一行は初めに通った獣道へは行かず、注意してみないと解らないほど小さな、サイクリングコースと平行する細い獣道へと分け入った。両手の塞がった兎屋は、ひきこもりに芒を払うよう命令した。ひきこもりは従順に先導役を努め、五本も切り傷を作った。その内の三本は右手にでき、しかも見事な平行線を描いていた。
芒の生い茂る区画を抜けると、架橋の真下に出た。サイクリングコースから川縁までは二十メートル、橋脚が五本あって、一番堤防に近い橋脚のたもとにはリヤカーが駐めてあった。その裏では小学生がボールで壁当ての一人遊びをしている。
「あっちの、黄色い方あるだろう。解る? 背の高い草の」
鉄が指す先では、背高泡立ち草が群生していた。まだ黄色の花が残っていて、その名の通り、黄色い泡が立っており、しかも背が高いから空の青に映えている。
「あそこにチョウさんがいるんですか」
「違えって。解る、チョウさんは俺たちの方さ。兄ちゃんもこっちだろ」
鉄は今しがた出てきた芒の群生地を顎でしゃくった。達磨のような顔は俄かに険しくなって、おそらく、それぞれの区画にそれぞれの社交があるようだった。いつの間にか仲間に加えられているのが鬱陶しいような、嬉しいような。むず痒い思いがひきこもりに、はあ、と言わせる。ひきこもりはウエストサイド・ストーリーを思い出した。シャーク団とジェット団。そうだ、こりゃリバーサイド・ストーリーだ。ススキ団と、セイタカアワダチソウ団。ひきこもりは一人でぷぷっと噴き出した。素晴らしいユーモレスクが書けそうな気がした。いつも、そんな気だけがする。
一行はいったん抜けた芒の群生地を周回するように、川縁の近くまで歩いた。すると、またまた獣道があり、その奥の芒が開けた場所に家が建っていた。兎屋の家もかなりの出来だったが、こちらはそれより一段と手が込んでいて、一見してちょっとしたログハウス、建築の白眉は高床式の造りである。川の湿気を避けるためだろう。小さな庇の下にある動機からはコードが伸びていて、発電用らしい。
玄関の前に立った鉄は、「飯だぞ」と叫んだ。兎屋がそれを「馬鹿ヤロ」と咎める。その途端、鉄の肩は竦み、秘め事めいた動きに変わった。
「おーい、飯だぞ」
二度目はわざとらしいぐらいの囁き声で、とても聞き取れないだろうと思ったが、少し建付けの悪いらしい扉が絶叫のような音を立てて開いた。
中から出てきたチョウさんという男は、白髪こそ多かったがこうした生活をする者にそぐわない身のこなしだった。背も高く、すらりとしていて、安物だとは思うが、中綿の入ったナイロンジャケットを着ている。一番異様だったのは、しっかりと鼻梁を挟む眼鏡だった。一見してリーダーの風情が漂う。チョウさんがひきこもりに一瞥をくれると、兎屋が素早く新入りだと注解した。ひきこもりの会釈には「どうもはじめまして」という丁寧な言葉が返って来た。
「いつからですか?」
「まだ三日ぐらいっす」
「そうですか。じゃあ、まだ色々と解らないことだらけでしょうけど」
教えてあげるから心配しないで、とは続かなかった。その代わり、ドアを開いて招き入れる仕草をした。ぽっかりと口を開けた部屋の奥には、人が寝転がっていた。
一歩入るなり、ぶううん、という音が耳障りだった。発電機か何かの音かと思ったが、寝転がっている男が微かに唸っているのだ。時折、鼻から息を抜いて、ふんと音を出す。意識が無い分、どの音も明け透けな響きを帯びた。
「この人、どうかしたんすか」
「解んだろ、タイ人なんだよ」
鉄の答えの意味を捉えかね、チョウさんに助けを求めると、丁寧な言葉で説明があった。ある日突然、川岸から上がってきて、この家の前で倒れたという。ずぶ濡れの衣服はぴったり張り付いて、脱がしてやると肋骨何本かと腕が折れているのが解った。ほとんど昏睡状態なので詳細は解らないが、川から上がってきたぐらいだから、対岸にある小菅の拘置所から抜け出してきたのだろう。新築して世界一堅牢になった拘置所からどうやって脱走できたのか定かではないが、見殺すに忍びなく、こうしている。故郷は東南アジアだろうが、問い質すのはもう少し元気になってからにしようと思っている。
