僕にもちゃんと十代の頃があったし、今現在、三十三歳の社会人として生きているのがその証拠だろう。悔やまれることもあったし、変えがたい大切なものを手の平に乗せる事も出来た。逆に手にしたことで自分自身を追い詰め、心の底に堆積したヘドロの様になってしまった思い出もある。
「自己療養へのささやかな試み」を、僕は何度か行ってきた。でもそのアプローチは決して解決に導くことが出来ずに過程を生むだけの悲しい行動なのだと最近気が付いた。なぜなら療養したい事柄のすべては過去の過ぎ去った事柄であり、歴史は変えられないからだ。それどころか思い出しては心がざわめくようなもどかしさと、首を締め付けられるような後悔の念しか生まれてこない。歴史にIFは存在しないし、それを一々振り返るのはどうしようもないことなのだ。
だがもし、それらの歴史的事柄を思い返して僕がここに記し、そして誰かが共感をして慰めの言葉の一つでも掛けてくれたのなら、僕の心や当時僕が傷つけた人たちの心が癒されるのかもしれない。そうなれば無意味にも思える「自己療養へのささやかな試み」にも多少の意義はあるのかもしれない。
最初に書いた様に僕にも十代の頃が存在した。僕にとっての中学時代というのは、なぜかあまり心が晴れる事が無かった。もちろん思い出すだけで僕は一時的に不安な気持ちにもなる。当時僕は少数派の、今の言葉で例えるならば陰キャと言われる存在だった。昼はオタク向けのライトノベルを一心不乱に読んで過ごし、部活動に所属しなかった僕は放課後に寄り道せず、まじめに帰宅した。文化祭も体育祭も面倒で仕方なかったし、家に帰れば宿題より先にゲームのスイッチを入れ(ニンテンドー64は今でも僕の中では名機だ)、夜更かしせずに就寝する。そんな毎日に幸福も不幸も感じずに生きていた時代だ。
学校教育の無念さを体現したような学校生活を送り、教師は投げる匙すら手にしていなかったのを覚えている。公立も私立も、僕にいける高校はなかった。もちろん卒業後は定時制の学校に進み、バイトをしながら生活した。
話を戻そう。ここまでの話を見るに、まともな学校生活を送っていないのが手に取るように分かる。まず僕の後悔はここから始まる。真面目に勉強しておけばよかったとか、学校行事に積極的に参加しておけばよかったとか、そんなことから始まり、今、勉強しようと思ってもなかなかできることではない。なぜなら勉強が仕事だった学生の時分に勉強しない者が、勉強が優先でない時分に長続きさせられるわけがないのだ。社会人になっても勉強できる人間は、そもそも学生時代に勉強をしてきているのだから。
体育祭や文化祭などは、懐かしい青春の一コマとして同窓会などで語られるものだが、僕はその一切合切が面倒だった。誰かと何かをするのが苦痛で仕方がなかったし、みんなで一緒に力を合わせている時に、なぜか僕が協力的でないと非難されることが良くあった。僕としては少なくとも言われた役割はこなしていたし、なぜそんな事を言われなければならないのかといつも嫌な気分になった。もちろんそれは体育祭と文化祭に限った話ではない。クラス対抗で行われるイベント全般だ。
おそらく僕の、面倒くさいというオーラの様なものが見え隠れしていたのだろう。おかげで僕は今だに中学校の同窓会に呼ばれたことはない。もちろん開催されていないだけかもしれないが。
早い人では幼稚園の頃から誰かに恋をして失恋し、そして大人になっていくのだろう。だが僕は社会人になるまで恋愛をしたことが無かった。高校過ぎて成人してからも童貞を貫いた。別に守っていたわけでも捨てたくなかったわけではない。そういう機会がなかったのだ。
自然と恋人が出来て童貞なんて捨てれるよ、と多くの人は言うが、そんなものは都市伝説だ。
ただ一回、僕は恋人が出来かけたことがある。季節も忘れたし、正確な学年も中学生であった事しか覚えていないが、僕が自宅にいる時、他のクラスの女子から電話がかかってきた。あの頃はまだ連絡網が存在し、他のクラスの人間でも交友関係さえあれば簡単に個人情報を手に入れることが出来た。それを使って彼女は僕に電話をしてきた。名前はF。はっきり覚えているが、誰が見るか分からない所だ、イニシャルだけにしておく。
母が取った電話から僕を呼び出し、電話を替わると彼女は通信状態の悪い電話のように切れぎれに何かを言おうとしていた。僕はとにかく「もしもし」と言った。彼女は「はい…」とだけ言ったきり黙り、しばらくそれの繰り返しだった。
何回か繰り返した後、息を多めに吸い込む音が聞こえた。そして彼女は、電話口で「あなたが好きです」と、消え入りそうに僕へ伝えた。僕はその時のその一瞬の記憶がない。だがしばらく考えた後、僕は彼女に「すいません、良く聞こえなかったのですが」と答えた。彼女は恥ずかしそうに、そして辛そうに「何でもありません」と言って電話を切った。いや、正確には考えたのではない。考えが及ばない領域に入ったことで脳味噌がフリーズし、良く分からない適当な言葉を発したのだ。
