ラシュモア・ウーマン

島田梟

小説

11,431文字

アメリカ歴代大統領全員の顔のタトゥーを胸に入れたフロリダ女性ミランダの、栄光と転落の物語です。

かつて、あれほど男を侍らせた女がいただろうか? 彼女の前では、時の権力者たちも赤子に返った。しかし、のちにアメリカ全土(もちろんハワイやアラスカも)にその名を知られたラシュモア・ウーマンも、公への初登場はとても地味な動画においてだった。ホームセンターで買ったダーツの的が掛かっているだけの白い壁を背景に、どっしりした女性がぎこちない笑みを浮かべている。「ハイ、ガイズ」見えない聴衆ではなく、ほとんど撮影者の夫に話していた。おそらくカンペもあるのだろう。目がせわしなく動いている。「これから、わたし、は、ジョージ・ワ、シントンの入れ墨、をします」こう言って、彼女は小さなビキニで覆われた右乳輪のすぐ上を指差した。短いカットがはさまれた直後、そこには建国の父の肖像画が刻まれていた。『LIKE!』を催促するように親指を立てる彼女と、アメリカ国歌を酒やけした喉で歌う声が響いたまま、その動画は終わる。

きっかけは、フロリダ州サウス・タンパでタトゥーショップを営む夫とのなにげない会話だった。ミランダもその頃はLカップの爆乳で大柄という以外は、フロリダのどこにでもいるような女性だった。

「あー、刺してえ、刺してえ」ひねくれ者のトニーはあえて物騒な表現を使った。そうしないとストレスで頭が破裂しそうになるからだ。

「そりゃお店開かなきゃ、人は来ないでしょ」一階の店舗スペースからは物音ひとつ聞こえない。トニーは気分が乗らないと、勝手に定休日を作り、ソファに陣取るのが常だった。

「仕方ねえだろ」トニーは起き上がった。中肉中背の彼は、彼女と比べると見劣りする体格であり、本人もちょっと気にしているのか、結婚十六年目を機に口ヒゲを生やし始めて四年が経過していた。

トニーは自己評価が高く、アメリカンスタンダードで見積もっても高かった。いわく、「おれはフロリダ一のタトゥーアーティストよ! おねーちゃんの足首にローズとか、野郎の肩にテメエの女の名前とか、ウンザリなんだよ!」

これを聞くと、ミランダは複雑な気持ちになる。彼女の足首には、マリーゴールドの花が咲いており、その種を植えてくれたのが、トニーその人だった。本当は自分と夫の名前もどこかに刻みたかったが、有名な同業者の活躍を見るとすぐにヒステリーを起こすから、言い出せずにいた。

「あなたにもチャンスはめぐってくるわよ」

「そりゃいつだい?」シラフだけになおさらタチが悪い。

「いつかはいつかよ」

「ふへぇ! 伸びやがれ寿命!」トニーは立った。

「どこ行くの?」

「散歩だよ。タバコ買いに」

ここまでは付き合っていた頃から何度となく繰り返されてきたパターンでもあり、ミランダは気にも留めなかった。だから、三十分後、興奮したようすで夫が帰ってくるなり、ドル札をテーブルにばらまいた(と言っても数枚だが)のを見て、只事ではないと感じた。彼女がまず推理したのは「とうとう闇ルートの医療用大麻に手を出したか」であった。

夫はしばらく宇宙と交信していたが、ようやく訳のわかる言葉を話し始めた。それでも支離滅裂一歩手前だったので、愛の力でどうにかつなぎ合わせると、おおよそ次のような意味になった。

「声がしたんだ。タバコ買うのに札出したらよ。おやじのキモさったらねえぜ。そしたらオレたちみんなのオヤジがごにょごにょって。ん、何? 財布から出す。『助けてやりましょう』へっ、えらそーに! んで、ズドーンときたんだ」

テーブルに並んでいたのは、ワシントンの一ドル札、リンカーンの五ドル札、ジャクソンの二十ドル札、そして大統領の中では最も単価の高いグラントの五十ドル札だった。トニーによると建国の父ワシントンの啓示により、とてつもなく斬新なアイディアが生まれたのだそうだ。ミランダは本気かどうか疑っていたものの、夫が計画を筋道立てて話すにつれて、ようやく受け入れられた。

