿が飛び出しているのである。

これを虐待の表徴と受け取ることもできるだろう。ぬいぐるみは少年の代理自我であり、これまで彼の負ってきた心的外傷を、可視化された外傷として鑑賞者に提示しているのである。

以上の説明では、陰鬱な作品だと思われる向きもあるかも知れないが、そうした感情に見る者が支配されないのは、少年の発するのどかさにあると言えよう。どれだけ暗い過去だったにせよ、朝はもう来ている。さわやかな朝、目覚めた少年は昨日の彼ではない。単なる起床とは異なる、新しい人間の誕生である。

現物と接する前から大学の講義のように、あれこれ述べるのは無粋であろう。それは他ならぬ筆者自身が感じていることである。しかし、そうした不安は既存の絵画には当てはまるものの、「サバンナの目覚め」に関しては、適当ではない。多角的な分析でもびくともしない高い強度を有する作品、それが「サバンナの目覚め」なのだ。それこそ数十通りの見方が生じ得るため、蛇足としてさらにもう一つの解釈を付け加えたところで、来るべき鑑賞の興を削ぐ結果を招きはしないだろう。

真相は、画面外に存在する。右側には撮影クルーが乗ってきたジープが数台停まり、乗客であった衣装係、メイク係、演技指導係、プロデューサーが休んだり働いたりしている。少年は現在、名の知れたプロダクションが方々に売り込みを図るキッズモデルである。カメラマンは、クルーが写りこまないよう細心の注意を払い、皆から離れたところ、つまり我々の側に立ち、その瞬間を捉えたのだ。

我々が絵画と見做していたものは、いつしか広告のポスターに変容してしまう。安眠を約束するベッドの宣伝か、もしもの時に備えた旅行者向け保険か。意表をついて、二日酔いの錠剤、というのもありそうではある。何を表すにしろ、余白に適切な文字を入れてしまえば立派な広告になる。

自ら持ちだしておきながら、この見方には重大な瑕疵がある。それは、文字がないことである。宙吊りとなった、広告未満の代物、脱稿前の未完成品である。ありもしないメッセージを見出すのは、芸術批評に限らず、広く一般にままあることとは言え、やはり褒められたものではない。これに関しては、余談あるいは楽屋裏話として、どうか読み飛ばして欲しい。

筆者のキーボードを叩く指が止まらなくなった原因は、ひとえに「サバンナの目覚め」に眠る悪魔に魅入られたからだろう。単純にして奥深い。書けば簡単なことだが、文字通りの意味で両立した作品というのは、そうあるものでもない。

まことに稀有な作品なのだが、おしむらくは、現在人目に触れる環境にはない。誤解を招かぬよう付け加えておくと、「サバンナの目覚め」は個人の所有物ではない。ある意味では、権威ある美術館や大邸宅以上に厳重な警備の下で守られている。筆者としては、早くこの頭の中にあるイメージを、文字ではなく、絵画の形で公にしたいと考えている。完成となったあかつきには、この覚え書きめいた作文も不要になるだろう。しかし、制作には膨大な時間の消費が予想される。一朝一夕、とはいかないため、次回は「サバンナの目覚め」の美術史における位置づけについて述べるつもりである。

筆者の中で、「サバンナの目覚め」は仮定ではなく、ましてや妄想でもない。歴然たる事実である。

 

2 「サバンナの目覚め」修正版の生成過程と少年の存在論的不安の行方

 

オリジナル版「サバンナの目覚め」の構図は放棄された。完成していた少年とサバンナの地平線のイメージは、真っ白な絵の具をもって均一に塗られ、姿を消した。

次に現れたサバンナには雨季が訪れており、水を存分に吸った草が己の限界まで高く伸びている。画面の左奥には左右にねじれた枝を生やす樹木がある。

さて、肝心の少年だが、揺るぎない定位置と思われた中央にはいない。ぼんやり見ていては少年の痕跡すら探し当てることはできないだろう。

画面の右隅に目をこらすと、靴下が引っかかっているのがわかる。柄が柄だけに、シマウマの脚と誤認しそうになるが、確かに靴下である。そこから視点を上方、つまり空(曇っている)に向けて徐々にずらしていくと、茶色のパジャマが見つかる。こちらは草の上に載せられているため、幾分か目立つ。茶色のパジャマと縞柄の靴下はファッションセンスを疑うが、若い少年が冷え性に苦しんでいるとは考えにくい(だがそういう子供もゼロとは言えまい)。この辺りの分析に関しては識者・一般美術愛好家に譲るとしよう。取り急ぎ筆者が記しておきたいのは、唐突な構図の変化についてである。