部屋には予想通り電気が引いてあり、四十ワットの裸電球がソケットごと天井に着けられていた。兎屋から受け取った鍋の中身を椀によそって、口調と同じく丁寧に食事の世話をする影が、大きく地面に映っている。見やすくするためと気使って一歩下がったら、かえって自分の影が大きくなってしまった。ひきこもりは恐縮したようにもごもごと尋ねる。
「病院は行かなくて大丈夫なんすか」
「受け入れてくれる病院があればいいんですけどね」
「でも、ここいらは共済病院とかも沢山ありますよ」
「脱走者かもしれませんから。犯罪者の片棒担ぐつもりはありませんがね」
彼らの績ぐ倫理に足をかけて転びそうになったことが、ひきこもりを臆病にさせた。鉄も兎屋も、固唾を飲んでタイ人の様子を見守っている。社交の生まれる余地が無かった。手持ち無沙汰になり、寄る辺を求めて部屋の中を見回すと、玄関のある壁面は、端にある扉と窓の部分を除き、全てが本棚になっていた。文庫本を中心にざっと千冊はある。ひきこもりは人知れず圧倒され、急に壁が動き出して押し潰されたような気になった。しかも、その中に『無限抱擁』がある。その一冊だけで、彼がタイ人の世話を引き受けた理由に合点が行った。こうした本を読むチョウさんはどうやら、ひきこもりの基準に照らして傑物だった。が、その言葉をすぐに触れ回れないのが、ひきこもり一流の怯懦である。
唸り続けていたタイ人の呼吸が穏やかなものになると、時間がぽかんと口を開けた。ゴミ収集車よりも前に空き缶や古紙を集めなければならないのだから朝が早い訳で、昼食後は休む時間なのだろう。そのためにひきこもりがつまみになった。
「ずっと寝てました」
何をしてたのかと問い詰められた挙句、ひきこもりはそう答えた。
「なんだ、それ。寝てるだけじゃどうしようもねえだろ。借金が二百万だろ」
「二百五十万っすけど」
「だったらお前、博奕とかしてたんだよ。じゃなきゃそんなに使うわけねえもの。寝てるだけで」
「家賃とか食費とか、半年も稼ぎが無けりゃ、結構な額になるんすよ。まあ、ちょっとは飲みましたけど」
「ほら見ろ、飲んでたんじゃねえか!」
鉄は得意げに叫び、首の筋まで真っ赤にした。「伊東三日月ホテル」と大書された湯飲みには、朝の労働の報いが透明の液体となって、甘い匂いをぷうんと漂わせている。喉が鳴った。その音を聞きつけたのか、警戒した風の兎屋が口を挟んだ。
「そうは言っても、そう毎日食わせてやる訳には行かねえぞ。なんかしら、食い扶持見つけねえとな。借金はまあ、消費者金融だからどうにかなるとしても」
「はあ、まあ、皆さんにはご迷惑おかけしないようしますけど」
「身体は丈夫かい?」
「ええ、まあ、体力的には。剣道やってましたから」
「じゃあなんとかなるな」
ひきこもりは空き缶拾いの具体的なノウハウも知らないまま、ええまあ、と答えた。彼は正しい甘え方が解らず、自分の手でなんとかしようとして他人の手を煩わすのである。五十君と生活していた頃もずっとそうで、最近になってようやくそれが独り善がりだと解ったのだが、習い性はそう簡単に抜けない。すべてが解決したような顔になって、鉄の一升瓶から注がれる日本酒をワンカップの空き瓶で受け止める。
酔いが巡るほど、ひきこもりは饒舌になった。が、彼の話し振りは特に鉄を当惑させた。鉄は「兄ちゃんの言ってること難しいな」と謙虚に聞いているが、なんのことはない、単にひきこもりが自分だけの納得していることを言わないままにしているだけなのだ。他人と解りあうために必要な社交術の存在など信じなかった。
「滝井孝作、好きなんすかあ」ひきこもりはチョウさんに絡んだ。顔を近づけ、胃液の匂う吐息を吐きかけながら。「俺は認めてないっすけど、いいっすよね、私小説は」
「君は文学好きなんですか?」
「好きなんてもんじゃないっすよ、ファック、真っ只中だ、書いてるんすよ」
