ダコタハウスには今日も金持ちが住んでいた。1階から10階まで、例外なく。そのため、どの階の住人の話をしても良いのだが、時刻は午前2時、健康に気を遣う実業家、不動産王、オペラ歌手、謎の空手家といったセレブリティーは、レムとノンレムを切り替えながら朝日を待っていて、起きているのは3階の住人だけだった。レオナルドは重苦しい、時代がかったカーテンを開け放した窓から、セントラルパークウエストを走る、車の列を眺めていた。
「賭けてもいいよ。これから1時間以内にイエローキャブが5台つらなってやってくるって」
キャメロンはダブルベッドの上で、男にはまるで興味なさそうに、スマートフォンに指を這わせていた。読んでいたのは、マネージャーがSNS上に掲載された映画レヴューをまとめてくれたメールだった。その長いテキストをいくらスクロールしても、出てくるのは当たり障りのない賛辞ばかりだった。
「ふうん。それでタクシーがどうなったのかしら?」
「おお、ディア」
レオナルドはベッドに沈みこむパートナーを見た。より厳密に言えば、大量の金をつぎこんだおかげで、セルライトもなく真っ白になった脚を見ていた。あれをキープするために、と彼は思う。どれだけのベンジャミン・フランクリンが犠牲になったのだろう?
「タクシーはどうもなりゃしないさ。大事なのは、色、色なんだよ」
「あらそう。それで、あなたの予言があたるとどうなるわけ?」
キャメロンが脚を組むと、オフホワイトのシーツのこすれる音がかすかにした。彼は質問に答えなかった。噛みあわない会話は彼女の意図的な策略であり、要はふざけているのだった。部屋の内装は以前の居住者の趣味を引き継いだゴシック様式をベースにしたものだが、そのベッドだけはむだな飾りのない、土台の黒い、モダンなものだった。デザイン料と材料費込みで、12万ドルというボッタクリプライス。レオナルド・キャメロン夫妻にとってはそれも端た金だった。
むしろ統一性や美観の問題で、キャメロンはしばしばこのベッドの場違いで余所者的な愚かしさを非難していた。彼女いわく、デリカテッセンを、シャネルの5番を着て練り歩くようなものだった。
彼女がまたスマートフォンに目を落としたのを見計らって、レオナルドは口を開いた。
「黄色っていうのはね、ハニー。チャイナでは幸福をもたらす色なんだよ」
「つづけて。私、とっても興味があるわ」
レオナルドはスツールをベッドに寄せて座った。
「黄色は皇帝が身につけるもので、富や権力の象徴だったんだ。それが今でも」
「ちょっと待って。私の有能な秘書はこう言っているわ。『……というのは昔のことで、現在はポルノみたいな下品な意味のある色である』ですってよ」
「ただ調べただけじゃないか」
「あなたに聞くよりはずっとはやいんだもの」
キャメロンはシーツをたぐりよせ、体に巻きつけた。タンクトップとショートパンツ、そこからはみ出した地肌は、それによって全て隠れた。
「でも、事情はどこも同じよね。こっちだって、イエローペーパーとかいうし」
「君はタクシーまでわいせつだと言うのかい?」
「いいえ。面白いなって思っただけ。中国人は反転させるの好きみたいじゃないの。だってほら、福をさかさまに飾るなんて、あれじゃアンハピネスになっちゃいそうでしょ?」
「あれはね、中国語の地口がわからないと理解できないんだよ」
「ジグチ?」
「地口っていうのは……」
「あー、はいはい。ちょっと私、ノドかわいてきちゃった。ブルックリンとってこよっと」
さっと飛び出したキャメロンはキッチンに消える前に、こうつけ加えた。お友達に電話もしたいから、それまでにプレゼンテーションの準備しといてね。3分位内のやつでおねがい。
レオナルドはホテルのスタッフのように、ベッドの乱れを直しはじめた。お友達に電話、ね。キャメロン側の枕を持ち上げると、新聞が2部、乳歯のように置かれていた。ひとつは旅先のニースで彼が読めもしないのに買ったル・モンド紙。そしてそれに挟まれてもうひとつ、読みたくもないのに買ってしまったイギリスのザ・サン紙だった。ル・モンドをゴミ箱に収納すると、レオナルドはザ・サンを片手にスツールに戻り、紙をめくった。
今年の上半期は彼にとって災難続きだった。神様が特注で、自分にだけ黙示録を用意してくれたんじゃないかと恨みたくなるくらい、ひどかった。ニューイヤーのカウントダウン直前に泥酔して正体をなくしたり、さらに同じ1月には出演予定だった映画がボツになった。2月は、親友のアーノルド・スタローンが万引きを婦人服売り場ではたらき逮捕、保釈金を支払わされることになった。ほんの25万ドルだが。パパラッチのBMWと自身のラングラーが接触事故を起こした3月、父親がスターバックスでジジイに局部を触られた4月。
