入歯タリアン

島田梟

小説

22,444文字

歯科医の主人公がゾンビになってしまった妻を総入れ歯にして一緒に同居する話。

地球上でどのように過ごしていても、十二ヶ月のいずれかであり、一日から三十一日までのいずれかを、我々は生きている。こんなことはどうでもいいことなのだが、その三六五日のうち、重要でない日を設けるのは至難の業だというところが、今のわたしの心を激しく捉えるのである。

各国の公の祝日、記念日をカレンダーに丸をつけていき、その次に個人レベルの記念日を書きこんでいけば、あっという間に暦は真っ赤になるだろう。子供がはじめて立った日、初めてつきあった日、銀婚式のお祝い、米寿のお祝い、それが、いかほど他者にとって些末で下らない記念だったとしても。
わたしもまた、無数の親・恋人たち・夫婦・老人に感化され、焼きが回ったのだろうか。自分でもひとつ作ってみたくなった。妻も、呆れはするだろうが、許してくれるだろう。

わたしはひきだしから、リボンを結んだ小箱を取りだし、机に置いた。思えば、結婚指輪以外、ろくなものを贈った記憶がなかった。妻がみずみずしかったころに、ああしてやったら、こうしてやったらと、悔やむことは多い。が、嘆いてみたところで、はじまらない。

隣の部屋が騒々しい。鎖をがちゃがちゃ鳴らす音にはもう慣れっこになった。それどころか、ひどく心が湧きたつくらいだ。ちょうど、パブロフの犬のように、ベルの音を聞いただけで、よだれが出るのと同じで、否でも応でも反応してしまう。
妻がわたしを呼んでいる。わたしは小箱を手に取る。片手で開けると、そこには、入歯があった。

つやつやした歯槽にしっかりと植えられたセラミックの歯が上下合計三十一本、上顎用と下顎用は台座に取りつけてあって、こちらに微笑んでいるかのようだった。

わたしは門歯に指を這わせてから、臼歯の凸凹を丹念になぞった。妻の場合、右側の外縁が尖っていて、そこがチャーミングだった。今回の再現性は高いものになったと、わたしは自負している。特に虫歯の詰め物は、わざわざドリルで穿孔してから、樹脂を注入した。

精巧な自らの手腕に満足を覚えながら、すでに風化した共産主義圏の指導者たちの死後の生を思い出した。毛沢東やレーニンは眠っているかのように、外見を保存されていた。あれがもし歯だけの展示だったら、健全なユーモアをまじえた、クリーンな見世物となったろうに。

人間の身体で最も雄弁なのは歯である。

他は全て、おまけに過ぎない。

壁が振動し、本棚にある写真立てが揺れる。わたし、娘、妻が並んで撮った、ピクニックの写真で、妻は高原をバックにまだ中学だった娘と抱きあっていた。そのとき、たしかこんなことを言っていた。
『だから言ったでしょ、私は晴れ女だって』

ヴァ、ァ、ァ……。呻き声自体に力でもあるのか、写真立てがバタンと倒れる。わたしはあえてそのままにして、続き部屋に通じる扉のドアノブを握った。ゆっくり回す。そしたら、騒がしかったのが、ぴたりとやんだ。わたしはワラとおが屑とすえた臭いで肺を満たした後、さっとノブを引いた。
「久美子、ついにできたぞ、きみだけの入歯が!」

久美子は爪のはがれた左手の薬指をしゃぶっていた。

二〇三〇年九月八日。今日を妻の復活祭としよう。

この始めかたは我ながらいただけない。わたしは推敲していて気恥ずかしくなった。ナイーヴさが随所ににじみ出ている。こういう時、紙は不便なものだ。いちいち消しゴムを使うか、あるいはページごと破り捨てる必要があるから。

端末の類は書斎の隅でほこりをかぶっている。精密機器は〈事変〉後、入手が難しくなり、貴重である。壊れたらそれっきり。なるべく使いたくない。

だからこうして、いっこうになじまないペンを片手に苦しんでいるのだが、わたしはなにもザンゲがしたいのではない。

わたしの活動に対し、世間では非難の声があがっている。賛同してくれる人格者もいるが、そちらの声はかき消されているのが現状だ。

そこで、無理解な世人に向けて、ささやかながら、小冊子をまとめようと思いたった。近い将来日の目を見るだろうそれは、わたしの立場や、妻ひいては〈変異者〉との共存可能性について語り、人々の偏見の解消に貢献することだろう。

そのためには、格式ばった論文スタイルよりもエッセイスタイルのほうが、取っつきやすいと思う。日常生活もおりまぜれば、なおよい。日記あり、思索ありの、複合的な本。だが、完全な日記になってはだめだ。むしろその小冊子は日誌の要素を濃くしなければならない。色眼鏡で見てくる輩に読ませるのだから、当然だ。

この紙片がやがて層をなして、わたしの弁明の書となるよう、いるのかどうかもわからない神にせいぜい祈るとしよう。

とにかく記録だ。記録、記録。

(⇒ここまで、直せば序文に置ける余地あり?)

 

〈変異者〉にも眠りはおとずれるのか?

これは誰しもが抱く疑問だと思われる。

答えを先に言ってしまうと、〈変異者〉は常に覚醒している。彼ら彼女らは疲れを感じることはなく、もし当人が望めば、列島の端から端まで歩ける。

こう書くと超人のようだが、生物である以上、彼らにも休息は必要である。その場合、彼らは座り込んで、じっとしている。目は開けたまま、うなっていても、安心していい。そういうときは、虎や熊の檻に入るよりも危険は少ない。

わたしは毎朝七時にはベッドを離れ、妻の様子を見にいくのだが、たいていおとなしくしている。

これはわたしの仮説だが、ウィルスによって脳に変化が生じ、イルカやマグロのように、脳を半分ずつ休ませて完全に眠らない状態になっているのではなかろうか。

わたしは妻を呼ぶ。妻はうつろな目をこちらに向ける。視線がなかなか定まらないところを見るに、近眼なのだろう。わたしはもう一度呼びかけ、近よって腰をおろす。
「ヴァ、ア、ア」

妻はやっとわたしを認識すると、皮膚と同じく緑一色の口を大きく開ける。Uの字型のライン上に、穴ぼこができている。

生活スタイルがまるで違うため、規則正しく人間の生活に合わせることに、どれだけの意味があるのか。わたしは「ある」と考えている。人は産まれながらに人なのではない。人として扱われることで、人になるのだ。だから〈変異者〉になった妻も、〈変異者〉扱いしたとたんに、手の届かないところに行ってしまう。そう思っている。