前章執筆時点の筆者は、オリジナル版の完成を毫も疑わなかった。傑作にふさわしい絵の具を買いそろえ、パレットとイーゼルも新調した。後はキャンバスの前に座り、黙々と手を動かすだけで良かった。しかし、である。これは従来筆者の弱味となっているのだが、大仕事を行うぞ、とほぞを固めた時に決まって批評家としての筆者が顔を出してくるのである。

評者(と暫定的に呼ばせてもらうが)はこう言ってくる。多義的な解釈を包含するとは笑わせる。つまるところお前は、画家としての責任を放擲したのではないか、と。

筆者も、最初はこの妄言を退けていた。だが耳を塞いだところで、何度も何度も指摘してくるのである。これには参った。気になって、線の一本も引けなくなった。筆者の敗北と言わざるを得ない。

評者のありがたくもない助言を受けて見直したものこそ、修正版である。すっきりした構成が気に食わないのであれば、木を生やしてやろう、草もぼうぼうだ、これで文句はあるまい、という当てこすりがこもっている。筆者が敗北を認めたのは、表面上の事柄のみである。言わば面従腹背だ。

話が脇道にそれてしまった。重要なのは少年の行方である。

衣服は脱ぎ捨てられた。この一事はいったい何を意味するのだろうか。よほど堕落した生活を送っているのでない限り、起きたら部屋着か外出着に着替えるのが普通だろう。少年は、サバンナの真ん中で着替えを始めたことになる。草むらに身を隠していれば安全と考えるのは、世間知らずの楽観主義者である。むしろ、視界を奪われる草むらの方が、獰猛な肉食獣の接近を許してしまう。

修正版が不穏な空気だけで済むのか、明白なる差し迫った危険が描きこまれているかは、その人の鑑賞眼にかかっていると言えるだろう。重大事と余さず隠蔽する草むらを直接見てもらうのが一番だが、待ちきれないと考える方のために、手がかりを一つ、教えておくことにしよう。画面左の隅である。そこの細長いヒモが注目すべき点だ。

「サバンナの目覚め」の中心であった少年が消えたとなると、どうしても絵の持つ求心力の低下は否めない。大自然とのんきな少年の組み合わせに、エネルギーが内包されていたというのに。

残念な結果ではあるが、失ったものがあった一方で収穫もあった。筆者はこれまで、作者が出しゃばることのない、フラットかつニュートラルな作品を志向してきた。オリジナル版「サバンナの目覚め」もまた、そうなるはずであった。ところが、この考え方自体が非常にパラドキシカルであり、見る者に全てを委ねたいという作者のあさましい企図が透けて見えていたのだ。

筆者は、少年を喪失してしまった。今となっては草むらの中で存命なのかどうかも怪しい。この不安感を、作者と鑑賞者が共有できる。存在とは何か。今ここに在るとは、どういうことか。常にどこかの国で、誰かが考え、結局は答えを得られない問いに、新しい装いと与えることができたと、筆者は確信している。

この絵を現実にあらしめるためには、草が何よりも重要となる。色の選定といった単純なレベルから、曲がり具合、つやに至るまで検討すべき点はごまんとある。そして最も重要となるのが、太陽がどの角度から当たっているか、である(少年には影がなかった!)。

次回は、修正版のスケッチの画像を掲載した上で、書くことと描くことの揺らぎ、そして現代の芸術家に課せられた創作という名の呪縛について語っていきたい。

 

3 「サバンナの目覚め」第二修正版がつきつける現代絵画の陥穽

 

ある知人が、「芸術と地質学は似ている」と言ったことがある。その時筆者は、訳もわからず異論を唱えたように思うが、五年経った今、知人の正しさをひしひしと感じているところである。