「頼む!」夫はミランダの手に熱いキスを何回もして言った。「お前のおっぱいに大統領を彫らせてくれ!」

そしてできあがったのが例の動画である。最初は彼女も気乗りはしなかった。以前から何かアートなものを彫って欲しいと望んではいた。実際、オーランドの大学生となって独り立ちした息子には、背中に美しいカラスを描いてやっていた。それでも夫は、「お前の体には傑作を刻みたいんだ」と言って、先延ばしにするばかり。ミランダの望みはようやく叶ったと言えた。

タバコ屋に行ったとき、トニーの所持金は七十六ドル。これは彼の社会保障番号の下二ケタであり、そこに運命を感じたそうだ。夫の下らなさには慣れっこだったミランダをつき動かしたのは、そのギラギラした目と、胸をなでる手つきだった。新婚当時でも、と手をベタベタにされながらミランダは思った。ここまで優しくはなかった。

夫のキャンバスとなる決意をしたミランダに対して、トニーはおそらく二度とおとずれないであろう壮大な芸術的野心の全てをぶつけることになる。妻の人気が加熱した直後に、彼は雑誌のインタビューにこう答えている。「忘れられない一日になったよ。ワシントンが言ってくれたんだ。ワレワレノ顔ヲタトゥーニシロ。ワガハイカラ、現職マデ、全テダ……いや、本当だって!」

調べものは大の苦手。そこで、卒業して二十年以上経った今でもSNSでやりとりのある、高校時代の歴史オタクの友人から、肖像と略歴のデータを送ってもらった。常識に疎いトニーでも、直近の大統領やリンカーンのような有名どころは知っていたが、ポークとかフィルモアといった地味な連中は頭から抜け落ちていたため、大いに助かった。彼は当初、アトランダムに肖像を配置する予定だったが、友人からメールで説教された。『保守系とリベラル系は分けた方がいいぞ。フロリダはあんまうるさくないけど、州によっちゃ青と赤がはっきりしてるところもあるからな』

『ありがとうよ。また酒でも飲もうぜ!』ショップから五十ヤードと離れていない友人宅のパソコンに向けて、トニーは返信を送った。

友人からの詳細な資料では、歴代大統領を所属政党に従って分類していた。

右側・保守系。連邦党、ホイッグ党、国民共和党、共和党。ニクソンやレーガンはこっち。

左側・リベラル系。民主共和党、民主党。ジェファーソンやケネディはこっち。

この規則に沿って分類すると右乳房に二十五人、左乳房に十九人いる計算になった。友人の講釈によれば、同じ党でも考えのちがう奴はいる。特に民主共和党は両系統の政治家がごたまぜでややこしくなっていて、例えば第六代のJ・Q・アダムズは民主共和党から出たけれど、思想的には連邦党にちかく、第十七代のアンドリュー・ジョンソンは……だあー、うるせえ! はっきりしねえお大統領様にもしかるべきお議席を用意してやるよ! 面倒な奴には印をつける。それが済んだら残りは自分の美意識でどうにでもなる。

四十四人の顔を彫るのは手間のかかる作業になった。しかも相手は客ではなく、ミランダである。失敗はできなかった。彼女の体に配慮して、痛み止めは惜しみなく投入する予定だったが、生活のためにどうでもいいタトゥーも入れなければならない。そのため、最後のトランプが完了した時、最初の動画のアップから半年が経過していた。「できたぜ!」入れ墨マシンをラックにのせて彼が言った。タンクトップから突き出した、蛇がびっしり絡まった腕には汗が浮かんでいた。閉店後、シャッターも下ろされた店内で、ミランダは椅子から起き上がり、姿見の前に立たせてもらった。彼女の乳房に群がる、たくさんの中年の笑顔。今しがた仲間入りを果たしたトランプは右乳房の脇のつけ根にいて、見るにはすこし体を動かす必要があった。「どうだ、すごいだろ?」トニーの腕は一流だった。一人一人の顔は小さいが特徴をよくつかんでいる。「そうね、うん、すごい」彼女は自ら乳を持ち上げて、隠れている第十二代テイラーや第十三代フィルモアをしげしげと眺めた。あらためて作品全体を俯瞰すると、人というより、幾何学的な模様に見えた。「ちょっとチクチクするのが気になるけど」「英雄、色を好むっていうだろ? お前に夢中なんだ」そう言われると、悪い気はしなかった。「でも、この体はあなたにしか触れさせない」「言ってくれるねえ、ミランダ!」トニーは愛情で胸がいっぱいになり、左乳首から北のところにいるジェファーソンにキスをした。「おっとこれは失礼、閣下殿!」