さて、モーニングコールが終われば、次はブレックファーストの時間だ。
「調子はどうだい?」

と言って脈をとる。おそろしく早いのを確かめてから、わたしは朝食の準備にとりかかる。鎖帷子付きの手袋をはめ、ケースに入れてあった入歯を妻につけてやる。

安定剤の量は通常の三分の一。ぬりすぎると、はがすときにもとの歯槽を傷つけるおそれがある。
「ヴァアアアア!」

歯をとりもどした妻は水を得た魚のように元気が出る。それがわたしには嬉しいのだ。
「はは、あわてなくてもちゃんとあげるよ」

わたしはビニール袋を血まみれにする、生の鹿肉を取りだす。にごった瞳はせわしなく動き、小鼻もひくつかせる。妻はもともと食の細い女性で、どちらかと言えば、魚好きだった。今では正反対である。
「さあ召し上がれ」

鎖につながれた手が伸び、鹿肉をひったくると、妻はしゃにむにかぶりついた。食事中はわたしなど路傍の石以下の存在になる。

妻はさして苦労もせずに、ほとんど呑みこむような勢いで食べていく。実は、入歯の彼女を気づかって、あらかじめ切り分けて出すようにしている。

口のまわりは血でベタベタになる。垂れたヨダレはおが屑が吸いとってくれる。
〈変異者〉は食への執着が非常に強い。人間のときに備わっていた三大欲求が二つ抜けおち、一本化されたことで、食欲が増幅されるのだろう。

一般に誤解されていることとして、「〈変異者〉の人肉嗜好」が挙げられる。これに関しては、食後の妻が有力な反証となってくれる。
鹿肉三百グラムを平らげた妻は、口角から赤いよだれを垂らし、白濁した目でわたしを見つめてくる。
「はい、おそまつ様」

と言うと、アゴをがっくりと落として、糸の切れた人形のようにぐったりとするのである。

わたしは片方の手袋を慎重にはずし、妻の頬にそっと手をやる。水気はなく、カサカサしている。恋人だったころよくしたように、ゆっくり押して、離す。今ではへこみが戻るのに五分以上かかった。

もちろんこれは、〈変異者〉の特性を知悉しているからこそできるので、安易な接触は控えたほうがいい。

私見によれば、〈変異者〉との交流を可能にするのは差し出した食物が関わってくる。にわかには信じがたいことだが、肉の種類に応じて、食後の機嫌が変わるのだ。

賛同者の方々のために、わたしが考案したフレッシュリストを掲げておこう。参考にしていただきたい。

一位 鹿肉 所見・安静。人で言う熟睡にきわめて近い。接触・問題なし。

二位 猪肉 所見・安静(ただし、眼球振盪あり。理由は未詳)。浅い眠りに近い。接触・やや注意。

三位 牛肉 所見・覚醒(両肩にチックのような反復的な動作が見られる)。わかりやすく言うと、寝起きの状態。接触・きちんと準備することを推奨。

四位 鶏肉および豚肉 所見・覚醒(カバのような赤い汗を脇から分泌)。完全に意識がある。接触・要注意。みだりなスキンシップは非推奨。

五位 狸肉 所見・著しい興奮状態(耳から粘りけのある液体が流れる)。接触・危険。
人肉の検証は未定。

資料をお持ちのかたはご一報を。

このリストからわかるように、肉なら何でもいいというわけではない。〈変異者〉はグルメな舌の持ち主なのだ。

 

──第二章 〈変異者〉との散歩は有益である(仮)

以前、とある医者仲間から「一日中とじこめておくと、動物愛護団体がクレームをつけてくるんじゃないですか」と言われた。

わたしは「人権保護団体の批判なら甘んじて受けますよ」と返してやった。ただ、その手の団体は〈根絶派〉についているので、〈変異者〉の人権など噴飯ものだろうが。偏見は醜い。ありもしない幻におののき、ささいな違いを誇張して、あたかも別の種に属していると見なしたりする。

妻を、〈変異者〉をどう思っているのだろうか。バケモノ。口の悪い連中は、おおかたこう言っている。もう少しまともな、紳士淑女然とした人々ですら、奥さんを囚人のようにあつかって、と上品な顔をくもらせる。

ご忠告なら間に合っている。この世界で、わたしよりも妻に尽くす男はいない。看守、飼い主、好きなように呼んでいただいて結構。しかし、それはこの章の終わりを読むまで待ってもらおう。

 

──第二章 清水くん、あるいは妻との散歩(第二候補?)

わたしたち夫婦が住んでいるのは、とある保養地に建つロッジである。以前の持ち主から破格の安値で譲ってもらったものだ。

妻との散歩は晴れた日にしか行かない。ずぶぬれになると、風呂で洗おうにも、皮膚がずるむけになるのが恐くてできない。

十月下旬。行楽日和。わたしはリードを手に、ロッジを出た。妻は上体を揺らし、階段の上でたたずんでいた。しきりに腰をまさぐっている。リードはいつも、ベルトに繋げてある。首輪をつけるのはさすがに抵抗があった。
「ア……ア……」
「どうしたんだ、久美子?」

わたしはやさしく引っぱる。だが、体幹の衰えた妻は、ちょっと力が加わっただけで、ふらつく。〈変異者〉は、生物なら備えているはずの防衛本能が失われている。たわむれに目を突こうとしても、瞬きはせず、痛覚もないから、イスの脚にぶつけた小指が九十度曲がっても、妻は平然としている。自我はどこかに置きざりにしてしまった感がある。

だから、裸で外出しても、妻にとっては密室にいるのと大差ないのだろう。そんな解放的な彼女を尊重してやりたいところだが、向こうにはなくても、こちらには羞恥がある。わたしはリードを杭に結び、物干しざおにつるしたポンチョを取ってきて、妻に着せた。ぴったりなサイズのものが見つからず、どうしても尻が見えてしまう。やはり、肉体が重力に負けて、垂れ下がりが進んでいるからだろうか。
「じゃあ、行こうか」

散歩コースは特に決まっていなかったが、近場にある湖のほとりをぶらぶらすることが多かった。そちらに足を向けても、嫌がるそぶりを見せなければ、あとは流れにまかせる。木々の葉っぱはすっかり落ちて、地面をおおい隠していた。わたしは子供のころから、足はしっかり上げて、かかとを着けてから残りを下ろせと親にうるさく言われて育った。いまだにその歩きぶりがしみついているのである。
妻は正反対である。綱渡りをするように、すり足でかきわける。以前は……わからない。むかしはあちこち遠出したが、歩き方に注目したのはここ最近のことだ。スリッパの傷みが早かった紀はするが、なんとも言えない。

湖までは、ゆるやかな斜面を下る必要があった。だがそこを通過するには石や根っこが障害となる。〈変異者〉の運動機能が低下する原因は諸説あるが、みなさんがしばしば耳にされるのは腐敗説だろう。腐っているのだから、跳んだり跳ねたりが苦手に決まっている。これは拙速な憶測と言わざるを得ない。湖が近くなると、久美子は小走りになる。わたしは彼女の足元に気を配りながら、ようやく歩きだした子供を見守るようなまなざしを向ける。

彼女は膝をつき、湖面に顔を浸すと、一心不乱に喉をうるおす。ポンチョがぬれるぞ、というわたしの声などはおかまいなしだ。鳥のさえずりひとつ聞こえないなか、うどんをすするような音が大きくひびいた。
「うまいか?」

