日々は慌ただしく過ぎた。
仕上げねばなぬ原稿が大量に溜まっていた上、来月の頭に予定している政治学者の白鳥幸地との対談のための勉強もせねばならず、尊文や『晴天の会』の事にまで手が回らぬまま二週間を数えた。
で、そのように忙しさや焦りのために眩暈を起しそうになると、『「気」に合わせる』で読んだ内容が頭をよぎるのである。すなわち、知らず知らず「ありがとう」を頭の中で延々と唱え始めたり、その時に感じた「不安な感情」をノートに書き出したくなる衝動に駆られるのであった。
しかるにそうした「教え」は決まって尊文の声で脳裏に響いた。
「不安」な感情を否定する必要はありません。人間の長い歴史の中、「不安」すなわち「警戒心」は、人間が進化し、生きていくために必要不可欠な感情でしたから、それを全く消してしまうことは、むしろ生理に反します。『感情』はしっかり感じきることが大切なのです。ですから、ネガティヴに感じる必要はありません。感情を擦り切れるほど感じきったとき、それはいつしか消滅してしまっていることにあなたは気づくでしょう。
私は速読が出来ない。故に、線を引きながらジックリ本を読み進めるのが常であるが、猪原の著作にあっては、殆ど走り読みのけしきであった。最初の数頁を読んで、厭な予感がしたのである。其れは、私の家系からして宗教と云うものに嵌り易い血筋である事が一つ、そしてもう一つは、私自身が深層心理でそうしたものを求めている感じがしたからであった。果たして私の予感は当たった。私はこの本にドップリ嵌まったと言わざるを得ない。
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