そして5月にこれがあったんだと、レオナルドはザ・サンの2面に載った、キャメロンと彼女の肩をなれなれしく抱くグライムMC(「ヒップホップって言えよ!」)、ニック・ラスカルを苦々しく見つめた。見出しはシンプルに『婚外乱交』。どこぞのクラブで楽しくハメを外していたところを、キャミーはパチリとやられてしまったわけだ。
『彼女の目はムラムラして光っていた。男のほうも腰が落ち着かず、クラブにいる間中、ダンスと称して発情していた。それはほとんど──』
彼はくしゃくしゃに丸めてこれも収納した。
ザ・サンから遅れて、アメリカでもこの話を取り上げはじめた。高級新聞からタブロイド雑誌まで、それぞれのイメージに沿って、上品な、あるいは下品な文体で同じ醜聞を書き分けていたが、結論はおしなべて一致していた。
ニューヨークタイムス「ダコタの評判、クッソ下がったわ」
ウォールストリートジャーナル「ダコタの評判、クッソ下がったわ」
ニューヨークポスト「ダコタの評判、クッソ下がったわ」
デイリーニュース「ダコタの評判、クッソ下がったわ」
「まったくなあ、うちのハニーときたら、ガードが甘い!」
彼は立ち上がり、マントルピースの前をうろつく。そこには夫婦の写真が何枚も置いてあった。そのうちの一枚、結婚5年目(つまり去年)の記念写真のフォトフレームにはヒビが入っていた。
「僕の火遊びは2人で終わったっていうのに、むこうはもう何人目なんだ?」
4人目だった。それでもレオナルドがキャメロンを許す、というより態度保留にしていたのは、彼女が不倫するたびに、彼は好きなヘリや別荘を買ったり、自分の性の前科をチャラにしてもらっていたからだ。ベッドも戦利品のひとつだった。ニューヨーカーは、この夫婦がダコタに入居した時、『アイツら、どんなマジックを使ったんだ?』と、こぞって鼻で笑ったものだった。潔癖な役員会が、素行の悪い連中を格式あるダコタに受け入れるなど、信じられなかったのだ。
しかし、この二人を単なるヤリマン・ヤリチンと呼んでは、いくらなんでも不当評価であろう。
レオナルド・デップが映画俳優としての第一歩を踏み出したのは、ニューヨーク市立大学在学時代になんとなく受けたオーディションでのある出来事だった。『お前はグッドルッキングだから』と友人にのせられて、No.7のワッペンをつけた彼は、気鋭の若手監督の前で、痔に苦しみながらセダンに給油する童貞のチンピラ役を演じた。とりあえず上半身裸になって「ウッ」と言いながら歩いていたら、なぜか合格になった。彼はルックスのおかげだと思っていたが、当の監督は顔ではなく、幼少時代、いとこに枝で切られたさいにできた、胸の傷に魅せられていたのだった。
主役の座を勝ち取ったレオは、初主演作『Young Yakuza falls in first love─The ABC Song』(邦題『初恋ヤクザ いろは歌』)で、ジャパニーズギャングに弟子入りしたアメリカ青年の繊細な心情をそこそこ表現した。だが、彼を有名にしたのは、同じ監督がメガホンをとった3作目の映画『Harakiri is the honorable play』(邦題『ハラキリは栄えある芝居』)で、エド時代にタイムスリップしたスポーツ青年ジャックが、ショーグンにたてつくパルチザンに加勢して、死地におもむくというストーリーだった。クライマックスの突撃シーンにおいて、ジャックは鎧を外して胸を露出、特殊メイクで4倍の長さになった古傷を幕府方のサムライに見せつけて言い放ったセリフ、「ムッカーイキッズーハ、ブッシーノホマレィ!」は名言として、各局のTV番組で散々パロディとして消費された。こうしてレオナルド・デップの名は世界に広まり、一流スターの仲間入りをし、今に至っている。
一方、レオナルドとは共演を機に結婚したキャメロン・ゼタ・ジョーンズは、夫よりもキャリアのスタートが早く、ティーンエイジャーの頃に、すでに映画のヒロインとして抜擢されていた。B級低予算パニックホラー、『恐怖! 逆むけコウモリ』は生体兵器の実験により上皮を全て裏返しにされた巨大コウモリが、オハイオ州を襲うという筋書きで、興行収入は振るわなかった。しかしその後、キャメロンのあざとい演技と豊満な肉体、チープな特撮コウモリのくだらなさが不思議なバカバカしさを生み出し、カルト的な人気を得た。以降、メジャー作からのオファーもあり、地歩を確立。1ヶ月前には、性同一性障害の女性を描いた『私はセニョール/セニョリータ』で監督デビューを果たした。もちろん往年のファンへのサービスとして主人公の部屋に、自分をスターダムへと押し上げてくれた逆むけコウモリのぬいぐるみを忘れずに置いた。
