うずまきひっくりかえる

島田梟

小説

19,471文字

故障したエレベーターに閉じ込められた男女を、ああだこうだ言いながら眺めるという話。
繰り返されるいざこざ。
助ける意欲の低い住民。
エレベーターが一階に降りた時、何が起きるのか? 何が起きないのか?

 吹き曝しのマンションの階段を私がガクガク、揺れながら降りていると六階の踊り場で、小学生が二人、将棋をさしていた。持ち運びのしやすい紙の盤はくたくたで、升目の邪魔をするかのように細かい折れ線が入り、それが谷間となって駒の配置が不安定になっていた。眼鏡をした坊主の少年の方は、どうしてもくっつく『王』と『銀』をいちいち直していたものの、見た目とは違い初心者らしい。「お願いだよう、善戦したんだから『と』に変身させてくれえ」と頼みこんでいて、一方の少年はあと一個だけがある相手の『歩』を指して「自力で斬りこんできな」と冷たい言い草である。

 ソフトモヒカンで尖っているからだろう、あのように手加減しないのは。私は塗りムラの多い灰色の手すりを触りながら、悪いけど通るよと断って、一挙に降りて紙の盤をまたぎたかったのだけれども、眼鏡の坊主くんに制された。

「だめだよおじさん。そんな大きく動かれるとこっちは迷惑だから」彼はいじらしく全ての指を使って駒を押さえていたが、それが三、四本足りないばかりに彼の『香車』はなけなしの彼の『歩』を巻き込み、盤から出てしまった。

「へへへ、捨て駒か。余裕あるな」ソフトモヒカンは更に余裕だ。腕を組んでいる。

「うきゃー」

 布陣も何もあったものではない。うきゃー。小刻みに駒は振動を受けたので、天変地異から無秩序の紙相撲のような乱戦が始まり、敵も味方もなくなった。皆、戦いの犠牲者だ。

 私は慎重に飛び越えて、次の中六階に至るまでは差し足で歩き切った。

 頭みっつ分上から泣き声が聞こえる。眼鏡くんの坊主。眼鏡の坊主くん、か。何にせよ君は手慣れた友達の毒牙で餌食になりかけていたところを、すり抜けられ、馬鹿にされずに済んだ。うやむやになったから……それなのに泣くとは。

「『角』が落ちたぁー!」

「下に行くなら取って来てねー」

 どこかにぶつかる音もしなかったということは、地面まで真っ逆さまかも知れない。モヒカンくんの頼みを、引き受けたようで引き受けなかったような、曖昧なうなずきを返してから、私は中間の踊り場をあとにした。

 一戸建てなど三十手前で給料もチワワ一匹の維持費で食いつぶされそうな私にとって、無理であった。それならマンションの高い所と、幼稚な決断力の速さで借りてしまい、最近憂いているところだった。

 ぼろい、外壁も赤茶で味気ない。挙げ出せば欠点にキリがないのだが。隣のおば様がゴミ袋を押しつける。隣のおばさんがオカルトのチラシをたらい回しで二十枚押しつける。挙げ出せば欠点にキリがないのだが。にっくき下山山姥、と見せかけて歯列矯正の最中の息子が来て、新聞代、ママいないから建て替えて、と川柳調で厚かましく願い出て来る。キリがないが止まりそうにないのだが。

 エレベーターがしょっちゅう故障する。一番はこれだろう。七階建ての七階に住んでいると、カップラーメン味噌味ばかり食べていては味噌スープしか舌が受けつけなくなりそう、ジェラートでも買ってさっさと口直ししたいなあ。こういう軽いノリが通じなくなる。

 今はただヨーグルトが欲しいだけだ。私は降りることで力を消費して腹に響く弁当を買ってしまわないよう無駄を省き動いた。軽いノリを懐であたためながら。

 脇を見ないでいると、中身をくり抜いた格子状の踏み板ばかりが目につく。それが下の板をも合間から透かしているので、どうも地面に近づいている実感がわかなくなってしまう。しかしちょうど三階の踊り場で棟側に続く境界から、こちらの注意を惹くように何かが姿を現した。

 丈の足りないズボンから、ちらっちらっ。

 ああ、そうか、アキレス腱。伸ばし慣れていないアキレスが踊り場の床を踏んでは離れてを、繰り返していたのだ。踏みしめた時の角度が切れかけそうで危なっかしく見えるところから、これは腱を鍛えてやっていないな、ということがわかった。

 ストレッチの運動と休止のサイクルはすぐに、私の体が覚えてくれる。足が踊り場に出た。運動不足の腱が盛り上がり曲がり、ここで動き出せば、通り過ぎる時には向こうの棟側へと引っ込んでいるだろう。こうして手近な先を見通す力が、だんだん遠くの先にまで広がれば、私の将来も安泰なのだが。

 私はどうも私を無計画にも最上階に住む、極度の近眼二つを持った私だと忘れていた、この時になって思い出したのだ。それが遅い。タイミング自体はこちらに落ち度はなく、ただ腱の出てくるのが予想より早かった。これなら身を横にしてかわすこともできたのだが、負荷に耐えられなくなった腱が、つながっている下半身から波及し、体全部を引きずり出してきた。

 おや、管理人の小野寺さん、と気づいたら私たちはすでに衝突寸前だった。小野寺さんは体勢を崩していたので、こちらへは完全に体重を預けてくる。私は彼女の湿った首筋と汗ばんだシャツを、その湿り気から触れるのをやめ、肩と肘の二点で支えた。ほっそりした体、老朽化した腱を計算に入れて押し戻せよ。

 みなぎる若さは全てを裏切る。突き飛ばしたと言われても弁解できない私の力加減。やる気のない私の手は当然空を切り、やはりその目は、マンションの壁のへりにぶつかる小野寺さんを見つめることしかできなかった。

「絵の稽古で痛めたばかりの右手が」

「お顔にケガは……ああよかった。最もアートな部分は守られましたね。そのままこけていたら、後頭部を強く打って、大変なことになっていましたよ」

 本数の多い睫毛は右手で守る価値があるだろう。下に比べてツヤのある上唇は左手で守る価値があるだろうし、そこだけが実り豊かな鬢は耳たぶで守る価値があるだろう。三段腹を移植した額、ふくろをも巻き込む。これは額のニキビで守るべきだろう、本当にそう思う。