その一言がチョウさんの顔付きを棘々しく変えた。柔和な小学校教師のような面相に、知的な鋭さがぎらりと光る。五十君に侮蔑の眼差しを向けられたときを思い出した。言葉が耳に詰り、反論が喉で閊えて、視界がぼおっと白くなるときの感覚。
「疑う気はないけど、もしかして、取材かな?」
「取材ってなんすか」
「私たちみたいな人間を、小説のために、だよ」
五十君に同居を解消されたからというだけではなく、それなりに深刻な行き詰まりの末の捨て鉢でここまで流れ着いた。私小説という病を戦い抜く決意をしていた積もりが、チョウさんの目つきのせいで、不安が咳のようにこみ上げた。不当な目に遭った人間は慌て過ぎ、かえって疑われてしまう。声音や仕草がばたついて、特に鉄のような男にはそれが怪しく見える。
結局のところ、弁明はなされなかった。訝かる鉄の一升瓶に吸い付いて、酔いの中に逃げ込んだ。俺が書くって言ってるのは、そんな決意じゃないんだと喚き散らしながら、チョウさんの小屋に立て篭もった。
そんな酔態を露した翌朝、鉄の鉄屑拾いを手伝うために狩り出され、原付のエンジンを自転車の荷台に縊りつけて持って帰ると、醜態など忘れ去って架橋下フェンスの檻に落ち着いた。
昼間、芒の藪に入らず檻の中にいても、他人に気づかれないのがほっとするような淋しいような気がした。俺だってここにいるんだ、という存在論的呻きを飲み込んで、ひきこもりはフェンスの中で寝転がっていた。ダンボールの布団もビニールシートも敷かず、堅い床で自虐的にごりごりと寝返りを打って見せるのだが、藪の中に暮らす三人以外で彼の存在に気づくのは、五十君ぐらいしかいなかった。
その五十君が、起きたら立っていた。
「あ、ああ、お久し」
「久し振り。陣中見舞いだよ」五十君はそう言いながら、フェンスを開けようともせず、菱形の格子に指をかけたきりだ。近寄りがたさがある。「調子はどう?」
「どうって、ここでも世話になりっぱなしだよ」
「まあ、亀夫くんが誰かを世話する日は永久に来ないよ。そっちじゃなくて、こっちの方」
五十君は筆を動かす仕草をした。
「まあ、急かすなよ。ドント・ハリー・ミー。そんなに時間も経ってねえし」
「あんだけ書けなかった奴が宿無しになったぐらいで書けるんなら、苦労無いよ」
そうやって突き放しながら、五十君がフェンスの下から差し入れたのは、原稿用紙の束だった。その左隅に「満寿屋」と書いてある。
「何これ?」
「マスヤだって」
「ワッツ?」
「浅草の紙屋。川端康成も愛用してたんだって。インクをすぐ吸うから、手が汚れないんだって」
安いものではなかったろう。上手は道具にこだわるというのは、いかにも五十君の信条らしい。床タイルメーカーの人事課なのにもかかわらず毎日の筋トレを欠かさないストイックな男だ。ひきこもりがパソコンを捨てて手書きに変えたのも、筆を動かす辛さが文章に抑制をもたらすこともあるだろうと、らしくない影響を受けたからである。
「サンクス。五十君、俺は書くよ」
「まあ、言うだけなら簡単だから。原稿用紙を汚した分だけ信じるよ」
「マジだよ。ここにいたら絶対書ける」
「場所なんかに頼らない方がいいよ」
もっと沢山の決意表明をしたかったのに、五十君は逃げるように走って行ってしまった。ひきこもりは追いかけようとしたが、どうしたことかフェンスは開かない。外の閂が下りてしまっているのだ。五十君がやったのだろう。格子から指を差し入れて閂を上げようとしたが、身体が縮こまって上手く行かない。芋虫になったような不自由を味わいながら、なんだなんでなんだ、と半泣きになるが、その原因が脇の下に挟んだ原稿用紙だと解ると、嫌になって寝転んだ。百枚入りの原稿用紙は一センチほどの厚みしかないが、自分が去年をまるまる費やして書いたのがたった六十九枚だと思うと、その厚さが憎たらしい。俺はもう三十だ、とひきこもりは叫んだ。本当はもう三十一だったので、ファックと一つ付け足し、涙を一滴零した。
「ああ、俺も誰かの世話をしてえな」
その言葉は東武伊勢崎線の架橋に吸い込まれていった。きんきんと線路が鳴り出して、フェンスの継ぎ目を列車の通る轟音が震わせる。オイオイ。
"無限抱擁"へのコメント 0件