オリジナル版の上に白い土が載り、その上に修正版が載って、また白い土が全体を覆ってしまう。

そして現れたのが第二修正版である。下の地層は目に見えないが、第二修正版の土台となり、礎となったのだから、無駄ではなかったと言えよう。発掘の楽しみは、百年先の学者たちのために取っておくことにしよう。筆者の目下の使命は、過去のアイディアを超えるものとして抗し難い魅力を放つ、第二修正版の概要を説明することにある。

サバンナはまた乾季に戻った。日照りが続き、枯れた草はおろか、動物の足跡ひとつ見当たらない。そういう不毛な大地に横たわっているのが、テーマに返り咲いた少年である。うつ伏せになり、両腕を大きく広げ、片脚を伸ばし、もう一本の脚を曲げている様子は、ピーターパンが空を飛ぶ姿に似ていた。

寝相の悪い子なら、笑いを誘う姿勢で夢の世界に遊ぶこともあろう。しかし、少年の詳しい状況は、こちらの視点が上空に置かれているせいで、判然としない。少年は約7センチの大きさに描かれている。もう少し近寄ってみないことには、生死の判断もつかないが、ある瞬間を凝固した絵画には「先」というものがない。なるほど、先は先でも老い先はある。絵の具が色あせ、はがれ落ち、キャンバスが朽ちる未来はある。それだけの年月が仮に過ぎたとしても、少年は永遠に若いまま、雨を待ちわびるサバンナとともに消滅するのだ。

翻って考えてみるに、少年を傍観者として見守る我々はいったい何なのだろうか。評者は、寸分の躊躇も見せずに、「それはハゲワシである」と言いきった。作者には不本意な解釈だと言える。ハゲワシが獲物として認識したとなれば、幼い体は死につつあることになる。筆者にとっても到底看過できるものではなかった。急ぎつけ加えておくが、筆者は子供が喰われるのは哀れだとか、そんな感傷的ヒューマニズムを胸に秘め、弁護士役を買って出たのではない。

筆者はまず敵に対して、タイトルに再注目せよと言った。「サバンナの目覚め」。夜は眠りの時間であり、人はその暗さから己を守るために、仮の死をやむなく受け入れる。そして朝日に照らされた肉体は、中核から抹消に至るまで活力が流れこみ、世界と対峙する。これが目覚めである。そう考えれば、「サバンナの目覚め」は、人が生ある限り体験する再生を扱った絵であるからして、そこに死の気配のつけ入る隙はない。

筆者の反論に、評者は再反論した。死を単に忌避すべきものと捉えるのは笑止千万である。仮に少年が死んでいたとして、その体は何の役にも立たない、この大地の厄介ものとなるのかと言えば、断じて違う。動物に摂取されればそのものの糧となり、放置されれば大地の養分となり、いつしか草木も生えよう。聖書にもあるではないか、「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし」(*1)と。タイトルに入っている「目覚め」は、活力が流れこんだ・・・・・・・・大地を指す。それで何ら不都合はなかろう。

筆者はこれを聞いて鼻白んだ。古典的な弁証法を開陳して、この輩は勝ち誇っている。子供一人の死で大地がよみがえるわけがない。全く傾聴するに値しないことは、具眼の士ならばすでにお気づきであろう、この一件を機に、筆者は評者を意識の埒外に置くことにした。これは無期限に、である。しかし、彼が傲岸不遜かつ小生意気な態度を改めさえすれば、対話の席につくこともできるかも知れない。

お目汚しとなる文章をずいぶんとたくさん書き連ねてしまったが、ここで今一度第二修正版の分析に戻るとしよう。どのような衒学者であれ、絵についてとやかく言うことは許される。だが、それは、どこにも通じていない。入った瞬間に出口と入口が閉ざされる迷宮なのである。

呆れ果てて評者には言わなかったのだが、第二修正版は、どこにも影がない。ハゲワシ説を採用するなら、地面のどこかに影を描きこまなければ説得力に欠ける。では、この視点、上空からの視点はいったい誰のものなのか。幽霊だろうか(そう考える人を否定する気はない。だが決して、少年幽体離脱説を支持すべきではない)。

これは、神である。全ての場所に同時に存在し、全ての場所で同時に見ることのできる神が気まぐれを起こし、サバンナの地に伏す少年を捉えた。

介入するでもなく、恩寵を与えるでもなく、ただ見ている。第二修正版が神の視点から描かれたものと気づいた時、恐らくほとんどの人間が、神の内面(心理と言っても良いか)について考えるであろう。しかし、これは意味をなさない、問いならざる問いである。

