どこまでも月が

応募作品

Fujiki

小説

13,416文字

この世界は、そのままでは耐えがたい代物だ。だから俺には月が要る。
――カミュ「カリギュラ」より

週に一度、自宅のアパートから徒歩で二十分ほど離れたスーパーまで歩く。時間はいつも夜の十一時すぎ。別に感染症を気にして混まない時間帯を選んでいるわけじゃない。東京や大阪みたいな都会と違ってこの町の感染者数はもともと少ないから、毎日の生活には何の変化もない。それに、うつされて困るわけでも、うつしたくない大事な相手がいるわけでもなかった。

スーパーは午前零時まで営業していて、午後十時から生鮮食品や惣菜に半額のシールを貼りはじめる。いつも買えるのはカツオのたたきで、たまにマグロも残っている。ただ十時ちょうどに行くとシールを貼る店員と鉢あわせしてしまう。物欲し顔で作業が終わるのを待つのは少し恥ずかしい。しかも店員の年齢は私が講義を受け持っている学生と同世代だ。自分の学生と学外で出くわしたことは今のところないし、特に今年はZOOMを使ったオンライン講義ばかりで学生の顔さえわからないけれど、やっぱり気になる。閉店間際を見計らって買い物に行くのはそのためだ。

十一月にもなると鋭い寒気が襟や袖の隙間から滑り込んでくる。寒さのことを考えはじめると歯がカチカチと震えだして止まらなくなるから、気を紛らわすために月明かりの下でスマホを見る。アパートと田んぼしかない細い路地だからすれ違う相手はほとんどいない。マナー違反を見咎める者がいるとすれば、空の上の満月だけだ。フェイスブックを開くと、慶應で英文学の教授をしている先輩がまた海外旅行の自慢をしている。今度は夫婦でシチリア島らしい。ツイッターを開くと、数年前に卒業して赤坂にある大手広告代理店に就職した教え子が累進課税について文句を言っている。二十代で八百万近く稼げるって東京ってどんなパラダイスだよ。地方の文系非常勤講師なんて何校か掛け持ちしても年収二百万に満たない三、四十代なんてざらなのに。スクロールする指先から容赦なく体温が奪われていく。

突然、LINEの通知のポップアップが出た。思わずスマホを落としそうになる。相手がかもめだとわかった瞬間、私の心臓は急に激しい音を立てて鳴りはじめた。今でこそかもめから連絡が来るのは半年に一回くらいのものだが、彼女はいつもまるで狙っているかのように私がスマホを開いているときに不意打ちでメールやメッセージを送ってくる。実際、フェイスブックやツイッターのログイン状況を監視して私が今スマホを使っているのを調べた上で連絡をよこしてきているのかもしれない。昔は全然気にならなかったが、ここ数年は正直言って薄気味悪く感じている。未読スルーしておいてあとで何か適当な口実をでっちあげるなどという処世術は、かもめに対してはまったく通用しない。

《お疲れ様です。 ちょうど今日隣の同僚は私の日本語をどのように勉強したかを聞いたから。 昔あなたが私の論文を厳しく指導したことを思い出しました。 隣の同僚に「あのごろに厳しく日本語をチェックされたから、日本語の文法も発音もきっちりと覚えられた」と言った。 感謝の気持ちをお伝えしたくて……》

書きだしを見ただけで、長文メッセージの続きを読むのが嫌になった。改まった口調でやたらと長い文章を送りつけてくるのは彼女の常套手段だ。何事かあったのかと心配になって「どうしたの?」などと訊いたら最後、どうでもいい仕事の愚痴や一緒に暮らしている男に関する聞きたくもない話を延々と聞かされることになる。うんざりして顔を上げると、夜の暗幕を丸く切りとった青白い月がこちらを見下ろしていた。私を監視する覗き穴だ。

 

そういえば、かもめと鹿港ルーガンに小旅行に行った帰りも満月だった。ちなみにかもめは本名ではない。私が日本語の教育実習をした台中の大学の日本文化学科では、学生は日本語の名前を使う慣例になっていた。日本名と言っても名前らしい名前を持つ学生は少数派で「ブラジルさん」「おにぎりさん」「いるかさん」といったシュールな名前がほとんどだった。「かもめ」という名前も大学に入ってから彼女が自分でつけたものだ。こんな調子だから出席をとるだけで自分がどうして教壇に立っているのかわからなくなってくる。教えるほうも教わるほうも同世代だったから雑談ばかりで授業らしい授業にはならなかった。

週末になると、何名かの学生が古い町並みや寺院で知られる鹿港を案内してくれた。三年生のかもめは日本語検定一級をとったばかりで大学院進学を目指していた。流暢な日本語で日本統治時代の建築様式や台湾で信仰されている媽祖マーズーという女神について解説してくれたのだが、語尾にどこかたどたどしい響きがあって小学生が観光ガイドごっこをしているようにしか聞こえなかった。

「古い赤レンガの道ほど細くて曲がります。それはロッコーが強い風が吹くからです」

「ロッコー?」

「日本の統治時代、日本人は鹿港をロッコーと呼びました」

「へえ、六甲みたい。六甲おろし」

「何々?」

ただのダジャレのつもりで言ったのにかもめが真剣な表情で聞き返すものだから、私は両耳のつけねが急に熱くなった。

「……ろ、六甲山って山から吹く風のこと」

私は口ごもりながら言葉を返した。二十歳そこそこにして完全にオヤジギャグ生産機と化していた私の脳には俳優の戸浦六宏ろっこうの顔が浮かんでいたが、彼の名前まで口に出さなかったのは不幸中の幸いだった。

「六甲山? それ、知りませんよ」

「そうだよね」

微妙にかみあわない会話を続けながら一日じゅう人ごみを散策して、私も学生たちも夜にはぐったりしていた。それでも、かもめだけは「将来何したいですか?」「台湾の印象はどうですか?」「音楽は何を好きですか?」とバスの席で隣りあわせになった私に矢継ぎばやに質問を浴びせかけてきた。日本語会話の練習台をずっと待ち望んでいたのかもしれないし、あるいは牡蠣オムレツと一緒に流し込んだ台湾ビールの酔いが回っていたのかもしれない。酒で頬を赤らめた彼女の顔はつやつやと輝いて昼間よりもいっそうあどけなく見えた。

「ウーン、うまく社会人やってけるかもわかんないし、大学の先生くらいにしかなれないかも」

「そんなに日本と変わらないと思うけど、こっちの車の運転は荒いね。それにみんなバイクに乗ってる」

「映画とか観ていて流れてくる曲がいいなって思うことはあるけど、じっと座って音楽を聴くってことはあまりないかな」

と、私は一つ一つの質問に丁寧に答え、「かもめさんはどう?」とテニスの球を打ち返すみたいに同じ質問を返した。かもめはそれらの質問がまるで思いもよらないものであったかのように慎重に考え込み――答えの内容ではなく、答えとなる文の語彙や文法について考え込んでいたのかもしれない――長く詳しい答えを返した。

「見てみて、月!」

質問のラリーに飽きたのか、彼女が唐突に窓の外を指さした。大きな月がバスの内部を窺うように低く浮かんでいた。月を見つけて歓声をあげるかもめは小さな子どものようだった。

「さっきからずっと追いかけてきてます」

「ホントだ。すごくきれい」

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2020年10月2日公開

© 2020 Fujiki

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