「田橋さんも階段で降りていらっしゃったんですか?」

「ええ、いつものことですからね。いつものこととしてお訊ねしますが、やはり故障ですかね」

 小野寺さんはうなずいてエレベーター傍のボタンに近づいて、「はい」、上向き三角形を二回押す。「ほら」、五回押してから「うんともすんともでしょう?」とわざわざ緑色に光るはずのボタンが光らない動作確認までしてくれた。正常だったところで、扉に変化は出はしない。が、ステンレスにイボびっしりつけたようなシンクの表面に、迷彩柄のハーフパンツと灰色のTシャツを着た私を流しこむと、たちまち休暇中皮膚病をわずらった下級兵に仕立て上げる。小さい割に網掛けで強度を増している窓を覗いてみると、暗いが、数本のワイヤーが見えた。

 ワイヤー、網掛けの菱形模様、自分の顔を見終えた私は隣で一緒に覗いていた小野寺さんに、どの階で止まっているのでしょうかと言った。

「一応一階から見てまわってるんです」

「一人で?」

「三階は二人でですね」

「そういえば、ご主人いるじゃないですか。手分けしてやればスムーズに進みそうなものですが」

「どこかをぶらぶらしてて、いません。行ってくらぁとしか言いませんからね、あの人は。てにをは、馬鹿にしてる」

「単に止まっているだけなら、小野寺さんが昇り降りする必要もないんじゃありませんか? 修理の人たちもそのうち来ますよ」

 そう言って私は去ろうとした。ところが、すぐ上の階から、自分の生の心理をわざわざ口にする人がいるようで「困った困った弱った」としきりに言う声が聞こえた。すると今まで眠っていたワイヤーが巻き上げられ、上に下にと縒り目を光らせながら動き始めた。

 時間からすれば二秒ほどだった。短い間に詰めこめる言葉はわずかなものだが、あれだけ困惑を口にしていた人が「あー、あー、あー」だけとなったのは気懸りだった。声がはっきり聞き取れ、二秒の稼動で言語能力を奪えるということは、四階では大変なことが起こっているのだろう。

「一階から三階は私が見回りましたからね」と小野寺さんが自信をこめて言った。「上でしょう、きっと。早く行かないと」

 これを無理に振り切ればひと月分先延ばしにした家賃をすぐ払え、と言われそうだから、私はおとなしく小野寺さんについて行った。四階に行く途中、やだよ僕取りに行くのなんかやだよとあの子が、不毛にもその場から動かずに頑張っているようであった。けれども私たちが四階に着くと、五階での駄々はおさまっていた。「やだよ」は通らなさそうだ。

 エレベーターの前には約四十歳の、休日のパパといった服装(くすんだ色のTシャツとデニム)のパパ、こう断定できるのはその手を握る四、五歳の女の子がいたから。こちらはチェック柄のワンピース。彼女の手は父の手相の線をなぞっていた。生命線だろうか。

 小野寺さんによると、男性は竹田という人だった。娘さんの方は「挨拶ができ、ピアノと合気道をやりたがっている感受性豊かで活発な」理奈ちゃんと言うらしい。彼女の目はずっと親に、ではなくエレベーターに注がれていたが、子供の低い視点で窓を見続けるのは首が痛くなるのか、ときおり顎を父親の手首に載せては休んでいる。

 竹田さんはおろおろしていた。

「あー、困った」

「ご心労は三階から、かねがね盗み聞きしていました」小野寺さんが言った。

「うう、それほど傍迷惑でしたかね、私の声は?」

「いりゅいりゅ!」首を離して理奈ちゃんがいきなりテンションを上げた。

「いるいるだねえ、よしよし」

 さっきまで見えていたんですがねと付け足しつつ娘さんをなだめた。「誰がです?」「妻が」楽しく三人で郊外の大型モールに出かけるはずだったのに。彼は理奈ちゃんの手からプーさんをもぎ取ろうとして、それが思ったよりも手間取った。先に行った妻は、もう歩道にいるだろう。三〇三号室を出る。エレベーター沈黙。親子、互いに小首をかしげる。そして下界に来てみたら、期待した姿はそこになかった。

「本当にそこで待つと約束したんですか」と私は言った。「先に駅前に行っているとか、そういうことだってあるでしょう」

「やっと確保した団欒の休暇なのに、単独行動する、と。そういう冷えた家族だとおっしゃりたいのですね?」無意識に力をこめたせいで、理奈ちゃんの口がへの字になった。私は返事に窮してへどもどしたが、小野寺さんが「携帯で連絡を取ればよかったんじゃないですか」と実務的な提案をしてくれたので助かった。

「忘れたんだよねー、ねー、ねー」

「ああ忘れたんだよ、いい子だな……! それで取りに戻ろうと、一階のエレベーターにちらっと、目をやったらですね、いたんですよ」

 その時竹田さんの目には映ったらしい。と言っても最初は誰もいないように思えたのだが、突如間歇泉が噴出すように奥さんが起立し、窓を覆ったのである。妻の焦る顔が左の窓から、必死に訴えてくる……。

「私はわめく妻を追い、ただただ独りよがりに、すぐに行くから待っていろ、キリマンジャロ奢ってやるから落ち着けと、気持ちを伝え続けたのです」ガルルル。理奈ちゃんは犬になった。「でも、それも叶わなくなりました」

 エレベーターのドアは二重構造である。触り心地が悪い外側に比べ、内側の表面はなめらか。けれども、それを見られるのは一瞬、外ドアの後を追うように開く時のみだ。この内ドアのなめらかさを束の間拝むには、到着するまで気にも留めない内窓と、目的の階の窓がぴったり一致していなければならない。

 暗がりの長方形のうち、下からほんの数センチぶんだけ白くなっている箇所があった。わずか二秒で、それだけ地盤沈下してしまったということだろう。その蛍光灯が作りだす隙間から中の様子をうかがうと、天井の二隅と、市民会館で演奏するコンサートのポスターが、チェロ演奏者の陶酔した顔を印刷したポスターが、見えた。

「あれ、奥さんいませんよ」

「『消え失せた人妻』。扇情的にしたつもりですか……!」

 竹田さんは渦中の伴侶がいなかったことに焦り、探そうとむなしくドアをこじ開けようとしたが、小野寺さんに切り揃えた爪を「きれいですね」と褒められたため、諦めた。

 となれば、残るは呼び掛けである。

「綾子ー」

「綾子さーん」

「ママー、ママー」

「竹田綾子さーん」

 これに応じたのだろうか。鉄の箱の中で動きがあった。最初は速すぎて、私たちは何が目をかすめたのか判らなかった。放物線のような動きで掃除を手早く済ませようとするような。自作自演の怪現象のような。