我々は絵の前に立つ。そして神と同一化する。これ以上に稀有な体験があるだろうか。神の目となって世界に触れると、具体的にどのような変容がもたらされるか、それは個々の人間の性質によって違ってくるだろう。先に指摘しておくが、毎日祈っているから、寄付をしているからといった理由で、完璧な同一化を図れるわけではない。神は承認欲求とは無縁の存在であるからして、むしろ神など一顧だにせず生きるもの、ただ生きることに全てを賭けるものに、神は束の間の力を分け与えるのである。

我々は神になれることがわかった。神になった人には、「サバンナの目覚め」の異なるアスペクトが見えてくる。本当は全員に聞いて回りたいところだが、「サバンナの目覚め」は来たるべき絵画であるため、代表として筆者が自らの考えを述べていくことにする。

我々鑑賞者は、確かに下界を見下ろす特権的な立場にいる。そこで虐殺等目を覆いたくなる惨状が展開されていたとしても、自分たちが巻きこまれることはない。ある意味では傍観者とも言える。さて、神の目を持った我々は、その長方形に区切られた光景をいかように受け取れば良いのであろうか。

大地に伏せる少年は、少なくとも死んではいない。かと言って苦しんでもいない。この点についてはいくらしつこいと言われようとも、繰り返し述べておかねばなるまい。

少年は選ばれし者である。運命の子、救世主、呼び方は何でも構わないが、その子が意識を外界と接続した瞬間に、想像を超える変化に見舞われる。変化は、サバンナに雪が降るといった、誰の目にも明らかなものではなく、より本質的なものとなる。変化の前と後とでどれ程の違いがあるのか、それはわからない。無限の今を生きる神に、もとより過去と未来はないのである。

ただし、こうは言える。少年は目覚めとともに、神との同一化を果たす、と。その時、神の目で自分を見ることになる。「サバンナの目覚め」第二修正版は、人を見下ろす神と、見下ろされる自分を見る少年の視点が一挙に押し寄せるのである。この複雑性こそ、「サバンナの目覚め」に深みを与えていると言えよう。

我々は人間の視点に縛られてきた。立つ人間、座る人間の高さから、瓶、裸婦、山、街路等々を見せられてきた。何故神になってはいけないのであろうか。神は助けてくれない、と嘆く者がいる。愚かな考えである。何故なら、神は一人一人の内に取りこんで、初めて力を発揮するからである。

個の尊厳は言うまでもなく素晴らしいものだ。しかし、人生のある地点において、神と目を分かち合えなかった者は、ついに精神の赤子状態から脱却できぬまま命を落とす。人が人であることを守り通して大成する時代は終わりを告げる。超人の誘惑をはねのけた人類には何が待ち構えているのか、考えただけでも胸が躍る。

新しい「サバンナの目覚め」の持つ視点の凄味についてはまだ語り足りないものがある。だが、筆者とて快楽の赴くままに書くことには抵抗を感じている。そこで、趣向を変え、次項では額縁とキャンバスの欺瞞性について語っていきたい。

 

(*1)「文語訳 新約聖書」(岩波書店、二〇一四年)

 

4 「サバンナの目覚め」第三修正版に潜む昆虫神学の萌芽

 

創作活動に制限があってはならない。これは大原則である。とは言え、幾度となく頭の中で修正を行う作者には、批判の目を向けられて然るべきである。芸術が崇高さを掲げ、大手を振って歩いていたこともあったが、現在は年寄りの雑談の十八番に過ぎず、部屋の隅で丸くなっている様子を見られ、陰口を叩かれているありさまだ。

筆者の見立てでは、作者は世人よりも忍耐強く、執念深い。描くと決めた以上、絶対に描ききることは確かである。ただ、絵筆を持たない画家の覚悟というのはいかばかりの信憑性があるのだろうか。恐らくなきに等しい。こうしている間にも、死は着々と接近してくる。いっそ聖なる狂気に見舞われることを願ってみるが、脱俗の気概は三日と絶たずに空しくなる。