妻はわたしの方を向いた。毛のない顔を流れる水滴は、目や口に吸いこまれる。
「アアアアアアアアア」

しわがれ声が、このときばかりは水の力を借りて、澄みわたる。わたしにはそう聞こえるのだ。

話題を変えたのではない。実を言うと、久美子のこういった動きは、ほんの数ヶ月前まで、考えられないことだった。しかし、リハビリを継続的におこなった結果、腰をかがめたり、溺れない程度に水を飲むこともできるようになった。

これを腐敗説で明らかにするのは、難しいと思われる。畑違いのそしりをおそれずに言えば、脳の神経伝達への異常が根幹にあるのではないかと、わたしはにらんでいる。歯医者にこみいったメカニズムはわからないが、いずれ有能な人々が解明してくれることだろう。

形あるものはみな滅ぶ。わたしも一時期、厭世的な無常観にとらわれた。〈変異者〉は、下り坂を転げ落ちるのみ、と。
そんなわたしに蒙を啓いてくれたのも、やはり妻だった。かつての、人間だったころに、戻らなくてもいいではないか。多くは望まない。ただいてくれるだけで、わたしは満足なのである。帰宅後、びしょぬれの彼女を拭いていると、この体を石けんで洗ってやれたらと、よく考える。しかし、それをすると、久美子は一日中室内を徘徊してしまう。自分の体臭が消えることでひどく不安を覚えるようだ。

※リハビリの様子は、いずれ映像媒体でみなさまに提供したい。

 

──第三章 〈根絶派〉からの建設的批判とそれに対する〈共存派〉の応答
↑あとまわし

(〈根絶派〉の論は論未満のしろもの)
(二言目には「殺せ!」)
(あれでウィルスにやられていないのがおかしい)
(資料なら豊富にある)
(抑制は勝利の随伴者)
(想定される批判の網羅)
(悪者に見えない、上品な皮肉をまぶす)
(清水くんにも意見を聞く)

 

──第四章の挿話
清水くんはわたしの盟友である。というのは、ここまで読まれた方には、わたしがひとり相撲をしていると受け取られかねないからだ。〈共存派〉の連帯はささやかだが、結束は固い。その一端でも感じ取っていただけることを願ってやまない。実名での登場に、彼はふたつ返事で了承してくれた。その心の深さに感謝しつつ、筆を運んでいきたい←あとで話とおす。
清水くんもまた歯科医である。不健康なエナメルを除去する貴い仕事だ。童顔で、恰幅がよく、角のない柔和な口調。誰に対しても丁寧にふるまう。〈事変〉前なら嫉妬を覚えたであろう同業者だが、このご時世、彼が隣人としていてくれるのは本当に心強い。彼とは研究にまつわる議論で夜に会うより、朝の澄んだ空気を吸いながら会うことが多い。

その日も、妻との散歩中、一本道の向こう側から息子さんを連れてやってきた。妻は自宅が見えるとぐんぐん進むので、それをなだめるためにずいぶんと汗をかいていた。

「清水くん!」

わたしは手に食いこむリードの痛みで、笑みが引きつっていたと思う。
「おはようございます」

大きな体をぐっと曲げるお辞儀は樹齢数百年のご神木のような安心感がある。この感覚はちょっと表現しにくい。妻の次は彼を『解剖』してみようかな。

※冗談はどこまで許されるのか?

※越えてはならぬ一線の見極め。

清水くんは涼太くんの手をふっくらした手で握りしめていた。今年の冬に、六歳の誕生日を迎えるそうだが、親御さんとは反対に、筋ばった感じ、つないだ手は今にもするりと抜けてしまいそうだった。わたしも、久美子と並んで歩けたらと、つい思ってしまう。しかし、配偶者の容態がどうであれ、親子には親子の、中年夫婦には中年夫婦の距離感があるのだろう。
「奥様はどうですか?」

わたしは答えるまえに干し肉を脇へ投げた。
「ええ、この通り」

飛びついた久美子は肉を歯茎ではさみ、ちぎろうと奮戦していたが、入歯がなければしゃぶるしかない。おとなしくさせるには、これが最も効果的であった。
「誤嚥しなければいいんですが」と言って、清水くんは子供・お年寄り・〈変異者〉は食道と気道の間にある弁の動きが未熟であり、先生も気をつけるようにと説諭した。
「うちの子も先日、ひどくむせましてね」

清水くんは息子の頭をやさしくなでた。
「それは危なかった」

わたしはかがんで、涼太くんと視線がまっすぐ合うようにした。
「おはよう、涼太くん」

話しかけたら、父親の後ろに隠れてしまった。彼の人見知りの激しさに苦笑しつつ、やさしく、何度か呼びかけた。
「食べているときは素直なんですが……」

そう言った清水くんに共感をこめてうなずいてみせた。が、それにしては脂肪のないのが気になった。
「おいで。おじさんがいいものあげよう」

わたしが手を差し出すと、おずおずとだが、こちらに近づいてくる。父親にも背中を押され、その気になったのか、涼太くんは手のほうは無視して、わたしの腰にしがみついてきた。

わたしは娘を思い出しながら、涼太くんに接した。預けた先から連絡ひとつよこさない、生意気な娘である。そんな彼女にも人並みにかわいい時期があった──
「そうか、おじさんが好きか」
「ヴァ?」

彼はポーチを奪おうとしていた。その姿は、だだをこねてお菓子をせがむ子供だった。干し肉を渡すと、涼太くんは一心不乱にしゃぶりはじめた。清水くんは入歯を持っているはずだが、あの手この手で、口まわりを傷つけながら苦闘する息子に何もしてやらない。
短気な輩なら、さっさと胃に詰めこめられてはエサがいくつあっても足らんからだ、と軽々しく、断定してしまうだろう。恥ずかしながら、わたしもそうであった。

しかし、清水くんは違う。彼を見くびってはいけない。

どれだけぶしつけな質問でも、目を細める。まるで後光がまぶしいとでも言うかのように。イレル?→〔彼はけがれた人間にも仏性を感じているのだろうか。言わせてもらえば、彼のほうこそ仏により近い。ちなみに、思わず本人の前で手を合わせてしまったことがあることを、ここで告白しておく〕
「先生。ぼくは涼太をあきらめたりなんかしません。この子が感染したときは絶望しました。しかし、あなたが考案した画期的な抜歯によって、この子は新しい命を吹きこまれたのです。見た目は少し変わりましたが、社会で生きていくうえで、しつけはしておきませんとね」

食事は殺生の罪を伴う。だから感謝して味わいなさい。清水くんは初歩的だが大切なことを学ばせようとしているのである。『いただきます』をきちんと言わせるのが今の目標だとも語った。

荒唐無稽、だろうか?