やっと愛すべき傑作をお披露目できる。トニーは新たな動画作りに着手した。と言っても撮影技術は皆無。開き直って、ミランダに一人ずつ指差しさせて、これは○◯ですと律儀に紹介させていこうかと考えたが、「地味すぎだろ!」「ダレるわ、ファック!」と自己批判してすぐに却下した。身悶えしたあげくに絞りだしたのが、大統領の名前を字幕で先に提示して、その後ミランダが手をピストルの形にして、仏頂面で「ヒア」と言い、銃口を突きつけるという演出だった。行けると踏んだ監督は平日返上で、撮影に一時間と編集に二日をかけて、『ミランダ・アンド・44プレジデンツ』を完成させた。動画では始終、フランクリン・ルーズベルトが好きだった『峠の我が家へ』が流れている。タイトル。『初代 ジョージ・ワシントン』のテロップ。白壁をバックにしたビキニのミランダ。生肉ピストル。「ヒア」。『第二代 ジョン・アダムズ』。ミランダ。ピストル。「ヒア」。これを計四十四回繰り返したところで、最後にミランダがこう締めくくる、「アイム・ヒア。ウィーアー・ヒア」。クレジットは『主演ミランダと監督トニー』。

公開して二日後、さっそく歴史オタクの友人が反応した。その日も自室にいた彼は思わず「こいつらバカすぎだろ!」と叫んだ。てっきり崇高な芸術作品に使われると思っていた自分の知識が愚弄されたのだから蟄居志願者の怒りも尤もだった。散々おだてられた分、反動もすさまじく、彼は腹いせに「シェア求む!」のコメントつきで、SNSのあちこちに動画をばらまいた。動画は鍵の開いた牢屋のようなコミュニティーで慰みものにされて終わりかけたのだが、公開五日目にして、幽霊ユーザーである暇人の親指によって、悪意の網をするりと抜けて、州を越え、海を越えて、フロリダ発の巨乳タトゥーアートはまたたく間に善良なるアメリカ市民(と移民)に知れわたった。大半は「ビッグティッツ」や「LOL」といった短絡的感想だったが、そこに「キモイ」などの生理的嫌悪、およびフェミニズムの在野学者から出された分別ある表明が渦巻き、とげとげしい社交が随所で散見された。ただ、いずれにしろ、ミランダとトニーの合作が人々の指を支配したのは確実だった。

ミランダが国内のホットトピックに躍りでてから二週間後。遅れて流行りに乗った男が、ミランダにショーへの出演を打診する手紙を寄越した。男はサウス・タンパ近郊にあるストリップ劇場『汝の人形屋敷』のオーナーだった。「『ミセスの類まれなる乳房を聖遺物として僧院の暗所に置くのでは、同胞への重大な背信……』あー、とにかくボロンと出してみませんかってことだな」「えー、どうしよう」もったいぶった表情で彼女は言った。「出してもいいけど、オールはだめ。水着はきさせてもらうってことで」「そりゃそうだ。俺以外に見せるとかケシカランからな!」「もちろんよ! でも、大勢の前に出るのって緊張する」「心配するなって。デッサンのヌードモデルよりずっとラクだよ」トニーはそう言って、左乳房の目立つところにいるカーターを小突いた。「謝礼もがっぽりだってよ!」「まあ!」「しかも、全部お前のものさ」「アハハハハ! おチビさんたちに保湿クリーム塗ってあげよっと」