無論、作者も黙ってはいない。もはや純白が汚らしく見える架空のキャンバスに、性懲りもなく絵筆を走らせた。少々長い前置きとなってしまったが、「サバンナの目覚め」第三修正版の分析に移るとしよう。これまでの作品を乗り越えるべく企図されたものであるため、別格の強度を有していることを筆者が請け合おう。

情景は三度乾季のサバンナである。作者に、乾季にこだわる所以を訊ねてみたい誘惑に駆られるが、大事なのは絵であって、生身の人間ではない。絵に占める大地の割合は大幅に減った。さすがに第二修正版と比べるべくもないが、穏当なオリジナル版と比較しても五分の一以下である。大地を削った代わりに存在感を増したのが少年である。少年は巨大に見える。足の親指はラグビーボールと同じ大きさ、そこから見上げると脛、膝、太ももがドーリス式円柱の如くそびえる。円柱と異なるのは、パジャマの襞を伝っていくことで登攀できる可能性があるという点である。少年のパジャマは水色地に青の水玉模様があしらわれているのだが、水玉はデフォルメされておらず、何故か生々しく、触れればこちらの手がしっとりと濡れてしまいそうだ。

さらに視線を上げると、上着のボタンに誰もが目を奪われるはずである。マーブル模様のボタンは、少年が若干前傾姿勢と取っているせいで、ボタンたち(評者は親しみを込めて「たち」をつけた)は、それぞれが二つずつ持っている穴を、鑑賞者たる我々に向けている。それらの穴は、異生物の噴気孔のようで、今にも生暖かい息を出さんばかりである。

少年の後ろから陽が差しているようだ。規格外のキャンバス(大作を撫でつけるにふさわしい大きさ)の上辺付近にある顔は、仮に身長2メートルの巨漢であっても首を思い切り反らさなければならない。陰になった少年の表情を窺い知ることはできないが、寝癖によって髪の毛は放射状に広がり、意志を持っているように見える。これが、第三修正版の大まかな構図である。

鑑賞者はこの絵を見るなり、少年が巨大化したと見做すであろう。無理もない。巨大なキャンバスと、自身の首が発する痛みの信号で弱気になってしまうからだ。

勘の良い方ならすでに感取されていると思うが、これは作者の仕掛けである。仕掛けというには荒っぽく、多分に力技でもあるのだが、このミスリードは恐らく上手くいくと確信している。卑近な表現をすれば「種明かし」になるが、絵は手品ではない。全てを白日の下に晒したところで、作品の持つ価値はいささかも減じることはない。

少年の身長は、実を言うと、オリジナル版と同じであり、同年代の少年たちと比較して、平均より小さめである。つまり、見られている彼が大きいのではなく、見ている我々が小さい、ということだ。これは彼我の関係において、著しい非対称性と孕んでいると言わざるを得ない。絵は捕縛された場面から動けないものの、我々はそれに一瞥を投げただけで、後は意識外に追いやることができる。不当な仕打ちに対して、絵にできることは何もない。美術館や画廊の人間に期待しても無駄である。

このように、絵は劣位に置かれている。ところが、あちらもまた、我々を見ているのだ。鑑賞されていると言っても良い。顔に奇跡的な肉付きを与えられた人間はめったにいるものではなく、上あるいは下から眺めると、美男美女に見えたものが、その構造的欠陥を露わにすることは周知の事実である。

少年の目は暗くて良く見えない。視線の所在が掴めないとなると、我々はさらに不安の念を抱く。「サバンナの目覚め」第三修正版において、絵画鑑賞という安全圏の娯楽は機能不全に陥るのである。

ただ、逆転現象が発生し、絵の内と外とで関係性が変化している、というだけでは、オリジナル版や各修正版より優れているとは言えない(評者もこの点を指摘していた)。

「サバンナの目覚め」第二修正版で、作者は、我々と神との同一化を志向した。これは一定の効果を与えており、十分に意義あることであった。しかし、作者は気づいていなかったのだが、そこには「虫」が隠れていたのである。空を自在に飛べるのは何も神だけではない。極小の虫でも、視点だけなら互角の勝負ができる。第二修正版にそれらしき影がなかったのは、太陽の追及をかわせる程に虫が極小だったからである。

神を偉大な存在と捉えるのは素朴に過ぎる。神は一か所に鎮座まします訳ではなく、ありとあるところに偏在しているのである。したがって、虫に神なるものが宿っていたところで一向に不思議ではない。