ふかふかのビロードクッションにソファ。それらがなぜ心地よいかと言えば、目ん玉が落っこちるほど高いからだ(ちなみにレオナルドは両方ともブラックカードの一括払いで購入させられた)。レオは身をうずめながら、手に持った写真立てに目をやった。夫婦の履歴をさかのぼっていた間、彼は無意識にマントルピースに置いてあった写真から一枚を選び、吸いよせられるようにここへ来ていた。それは、二人が結婚式の時にキスした瞬間を捉えたものだった。
「ああ、ハニー」とレオはつぶやく。「このなかから君を直接ひっぱりだしたいよ。この時の君は、爪に筋なんて入っていなかったし、胸もほどほどの大きさだったのに!」
それを言えば彼のほうも、シミがぽつぽつ浮き出していたし、爪の伸びも悪くなっていた。さらに、これはどこにもリークされていない情報なのだが、偏平足にもなっていた。レオナルドは裸足を見せる映画をすべて断っていた。
「ああ、キャミ―」彼は写真にキスをしたが、拡大された写真のため、自分にも熱い唇を押しつけた。「ああ、もうちょっとマシだったキャミー……」
「Nooooooooooo!」
キッチンから改善の余地のあるキャメロンが飛び出してきた。
「どうした!」
「ゴ、ゴ、ゴ」
「ゴ?」
「ゴキブリ!」
キャメロンの水増しした胸は夫との共同作業により、つぶれ、横方向に変形した。
「ゴキブリって?」
彼女はじれったそうに叫んだ。
「Cockroach, incoming!」
「ああ、そう言ってくれないとわからないよ」
彼らはまさか害虫に侵入されるとは思っていなかったので、殺虫剤を備えつけていなかった。レオナルドはアラビア風にとがったスリッパを脱いで、キッチンの様子をうかがった。どこにもいないと思ったら、後ろで叫び声。振り向くとベッドには大きな雪山ができており、そこをゴキブリが登っていた。
「Get away! Get away!」
山鳴りがした。
彼が近づくと、ゴキブリは玄関へとつづく隣の部屋へ、飛翔と早歩きをおりまぜて逃げた。
「扉から出て行くなんて、最近の虫は親のしつけがちゃんとなっちゃいるな」
そして後を追ったレオはそこで、壁に貼りつき、じっとしているゴキブリと対峙する。金持ちになってからは、こいつらと会うこともなくなっていたな。最後に会ったのはジュニアハイスクールの時、家族旅行で泊まったホテルでだった。今日と同じく、そこでもレオはこうして数分間、出方を見るために、やつら種族の1匹の背中を凝視していた。
こいつらも何か考えているのだろうか?
キャメロンの声がかすかに聞こえる。
「やったのー?」
「ノット、イェット」
返答は金切り声になっていた。
「Kill the fucking bug!」
「主よ、0.21インチの霊魂を無慈悲にあやめるアメリカ国籍の仔羊をお赦しください」
レオは十字を切り、スリッパを振りおろした。それはちょうど、昨年公開された完全オリジナルヒーロー映画『マッスル・ジャンボ』において、彼扮するマッスル・ジャンボがくりだす1メガトン級のマッスルパンチと、動作の上では完全に瓜二つだった。手加減しなかったわりに、壁紙は汚れておらず、虫もきれいな体のまま逝っていた。レオは右足の2本目をつまみ、近場のゴミ箱(モンドもサンもない方)に捨て、左手をチェストのランチョンマットで拭いてから、キャメロンを慰めに行った。
ところが、彼女はソファに移動して、何かを食べている最中だった。シーツはまたしわくちゃに戻っているし、アンティークの鳩時計が2時37分に鳴きだすしで、何ひとつ彼を歓迎してくれるものはなかった。爽快なスラップサウンドで事の成否を察したのだろうが、我が伴侶ながら切り替えがはやいと彼は思った。
「それはプロセスチーズ? それともヨーグルト?」
今度はキャメロンが黙る番だった。さっき無視したのはレオナルドからだったので、やり返すのは当然、というのが、スイートハートのロジックらしい。しかしこのゲーム、ルールがあれば救われるのだが、ルールは日々流動的かつ即座に変わり得る。性質上、遵守はできなかった。
キャミーは口角についた白いかけらを舌でからめとった。そのホットな無脊椎動物が巣に帰ると、彼女は入り口を固く閉ざした。すっぴんのはずだが、やけに赤い。ふと見上げた月がこの色だったらぎょっとするような、そんな赤。キャメロンはパックの中の白い固形物を残らずすくいとると、スプーンで向こうの部屋を指し、それから親指を下にやった。
「やつなら天国に行ったよ」
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