中島先生は小説を書いていない。それはあきらかだ。
もう何年も単行本を出していないし、文芸誌に短編のひとつも発表していない。いちおう、「文筆家」として、週に一度だか月に一度だか、地方新聞に書評を書いてはいるが、そこでとりあげるのは、おおよそ先生のこのみとはかけはなれた、ミステリー小説や、ハードボイルド小説のたぐいばかりで、筆が乗っていないのは、一読してすぐに判る。先生がまだ「小説」に興味があるのかどうか、それすら判然としない。
だが、いつも先生は、じぶんがいま小説を書いていると嘘をつく。
あるいは、そんな嘘を先生につかせているのは、わたしなのかもしれない。
「先生はいま、どんな小説を書いているんですか」
このまえ、ファミリーレストランで先生と夜をいっしょにした際に、たわむれにわたしはそう質問したのだった。先生は、さいきん書きはじめたという通俗小説じみた小説のすじをわたしにかたり、じょじょにわたしがしらけてゆくのを見ると、一転、そのすじをなしにして、私小説っぽい小説のすじをかたりだした。そのどちらにも、わたしは感銘をうけなかった。
わたしは、じぶんが先生のことを尊敬しているのかどうかよく判らない。先生の処女作や、とても売れた作品を読んでも、上手いとか丁寧に作られているとか思うばかりで、熱中もしなければ、すごいとも感じない。
ただ、その手……、とりわけ、すこしく赤茶けた手の甲から、ほそく、ながくのびたあの筋張った指を見ると、拝みたくなるような、中島先生とさけびたくなるような、そんな気持になるのだ。
そんなわけで、わたしは、先生と食事をともにする際は、かならずピザを注文する。おなかがもたれて、ちょっと残した、先生が手をつけたピザを、わたしが食べるためである。先生は、じぶんが口をつけたものをわたしに食べられることに、ドギマギしているようすだが、当のわたしとしては、かれの指がふれたということが何よりも重要なのだった。そのことに気づかないのが、先生であり、かれが自覚してもいる、「凡庸」なところなのだと思う。
しかし、「凡庸」でない人間に、はたして小説など書けるだろうか。わたしが小説をものそうとするとき、その才能のよりどころとするのは、じぶんの凡庸さへの自信につきる。
先生はわたしであり、わたしは先生でもある。
ただ、その指だけが、まったく違うのだ。……
ある日、コンビニのアルバイト終わりに、店の前でまちぶせしていた男から連絡先の書かれた紙きれをうけとり、アパートに帰ってスマートフォンを確認すると、LINEに先生からメッセージが来ていた。わたしがとちゅうまで書いて電子メールに添付して先生に送った長編小説を読んだとの連絡だった。わたしは、それを既読にだけして、シャワーを浴びた。わきを剃った。で、髪をかわかしながら、今日これから夕食はどうでしょうかとメッセージを送った。三十分ほどして、先生から返信があり、それではいつものファミリーレストランで、ということになった。わたしは、アイラインだけ引き、ランバンの香水をふり、いつも着ているジャージを着て、外に出た。ことのほか肌寒かったので、カバンからマフラーを出して、首に巻いた。男のけはいはしなかった。連絡先をわたせたので、今日は満足したらしい。
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