 絶え間なく往復されれば素早いことも有利に働かなくなる。

「ママが手ぇブンブンしてるんだぁ!」

 理奈ちゃんが正解を出した。まあ、手だろうね。見当はついていたが、わざわざ口にされると水かきで繋がっている河童の指に見えていたものが、指の一本一本をはっきり区別できるようになるから不思議だ。

「ていうか、私たちが来た時から、窓の位置はこのままなのですか?」

 小野寺さんの問いに、竹田さんは言った。ご指摘の通り、さっきから妻は手を振っていました。しかしそれも振っていたり、振っていなかったりと一定しなかったので、呼び掛けが希望を与えたとは言い難いという見解。「愛でどうにかなっていると思ったのですが、どうにもなっていませんでした」

「愛……」四階からの眺めを大まかに分けたら、くたびれた門構えの一戸建てとパーマ以外選べない美容室と、最も多数派である辛気臭い屋根。彼女は自分の心をこのどこかに託しているのだろう。「プラトニック・ラヴ……」

 非常階段からカンカンカンと音がした。

「手を振れるなら顔を出しても良さそうなものなのに、なぜしないのですかね」ドアの窓は一六〇センチもあれば充分に縁へりをさわれて余りある。澄んだ目の夫と娘がいる外界は恋しくないのか?

「実はちょろまかしてやっと一五〇」竹田さんは言った。それに。「身長どうこうではなく、一歩下がれば大きい小さいは関係なくなります」

 竹田さんもだてにおろおろしていなかったようだ。現状に対し、冷静な意見だった。

「うーん、身動きがとれないんでしょうかねえ、それとも他に何か……?」

「綾子の膝の軟骨が急にすり減ったとか?」

 ガクンという音がした。一階にめり込むような滑落でもするのかと思い、耳を塞ぎかけたものの、連想に反して箱自体の動きは緩慢だった。弓の弦を引き絞るように、窓から明かりのある部分がなくなってゆく。それに合わせて奥さんの手の振りは、SOSに変わりはないが、溺れた海水浴客の最後の踏ん張りといった様子になった。

 いかんせんエレベーターは重く、浮かび上がれない体が沈みきった。このままこのまま。エンジニアが来たらすぐに助けられるから。

 ガクン。「だめですね」「だめですね」

 ワイヤーが再度、巻き上げられる。

 順調にエレベーターが上昇してくる。

 うおっ。竹田さんは驚いた。

 うわっ。私は驚いた。

 残り二人は何も言わなかった。

 てっきり切々と窮状を訴える奥さんだけがいると思っていたので、胸の前で控え目にしていたガッツポーズが宙吊りになった。明るい窓が全体のなかばまで占めた、その時、右窓の奥さんの肩越しに、かりゆしを着ている男が見えた。四階を滑るように通過してしまったが、必死の形相で車椅子用のボタンを押す、私と目が合い一瞬はにかむところは見逃さなかった。

 それとも見ないほうが良かったのか。私の心配など知りようもない理奈ちゃんは、父親の腰骨に頭突きをしていた。頭突きをされている竹田さんはじゃれる我が子に気づかないのか、窓に手形を押しつけている。ひとまずそっとして置いた。

 私は小野寺さんの横に並んで、一緒に街を漫然と眺めた。黄昏が長すぎる。

「愛について、何か判りましたか」

「いえ。なんかこう、高尚なので、抽象画で愛を描いたことにして、寝たいような気分に、なっています」

「なるほど」立ったまま寝かねない、まどろんだ顔だった。アァ!アァ! アァ! とカラスがビンタをする勢いで鼻先をかすめるように飛んできた。私の見る限り、接触はしていなかったが、そこで小野寺さんの目は覚め、鼻を覆ったのだった。いやつまんでいた。

「においました?」

「くさっ……ええ」

 田橋さん。呼ばれたので振り向くと、竹田さんが「取り乱してすみません」と謝ってきた。娘の頭を固定し「くよくよしている時ではないですよね? 行きましょう」そう言って、娘を操りながら階段へ向かう。こっそり逃避していた小野寺さんも「前向きなだけが長所ですから」とやる気を取り戻したようだ。

 奥さんのうしろで、必死ながらもはにかんでいた、かりゆしの男。小野寺さんたちは気づいていないが、助けたいと思う片方の女性が家族同伴であるぶん、素性が判らない男と相乗りしていることはどうにも不安になる。けれども追跡されている自覚はある以上、仮に変質者でも暴挙には出ないはずだ。あくまでも理想。はずみで触ったあとでエレベーターが故障したなら、やけで触り倒す可能性だってある。

 竹田さんに教えてあげた。

「う、それはまた何とも」五階のステップを昇りがてらに聞かされた竹田さんは、踏み板と踏み板のあいだに爪先を突っこみ遊ばせた。

「知り合いなら良いのですがね。その人、特徴とかありませんでしたか」

 私は言いわけした。「不測の事態にみまわれると、なかなか……かりゆしを着ていたことはぼんやりと覚えています」

「沖縄出身者、かな?」

 小野寺・理奈ペアが引き返して来た。竹田さんが遊びで板を蹴っていたせいで、人数ぶんの足跡だと勘違いしたと小野寺さんは言った。つづく彼女の叱責に、理奈ちゃんは山彦のように子供のイヤガラセを混ぜる。

「一時間と待たずに倦怠期?」「たいき?」「奥さんは独りです」「でっす」「こんな時こそ」「くそ」「夫の愛が」「Y」「一番の助けとなるのでは」「出っ歯」「ないですか!」「スマンアヤコ」

「あー、困ったがぶり返してきた」

「くよくよは駄目です。とかく脆いもの、精密機器とはそういうつもりで付き合う図太さがないといけませんよ」

 そう偉そうにもできないのに偉そうに、小野寺さんは言った。

 そうやって竹田さんが追い込まれていると、五階からグイーンという音がした。ガクンだったらさっきまでの経験から縦の動きだがこれは初耳だった。「ほら、耐えた甲斐がありました」さすが聞き慣れている人は、復旧の音にも敏感だなと思った。