トニーは青春の思い出として居座っているストリップ小屋へ再び行けることに異常な興奮をしていたが、そこは彼も大人なので巧妙に隠した。当日、有名人ミランダをひと目見ようと、昼間の『汝の人形屋敷』に人が押しかけた。男性陣はいつもの煽情的脱衣舞踏はないと聞いてがっかりし、女性陣は物珍しさから設備の写真を遠慮なく撮っていた。かまびすしい中、オーナーが舞台袖から登場。観客席まで突き出たポールダンスエリアまで御年七十三歳がのそりのそりと歩く。さすがに無料で招待された恩があるから、「じいさんの裸なんぞ見たかねえ!」といった下品な野次は小声でおこなわれた。

「いつもならジェントルメンと言うところですが、今日はレディースをつけた普通のあいさつができて……」長引くと感じた観衆が早くしろと丁寧に促したので、オーナーもすぐに切り上げた。「ミランダさん、おいで下さい!」トニーの手がカーテンからニュッと現れたあと、ガウンを羽織ったミランダが出てきたところで、拍手が激しくなった。知り合いへ手を振るのもそこそこに、ポールのある中央に向かう。そこでけばけばしいライトに照らされながら彼女は、ポールの周りをまわる。口笛とかけ声を浴びて、彼女はヒモをほどき、ビキニ姿になった。「こっち来て!」最前列にいたのはミランダの幼なじみとその旦那。手をついたミランダの胸(ブキャナン)を指して、称賛の言葉をかけた。「ミラすごいよ、最高だよ!」先週までトニーを悪しざまに罵っていたことなど、すっかり忘れたような振るまいだった。客の要望に応えて、舞台のあちこちに移動しては、大統領を好奇の目に晒した。その時も、ただ見せるのではなく、第何代が見たいとリクエストされれば、胸を持ち上げたり、内側のつけ根もちゃんと開いてやった。うわー。やばー。おー。熱狂が高まった頃、かん高い声がホール中に響いた。

「彼女こそパーフェクト・ラシュモアだ!」名もなき市民の言う通り、あちらのお山は初代、三代目、十六代目、二十六代目の四人だけ。ミランダはその十一倍である。これに同調した一人がビール片手に立ち上がった。Rushmore! Rush more! コールの輪は全員に広がり、いつの間にか彼女の隣に立っていたトニーも加わっていた。ラッシュモア! ラッシュモア! この日、タトゥーショップ店員のミランダはラシュモア・ウーマンに変貌を遂げたのだった。変身後の彼女は「ウィーアー・ヒア!」と観客に言わせて、名残惜しそうに舞台を退いた。

この模様は地元メディアにも紹介され、単発の仕事がいくつか舞いこむようになったが、その中にはニューヨークのTV局からの依頼も含まれていた。すっかりマネージャー気取りのトニーは入れ墨のためにしていた漢字の勉強を放棄し、店も休業にしてから、ミランダと一緒にタンパ国際空港へ直行。数時間ほど空の旅を楽しんで、JFK空港に降り立った。機内では不思議と声をかけられなかったが、ロビーでは「ケネディはどこなの?」と群衆が早速ローカルネタをぶつけてきた。ミランダはシャツの上から、乳輪の左斜め下を指差した。そこにTV局員が人ごみをかき分けて、ミランダと、ついでにトニーにも握手。部下に命じてようやく人払いさせ、身動きが取れるようになった。「ロケは明日からです。今日は手配したホテルでお休み下さい」と局員は言った。「ところで、NYに来たご感想はいかがですか?」「うん、そうですね……ミランダ?」「フロリダとそんなに変わりませんね」トニーと局員は大げさに笑った。

二人のNY滞在は三日間だった。その時の映像をまとめた番組のDVDは、後日発送され、彼女たちはそれを自宅のリビングで見た。そのTV局はイデオロギー色の薄い小さな会社だったため、番組冒頭はタイムズスクエアに来たミランダが、大道芸人たちと交流する内容になった。ブーメランパンツの男や、銅像に扮した男よりも、人気の差は歴然としていた。警官も寄ってきて、レポーターが「職質か?」と身構えたが、「OK、ちゃんと着てるね」とわかりきったことをつぶやき、記念写真を撮って公務に戻った。お散歩パートは和やかに終わったが、後半の会場パートは視聴者としても見応えのあるミランダの機知が拝めた。リンカーンセンターは即座に断られたので、局員が電話をかけまくって見つけたのが、マンハッタンヴィルコミュニティセンターの一室だった。収容人数は頑張って七十人くらいのスペースだったが立ち見客も結構いた。ここではトニーの芸術論、ミランダへの愛、どうしてそんな暴挙に出たのか(婉曲表現)等、たっぷりと語った。