それからの記憶は曖昧だが、あとから僕の(数少ない)友人が彼女の事を教えてくれた。それからしばらく学年全体の集会で集まる時は彼女を意識するようになった。そして時々目が合うと、僕は彼女の怨みがましい視線を感じる様にもなった。
僕が悪いのだ。
なぜあんな適当な文言しか出なかったのか。今でもそれは後悔の念として深く心の奥底に打ち込まれている。
きっと彼女の心を傷つけたのだろう。いや、そんな簡単に表現できる話ではない。彼女はまだ中学生だったのだ。面識のない相手にいきなり電話をするのには勇気が必要だっただろう。それだけの勇気を振り絞るには相当な想いがあっただろう。僕はそれら全ての彼女の思いや勇気を、適当な言葉で踏みつけあしらったのだ。断るより最低な切り方なのだ。
僕は良くこう考えるのだ。今に自分が過去の時分に助言できたり精神が入れ替われるなら、どんなふうに言葉を返して上げる事が出来るだろうか。そしてどんな未来が待っていたのだろうか。
もちろんさっきも書いた様に、歴史は変えることが出来ない。でもそのIFを書くことはできる。
・・・
「あの、私、──組のFと申します。」
「あ、はい。何でしょう。」
「えと、その。」
「?」
「・・・・・・。」
「もしもし?」
「はい、あの。」
「はい。」
「あの私、あなたの事をずっと見ていました。あなたの事が好きです。」
「え・・・・・・。」
「あの、ありがとうございます。でも僕はFさんの事をよく知りません。一度会って、お話しできませんか?」
「じゃあ明日の放課後、──でお会いできませんか。」
「分かりました。では、今日は失礼します。
─翌日─
「こんにちは。すいません、先生に呼ばれてて、遅くなりました。」
「いえ、大丈夫です。なにか飲みますか?」
「はい、カップのドリンクで。」
・・・
「あの、昨日一晩考えてみました。」
「はい」
「どう応えようか、とても悩みました。実のところこんな風に告白されたのは初めてですし、女の子の方から声を掛けられたのも初めてです。だから失礼かとも思いましたが、本当は悪戯なんじゃないかとか、考えました。」
「大丈夫です、偽りはないです」
「ありがとう。それで、僕の答えなんですけど。」
「はい。」
「昨日も電話お伝えした通り、僕はまだFさんの事をよく知りません。なので、良かったら一度友達から始めませんか? 少なくとも一か月くらい遊びに行ったりして、お互いをよく知ってからでもいいのではと思います。答えを先延ばししているようで心苦しいですが、誠意を持って僕に伝えてくれたFさんの気持ちに、真摯に応えたいんです。だめでしょうか?」
「いえ。大丈夫です。しっかり考えてその答えを出してくれたのでしょう? それをとても強く感じます。じゃあ明日からお友達として接してくれますか?」
「もちろん」
「じゃあ、さっそくメアドから教えてくれませんか?」
いつもポジティブな気持ちでIFを書きはじめるが、書いてからいつも気分が悪くなる。僕はいつまでこんな不毛な妄想を繰り返すのかと。本当に不毛なのだ、馬の耳に念仏と言った具合に。
これが「自己療養へのささやかな試み」だとすれば、こうやって思い返す度に、後悔と自己嫌悪と罪悪感に支配されるだけで、全く自己療養へと進んでいかない。
もし彼女に会えてあの時の事を謝罪出来て、そして彼女から許しの言葉をもらえたのなら、僕はこの不毛な繰返しを止める事が出来るのか。たぶんそれは違うのだろう。罪悪感は消えるかもしれないが後悔と自己嫌悪は残るのだ。あの時こうするべきだった、なぜしなかったのか。自分の体にべったりと付着した後悔と自己嫌悪は、真っ白のシャツについたトマトソースのように落としがたい。抱えて生きていくしかないのだ。
僕はそれから何となく生きている。様々な自責の念が時報のように定期的に鳴り響き、どうしようもなく自分を内面へと引きこんでいく。緩やかに流れる時のはるか彼方に、そんな過去の思い出が見えているが、それは離れても小さくはなるが、遠くで光を放つ灯台の様に決して不可視になったりはしない。
このようにして今回も思い出したようにつらつらと書き連ねたのだが、結局過去の回顧をしたにすぎない。そして自己嫌悪に襲われ、しばらくしたら解放される。そしてまた書きたくなるのだ。自分のしっぽを追いかけ、棒の周りをぐるぐる回るづける犬のように、僕はいつまでも過去の自分の過ちの周りを回り続けている。
たまに思うのだ。これが螺旋階段なら、いつか終わりが来るのだろうに、と。
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