年の瀬がせまったある日、大学での講義を終え、帰宅すると、玄関の鍵がしまっていた。中に妻はおらず、リビングのテーブルに、置手紙があった。体調がわるいのでいっとき帰省するとのことであった。その簡浄な筆はこびに、私は感心した。
妻の実家に電話をかけた。お義母さんが出て、すぐに謝罪をうけた。
ごめんね。迷惑かけるねえ。
私は、とんでもないです、と言って、先がつづかなかった。こういうときとっさに自分を責める言葉が出ない。
お義母さんは、
「あの子、庭の柿の木の陰でぼおっとしてて、電話に出れそうな感じじゃないのよ。ごめんねえ。そう言えば、そっちの庭にも柿の木が植えてあったわよね」
と言った。私は、是とだけこたえて、また、あとにつづかなかった。
けっきょく、お義母さんがわるいまま通話を終えた。私は、冷えきった書斎に入った。講義の課題で学生たちに書かせた小説の原稿と向き合ったとたん、からだのちからがぬけた。空腹なのだった。
きんじょのコンビニエンスストアで晩飯を買ってきた。サラダと冷凍のスパゲティである。妻がのみのこしたボトルワインで晩酌をした。ひとりの夕食は数年ぶりだった。それで私は、妻の存在が自分にとって重荷になっていたことに気づいたのであった。
私は、書斎にもどってくだんの原稿と対峙した。たいていは、文書作成ソフトを使って文字を打ち込んだのをA4のコピー用紙にプリントしたものである。が、ひそかに私が気にかけている女学生は原稿用紙に手書きなのだった。講義開始当初に出した課題は、かのじょもコピー用紙で提出していたのだが、いつだったか、講義中に、「ほんとは原稿用紙に手書きがいちばん上手くなるんだけど……」と私がもらしてからのち、原稿用紙での執筆にきりかえたのだった。
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