入歯タリアン

横たわる女 三部作(第2話)

島田梟

小説

22,444文字

歯科医の主人公がゾンビになってしまった妻を総入れ歯にして一緒に同居する話。

地球上でどのように過ごしていても、十二ヶ月のいずれかであり、一日から三十一日までのいずれかを、我々は生きている。こんなことはどうでもいいことなのだが、その三六五日のうち、重要でない日を設けるのは至難の業だというところが、今のわたしの心を激しく捉えるのである。

各国の公の祝日、記念日をカレンダーに丸をつけていき、その次に個人レベルの記念日を書きこんでいけば、あっという間に暦は真っ赤になるだろう。子供がはじめて立った日、初めてつきあった日、銀婚式のお祝い、米寿のお祝い、それが、いかほど他者にとって些末で下らない記念だったとしても。
わたしもまた、無数の親・恋人たち・夫婦・老人に感化され、焼きが回ったのだろうか。自分でもひとつ作ってみたくなった。妻も、呆れはするだろうが、許してくれるだろう。

わたしはひきだしから、リボンを結んだ小箱を取りだし、机に置いた。思えば、結婚指輪以外、ろくなものを贈った記憶がなかった。妻がみずみずしかったころに、ああしてやったら、こうしてやったらと、悔やむことは多い。が、嘆いてみたところで、はじまらない。

隣の部屋が騒々しい。鎖をがちゃがちゃ鳴らす音にはもう慣れっこになった。それどころか、ひどく心が湧きたつくらいだ。ちょうど、パブロフの犬のように、ベルの音を聞いただけで、よだれが出るのと同じで、否でも応でも反応してしまう。
妻がわたしを呼んでいる。わたしは小箱を手に取る。片手で開けると、そこには、入歯があった。

つやつやした歯槽にしっかりと植えられたセラミックの歯が上下合計三十一本、上顎用と下顎用は台座に取りつけてあって、こちらに微笑んでいるかのようだった。

わたしは門歯に指を這わせてから、臼歯の凸凹を丹念になぞった。妻の場合、右側の外縁が尖っていて、そこがチャーミングだった。今回の再現性は高いものになったと、わたしは自負している。特に虫歯の詰め物は、わざわざドリルで穿孔してから、樹脂を注入した。

精巧な自らの手腕に満足を覚えながら、すでに風化した共産主義圏の指導者たちの死後の生を思い出した。毛沢東やレーニンは眠っているかのように、外見を保存されていた。あれがもし歯だけの展示だったら、健全なユーモアをまじえた、クリーンな見世物となったろうに。

人間の身体で最も雄弁なのは歯である。

他は全て、おまけに過ぎない。

壁が振動し、本棚にある写真立てが揺れる。わたし、娘、妻が並んで撮った、ピクニックの写真で、妻は高原をバックにまだ中学だった娘と抱きあっていた。そのとき、たしかこんなことを言っていた。
『だから言ったでしょ、私は晴れ女だって』

ヴァ、ァ、ァ……。呻き声自体に力でもあるのか、写真立てがバタンと倒れる。わたしはあえてそのままにして、続き部屋に通じる扉のドアノブを握った。ゆっくり回す。そしたら、騒がしかったのが、ぴたりとやんだ。わたしはワラとおが屑とすえた臭いで肺を満たした後、さっとノブを引いた。
「久美子、ついにできたぞ、きみだけの入歯が!」

久美子は爪のはがれた左手の薬指をしゃぶっていた。

二〇三〇年九月八日。今日を妻の復活祭としよう。

この始めかたは我ながらいただけない。わたしは推敲していて気恥ずかしくなった。ナイーヴさが随所ににじみ出ている。こういう時、紙は不便なものだ。いちいち消しゴムを使うか、あるいはページごと破り捨てる必要があるから。

端末の類は書斎の隅でほこりをかぶっている。精密機器は〈事変〉後、入手が難しくなり、貴重である。壊れたらそれっきり。なるべく使いたくない。

だからこうして、いっこうになじまないペンを片手に苦しんでいるのだが、わたしはなにもザンゲがしたいのではない。

わたしの活動に対し、世間では非難の声があがっている。賛同してくれる人格者もいるが、そちらの声はかき消されているのが現状だ。

そこで、無理解な世人に向けて、ささやかながら、小冊子をまとめようと思いたった。近い将来日の目を見るだろうそれは、わたしの立場や、妻ひいては〈変異者〉との共存可能性について語り、人々の偏見の解消に貢献することだろう。

そのためには、格式ばった論文スタイルよりもエッセイスタイルのほうが、取っつきやすいと思う。日常生活もおりまぜれば、なおよい。日記あり、思索ありの、複合的な本。だが、完全な日記になってはだめだ。むしろその小冊子は日誌の要素を濃くしなければならない。色眼鏡で見てくる輩に読ませるのだから、当然だ。

この紙片がやがて層をなして、わたしの弁明の書となるよう、いるのかどうかもわからない神にせいぜい祈るとしよう。

とにかく記録だ。記録、記録。

(⇒ここまで、直せば序文に置ける余地あり?)

 

〈変異者〉にも眠りはおとずれるのか?