 私たちは五階踊り場に到着した。読みどおりである。銀の壁には、分断するために幅十センチの黒く太い線が引かれていた。陽気にしてくれる黒というのも珍しく、見ればみんな破顔していた。私も破顔した。

 気をゆるめるのは後回しにできると思い直し、近づいて様子を見ようとしたら、女性の悲鳴がした。「ぎゃあ」とここにかぶさったのが「ちょっと、ちょっとだけ、ね?」そして前より低音で。ぎゃあ、ぎゃあ、ぎゃあ。

「ママ!」

 理奈ちゃんが飛び出した。箱の中では争いでも始まったのか、外の扉はポルターガイストの犠牲者でもあるかのように痙攣した。

 発作的に「危ない」と私は叫んだものの、彼女はもう扉の前に立っており、遅い、斜め上からのコンビニおにぎり三つがつむじ部分に、トントントンと当たった。

「いってー」そう言い、そのまま倒れた。

 竹田さん小野寺さんは駆け寄った。

 私はおにぎりを調べる。一個目はツナマヨ、次が梅……。

 いつのまにか、元の一枚の壁に戻っていた。それぞれが何かにかかずらい、夢中だったためだ。

 三個目は鮭。それは見舞いとして理奈ちゃんにあげた。ツナマヨはエレベーターに挟まれているが、抜けないわけではない。外装フィルムだけで、それを手順どおりにはがしたら、食べることができる。

「男がいるという話をしていましたよね?」

 小腹を米と海苔、ツナマヨで埋めつつ「はい」と答えた。「会話の調子は官能を感じましたね。『ちょっと』というのが反語的セクハラなのは明らかですし……」

「まさか。ありえない」竹田さんに強く否定された。「きっとおにぎりに目がくらんだ、あー、何ゆし?」「かりゆし」「その、かりゆし。そいつはおにぎり欲しさに、綾子といざこざを起こしたんだ」

「そこまでしておにぎりが食べたいなんてねえ」小野寺さんが言った。「扱いづらそうね、その人」

 私が行き当たりばったりで出した痴漢説を含め、何をしでかすかわからない人物だと断言はできる。だが短期間であの変わりようときたら。竹田綾子さんが目立つかたわらで、陰ながら努力をしていた。私の目には助け合っているように映ったのだが。

 争いにまで発展した時の、目撃者が幸いにもすぐ近くにいるのを思いだした。

「なんかねー、足しか見えなくなって、なんかムカデみたいに、あっちこっち。おにぎりはたまに床に落ちて拾うときは、お互いゆずり合ってた。またドタバタ。おわり、コケたおじさんのおにぎりぶつかって、理奈おわり」

「それだけ?」細かいディティールは?

 理奈ちゃんは全てのおにぎりをたいらげた。それから、ふてぶてしく大人たちの前を素通りし、階段を降りていった。

「ええ、と。娘の食欲に火がついたみたいで。ウチに戻る気なんだと思います。手のかかる子ですが放ってもおけません」ちょっとの間逡巡したが、「行ってきます」と言って手を振った。

 竹田さんの足取りは爽やかだった。鍵も、彼が持っているだろうから、付き添うのは当然だ。食い意地の張った胃袋を満足させるため、彼は一からカレーを仕込む。まさかな。娘はとけそうなくらい指をしゃぶって。待てよ。冷凍食品をあっためるかも知れない。

 いずれにせよいったい何分、何十分くらいかかるのか?

「ただ食べるだけなら早く済むでしょうけど。けど、あんな旦那さんじゃ奥さんも大変そう。困る時間をなるたけ未来に引き延ばそうとして」

「よく聞く話ですね」と私は言った。

 ワーキャーとまた少年たちの騒ぎ声が遠くの方から聞こえてきた。

 紙をクシャクシャに丸める音。

 僕は負けないぞ!

 激しい手すりの振動音。

 ジャンケンがあるじゃないか。

「よくある話ですからね」

 動く気配はなかった。業者はまだ来ない。来なくても、時間は淡々と流れてしまう。エレベーターの知識がないというだけで、こんなにも手をこまねくのだ。

 せめて向こうから訴えるなりしてくれれば一喜一憂できるのだが、おとなしくしていた。さっきの大暴れはもういいのか? 和解したなら言うことはない。でもフラストレーションの蓄積だったら、これはどうにも恐い沈黙だ。

「こうやっていると、いつもと同じうららかな一日という感じがします」

「竹田さんご一家にとっては、災難でしょうけど。あと、かりゆしの人」

「どんな人か気になります」

「偏見も混じりますが、情緒不安定なように、私なんかは見えましたね」

「そうなんですか」

「人懐っこいと思ったら」

「ええ。顔と中身はなかなか一致しませんから」

「おにぎりの取り合いもしましたし」

「不潔」

 断片的な情報。私からと、理奈ちゃんからと。あまりあの子を責められないなと思った。拮抗しているとさえ言えた。私はずっとかりゆしの男の素性が知りたいとそのことばかりだったが、小野寺さんはやはり解決さえすれば小さな謎などに構いたくないらしい。

「私も人間なものですから。そして一介の小市民。平和がいいですね、平和が」

「はいわかります」

「こういう考えはどうでしょう」と言い、絵画になぞらえて説明してくれた。背景はかねてから行きたいと思っていたイギリスの田園風景。丘の上には、絶対に見たいストーンヘンジを描く。その真んなかには黒い穴が。

 そこから飛翔したエレベーターは、最初の構図を台無しにするほど、大きな天使の羽をつける。威圧する鉄の箱。「自由でしょう?」

 コンセプトが、自由でも平和でも、エレベーターの追放さえできれば嬉しいというのが、絵にこめたメッセージなのだろう。管理に手を焼くくらいなら、人為の及ばない管轄外の大空へ羽ばたいてくれれば。自分から飛びたいなどという無茶は、誰も言わないから。