神との同一化のテーマは、お蔵入りとなってしまった第二修正版から受け継がれており、それどころか発展している。偉大な神との合一は万人にとっての欲望となるが、卑小な神の断片と視線を共有することに魅力を感じるのは、よほどの物好きであろう。しかし、いかなる状態の神であっても受け入れること、ここに支配と悪意に満ちた世界を超克するのではなく、寄り添って生きる共生の精神の重要性が立ち現れるのである。

評者も今回ばかりは協力的になってくれた。と言っても、ただ一言「虫=神」と言い残して去って行っただけなのだが、この「虫=神」は、筆者には多大な刺激となった。

虫の姿形というのは、異様かつ奇抜である。嫌悪する人間がいる一方で、抗い難い魅力を感じる人間もいる。これらの感情は同根である。我々が良く知っているつもりの虫たちは、実は外宇宙から偶然にも飛来した生命体なのだ。彼らの細い脚、つやつやした腹部、透き通った羽が、我々の知覚の及ばない、遥か彼方からの贈り物であるとすれば、生物の中でもひときわ丁重に扱うべきものだとわかるだろう。

虫=神はか弱い。現に、お世辞にも屈強とは言えない少年が相手でも恐怖を感じてしまう。魂を包む外皮はあまりにも脆いのだが、その代わり虫=神は動体視力に秀でている。ひとたび少年が手を伸ばせば、悠々とそれを回避できるであろう。

ところで、絵が動き出すのはいつになるのか。少年と虫=神の生存競争は、永遠に訪れはしない。虫=神にとって、動かない物体は無に等しく、脅威とはならない。虫=神の視点を手に入れた我々にとって、少年は少年であって少年でない、異質な物体へと変化した。

神は何故我々を助けてくれないのかと、嘆く人がいる。第二修正版では一つの解を提出したが、第三修正版では、それとはまた別の答えを提出することになる。神は生きるもの、動くものには、慈悲深き手を差し伸べる。だが、無限の今の中では・・・・・・・・全ては静止している・・・・・・・・・。虫=神からすれば、どれが人間なのか判別不可能なのである。

救いの神はいない。いや、世の起こりからいなかった。原初よりいるのは、ただ見続けるばかりで、決して介入してこない、永遠の他者である。人間が自己を捨て去り、永遠の他者となった時、新しい段階に達することができるだろう。僭上な物言いに聞こえるかも知れないが、作者はあくまでも覚醒のための補助的器具と作ろうとしているに過ぎない。作品こそが主役であり、作者は舞台裏で動き回るのがお似合いである。

制作はすでに始まっている。と言いたいところだが、第三修正版はこれまでの版とは違い、物理的困難がつきまとう。鑑賞者に自身の矮小さを思い知らせるためには、最低でも十メートルの高さのキャンバスが必要になる。特注品を依頼するのか、はたまた既製品を繋ぎ合わせるのか、それはこれからの課題となる。

変転を続けてきた「サバンナの目覚め」にも、完成の道筋がようやく見えた。作者は何も言わない。何故なら彼は、「手の人」だからだ。筆者は邪魔にならないよう、アトリエの一隅で静かに時を待つ。

 

5 作者にとって「サバンナの目覚め」とは何なのか

 

「サバンナの目覚め」は絵のタイトルである。人の名前同様、お互いを識別する記号以上の機能はない。絵が絵のみで完結すべきなのだから、その外に位置する情報は有害無益だと考えるのも一理ある。タイトルなどなくしてしまえと言う人もいるが、それでは解決にはならない。たとえば道行く人の名前がわからなくとも、我々は髪の薄い頭、厚い唇、眼鏡、ふくよかな体、明るい気性、残忍な性格などを参考に、得手勝手なあだ名をつけて面白がることはありふれた話である。

名付けから逃れることはできない。親から指定された名前は祝福にも呪詛にもなり得る。子からすれば堪ったものではないが、親の側にも苦悩はある。

作者は具現化していない絵画を「サバンナの目覚め」と名付けた。些細な出来事に思えるその瞬間に、彼は親となったのである。親になった以上、この幸せを願うのは親の義務だが、「サバンナの目覚め」はなかなかに厄介で捕まえどころがない。

