岡本尊文とその時代(十五)

岡本尊文とその時代(第15話)

吉田柚葉

小説

5,936文字

真実になどどうせ到達出来ないのだから、どう書いても同じことです

……読み終えて確信したのは、尊文の筆力の低下であった。かくの如く文章は乱れているし、構成は破綻している。復活後の尊文の作品としては最低の水準と言えよう。しかるに、じっくり四時間かけて最後の行に辿り着いた時、私の胸に去来したのは後悔であった。今日は大人しく原稿を書いていれば好かった、と云う後悔であった。

私が赤を入れた箇所の総数は実に四十三に登る。中には、赤を入れる事さえままならなかった処さえある。例えば、

 

 風はなかった。しかし夜も二十三時を過ぎると、あたりは、まったく心臓に悪いほど冷え込んだ。伸びをするついでに天を仰ぐと、月の光が眼に滴った。なんにしても、音のない空間というものは、酷くうるさく感じるものであるが、いい加減に死が近いという意識が膨れてきて、それが余計に無音がわたしの耳にへばりつくのであった。その爆音に鼓膜をうずめられながら、わたしは、沖野青年の連絡を待った。どうもわたしは携帯電話が苦手で、着信が来たら、往々にして「受ける」のボタンと「切る」のボタンを間違って押してしまう。だから、「受ける」のボタンを確認しようと、右のポケットから携帯電話を取り出したのだが、かじかむ手の震えから、携帯を落としてしまった。

 

これはテクストの終盤あたりである。一寸読んだ感じだと、『ユリアヌスの休日』にも似た「即興的」な悪文と見えるが、その実、緊張感が段違いである。なんとなれば、ここからは言葉へのこだわりが微塵も感ぜられない。「伸び」や「酷く」は、平生の尊文であれば「開く」処であろうし、「耳にへばりつ」いたと表現した次の文で「鼓膜をうずめられた」と書くに至っては、意味が衝突しているけしきである。あるいは、「「受ける」のボタン」と云う表現が近しい処に二つあるのも、美しくない。これでは素人の文章である。私が新人賞の下読みをしていたとして、これが送られて来たと仮定すれば、うっかり落としてしまうやも知れない。

あまり腹が立ったために私は、『真冬の炎』をタネにエッセイをものにしてやろうと考えた。だが、幾らテーマ自由の連載ものだからと言って、他社の新刊本の批判を書くのはマナー違反……、掲載してはくれないだろう。読み損である。ともあれ、私の頭は尊文一色である。彼の事以外を書くなんぞ出来よう筈が無い。

暫く悩んだ末、私は尊文の評伝のためにまとめたノートからネタを使い回し、『小説家岡本尊文の展望』と題する文章をものにした。「誉め殺し」は過去にも何度か決行した事があったが、書き終えて見ると決まって虚しさしか残らない。大凡プロの仕事とはおもえぬ出来に、球状の鉛を飲み込んだような嫌悪感を抱いたが、今回は仕方が無い。つまり時間が無い。エッセイと呼ぶには評論然としすぎたが、これも仕方が無い。重ねて時間が無い。私はざっと読み返してみた。

 

 岡本尊文氏の小説は、第一に文章が迫って来る。無論、それが誰のどんな小説であろうと、小説を構成する全てが文章であることに違いはないのだから、読んで、文章が迫って来るというのは至極当然と言える。だからこの私の主張には、「にもかかわらず」、の一語を附す必要があるだろう。にもかかわらず、岡本尊文の小説は、文章が迫って来るのである。

氏は、「言葉の運動」ということをよく言う。文章は文字の集合体であって、極論、記号でしかない。故に厳密に言えば、この「運動」という表現は明確な誤りを含む。当然ながら、岡本氏はその誤りを自覚した上で、進んでその誤りを受入れ、あるいは一箇のフィクションとしてその表現に耽溺たんできしているわけである。だから私がこの文章の一文目で宣言した「文章が迫って来る」という誤った感想も、必然、氏の生成したフィクションに収斂され、ある種の諧謔としてより本当らしく現出する。「真実になどどうせ到達出来ないのだから、どう書いても同じことです」とは、氏の往年の言葉であるが(あるいは、他のどの作家の言葉でもあると言っても良いが)、だからこそ書きつづけねばならぬというある種の凡庸さ……、もっと言えば、「絶対に真剣にはならない」という真剣さがとぐろを巻き、架空の運動性を帯びることで、それを読む人間である我々へと「迫って来る」のである。先ずはそののっぴきならぬ事実を確認しよう。

岡本氏の初期の仕事に『受け皿の憂鬱』という長編がある。大衆小説として発表された作品であるが、それだけに氏の文章は、より生々しく「言葉」が「言葉」として屹立している。冒頭を引こう。

 

 店内には、ケニー・Gがかかっている。川崎は、どうしようもない店だと思いながら、松野ゆりが現れるのを待った。

川崎は、窓際の席に座っていた。窓の向こうは、すぐに国道であった。雨は尚も強く、行き交う車は、店の駐車場前で水しぶきを上げて、如何にも不機嫌そうだった。

店員が水を運んできた。それとほとんど同時に、店の扉が開いた。松野ゆりだ。彼女は、慌てる素振りすら見せず、川崎が座る席まで歩いてきて、彼の前に座った。川崎は、その途端、空気がふわっと膨らんだのを感じた。見事なものである。

「お待たせして、すみません」

言葉とは裏腹に、松野ゆりはちっとも申し訳なさそうではなかった。いつもどおり、学校の制服に、ストレートの黒髪をなびかせている。川崎は、

「それは良いのだけど、制服はやめてくれないか」

「援助交際に見えますか」

「援助交際にしか見えないな」

 

あるいはもう一つ、『ユリアヌスの休日』から、冒頭部を引く。

 

声。

声が、己の胸の奥……、躰のどこかに中心というものがあるのならば、その中心、つまりわたしの真ん中から耳の底へと鈍重な趣を持って響いて来るのを、わたしは感じ取っていた。昨日があって今日がある、しかしその今日は、声の導くままに、わたしを、昨日のわたしとは違う段階と、引き上げてゆくようであった。それをわたしは、熱に浮かされたように感じていた。

昨日の女は、そんなわたしの変化に気づいていないようだった。それが証拠に、目を覚ました女は、ベッドから起き上がってタバコをふかせているわたしに向かって、「またタバコを吸ってるのね、あなたは何も変わらないわね。」と、意味のない嫌味を言うのだった。

「変わってないかどうかは、君が決めることじゃないさ。」

 

結局のところ、岡本氏にとり「何を書くか」は問題にならない。というのはつまり岡本氏の小説が、大衆的であるか、文学的であるか、という本屋の営業事情でさえも、もろともしないということでもある。「言葉の運動」というフィクションが堅牢たる佇まいを崩さぬ限りに於いて、氏の「声」は、どこであろうと単一の流れを伴い響き続ける。並の作家であれば、そのフィクション性に恐れを抱き、果ては読者に「分かってほしい」という甘えから、うっかり「書くこと」について書こうと筆を取ってしまうに違いない。しかるに岡本氏の凡庸さは、そんな並の作家とは器が違うのである。(……あんまり馬鹿馬鹿しいので以下略)

 

2019年5月25日公開

作品集『岡本尊文とその時代』第15話 (全41話)

岡本尊文とその時代

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© 2019 吉田柚葉

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