そして話が一区切りつき、ミランダの番になると、人々は一斉に前のめりになった。進行役のアナウンサーが手際よくさばいていった。「なんでそんなデカいんですか?」という無邪気な質問をした子供の次に当てられたのは、坊ちゃん育ちむき出しのやけに肌ツヤの良い四十男だった。彼は保守系新聞の記者だと名乗った。「当分ないでしょうが、次回の選挙の際はどちらの政党に入れるおつもりですか?」ぶしつけな政治的質問。だが、急激に肝の据わってきたミランダは落ち着いてこう答えた。「私はそんな次元に生きていないの。だって、私がアメリカなんだから。プレジデンツはみんな私のおっぱいを吸いにくるんだもの!」

今度はリベラル系の記者が許可なく発言する。「つまりあなたは、合衆国が強硬な右に傾いてもいいとおっしゃるんですね?」「その右っていうのは、あなたから見て右?」これを聞いた人々が拍手と笑いを送った。「こりゃ最高だな!」と言った保守系記者にも、クギを刺しておいた。「片方しか愛せない男性にあげる母乳は一滴もありませんからね!」と。

「ありがとうございました、ミランダさん」司会役が不穏な空気を感じてまとめに入ろうとした。「それではご夫婦の共同作品を……」「見せるのはいいけど」とミランダは語尾を奪い取った。「今日は特別にキッズ限定でおさわりOK!」イエーイ! おとなしく座っていた子供たちが本能をさらけ出し、彼女のもとへ駆け寄るところで、テレビがいきなり事切れた。

リモコンはトニーの手に収まっていた。「ちょっと、何するの?」「知らねえ男に触られてるのはガマンできねえな」「男って。子供じゃないの」「いいや、小学生でも男はエロいもんだ。油断できない」トニーは当時の状況を思い出しただけで身震いした。嫉妬がぶり返し、それが長らく中断していたSEXへの渇望と結びついたのである。彼の飼う二匹の蛇が、ミランダ領空を浮遊し始めたのを見て、彼女は手首と鎌首をいたずらっぽくつかんで引き寄せた。これでごく一般的な愛の交わりができるはずだったが、いざ服を脱ぐと大統領たちの存在感は、隷属階級であるトニーにプレッシャーを与えるには充分だった。あれほど好きだった巨乳も、白い光に照らされた状態でむしゃぶりつくと、W・ウィルソンやJ・ポークと目が合い、それから逃れようともう片方にキスすると、R・ヘイズやガーフィールドのヒゲ面をツバで汚すというありさまだった。ミランダが喜んでいても、続ける気にはとてもなれなかった。哲学など柄ではない彼にとって、抽象思考を強いられるのは苦痛だった。はたして、四十四人のおっさんは妻の一部なのか。そうでないなら、妻だけを愛撫することは可能か。彼女が喜ぶ時、オバマやアイゼンハワーは快楽に身をゆだねていないと言えるだろうか。乳房のどこを見ても、若めのおっさん、老けたおっさん、無理をするおじいちゃんが視界にちらついた。つまりオレは、おっさんと乱交してるわけか、オエッ! とは言え、責任はトニー自身にあるから、彼なりに努力はした。テープを貼る、ファンデーションを塗る等、試行錯誤をした末に、暗闇での行為にたどりついた。だが上手く行っていたのも数日で、目が慣れてくると、大統領たちの顔がぼんやりと浮かんでくるのだった。

ミランダの名声が高まるにつれて、愛の時間は減り、タトゥーを入れてから一年目にはゼロになった。仕事の依頼はほとんどミランダ。トニーも腕は認められたが、彼女の添え物扱いで、ショップに来た客はかならず「ラシュモアのミランダさんいますか?」と聞いてくる。そんな生活に嫌気が差して、彼は突如武者修行に出るという書き置きを残して、ジャクソンビルに行ってしまった。そこでタトゥー職人として成長する気だったらしいが、傍目には中年の大人げない自暴自棄だった。彼女はこれを知ってかなり落ちこんだが、一日くらいで元に戻った。彼は自分をアートにしてくれて、有名なラシュモア・ウーマンにもしてくれた。感謝こそすれ、恨みはない。フロリダにいるんだし、まあすぐに帰ってくるだろう、そしたら吸わせてやってもいいくらいに考えていた。