いつのまにかリードを手ばなしていたため、久美子は原っぱの方を勝手に散策していた。そこへ涼太くんが向かうと、久美子は立ちあがり、夢遊病者のようにうろつきはじめた。そのさい、口から鳥の死骸がこぼれ落ちた。妻はせっかくの獲物に目もくれず、涼太くんが拾って食べてしまった。
「先生」清水くんは生つばを飲みこんだ。
「ああ。すごい」

分与行為! それは驚くべきことだった。あまり認めたくはないが、〈変異者〉の知能レベルでは、社会生活で要求されるような協調性および利他的なふるまいは望めまい。ウィルスが人を人たらしめる部位を蚕食し、破損させるから。

定説を揺るがしかねないぞ。と、わたしは興奮していた。偶然、落ちただけか。いや、あれは明らかに慈善だ。
「久美子!」

妻を呼んだ。だが、こちらの感動などおかまいなしに、彼女はさまよっていた。その後を、またおこぼれに与ろうと、涼太くんがつけまわす。まるで、つれない母に追いすがるかのように。感動していると、清水くんが息を荒くしながら密着してきた。
「どんなマジックを使ったのですか。さしつかえなければ、ノウハウを、ぜひ……」

わたしはくすぐられたように、ちょっと笑った。
「特別なことは何もしていません。信じていれば、神様は必ずこたえてくれる。そういうことです」
妻と涼太くんは朝日を浴びていた。二人の体にへばりついた羽毛が、風で飛ばされる様子は、筆舌に尽くせないほど美しかった。

 

・資料1 変異患者の抜歯(経過観察)

健常者と比べて、困難に思われる抜歯手術。理性が低下しているため、なだめすかしても、激しい抵抗にあるのはやむをえない。しかし、わたしはそれに二度も成功しているのだ。1では、一度目の話をしよう。ここでは情緒を排するため、妻を患者K、清水くんを助手と記す。着手したのは、二〇二九年の冬のことだった。夏場はどうしても臭気の問題からハエにたかられて手術が進まない。
それに、苦労の末説得した助手に余計な負担をかけなくなかった、というのもある(その時はまだ、彼は郷里で肩身のせまい思いをしていた)。

リビングから一段下がったところに、談話室がある。そこのマッサージチェアに切りこみを入れたブルーシートをかぶせた。ひじかけやフットレストは拘束時にゴムバンドを通すためだ(結束バンドはうっ血その他、不用な苦痛を与えそうなので却下)。助手の力も借りつつ、患者Kを部屋から連れ出す。暴れる気配がないのをこれ幸いと、猿ぐつわだけして、両側から腕をつかんだ。

座らせてから、まず手首を、そして足首を入念にしばった。外光は弱く、アテにならないため、カーテンはしめ、部屋の電気にたよった。患者Kの頭を背もたれに固定してくれた助手に、それだけでは不安だからしっかり持っていてくれとわたしは言った。
猿ぐつわが取れてKが騒ぎだした。わたしが挑発するようにウオーウオーとうなったら、つられて口を開けた。そこにすかさず、つっかえ棒をねじこんだ。

麻酔はなし。外科器具もなし。窮余の策として、ペンチを用いた。下顎の前歯からとりかかった。中切歯はあっけなく引き抜くことができた。患者、叫ぶ。出血少量。ガーゼをあてがうまでもなかった。手術前にぐらつきは見られなかったのだが、重度の歯槽膿漏かと疑うくらい、歯の定着が悪かった。中切歯、側切歯、犬歯、第一小臼歯、第二小臼歯、第一大臼歯、第二大臼歯、第三大臼歯を手際よく取りのぞいていった。下顎を終えたところで、助手にKの口内をガーゼでふかせた。上顎は下顎同様、滞りなく抜歯したので割愛する。

術後の経過は想定よりも良かった。出血はその日のうちに止まり、傷口がふさがるのに時間はかかったが、化膿を起こすことはなかった。
以上で、素描を終えることにする。詳しい経過観察については別項にゆずりたい。

 

──経過観察

久美子の歯を全て抜いてから一年以上。せめてボイスレコーダーでも回しておけばよかった。手術中の記憶は鮮明だったので、文章がすらすらと出てきたのだが、どうも奇妙なことに、ハイになっていたらしく、書斎でひとりきりになると虚脱感がどっと押し寄せた。その後遺症は頑固に長期化し、ノートもメモもとらずに、はじめの貴重な数か月間を過ごしてしまった。

と言って、書くほどのことは何もなかった。久美子は反抗的なそぶりも見せず、ただ呻いていたから。来る日も来る日も。それをベッドの上で深夜、ぼんやり聞いていると、陣痛に苦しんだ妻のことを思いだした。そしてお腹から娘が出た、あの瞬間。看護師がしわくちゃで赤らんだ小さないのちを持ちあげたとき、妻はわたしの手を折れるくらいの勢いで握りしめてきた。おそらく誰の手があってもそうしていたかも知れないが、それでも役に立っている実感はあった。けれども、あの手術の後はどうにも同じようにそばにいてやろうとは思えなかった。ひたすら耳を澄ましていた。今日は夜明けより早くにやむだろうかと、そんなことをつらつら考えたりして。

無意識に彼女を嫌悪していたのだとしたら? アイディアの押し入れみたいな、こんな紙のよせあつめは燃やしたほうがいい。
あるいは恐怖というのもあり得る。子どもが産まれたときは未来に向けて計画を立てるのが楽しみだった。痛みの引いた妻に何と言ってやればよかったのか。すでに終わりを迎えた人とさきざきの話で盛りあがれたとしたら、鬼にも愛想を尽かされる。

〔↑清書から外す。これが本音なら、たしかに『燃やしたほうがいい』。ただし、この部分のみだが。←あくまで日記の欠片、情緒不安定だったときのもの。障壁を乗りこえるストーリーとして? 捨てずに保留〕

 

・妻の父は、わたしにこう言ったことがある。「ゾンビなのに、足がはやいとは、これいかに」わたしはなんと返したか覚えていない。
そんな洒落を飛ばしていた義父も、〈事変〉初期、〈変異者〉の食料になってしまった。

 

・食料の買いだしには自転車を使う。徒歩でロッジから町に行くのは現実的ではなかった。体力面はもちろん、心理面でもエネルギーがどんどん抜けていくからだ。『お前たちは異物なんだぞ』と、無言で圧力をかける視線。なるべく印象に残らないうちに疾走すれば、なにごともなく、目当ての場所に行ける。

 

町の人々は派閥に属していないが、やはり〈根絶派〉寄りである。〈変異者〉と同居する男など犯罪者みたいなものだろう。突き刺さる白い眼にも、じきに慣れた。

子どもはもっとあけすけに石を投げたり、罵声を浴びせたりしていたが、最近は減少傾向にある。おおかた、わたしをいじめるのに飽きたのだろう。土地の子はさばさばしていて、むしろ陰湿なのは疎開組のほうだ。〈変異者〉の実害が大きかったのは、都会だったから。表だってしかけてこないものの、その静けさがわたしの不安をあおった。