傍で観察してきた筆者に、作者は何度も筆を折りたいと言った。その心の痛みを重々承知しつつ、筆者は描くようにと励ました。それでも、事態は好転しなかった。

あの子が逃げる、と作者は言ったことがある。あの子はじっとしてくれないのだ、と。「あの子」とは、サバンナにいる少年のことである。完全に捉えたと思っても、絵筆を持つや否や自信がなくなる。あの子はここではない、ここにいるべきではない。そういう気持ちになるようだ。

第三修正版で終わりかと思われた「サバンナの目覚め」も、ついに十を数えた。四から十まで、順を追って解説していくつもりは、筆者にはない。それらもまた傑作に値すると考えているが、事ここに至っては、絵の良し悪しはさして重要ではない・・・・・・・・・・・・・・・・のである。評者によると、筆者の思考は「狂気の極北」の真っただ中に位置している。評者に言われずとも、事の危険性は熟知しているつもりである。しかし、「書く人(筆者)」、「描く人(作者)」、「物申す人(評者)」の三者が、今のままの均衡を保つために、これ以外の妙案はあり得ないように思われる。

さっそく説明に取り掛かろう。「サバンナの目覚め」の名を冠した絵画はオリジナル版を含めて、計十一のヴァリエーションがある。筆者は先の章の中でたびたび、オリジナル版を底に敷き、その上に修正版が重なるという表現を用いてきた。だが、これは読者に大いなる誤解を与えてしまう。その点についてはどうか謝罪させて頂きたい。

あの時点では、筆者も全体像が見えていなかった。いわば目隠し状態にあったため、本質など見えようはずもなかったのである。地層ならいざ知らず、キャンバスを切断し、その断面を仔細に分析したところで、成果は得られない。

次の問いが有効である。すなわち、全ての「サバンナの目覚め」を繋ぐ糸とは何か? 第一に考えられる共通項は、サバンナである。そして、その次が少年である。作者はオブセッションと形容して良い執拗さで、これら二つのモチーフを採用してきた。果たして「サバンナの目覚め」を「サバンナの目覚め」たらしめているのは、少年か、サバンナか。あるいは両者か。

答えは、全て否である。この絵画群は、「サバンナの目覚め」というタイトルのみで繋がっているのだ。地層ではなく、宇宙を構成する暗いモナドを想像すれば、もっと早い段階で、我々は到達点にある目印マーカーを見つけることができていたであろう。

初めから、関連性(糸)などなかった。ただモナドと同じように、そう名付けたから、そう規定したから、ありもしない共通項を見出していたに過ぎない。これを聞いた作者と評者は、筆者の予想と違い、冷静な反応を示した。作者はほっとした様子で絵筆とキャンバスを片づけた。評者は何か言いたげであったが、黙って作者の手伝いをした。かく言う筆者も、憑き物が落ちたと言おうか、何かそういった心持ちである。真の結論に達したからには、修正版などと面映ゆい呼び方は、捨てるのが適当であろう。これからはただ「サバンナの目覚め」と呼ぶことにする(作者の同意はすでに得た)。

このモナド的宇宙は限りなく増殖する。それぞれ独立しているが、数を増すことによって、輝きはさらに強まることだろう。性急な人であれば、作者は「サバンナの目覚め」の完成を放棄したと思われるかも知れない。だがそれは誤解である。古来人間は、いつか腐敗してしまうこの肉体から魂が離脱することを望んでいた。実は、物質もまた同じ望みを抱いてきたという事実に、どれだけの人が気づいているのだろうか。紙は黄ばみ、布はけば立ち、絵の具は色を失う。記録媒体もいつかは滅びる。物質の制約から解放されれば、絵は今よりも自由に飛翔する。

作者が目に見える形で「サバンナの目覚め」を差しだすことはない。より踏み込んだ言い方をすれば、作者が作る必要すらない。新しいモナドを付け加えるのは、我々の中の誰であっても構わないのだ。

もし、宇宙の創造に関わりたければ、今すぐにでも参加できる。我々に連絡する必要はない。食事の時、排泄の時、眠る時に頭の中で思い浮かべるだけで良い。モナドが断続的に発生する、その時に、「サバンナの目覚め」は完成/未完成の呪縛から逃れられるのである。

 

 

2021年7月20日公開

© 2021 島田梟

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