 寓話というより愚痴だ。

「大胆な絵になりそうですね」

「描きたくなってきました」

 小野寺さんは、額縁のサイズを決めないと筆が進まない人だった。額縁はその絵の世界の幅や奥行きを左右すると彼女は言う。

「それで五号と六号、どっちがいいですか?」

「サイズですか。うーん絵のことは疎くて」

「五号は」彼女はエレベーターに近づいた。「窓が四号くらいかな……そうですね」

 両手の指をL字型定規の形にし、長方形をつくって拡大縮小していくうちに、手がとまった。

「これくらいです」

「あっ!」

 指の囲いの欠けた角からエレベーターが滑りこんできた。かりゆしが堂々とした様子で立っている。

 肩越しにこちらを見ていた小野寺さんは、すこし遅れて男(仏頂面)に気づいた。お互い見つめあう。すると口だけをパクパクさせ始めた。男が何を言っているのか聞き取ろうとして、彼女はその口をふさぐように耳を吸いつける。しっ、静かにと目配せで合図を出してきた。

 私は黙り、なるべく手助けしたかったが、すぐ隣で私が気遣ったところで、聞こえないがうるさそうな、ビーズや鉄のドクロのストラップ、奔放で輪ゴムのように動く唇が、努力をかき消すだろう。小野寺さんにはどう聞こえているのか。

「ぼくおりたくなーい!」

 小野寺さんがにらんできた。

「こんな差別! こんな差別!」

 仲裁ですね、手は空いていますから。綾子さんの通話の件はあとでも良いだろう。階段に、憎しみ合う子供たちのところに向かう。

 四階の踊り場からでも状況はすぐさま把握できた。

「ジャンケン負けただろ。早く行けよ」

「後出しだったじゃないか! そもそも僕落としてないし。さっきのおじさんが」

「早く行けよ」

「そっちのものでしょ、大事なら自分で行きなよ!」

「おまえ俺の代理だろ。判ったらさっさと行けよ」

 傷つけあう少年たち。というより眼鏡の彼だけが心身ともボロボロになっていく。けれども、ここで私が出ていくと話がややこしくなる……「もうちょっと待ってて下さい、すぐ静かにしますので」……手荒な真似をするしかない。

 私はその場で手すりを揺さぶった。つくりが甘いので、ぐらぐらと簡単に行きわたる。

 ぐらぐらぐらぐら。

 うきゃー。

 ひゃあはひゃひゃ。

 眼鏡が落ちてきた。

 透明人間が眼鏡して飛び降りでもしたかのようだった。ずっとレンズの内側をこちらに向け、落ちていった。悲鳴はその間続いていたが、レンズが割れた時、それも一気に萎んだ。

「おかげで主人の声が聞こえませんでしたよ」

 役目は果たしたというのに、つれなかった。あれだけ耳をくっつけても無理なら諦めなさいよ。

「私のせいにされても。綾子さんがガヤガヤ喋っていたからでしょう?」と言ってみたが、実際の音量は判らずじまい。またエレベーターがどこかに隠れたからだ。

 それよりも、「主人」とは? 理不尽なお叱りで訊くのが遅れたが、「主人」とは?

「田橋さんの人物批評でもピンとはこなかったのですが、夫の違う側面を見つけたおもいです。喋るときは表情ゆたか、けっして無表情でペチャクチャ喋らない人だと決めつけていました」

「その印象を絵にするとどうなりますか?」

「絵にしたくありません」

 カンカンカン。眼鏡くんが復讐に来たのか? ちょっと構えていたら、少年ではなく竹田さんだった。「やっと満腹になったみたいです。大食いのくせして、ゆっくり食べるものですから」

 理奈ちゃんが挑発的にゲップを嗅がせてきた。きついニンニクの臭いが鼻をつく。「ペペロンチーノですね」「いえいえ、これはガーリックトーストでしょう」

小野寺さんとは趣味が合わなかった。

「ギョーザだよ、食べたのは」

「そんなこと、どうでも良いんです」と竹田さんが言った。「妻から電話がありました」お揃いの携帯で、ストラップも同じだった。

「それで、なんと言ってたんです?」

「いやまあ。私もね、なかの詳しい様子を第一にしてくれと頼んだんですが。閉所に長くいるとヴォルテージがあがるのもむべなるかな、ってところです」

「私の主人のことは話していませんでしたか」

 あの二人、友好的に付き合えてはなさそうだし、階と階のはざまでのやり取りも不明だ。事情を知らないとはいえ、そんな動揺与える話を今するなんて。

 竹田さんは淡白に受けとめ、「諸々ひっくるめて報告します」と自信ありげだった。「妻の声は電波の関係なのか、割れていました。第一声、『ババーバーバカ、カカ』は雑音が原因の空耳でしょう。しかしほとんどが私への不満でした。『修理しろ』という無理難題、『娘がいるだけでいい』という引き算、『なんであなたじゃないの?』というシミュレーション。最後は『あなたの脳は交換に出せないの?』と、ハードSF。好き放題ですよ」

 綾子さんのきつそうな雰囲気は充分なほど私には伝わっていた。同じストラップの塊だというのに、竹田さんが持っていると近距離でも静かそうであった。少なくとも十倍に量を増やさないと釣り合わないだろう。

「主人はあれだけ喋っていたんです」竹田さんはあれだけがどれほどか判らない。「漏れ聞こえくらいあったでしょう?」

「しつようにネチネチと干渉しやがって」

 小野寺さんの顔が険しくなる。

「電話が拾ったご主人の肉声ですよ」

 険しさがより深まった。その他にも、断片的だが『俺だけが新鮮』『栓でもしろってか?』『人生やり直すのも根気か』という言葉も、聞こえたいや聞こえたと思う。竹田さんが言った。あとはぶつっと切れてしまったのでねえ。

 絵で表現しようにも、それどころではない小野寺さん。しかし夫の真意をこれだけで捉えられるのか、かなり疑問だ。喧嘩のこともあるし、引きつづき綾子さんと険悪の仲なのだとしら、あるいは彼女にぶつけた言葉もあるだろう。自慢とも自戒とも判断のつきかねる言葉もあるから、そう目くじらを立てず、冷静になりましょうと私は言おうとした。だけれども、未遂に終わってしまった。彼女がぶらりとドアの前に立ち、ノックをしたからだ。激しく叩くのではない、余計な力を抜いて叩いている。断固としている人を相手に、忠告を最後まで言い切ったところで、効果はない。