運良く人と会わずに、食料品店の前までくるとわたしは自転車にロックをせず中にはいった。どうせ誰も触りたがらない。店主のばあさんはちょっとボケが進んでいるのか、わたしを見てもまったく違う名前を呼んで、いらっしゃいませと言ってくる。わたしは息子も姉も元気だよと返して、商品棚の間を行き来する。ここでは自分用の食品を買う。食パンや、ばあさん手づくりのおにぎりや総菜を、食べあわせも考えずカゴに入れる。

レジでまともな清算を待っていたら日が暮れる。だからわたしは紙幣を出して、おつりはいりませんときっぱり告げる。ばあさんは、地鎮祭の神主がおおぬさを捧げ持つように、うやうやしく千円札二枚をかかげた。

入り口のところで白髪をダンゴにまとめた女性とすれ違った。目礼もなく、彼女はばあさんとおしゃべりを始めた。
引き戸の隙間から声がもれてくる。
「くさい」
「あたしが?」
「ううん、別の人のこと」
「ああ?」
ペダルをこいでスピードにのると、わたしはあの女がさっきの紙幣をばあさんから巻きあげる空想を働かせて、気を紛らわせた。

・だがこんなのはまだいいほうで、久美子の食料確保となると、より厄介な相手と話す必要がある。

 

──第五章 家族の絆(A案)

──第五章 偏見の芽をつむことの難しさ(B案)

──第五章 その時、あなたならどうするか(C案)

 

・文章の構成

・これは重要な問題だ

・(A案、試しに)

 

自宅で〈変異者〉との同居を決心したあなた。あなたは、親持ちか、それとも子持ちか。二人暮らしなら、家庭内での気づかいはいらないが、負担は全て自分にのしかかる。三人以上なら交代制をとれるが、そう都合よく理解してはもらえないだろう。
いずれにしろ道は険しい。トルストイが言ったように、不幸のパターンは多種多様なのである(奥さんのいる清水くんには嫉妬の情をたまに、ごくたまにだが抱いてしまう)。

わたしに娘がいることはすでに述べた。

ふだんは姉夫婦の家で世話になっている。これは|瑠美《るみ》の希望だった。一緒に暮らすのは断じてイヤだと、宣言したときの表情は、ぞっとするほど暗かった。(※ここで自嘲成分を加える)

実の子どもすら導けない坊主の説法みたいだ。偉そうなことを言ってきたが、わたしはいまだにひとつ屋根の下で暮らすよう説得できていないのだ。

わたしとて、嘘八百をならべられるほどつらの皮は厚くない。これを乗りこえなければ、あとあとしこりを残すことになる。娘とは、父として、きっちり対峙しなければならない。

───────────────

三日後、ちょうどタイミング良く、と言おうか、瑠美がこのロッジにやってきた。事前の連絡がなかったので、リビングのソファで、猫背をさらにまるめて座っているのを見たときは血圧が上がった。

わたしは書斎の扉をわざと乱暴に閉めた。だがそれも、騒がしいテレビの前では娘の気を引く力を持ちえなかった。三二インチの画面の中では、生きた死体がうつろな目をどこともなく向けながら、ショッピングモールの周辺を徘徊していた。ジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』だった。
「面白そうだな」

わたしは本音と正反対のことを言って、娘のとなりに座った。こちらに目をやりもしない。フレーム、レンズともに巨大なメガネは低い鼻をそぎ落としそうなくらい、重たそうに見えた。昔から目は悪かったが、平和なころはコンタクトレンズをつけて、バスケに熱中していたのだが。
「……え?」

あまりにもかすかで聞き取れなかった。喋りかたも、よく通る明るいものから、本人の耳でも拾えないものへと、様変わりしてしまった。
「伯母さんから伝言、ある」
「そうか」わたしはテレビの音量を下げた。「なんて言ってた?」
「そちらのおうちの中が整理・・されたら、じっくり話しあいましょう」

隠語とは得てして不快だ。反目している人間に対し、仲間意識をちらつかせてくるからだ。姉が言いたいのは整理ではなく、処理、もっと言えば殺処分・・・だ。
「父さんからの伝言も伝えてくれ。こちらはいつでもワックスをかけて待っている、と」

娘は足をおろし、テーブルのリモコンを取り、また膝を抱きよせて、ボタンを押す。ゾンビに囲まれた生存者が体をくわれながら叫んでいるところだった。パンのように腹や腸をちぎられる。叫び声がどんどん大きくなる。
「やめなさい。迷惑になるだろ」

わたしがリモコンを取りあげると、瑠美はわたしをにらみつけてきた。
「まだお昼じゃない。家も近くにないし、だれの迷惑になるっていうの?」
「母さんのだよ」

電源を切ると、ロッジの内も外も、静かだった。嫌になるくらいに。
「ねえ、お父さん。アレはいつまでいるの?」

これが〈事変〉直後だったら、わたしは手をあげていたかも知れない。当然怒りはわいたが、せいぜいボヤ程度の勢いだった。それ以上に、失望が圧倒的な優位を占めたのである。どの周波数にあわせても雑音だけが流れるラジオ。それを延々と聞かされる拷問のようなものだ。
「アレ呼ばわりはやめなさい」

娘は顔をよせてきた。ミクロサイズのウィルスの居場所をさがしているかのようだった。
「アレじゃなかったら、なに? へんなやつ、キモチワルイやつ、くさいやつ、それか、ばけもの?」

立ちあがった拍子に、肩が当たり、彼女のメガネがカーペットの上に落ちた。
「もう一度、母さんをばけものと言ってみろ。ただじゃおかないからな!」
「ぶつならぶてばいい」

顔はずっと下に向けたままだった。毛足の長いカーペットにうもれて、両側のフレームだけが早蕨のように突きでていた。娘にはできないが、これになら……。

わたしは思いとどまって、足をもどした。

あんな映画をこれ見よがしに見ていた時点で、娘の主張はじゅうぶんに理解していたのだ。それでも和解の余地は残されていると考えていたが、甘かったようだ。
「じゃあ、叔母さんの言葉、伝えたから」瑠美は分厚いレンズをかけ直して言った。「たぶん、これが最後」

帰りぎわ、瑠美は我が義兄の運転する車の窓から何かを投げた。エンジン音がしなくなったのを確認し、何だろうかと拾いに行ってみた。それはマイケル・ジャクソンの『スリラー』のCDだった。すぐにまっぷたつにしてやった。

・テーマとしてはB案のテーマともかぶるところがある。ドッキングする?
・この文から修正できるか? 無理筋だ。

 

※清水くんに事のてんまつを話す。「しかし、時間をかけて話しあえば、瑠美ちゃんもいつかわかってくれますよ」
・そうだろうか?