とにかく仕事が山積みだった。マネージャー業務と家の雑用は友達夫婦にお願いして、アメリカのあちこちで作品を見てもらう。神の造りしLカップと、トニーの作りしプレジデンツを。単なる娯楽以外に、政治がらみにも関連づけられたため、評論家の予想を越えて、ミランダの人気は長続きした。この勢いに乗って、パームビーチにある大統領の別荘訪問企画を持ち込んだ人間もいたが。素性が胡散臭く、連絡も取れなくなって結局お流れになってしまった。

その日、彼女はマイアミのとあるホールで開かれた政治討論会に出席していた。テーマは今後の社会保障のあり方とか何とか、そういったものだ。必然的に堅苦しい話題にはなってしまうが、東西に分かれた識者の挟まれた形で彼女が座ることで、話が中だるみしても、すぐに空気を変えることができた。それでも、元の空気が澱んでいると綺麗にしきれず、議論はいつしか中傷合戦になった。それを見かねてミランダが舞台の真ん中に進み出た時だった。「あっ!」とのけぞった勢いで彼女は後ろに倒れこんでしまった。鈍い音が響きわたる。あっけに取られて行動力のない識者は何もできず、聴衆やスタッフが彼女を取り囲んだ。ミラ、ミラ、しっかり! 最後に耳が拾った親しい声は体内に吸いこまれてどこかに消えた。

死因はくも膜下出血。病院で目を開かれ、葬儀社で傷みやすい部分を抜き取って防腐処理されたが、倒れてから霊柩車で墓地に行くまで不動の横向きをミランダは維持した。もしもずっと観察できた人がいたら、現場から直接運んできたと錯覚したかも知れない。

棺はタンパのマルティ墓地にて安置されることになった。穴に集まる人々のうち、友人が弔辞を読んだ。「──だから私、言ったんです。入れ墨なんかやめとけって。でもミラは好きだからやるよ、やめないよってそう言ったんです。なんでミラがこんな目にあうんでしょうか? 友だちの忠告を聞いてくれてれば、もっと」ここで牧師が止めに入り、型通りの文句を唱え始める。トニーは黒ネクタイで、無精ヒゲを濡らす涙を何度もぬぐっていた。病院でも葬式でもかなり泣いたが空にならず、尿の分まで全部出てるんじゃないかと彼は思った。参列者の中にはミランダたちの息子も混じっていたが、「ミーランダー!」とおいおい泣く父とは他人のふりをしようとして、叔父や叔母の背中に隠れていた。

牧師が死者へのたむけの言葉を出し尽くした。「それでは皆さん、お別れの準備はできましたか?」穴に棺が収まると、順番に花を投げ入れる面々。「あんな女、ほかにいねえ」とトニーはぶつぶつ言った。「おっぱいもだが、性格もビッグだった。優しくってなあ。あいつの性感帯、知りたいか? 左脇の近くなんだよ。ほら、ちょうどクリントンのいた……」これには一同ドン引きした。真横で聞かされた例の友人は「一緒に寝てこい!」と言いそうになったが、死者の手前、口は慎ましく閉じてトニーのケツを蹴り上げた。

現職からお悔やみの言葉が届けられるという噂もあったが、所詮噂の域を出なかった。

土中の主人に代わって風を引き受ける墓標にはこう刻まれていた。『ミランダはここにいる。ラシュモア山に勝利した女として』この上に、トニーは蛇をあしらおうとしたが、親戚の猛反対にあって取り下げた。そこで彼は妥協策として、ジャパニーズUMAであるツチノコの装飾を施した。「ほら見ろ、蛇じゃねえだろ。ガタガタ言うな!」

確かにそれは、太った蛇というより、切っても死なないプラナリアに見えた。

2019年2月2日公開

© 2019 島田梟

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