「女ってのはね、静かな時が、一番危ないんです」と竹田さん。「殺意だけで人を殺せる」

「奥さんもそうだと」

「わからないなあ。途中で私の鼓膜がキャパシティーを越えてしまいますから。鍛えれば、あの一般論が普遍的かどうかわかるのですが」

 一定のリズムを小野寺さんは守っている。胸の内は想像するより他にないが、単調な音をずっと聞かされている身にとっては眠気を催してしまう。私はおにぎり一個だけだから無事だったが、理奈ちゃんはその場に座りこみ、寝ていた。胃の内容物、おにぎり二個にギョーザ(数未詳)。薬を嗅がされたようなものだ。

 竹田さんは欠伸をこらえつつ、「あれで何が伝わるのだろうか」と独り言のように言った。

「意見してみてはいかがでしょうか」

「私の論をもうお忘れですか?」

 私たちはしばらく黙りこんだ。再び、小野寺さんの抗議のノック。それがおさまるまでは私も寝ておきたかった。瞼も重くなってきたことだし、されるがままに意識をなくそう。

 感覚が鈍っていたのだろうか。いつの間にか綾子さんたちがこの階まで降りて来ていた。二人とも何か言いたげに片方の窓からこちらを見ている。次の瞬間には故障していたシステムが余韻もなく復旧して、ドアが開きそうですらあった。

 それだけ彼女たちは平然としていた。

 願ってもないチャンス。理奈ちゃんは寝ており、竹田さんは寝ており、小野寺さんはうつむいていた。惰性のため視点が固定されていたのだ。

 揺さぶって唯一反応した小野寺さんは手を引っこめた。旦那さんはそれを見計らってか、奥さんがよく見える窓にうつった。じっと見つめている。

「感情をぶちまけるべきなのでしょうか?」

「ただでさえ伝達が困難ですからね。怒るだけ体力の無駄ですよ」私は助言した。

 旦那さんは漏れ出た自分の発言で奥さんが恨みをつのらせていることなど知り得るはずもなかった。だから感情も昂ぶって、今日一番の快活な笑顔で私たちに語りかけてくる。

 先程は耳を貼りつけても外の世界に影響を及ぼさなかったのが、声帯を限度いっぱいまで酷使していた。大声だからと言って普段通りの会話はできないものの、やはり小野寺さんは嬉しがっていた。

「顔を合わすと意志の萎える自分のことで反省したくなります」小野寺さんは用心深く小声で言った。「ですが、とりあえずは話し合うことが先決です」

「なら躊躇は禁物でしょう」

「さあ、言いたいことがあるなら、あるだけ言って!」

 これでもゆすりのつもりか?

「だめ、もう一押しに欠ける……もっとはっきり言って!」

 コネでもユルくするつもりか?

「もっと!」

(むせて不発)

 これでもじらすつもりか?

「(むせて不発)」

 ここでも地雷じゃないケムリか?

「投げ出しちゃだめよ!」

 金輪際口なんぞきくか!

「法人税が口をきくの?」

 旦那さんはめげずに喋っていたが、最もはっきりしていた金輪際云々をピークに、ガムテープとマスクで遮られているような、もごもごしたものしか聞き取れなくなっていった。

 その間中、綾子さんは指を耳栓として使っていた。こちらではパントマイムにしか見えなくても、隣にいるとまだまだうるさいようだ。

 手はふさがっていた。旦那さんががなり立てられる限り心配はない。彼の喉が潰れた瞬間、自由になった手が殴りかかる。これは大いに有り得ることだった。

 目の怒気で判る。

 私は綾子さんの気を逸らそうと考えた。生き物やペットの類なら当たり障りなくなだめることができるだろう。これに適した逸材は……。

 娘がいた。私は眠りこける理奈ちゃんを抱き上げた。熟睡しているせいで、身体を振ってみても結局首は、綿が飛び出ているぬいぐるみのようにだらりとぶら下がったままだ。

 味も素っ気もないな。これだけおとなしくて彼女の気晴らしになるのかと思った。ところが持参すると、食い入るように理奈ちゃんを眺め出した。次に私。それを交互におこなっていたが、興味が失せたのかそっぽを向いてしまった。途中何度か理奈ちゃんを振り子に見立てたのだが、興味を回復させる力まではなかった。

「どこまでも平行線……むこう一週間はおしゃべりもできません」と小野寺さんはおしゃべりした。特別な訓練を受けていないのに、継続して声を張り上げていられたことは、並みの執念ではできない。「音楽の道に進めるかも知れませんよ」「私も『魔笛』が歌えたら、とたまにかんがえたりします」

かさついた声。二十歳は老けていた。

 旦那さんは肩で息をしていた。諦念と呼べそうな、しんみりした顔で妻に語りかけている。ほとんど無駄な努力だったものの、それでも彼は続けていた。ポスターの中心、恍惚としてタクトを振っている指揮者に見守られて。

 彼の努力を好意的に見つめていたが、何も伝わらないのに虚ろな目でまくし立てられると呪術でもけしかける気か? と勘繰りたくなる。不気味だった。

 ところがこの中で一番苛々している綾子さんが、喉首を絞めにかかってもおかしくなかったのに、そうでもなく、というより夫に不満をぶつけたいのか竹田さんを探していた。

 竹田さんは死角になる壁のところに立っていた。

 どうしたものだろう。綾子さんの詰問するような目つき。教えたところで害があるとも思えなかった。私はそっと、目を左に泳がせた。

「力関係を分析すれば、妥当過ぎると言っていいくらいです」と竹田さんは言う、「ですがショックです」

 綾子さんは、彼女からは見えないものの、障害物がなければ間違いなく夫の肋骨がある箇所を睨んでいた。それは、エレベーターが上昇を始めてからも続いた。眼球を微調整しつつ、執拗に肋骨を狙っていた。

 おそるおそる奥さんがいないのを確かめてから、竹田さんは息を吐き、扉にもたれた。「安請け合いをしたからかな」と彼は言った。「連絡を取り合った時の対応が……」

「癇に障ることでも吹き込んだのですか」頬杖をついて、放置された少女を眺めながら小野寺さんが訊いた。

「元気がなければ、励ましたくなるもんです」

「それで、後先考えずに、何を言いました?」

「常套句ですよ。『君の痛みは僕にだって伝わっている。僕も苦しいんだ』」

「共感は癒されます」小野寺さんが言った。

「『腕力さえ僕にあったなら、ひしゃげるくらいに鋼鉄の扉を軽くこじ開け、救い出してあげるのに』」

 萎えたゴボウで何で開けられますか。

 妄想の捌き方がスーパーマンレベルで、大人の思考とは思えませんねえ。

 気持ちは伝わったんじゃないでしょうか。

 私は三番目を口に出した。

「で、ここです。『五分だ。五分もすれば業者が来ると連絡が入った。短いだろう? 頑張れっ、頑張れっ!』」

 隠していた言動が多すぎる。しかもこの激励は、綾子さんから辛辣に叩かれた後のことらしい。竹田さんは否定されにされていたので、私はそこで通話は断たれたとばかり思っていた。しかし、彼の話では、妻の強気は弱気の裏返しである。そこにつけこんで慰めやうわべの男性性を披露してやればすぐ骨抜きになるのだ。「ちょっとばかし楽天的でしたかね?」彼はようやく気づき言った。

