『モロゾフの詩』殺人事件

モロゾフ入門(第9話)

第28回文学フリマ原稿募集応募作品

藤城孝輔

小説

6,539文字

破廉恥かつ不謹慎な作風で知られ、あらゆるものを冒涜する作家、エメーリャエンコ・モロゾフ。彼が発表する作品は既存の宗教・政治組織の怒りを買い、ついには翻訳者が殺害される事件に発展した。伝播する暴力。拡散される悪意。侵されるプライベートな領域。はたして犯人はいったい何者なのか!?

茨城県の某国立大学民俗学専攻の一年生、板舞子いたまいこがいつものように午前十時十分着のバスで大学に来ると、校門を入ったところに人だかりができていた。カメラを抱えたマスコミが集まって待機している様子である。校門の中にはパトカーが何台も乗りつけているのが見える。ニコチン切れのカメラマンが引きむしって放り投げたタバコの箱の包装フィルムが、甘やかな初夏の風の中を舞って「ぺちゃり!」という軽快な音とともに板舞子の唇に貼りついた。小学生の頃のぎょう虫検査の懐かしい感触を板舞子は図らずも思い出した。板舞子はぎょう虫検査が決して嫌いではなかった。

記者の一人に声をかけて事情を聞いたら取材でもしてくれるんじゃないかしら? そんな思いを隠して板舞子はおすまし顔で記者たちのほうへ近づいていった……もちろん自分では気づいていないが板舞子は大きな誤解をしている。本来、取材というものは情報を持たざる者が持てる者に対して行うものだ。何も知らずに大学に着いたばかりの板舞子を取材する記者はいるまい……夕方のNHKニュースに出演できることになったら、実家のお母さんに教えてあげよう。毎晩NHKニュースを見てるからきっと喜んでくれるはず。だが臆病な板舞子は結局、何も話しかけることなく通り過ぎてしまう。唇をかすかに震わせて「すみません、通してください」とつぶやきながら。

ところがそのとき、奇跡が起こった。おそらく過剰な自意識の重圧に耐えかねたのだろう。テレビの全国放送に出るチャンスを生来のヘタレっぷりでふいにした遺恨を胸に、重い足取りで記者たちから遠ざかっていた板舞子が履いていた右側のパンプスの三センチのヒールが、敷石の隙間のくぼみにジャストミートして折れた。人工皮革がちぎれる鈍い音とともに仰向けによろめいた板舞子は後頭部を守ろうと本能的に上半身を前のめりに投げ出した。

「キキーッ!」

板舞子の声帯から絞り出された甲高い悲鳴は、古い木材がきしむ音に似ていた。そう、このときの彼女はまさしく一枚の板だった。かかとが折れて後ろに揺らぎ、全力で前につんのめった板舞子はシーソーの原理で動いていたのだ。そして前方に重心が傾いた必然的な結果として、彼女の臀部は高らかと天を仰いだ。ユニクロで買ったえんじ色のスカートが風に舞い上がり、その中に隠していたパールピンクの勝負下着をあらわにした。

取材陣は一斉にその光景に釘づけになった。ペチャリペチャリと無数のシャッターが切られ、カメラのまなざしが薄い絹地ごしに板舞子の肛門に容赦なく貼りついた。その感触は指でじかに肛門に触れられるよりもはるかに大きな恍惚感を板舞子にもたらした。ファインダーの反対側という安全圏から最もプライベートな恥部を辱められるという主体と客体の不均衡。板舞子はカメラのまなざしに屈服し、歓喜してその奴隷になった。しかも肉眼による凌辱とは異なり、この辱めは一回性のものではない。写真として、あるいは動画として記録された臀部はその日のうちに全国に拡散され、板舞子に十五分間の名声を与えるだろう。もちろん板舞子の母親、板節子いたせつこも今夜の七時のニュースで娘の勝負下着を目にすることになる。母子家庭だったために十分な贅沢をさせてやれず、大学にも仕送りなしで送り出した娘がアルバイトをして初めて買った人生初の贅沢品を。

板舞子は高揚していた。スキージャンプの選手のように前に突き出した頭に血が上り、ようやく迎えたいわゆる「大学デビュー」を称える祝砲であるかのように轟く心臓の鼓動は彼女の耳を聾した。そんな板舞子にとって、今まさに顔面目がけて地面の敷石の致命的な一撃が迫っている事実など取るに足らないことだった。

 

そのころ茨城県の某国立大学大学院西洋文学研究コースの院生室では次のような会話が展開していた。院生室にいるのは五十音順に、秋千春あきちはる雲梯優男うんていまさお、カッテイ・カッテリーナ(ハンガリーあたりからの留学生)、木馬大次郎もくばだいじろう(通称「もっくん」)の四人。ただし、学振から昨日振り込まれた研究奨励費をさっそく桜町で酒と風俗に使って一晩遊びまくった雲梯優男はソファーで爆睡しており、会話には参加していない。

もっくん「教育棟に警察来てたけど、あれ何? なんか非常線? テープみたいなの張って入れなくしてた」

カッテリーナ「ニュース見てないか、もっくん? 殺されただよ、鏡屋敷かがみやしき先生」

もっくん「カガミヤシキ? 誰それ?」

千春「現代東欧文学の教授。昔、みんなで一緒に取ったでしょ?」

2019年5月6日公開

作品集『モロゾフ入門』第9話 (全13話)

モロゾフ入門

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© 2019 藤城孝輔

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