これは誰しもが抱く疑問だと思われる。

答えを先に言ってしまうと、〈変異者〉は常に覚醒している。彼ら彼女らは疲れを感じることはなく、もし当人が望めば、列島の端から端まで歩ける。

こう書くと超人のようだが、生物である以上、彼らにも休息は必要である。その場合、彼らは座り込んで、じっとしている。目は開けたまま、うなっていても、安心していい。そういうときは、虎や熊の檻に入るよりも危険は少ない。

わたしは毎朝七時にはベッドを離れ、妻の様子を見にいくのだが、たいていおとなしくしている。

これはわたしの仮説だが、ウィルスによって脳に変化が生じ、イルカやマグロのように、脳を半分ずつ休ませて完全に眠らない状態になっているのではなかろうか。

わたしは妻を呼ぶ。妻はうつろな目をこちらに向ける。視線がなかなか定まらないところを見るに、近眼なのだろう。わたしはもう一度呼びかけ、近よって腰をおろす。
「ヴァ、ア、ア」

妻はやっとわたしを認識すると、皮膚と同じく緑一色の口を大きく開ける。Uの字型のライン上に、穴ぼこができている。

生活スタイルがまるで違うため、規則正しく人間の生活に合わせることに、どれだけの意味があるのか。わたしは「ある」と考えている。人は産まれながらに人なのではない。人として扱われることで、人になるのだ。だから〈変異者〉になった妻も、〈変異者〉扱いしたとたんに、手の届かないところに行ってしまう。そう思っている。

さて、モーニングコールが終われば、次はブレックファーストの時間だ。
「調子はどうだい?」

と言って脈をとる。おそろしく早いのを確かめてから、わたしは朝食の準備にとりかかる。鎖帷子付きの手袋をはめ、ケースに入れてあった入歯を妻につけてやる。

安定剤の量は通常の三分の一。ぬりすぎると、はがすときにもとの歯槽を傷つけるおそれがある。
「ヴァアアアア!」

歯をとりもどした妻は水を得た魚のように元気が出る。それがわたしには嬉しいのだ。
「はは、あわてなくてもちゃんとあげるよ」

わたしはビニール袋を血まみれにする、生の鹿肉を取りだす。にごった瞳はせわしなく動き、小鼻もひくつかせる。妻はもともと食の細い女性で、どちらかと言えば、魚好きだった。今では正反対である。
「さあ召し上がれ」

鎖につながれた手が伸び、鹿肉をひったくると、妻はしゃにむにかぶりついた。食事中はわたしなど路傍の石以下の存在になる。

妻はさして苦労もせずに、ほとんど呑みこむような勢いで食べていく。実は、入歯の彼女を気づかって、あらかじめ切り分けて出すようにしている。

口のまわりは血でベタベタになる。垂れたヨダレはおが屑が吸いとってくれる。
〈変異者〉は食への執着が非常に強い。人間のときに備わっていた三大欲求が二つ抜けおち、一本化されたことで、食欲が増幅されるのだろう。

一般に誤解されていることとして、「〈変異者〉の人肉嗜好」が挙げられる。これに関しては、食後の妻が有力な反証となってくれる。
鹿肉三百グラムを平らげた妻は、口角から赤いよだれを垂らし、白濁した目でわたしを見つめてくる。
「はい、おそまつ様」

と言うと、アゴをがっくりと落として、糸の切れた人形のようにぐったりとするのである。

わたしは片方の手袋を慎重にはずし、妻の頬にそっと手をやる。水気はなく、カサカサしている。恋人だったころよくしたように、ゆっくり押して、離す。今ではへこみが戻るのに五分以上かかった。

もちろんこれは、〈変異者〉の特性を知悉しているからこそできるので、安易な接触は控えたほうがいい。

私見によれば、〈変異者〉との交流を可能にするのは差し出した食物が関わってくる。にわかには信じがたいことだが、肉の種類に応じて、食後の機嫌が変わるのだ。

賛同者の方々のために、わたしが考案したフレッシュリストを掲げておこう。参考にしていただきたい。

一位 鹿肉 所見・安静。人で言う熟睡にきわめて近い。接触・問題なし。

二位 猪肉 所見・安静(ただし、眼球振盪あり。理由は未詳)。浅い眠りに近い。接触・やや注意。

三位 牛肉 所見・覚醒(両肩にチックのような反復的な動作が見られる)。わかりやすく言うと、寝起きの状態。接触・きちんと準備することを推奨。

四位 鶏肉および豚肉 所見・覚醒(カバのような赤い汗を脇から分泌)。完全に意識がある。接触・要注意。みだりなスキンシップは非推奨。

五位 狸肉 所見・著しい興奮状態(耳から粘りけのある液体が流れる)。接触・危険。
人肉の検証は未定。

資料をお持ちのかたはご一報を。

このリストからわかるように、肉なら何でもいいというわけではない。〈変異者〉はグルメな舌の持ち主なのだ。

 

──第二章 〈変異者〉との散歩は有益である(仮)

以前、とある医者仲間から「一日中とじこめておくと、動物愛護団体がクレームをつけてくるんじゃないですか」と言われた。

わたしは「人権保護団体の批判なら甘んじて受けますよ」と返してやった。ただ、その手の団体は〈根絶派〉についているので、〈変異者〉の人権など噴飯ものだろうが。偏見は醜い。ありもしない幻におののき、ささいな違いを誇張して、あたかも別の種に属していると見なしたりする。

妻を、〈変異者〉をどう思っているのだろうか。バケモノ。口の悪い連中は、おおかたこう言っている。もう少しまともな、紳士淑女然とした人々ですら、奥さんを囚人のようにあつかって、と上品な顔をくもらせる。

ご忠告なら間に合っている。この世界で、わたしよりも妻に尽くす男はいない。看守、飼い主、好きなように呼んでいただいて結構。しかし、それはこの章の終わりを読むまで待ってもらおう。

 

──第二章 清水くん、あるいは妻との散歩(第二候補?)

2020年1月4日公開

作品集『横たわる女 三部作』第2話 (全3話)

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© 2020 島田梟

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