 だから綾子さんは鬼気に包まれていたのか。「ですがやってしまったものは仕方ありません。奥様とじっくり話し合って下さい」

「うーん」

 竹田さんには興味がなかったのか、いつのまにか周囲にあの二人の姿が見当たらない。

「ほら、喉を潰したことにも気落ちせずに早速、追跡しているみたいですよ」

 うお、子連れババアだと上の階で、長い間ひっそりしていた少年たちが、また活気づいた。見えにくいー逃げにくいー。わざとに聞こえるほどスニーカーを踏み鳴らしながら私の頭上を右から左へ走り去り、ドアノブをがちゃがちゃさせたのを最後に、少年たちの気配は消えた。

 五階六階。見飽きた鉄の扉と通路。

 七階。見飽きた鉄の扉と、通路、理奈ちゃん、小野寺さん。彼女の前腕は硬直していた。前に倒れないよう横から支え、落下しないよう尻を支える手を臍の辺りに据えた状態だった。そこにすっぽりおさまっていた女の子は二の腕についた指の跡に自分の指を合わせている。指一本ぶんほど、跡のほうが長い。

「がちがち!」と小野寺さんは言った。「だらぁんとさせたいのに、どう動かしてもこれ以上リラックスできないんです」

 私は竹田さんに介助を任せた。

 最上階だというのに、エレベーターが来ていないということは、階と階の間でまた停止しているのだろう。あながちあの人の、リハビリをいま受けているあの人の愚痴も捨てたものではない。絵画の下書きの空想とはいえ、エレベーターは着実に上昇して来ているのだから。

 それに合わせて私たちも上昇したのだが、やる気はみるみる削がれてしまっている。

「理奈ちゃん早く帰りたい?」私は訊いた。

「そりゃあそーだよ」

「でもママあそこにいるでしょ」

「どこ、どこらへん?」

 曖昧に円を描いた。「このあたり」

「見えん」

「ママと家。どっちがいい?」

「むずかしー」

「でもどっちかっていうと?」

「家」

 母の愛もどうでもよくさせる気だるさと睡魔。二の腕を叩いて、年長者の痕跡を隠そうとしている辺り、なにも持ち帰りたくないようだった。「きえろきえろ」。竹田さんは、小野寺さんの手首をほぐしていた。彼女は彼女で肩を回していた。肩はしばらくぎこちなくさ迷っていたが、さっきまでよりも怒り肩になった。おさまるところにおさまった。「こうなったら藁人形を股裂きにしたい!」

 これを受け、竹田さんは距離をとった。

 私はそれが言葉の綾だということくらい、判っているつもりだ。竹田さんの距離感、さすが慣れている。私も真似した。

 どうせ、自分の部屋もすぐそこなのだから、帰って惰眠を貪りたかった。小野寺さんも、細々した脅しは忘れてしまっているだろうし。だが、その彼女が通路を塞いでいてはどうにも仕様がなかった。

 私がさっき、「ここらへん」だと示したところから、箱は、じっとしたままだった。隠れても出てきても不安にさせる、あの箱と中にいる人々はどう転んだところで持て余す。

 小野寺さん。強引にねじ回したことで、ようやく肩が自由になったようだ。ただその音がグロい響きで、なんだか気が晴れない、後ろ暗い。

「ふうー。楽ちんになりました」案外涼しい顔で小野寺さんは言った。

 そうやって小野寺さん越しから、自室のドアノブを私は見る。握りなれたドアノブだ。寝たいな。いや、スパナかなにか持ってきて誠意を示そうか。どのみちヨーグルトは今日はもういいだろう、ストレスにもつながらないだろう。そのことをまだ気にしていた自分にちょっと驚いてしまった。

 視野の片隅の異変に、私は本能的に反応した。中間で止まっていたと思っていた箱が、七階に来ていたのだった。気付かなかったのは内部の照明が落ちていて暗かったためか。だが今も暗い。どうやら私が見たのは本当に一瞬だけ明かりが戻ってきた時だったようだ。

 その場にいる全員が窓に注目した。斜めに交差して走る窓の黒いラインは、状況が不明な箱内部の黒さと溶け合っている。

「鳥目だと辛いですねえ」と竹田さんは言った。「この中に誰かフクロウの方は?」

 理奈ちゃんがくしゃみをした。

「私は平凡なジュウシマツです」と小野寺さんが言った。

「どんな目でも見えないと思いますよ」

「わたし、実はぶえくしょい! なの」何が言いたかったのだろう、彼女は発言の穴を埋めなかった。

「こういう黒が表現できたら、画家として大成したも同然ですよね」

 永遠の卵さんがそう言うと、余計な黒い箇所がくり抜かれた。

 二人はそれぞれの横顔をこちらに向けていた。目は、見つめ合っている。どのような人間関係にも訪れる和解の席なのだろうか。だが表情が固く、これから地味で迂遠な手続きを役所でするような。公務員と市民はどちらがやっても破綻しない。仮に旦那さんが市民役として、彼が役所に来る。たぶん二十語くらい口にしたはずだが、私には破裂音しか使っていないように見えた。