清水くんには励ましてもらったし、そう思いたい。

 

※A→最悪、脚色も視野に

※B→抽象論でお茶をにごすのもありか

※C→あとがきに移す

 

──猟友会は〈根絶派〉の巣窟である

最近、久美子に言葉を教えようと、わたしは腐心している。カードにひらがなを一文字ずつ書いて、見せていくことも考えたが、妻はもう文字を模様としか認識できない。だから、身ぶり手ぶりをまじえ、口を意識的に動かしながら、声を発することにした。遊びの延長としてなら反応するだろう。それを狙っていた。
「わたしの後につづくんだぞ。まずはウォーミングアップ。あ」
「ア」

正しく発音させるために久美子には入歯をつけてもらっていた。
「あ、い、う、え、お」
「ア、ア、ウ、ア、ヴァ」
「いいじゃないか。次は、に、だ。にー」

彼女は上下の歯をあわせてシューっと、息をもらした。
「し、じゃない。もう一度、ほら、にー」
「アー」
「キスするときの口で、くー」
「ウウウ」
「にく」
「ヴァグ」
「に、く。さん、はい」
「ヴァアアア」

わたしは入歯を外して、布につつんだ。一朝一夕にはいかないものだ。

おいおい、脳がぶっこわれていると言ったのはおまえじゃないのか? そう、あなたは正しい。わたしだって妻と雑談できるとは夢にも思っていない。ただ、簡単な欲求の伝達くらいはできたほうがいい。食事なら『にく』、水なら『みー』、トイレは『しー』または『うん』、散歩は『ごおごお』。そして最も使用頻度の高い『ヴァ』だが、使い勝手の良い万能語なので、早くやめさせたいのだが、矯正はなかなか捗らなかった。

いっそのこと、『ヴァ』は肉の意味にするかと、わたしが弱気になっていたところへ、玄関扉を叩く音が聞こえてきた。

もう、あの日か。わたしはリハビリに通う老人のような物憂い気分のままむかう。常識的な人間なら数回音と鳴らし、反応をうかがうものだが、相手はこちらの足音や声に耳を貸すつもりはさらさらなく、開くまではひたすら、コツコツと骨で木を叩きつづける。

つまみを回して扉を開けはなすと、さっと引っこめられた手と、シワをまぶした急ごしらえの笑顔が目に入った。
「いいお日和で、先生」男は鼻をすすりながら、肩にさげた猟銃をかつぎ直した。「どうぞ、今週はこれっぽっちですが」

わたしは血だらけのビニール袋を受けとってから、小金をにぎらせた。
「これで足りるかな?」
「ええ、狸ならこれで充分、もらいすぎてバチが当たるってもんです」
「狸か……」
「先生、狸だってね、なかなか面倒なんですよ。罠のしこみも一日仕事なんです」

年がら年じゅう、大杉は薄着だった。詰め襟のシャツにカーキ色のハンターベストという身なりだった。そのベストに金をしまうと、大杉は長年酷使したと言いたげに胸をおさえた。
「大杉さんにはいつもお世話になっています。感謝していますよ」
「まあ、罠は四十五の若手にやらせとるんで、あたしはてっぽうがメインなんですがね」

妻の食事のほぼ全てを、わたしは猟友会に依存している。彼らなくしては、我が家はやっていけない。

今年の夏から金に加えて、わたしは大杉たち猟友会の歯の検診を無料でおこなっている。彼らは自警団としても活躍していて、以前〈変異者〉の大群を狩りつくしたとかで、町民から一目置かれていた。わたしや清水くんがこのコミュニティーから完全に排除されないのには、こういった事情があった。
「鹿はすばしっこいから、大変でしょうね」
「慣れてしまえばどうってことはないです。あいつらを撃つのと変わりゃしないんで」

そう言って、大杉は室内をじっくりとのぞいた。その目つきときたら、山野で動物をさがしているかのようだった。わたしは書斎と久美子の部屋に通じる扉を閉めていなかったことを思いだした。
「奥さま、今日はお静かなようですね」
「横になっているもので」

大杉はわたしの左手にある入歯の包みに目をやった。唇をかみそうになるのを必死にこらえた。この男のだらだらとしたいやらしい会話は牛のよだれみたいだとまえから思っていたが、それにしても長すぎた。
「大杉さん。会長のあなたが油を売っていたら、みなさん心配するんじゃないですか」

わざとらしく「あちゃー」と芝居をうち、実は大事なおしらせを失念していた、と言いだした。
「あのバケ、ん、ん! あれの野良がね、またうろついてるらしいんですよ」

この地域では去年の九月を区切りに、野生の〈変異者〉の目撃情報はとだえた。いるのは『管理下』に置かれている個体のみだったので、彼らが脅威として語られることは少なくなっていた。
「いったいどのあたりで、誰が見たんですか?」
「うちのルウキイですよ」と大杉は言って、親指で後方をさした。「場所はすぐお近くにある山のなかでしてね。三日前の夕暮れどき、獲物をしょって山をおり、林を歩いていると、いたんですね」

久美子や涼太くんは夕方に外出はしない。暗くなり、うっかり人と遭遇したら無用な恐怖を与えてしまうからだ。

わたしの顔を見て、大杉はつけ加えた。
「奥さまではなかったようなのでご安心を。体つきから男みたいだと言ってました」
「ええ、妻ではありません。一人だと危ないので」
「一人だと、危ない。そうですとも」

大杉はゆっくりうなずきながら言った。
「彼は発砲しなかったんですか?」
「それがまたマヌケな話で。あいつ、てっぽう持っとるのにタマを忘れおったんですわ。おかげでしとめそこないましてな。わしらのとこに泣きついて、おっとり刀でもどってみれば、影もかたちもない、というありさまで」
「しかし野生だなんて」わたしは腕を組んで、考えこんだ。敏捷性に欠ける〈変異者〉がふらふらと放浪してくる、などということがあるのだろうか。いや、政府に回収されるか、血の気の多い連中からふくろ叩きにされるのがオチだろう。孤立した〈変異者〉はさして恐ろしいものではない。
「空からふってきたか、土から生えてきたか」
「ありえませんね」

これをただの冗談とはとれず、わたしは警戒しながら笑みをつくった。
「でしょうな。だとしたら、両先生方以外にもかくまっているお宅がどこぞにあるんじゃないかと、わたしはにらんどるんですが」

においが気になってきたビニール袋をきつくしばり、わざと音を立てて置いた。大杉の得意とする妄想的推理にかかれば、わたしは同じ穴のムジナを増やすために、〈変異者〉の無害化を率先しておこなう要注意人物になるようだ。こちらとしては請われればいつでも協力するが、野生〈変異者〉とわたしの活動が結びつけられると、どんな悪い噂が飛びかうか、わかったものではない。
「かん違いなさらんでください。先生方が一枚かんでるなんて思っちゃおりません」まるでわたしの心境を察したかのように慰める。

大杉はいつでも察するのだ。

わたしもつられて意地悪く言った。
「大杉さんがなさりたいなら、家さがしでも何でも、していただいて結構ですよ」
「先生にそんなことできませんよ。我々はね、別に殺すのが趣味じゃないんです。肉にも毛皮にもなりゃしませんから。悪さしなけりゃそれでいいと。ケーサツごっこする気はございません。こう見えても分はわきまえておりますんで」

こちらが押すと、あんがい素直に引き下がる。
「失礼しました、大杉さん。忘れてください」

かと言って、こちらが下手にでると、一気に距離をつめてくる。

大杉は猟銃を手にすると、台尻をドアマットにこすりつけ、銃口を親指で覆った。
「これに撃たれたらね、指もですが頭だってお星さまになるのは一瞬ですよ。命中したらおしまいです。ですんで、戸じまりはしっかりなさらなきゃいけませんよ。奥さまも夜風に当たりたいときもありましょう。そこへ、我々が鉢あわせしたらどうなります? 狩人なんてのは臆病者ばっかりでね、チビる前にズドンっていうことも。まあちゃんとしつけてはおりますがね。くれぐれも戸じまりは──」
「しっかりと、だね。ありがとう、気をつかってくれて」

わたしの従順な態度に気を良くしたのか、大杉は銃をかついで数歩後ろに下がり、敬礼をした。
「お忙しいなか長々と、すみませんでした。では先生、ご武運を!」

さすがに捧げ銃こそしなかったが、自衛隊の行進のような足どりで去っていく彼を、見送る気になれなかった。

清水くんに訊ねると、大杉の来訪はあったが、世間話だけして帰ったらしい。

野生〈変異者〉の出没は初耳だと言われた。

 

・妻の口癖。幸せはどこにでも落ちている。←他人の幸せを拾っていいのだろうか。そもそも「落とす」ものなのか? フケか体毛みたいに?
・娘の口癖の変化。「パパ、クサイ」→「ママ、クサイ」→「ココ、クサイ」→「クサイ」
・完成の見通しが立たない。「始めたことは終わらせるべきだ」これはわたしの口癖。
・「トマトジュースのんだらね、ルミね、血が赤くなっちゃったの」(娘は盛大にむせたのだった)
・「カメレオンと同じだな」
・小学生だった娘は様々な色のジュースを集めて絵を描こうとしていた。二度やって二度とも赤かったので、すぐにやめてしまったが。

「ねえ、ルミちゃん、こんなことして、なんになるの?」
「んーわかんない」
わからない。

 

──大杉はみずからの感情に最初から正直であったと言える。わたしへの嫌悪をいっさい隠さずに、本懐をとげたのだから。あらかじめ予告はなされていた。むしろ、警戒してこなかった自分を責めたかった。大杉とは持ちつ持たれつ、ビジネスライクな関係を築けている。もろい友情ではなく、有益な二国間同盟を結んでいる以上、一方的に破ることはないだろう。
それが油断だった。

大杉はわたしの評価よりもはるかに直情径行の資質があったのだ。

おかげで久美子は還らぬ人となってしまった。日課の散歩はあの警告があってからも、欠かさなかったのだが、リードは以前よりも短く持つようにしていた。そして運命の十月三十一日。出かけるまえ、鹿肉をほんの少し与えておいたのに、久美子の機嫌が悪くなりだした。林で。いつものコースで。わたしがなだめても首筋を噛もうとするし、入歯なしだが帰るのもちょっとできそうではなかった。

ポーチからおやつ用の猪肉をひとつかみ、妻の口許に入れてやる。キャンディーのようにしゃぶる。くちゃくちゃとやや下品。

まったく、子どもみたいだと思いながら、夫婦で向かいあっていた。唯一頭頂部に残った髪の毛が彼女の鼻のあたりでひらひら揺れている。久美子は寄り目になりながら、必死に追いかけていた。

彼女が肉をのみこんだのを見て、わたしはその毛をかき上げようとした。ぷつっとあっさり抜けた。すまない。口にするまえに、わたしは襲われた。あの久美子に。頭は打たなかったが、背中は痛かった。やめろやめろ頼む。頼んだがやめない。妻はうなりながら、わたしの顔をツバだらけにした。そこに耳から出たどろりとした液体までかかり、わたしはぐちゃぐちゃだった。と、思う。歯茎で何をされようが、心配することはない。が、第三者にはわたしは絶体絶命だったであろう。誰かに見られたら、大問題だ。

すぐはなそう。もがいてみたが、組みつかれて、動けなかった。どうにかスキを見て、首をつかんだ。しかしはったりとは言え、絞めつけるのはためらわれた。そうこうするうち、粘液がデスマスクみたいに貼りつき、まるで何もかも見えなくなり、焦ったわたしはでたらめに暴れつづけた。食べられこそしないが、窒息死はあり得た。久美子の鼻息が首から上のいたるところをなでる。どこが弱いかさぐっているのだろう。

このまま死んだフリをして、嵐が去るのを待とう。わたしは抵抗するのをやめた。すると、ブーツの重い足音が近づいてきた。そのときは、まずい、としか考えられなかった。言いつくろうひまもなく、打ち上げ花火のような音がひびき、わたしの顔に液体がふりかかった。久美子がこちらに体を預けてくる。ぐったりしている。

はっとしてどかそうとしたら、突然久美子が軽くなった。訳もわからず起きあがる。先生! 肩を揺すってくる男を目で見ようと手で粘液をぬぐったら、大杉がいた。声で予想はついていたが、それでも目まいがした。大杉からタオルをもらい汚れをとる。タオルはカブキの押し隈のように、わたしの惨状を緑と黄で写しとっていた。

「間一髪だったんですよ。いやあ、ひやひやしましたよ。あたしが注意申しあげました通り、奴らの残りもんが、我らの先生に害をなした。見たところお元気そうですが、おケガのほうは?」

わたしはさし出された偽善的な手を払いのけた。
「そのご様子なら心配いらんでしょう」

すぐそばにある彼女の現実。何が起こったのか、大杉の弁によってこれでもかというくらい思い知らされていた。久美子。仰向け。側頭部に大きな穴。紫色のしらこが土にこびりついていた。
「まだ息がありますようですねえ。急所じゃなかったようで」

あくまでとぼける大杉にわたしは言った。
「野良じゃありませんよ。これは久美子です」
「えっ! こりゃまた……」

にじり寄り、久美子をしげしげ眺める姿を見てわたしは道徳を踏みにじりたくなった。
「どうかしてましたわ。これは、その、女性の、ですな。あたしとしたことが、とんだ失態を」

冷えてきたわたしの頭はすぐに熱をおびた。
「大杉さん、白状してください。本当は、全て計算ずくだった。あなたは、久美子を、わざと撃った」
「それは、ありません」大杉は伏し目がちに言った。「先生といるときの奥さまはとにかくおとなしいお人です。ですから、あれだけ暴れてるのは奥さまじゃあない。飼われてない奴らだと思ったんです」

どうやら弾は前頭葉を貫通したようだった。〈変異者〉の活動意地という観点から言えば、さして重要な部位ではないのが不幸中の幸いだった。それでも脳へのダメージは深刻であり、手足のけいれん、異様な量の発汗、過呼吸がそれを物語っていた。