 対する、公務員綾子さん。母音をはっきり、イ、イ、イ。

 空気をはじいて立腹する市民。

 パ、ブ、ブ。

 イ、イ、イ。

 ブブブブブ、パン。

 母音「イ」で固定。

 歯も、持ち上げられた頬肉もそうだが、肉で細まった両目。まるでほぼ義務で拒絶しているかのような「イ」だった。

 旦那さんが八方手を尽くしても、綾子さんの「イ」をゆるめることはできなかった。

 だが、恨まれている竹田さんなら、あの「イ」を崩せるかも知れない。竹田さんなら。

「恨まれすぎて、興味の対象から外れたのか……?」挑発のため、ひん剥いていた目を元に戻したあとで、竹田さんは言った。「うー、まずいな、うー」

「じゃあ、わたし、ア。アア、アー」

「アイウエオの口をみんなでつくる遊びなんてしてないよ」

「罪つくりにも程がありますよねえ」と語尾を伸ばしながら小野寺さんは言った。私がそちらを向くと、急いで首を横に振った。

「最後のオを言うの、誰かなー、アアー」と理奈ちゃんが強要してきた。私の「オ」を待っているらしいが、煮えきらない加わり方を、竹田さんと小野寺さんがしたせいで、参加する気がしなくなった。したら、何となく白けた空気を私が背負わされるに決まっている。

 視線と、売り言葉が堪えてきたころ、箱の中の旦那さんが口をすぼめた。ここにきて綾子さんに屈したのだろうか。私は「見てみろ!」と言った。冷静に「オ」の口を観察すると、他の母音に比べて、間抜けな感じがした。最後の最後まで息を吐ききろうと、たかが「オ」と一言言うために命を削っているかのようだった。やらなくて良かった。

 口や喉が渇いてからからのはずだが、綾子さんは微塵も感じさせなかった。一方、旦那さんは恥が多いぶん、隠れて舌を動かせるだろう。頬の裏側から水分を絡めとろうとする舌。

 綾子さんのずらりと並んだ歯。旦那さんのそれ以外の部分はキスを迫る痴漢そのもの。分別のない番犬のような、綾子さんの引きつった表情。右の口角に痙攣が生じ、奥の歯が見えた。

 電気系統がまた異常をきたした。小野寺さんが喜んだのも束の間、蛍光灯は明滅をはじめた。膠着した二人と暗闇が、めまぐるしく入れかわってゆく。あまりに早いせいか、彼女たちが開きっぱなしの口を、ひとときの停電を利用して休ませているのではないかと、疑いたくなった。

 おそらく、「イ」のまま、「オ」のままなのだろうが、私たちにはどうしても口をパクパクさせているという印象は拭えなかった。

 竹田さんは唸っていた。

 小野寺さんは目をつむっていた。

 理奈ちゃん、彼女は辛抱づよく監視した。

 長くてチカチカする照明トラブルがようやくおさまった。ただ残念なことに、明かりは戻らず、箱の様子は神経を集中させても判らなくなった。

 それなのになぜか、ワイヤーを巻き取る音だけは、嫌になるほど聞こえだした。まるで大型動物を拷問にかければ出そうな音で、ギリギリ、ギリギリと。想像しただけで、自分の体の血が吹きでそうな気がしてくる。

 丈夫な金属ロープ。皮膚を裂いて、容赦なく骨も……そのロープが小刻みに揺れながら動いていた。

「下がっているじゃないか!」と言い、知らせてみたが、七階には私しかいなかった。夢想で遊んでいた私だけが出遅れたのだった。

「通過っ!」

 下の階から小野寺さんの声がした。

「通過っ!」

 そのまた下の階からも。そちらは竹田さんだった。

 その後いそがしく階段を踏み鳴らす音に混じり、「通過っ!」の声が聞こえた。

 私はなるべく早く追いつこうとしたが、六階、五階、四階でもまだ人に会えなかった。それどころか、「通過っ!」「通過っ!」と私の追随を許さず、三人に会えたのは一階に着いた時だった。全員の息が荒かった。

 私もしばらく肺が熱くて、ハァハァみっともなく空気を吸っていたのだが、持ち直したのは誰よりも早かった。

 最後を飾る、とどめの言葉「到着っ!」を言えるのは私だけだということだった。

「到着っ!」

 しかし、小野寺さんが喘ぎながら、空中に四角形を描いた。窓のことだろうか。指図にしたがって窓を覗いてみた。静止したワイヤー。

 なんだ、来ていないのか、と思っていると、ワイヤーが急に見えなくなり、その後すぐに箱が落下してきた。扉の隙間からの風圧に不意をつかれた私は地面に尻から倒れた。

「こちらの髪までなびきましたよ」

 助ける素振りも見せない小野寺さんが言った。

「気を悪くしないで下さいよ」と竹田さんが私の背中をちょっとさすって言った。「エレベーターで身内がどうなっているかが、心配で心配で」

「確かに」小野寺さんも同意した。

 悲劇の度合いは当然閉じ込められているに分があるから、私は何も言わずに立ち上がった。

 落下の衝撃で、扉は歪んでいた。扉の板は傾いていたが、指を入れられるくらいの隙間はできていた。これで救助ができるだろう。けれども、私と竹田さんよりも、中のあの二人が先に動いた。

 自由を求めて唇が二つ、暗闇から、縦にした状態で出てきたのだった。逸る気持ちは痛いほど伝わってくる。唇を出す直前、肉と肉、あるいは肉と鉄がぶつかり、耳によく響いたから。

「主人はこっち!」

「そりゃ妻のですよ」

「ちゃんと見て下さい」

「こんなにハレぼったくない!」

「年の割りに潤ってたら、決まりですよ!」

 助ける順番でも決めたいらしい。三十代(予想)女性のものと、五十代(予想)男性のものなら容易に区別がつくだろうに。

「おばかさん、おばかさん」理奈ちゃんが歌うように言った。「信じるほうにキスすればいいじゃない」

 彼らは同時に「それはちょっと」と言い、なぜキスできないのかを真剣に語りはじめた。自分を信じることへの恐怖、相手を間違えてキスをする恐怖、予想した通りの相手にキスをする恐怖。彼らの主張する理由が物語っている。

 私は二つの唇を見つめる。どうしても違いが見いだせない。竹田さんたちは議論に集中していて、唇がエレベーターの許す範囲内で自由に動きまわっていても気づくことはなかった。

 持ち主のことは時間が経てば自然に判ることだ。私にはそれを見届ける時間的余裕があった。だが、そんな気分では全くなかったので、自分の部屋でゆっくり寝たかった。

 そうするには、階段をまた一から登っていかなければならないが、かといって、体力がすぐに回復するわけもない。

 やることもなく、唇を見つめる。動きまわる唇のどちらかが耐え切れずに、いつか喋り出すのではないかと期待して。

 けれど、それもしばらく起こりそうになかった。

2019年11月22日公開

© 2019 島田梟

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