久美子のことは食事でコントロールできていた、はずだったのに。わたしはタオルのまっさらな面を患部に当てがって考えた。
「……どうしてもわからないんです。久美子が、妻が、どうしてああなったのか」
「もしや先生、肉をごたまぜにして保管していませんでしたかな」と言い、大杉はミネラルウォーターを飲んだ。

フレッシュリストに関しては、すでに話してあった。こちらがやかましく選り好みする理由を詮索してきたため、仕方がなかったのだ(それでも後悔の念はふつふつと湧きあがる)。
わたしは取引のさいに先方の使っていた袋や容器を別のものに入れ替えたりせずに、専用冷蔵庫へしまっていた。仮に、猪肉に狸肉が混入していたとすれば、それは生産者サイドの加工・出荷の段階で起きたに違いない。
「猟友会ではそんなことしていませんよ」例のごとく大杉は察知したようだった。
「わたしも、ずっと気をつけていました」
「わかっているんですよ、先生。ようはあたしがハメたとおっしゃりたいんでしょう?ま、百歩ゆずってあたしが細工したとしましょう。どうなりますか? たまたま奥さまがご乱心しとるところに、たまたまわたしが通りかからなきゃなりません。そんな偶然がくるまで待つ阿呆はおりませんよ。貧乏ヒマなし、ですからな!」

決め手は皆無だった。あったところで、罪に問えもしない。しかし、わたしも手をこまねくわけにはいかなかった。
「故意かそうでないかは棚あげにします。むしろ、わたしはあなたの殺人未遂を問題にしたいのです。これは重罪だ」
「はて、殺人未遂・・・・?」心外だと言いたげに顔をくもらせた。「人聞きの悪い! あたしが、いつ、そんなことしましたか」
「現に、さっき」
「〈変異者〉は言うてみればゾンビ、死体ですわ。強いて言うなら死体損壊罪でしょう」

久美子がいきなり叫びだし、反射的に大杉は銃を構えた。
「死体は叫んだりしませんよ」わたしは射線をさえぎるように体をずらした。

大杉は片目を閉じ、狙いをつけている。
「ガキのころ、ちょいと頭が変でして、牛やニワトリと話せましてね。それに比べりゃ、驚くほどでもありませんな」
「彼女は家畜じゃないぞ!」
「失礼。ならペットですか。でしたら、器物損壊罪で訴えられます。おっと」

よほど殺意を感じたらしい。わたしが身じろぎすると、銃口をこちらに向けた。
「わたしの頭も吹きとばしますか?」
「いやいや。人殺しなんて馬鹿のすることです」と言って引き金を引いた。一瞬心臓がとまるかと思ったが、銃はカチッと鳴っただけだった。「弾は抜いてあります」

この見えない銃弾は、反抗する意志を根こそぎ奪ったという点で、まぎれもない凶器だった。しかし、負の衝動がそがれた結果、久美子の看護に集中することができた。

抱き起こしてはみたものの、途方にくれてしまった。出血はとまったし、けいれんもやんだ。呼吸も平常だった。あとは意識がもどればいいのだが、彼女の目はわたしが指を動かしても無反応、瞳孔も開ききっていた。

この状態をなんと呼ぶべきなのだろうか。数週間前のわたしなら嬉々として頭をひねったと思う。そんな気分にももうなれなかった。
病院。この言葉が浮かんだ。とうとうヤキがまわったようだぞ? 連れていってどうする。除細動でもしてもらうのか。

とにかく、何かしてやりたかったのだ。

大杉を呼ぶ声が遠くから聞こえた。わたしが顔を上げると、猟友会の『若手』が歩いてきていた。
「おお、ご苦労」大杉が言った。
「大丈夫だったんですか?」若手は剃りのこしの多いアゴをしきりに触っている。「銃声がして、会長さん、ちっとも帰ってこないもんですから」

話すあいだ、若手はずっとわたしたちを横目で見ていた。
「会長さんが言ってた野生ゾンビが、あれなんですか?」
「いや、よく見ろ。あれは先生んとこの奥さんだよ」
「そ、そ、それは……」口ごもった若手はしばらく思案して、こう言った。「ご、ご愁傷様です」

不謹慎だが、わたしのなかで笑いが爆発しかけた。大杉と違い、皮肉もろくに言えなさそうな堅物に慰められたからだ。すぐに目を背けなかったら、その場で肺の空気を出しつくすとところだった。
「おい! 奥さまが事故にあわれて、先生は泣いていらっしゃる。野暮天はけものでもとってこい」
若手の走りはとてもぎくしゃくしていた。
「さて、どうしましょうかね。奥さまの処遇。あたしなら苦しませずにお送りすることもできますが」
「麻袋、ください」わたしは大杉をにらみながら言った。
「はい?」
「麻袋、です。シートでもいい。ありますか」
「あいつなら、麻袋、持っとりましたよ。ですが遠いとこから呼びもどすとなると、なかなか」
「さっさと行け!」

大杉は腕を大きく振るジェスチャーをした。

 

誰の力もかりたくなかった。
麻袋に久美子を寝かせ、ロッジまで引きずっていながら、わたしは昔の妻を、変異するまえの彼女の仕草や所作を思いだそうとした。彼女といて楽しかったのは覚えていても、ばくぜんとしたままであり、それが今の久美子と結びつくのか自信が持てなくなった。あの頃の久美子のほうが、死んだ祖父母、両親にいっそうなじみのある存在だった。

 

久美子には死んでもらおう。
これは適切な表現ではない。正確に言えば、彼女を生者と見なすか、死者と見なすか、これは全くわたし次第なのだ。生きていると思えば生きているし、死んでいると思えば死んでいる。誰も選ばないなら、わたしが選ぶしかない。

 

仏式にはせず、土葬にした。
キリスト教に宗旨がえというよりは、単なる唯物主義である。彼女の肉体をむざむざ燃やせば、それこそ永遠の別れになる。

敷地内に花壇があった。
土がやわらかく、一人でもやりやすいと考えたからだ。わたしは日が落ちてもシャベルをさしこみ、堀った。久美子を穴におさめたときには、汗と泥まみれになった。横幅がせまく、腕は折りたたむように腹の上にのせるしかなく、土をかぶせているあいだも、それが心残りでならなかった。

 

墓標はたてなかった。
代わりに、久美子がいることの目印として、入歯を置いた。二日後、清水くんが、秀逸な金言を手土産に、お見舞いに来てくれた。彼は土をなでてから、こう言ったのだ。久美子さんは長い仮眠に入られたんですね、と。

花壇に行くと、五回に一回の割合で、妻の手が飛びだすようになった。
五本の指は卵を持っているかのように先ですぼまっている。その形が、わたしにはつぼみに見えた。なんとか咲く瞬間に立ちあいたいと願ってはいるが、たいてい花は人知れず成長するものだ。詩的にとらえる一方で、学術的な興味も湧いてきた。いったい、あの局部の運動はなんなのだろう? 見かけたときは情愛をこめて握ってみるのだが、向こうからの反応はなく、ただただ硬直している。

2020年1月4日公開

© 2020 島田梟

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