隕石3

ナツキ(第12話)

ムジナ

小説

4,783文字

ナツキ第12話 過去編

 もうすでにびしょびしょな腕でもう一度額の汗を拭って、部室のドアに手をかけた。息を吸って思い切り体重をかけるとガラガラっとドアが動いた。
「おはようございまーす…」
控えめに言いながら部室の中を覗き込むと、杉山くんが座って雑誌を読んでいた。棚の前に散乱している日本映画のマガジンだ。
「あ、おはよう。」
私が声をかけると、杉山くんも小さい声で、おはよう、と言った。
私は中に入って、また思い切り体重をかけてドアを閉めた。早くしないと、エアコンの冷気が逃げてしまう。ただでさえなかなか効かないのだ。
 まだ他に先輩たちは来ていない。部室の時計を見ると6時50分くらいを指している。そんなはずはないと思ってスマホをポケットから取り出して点けると、9時半だった。集合まではまだ30分もあった。
 杉山くんは雑誌に顔を近づけて一生懸命読んでいた。目が悪くなりそう。入部して4ヶ月近くたったが、まだ杉山くんとちゃんと話したことがなかった。かなり人見知りなんだよ、と結城さんからは聞いていた。映画部は人見知りが多い。
私は思い切って、声をかけてみた。
「何時くらいから、ここいた?」
杉山くんは雑誌から顔を上げて時計を振り返って、あっと言ってから自分のスマホを取り出した。
「多分、9時20分くらい。」
「そっか。気が早いね、お互い。」
クーラーの音がよく聞こえる。劣化してブンブン鳴る部室のクーラーは、窓の微妙な隙間から忍び込んでくる蝉の声を塗りつぶしていた。私は壁の隅の落書きを眺めた。
「…水野さんって、E組、だっけ。」
杉山くんが口を開いたので、私は目線を戻した。
「あ、うん。杉山くんは?」
「俺、C。」
「あーC組か。移動教室の時とか、廊下ですれ違うよね、時々。」
杉山くんは頷いた。
入口の方からガタガタという音が聞こえたのでドアを見ると、少ししてからガラッと開いた。茉理さんがふぅ、と言いながら入って来た。
「お、一年生が親睦を深めている。」
茉理さんはそう言うと、振り返ってドアを閉めた。
おはようございます、と私たちが言うと、茉理さんは頷いて、言った。
「仲良くしてる?」
「まだ、あんまりちゃんと話したことなくて。」
「仲良くしなね、君達二人しかいないんだから。」
茉理さんはそう言って部室の時計を見た。止まっていて時間は分からないはずなのに、「あと30分近くあるのかぁ。暇だね。」と言ったので、私は茉理さんの顔を見た。茉理さんはちょっと私を見ると、チェシャ猫のようにニッと口角を上げた。
「3人で何かしようか。」
茉理さんが言い出したのは「獏ゲーム」と言う聞いたこともない遊びだった。
「まず、主人公と、ドッペルゲンガーと、獏がいるのね。」
まず世界観が難しい。
「主人公とドッペルゲンガーが二人でペアで、獏が鬼って感じなの。獏は二人の内どっちかを食べるんだけど、ドッペルゲンガーを食べれば主人公の勝ちで、獏はまた次も獏になる。主人公を食べると今度は主人公が獏になって、っていうのの、繰り返し。それでね、主人公とドッペルゲンガーはお互い獏を騙すために、二人で簡単な絵を描くの。絵のお題は猫、豚、カタツムリ、から選ぶ。何を描くかは主人公が決めて、ドッペルゲンガーには教えない。最初に丸を描いて、順番に一画づつ描き足していくんだけど、ドッペルゲンガーは主人公が何を描きたいのか汲み取らないといけないわけ。獏は絵が完成するまでを見て、どっちが主人公か見極める、っていう。」
 やり始めてみると、ルールは思ったよりも簡単で、ゲームは思ったよりも難しかった。主人公の描きたいものは、今回は状況次第で途中で変えてもいい、というルールになっていたので、結構めちゃくちゃな絵が出来上がる。最初は私が主人公で杉山くんがドッペルゲンガーだったが、杉山くんはその役回りが異様に上手で、まるで私が何を描きたいのかわかってるかのようにすらすらと線を描き足したかと思えば、急に自信なさげな線をわざと描いたりして、茉理さんがどっちが主人公かを読めないようにしていた。しかし茉理さんも異様に獏の役回りが強くて、私は主人公になるたびに毎回茉理さんに食べられた。
「このゲーム、西野さんが考えたんですか?」
杉山くんが聞くと茉理さんは頷いた。
「うん。面白いでしょ、なかなか。」
私たちは頷いた。ガラガラっとドアが開いて、男子の先輩たち4人がお待たせーと言いながらぞろぞろと入って来た。
「コンビニ行って来たよ、飲み物買って来たわ。」
樋口さんが言うと、気がきくねぇと茉理さんが裏声で言った。
 結城さんがDVDを取り出して再生する準備をし始めると、みんな各々お気に入りの席につき始めた。すると誰かが私の肩をポンポンと叩いた。
振り返ると、茉理さんが原稿用紙の束を持っていた。すごい量だ。豆腐ぐらいの厚みがあった。
「これ、今度コンテストに出す原稿なんだけどさ、家で暇な時に読んでみてくれない?感想聞きたくて。」
「いいんですか、私が最初に読んじゃって。」
「お願い。」
私はその束を両手で受け取った。思ったよりも重くて、端がだらんと垂れ下がった。手がぐらつく。
「そういえば茉理さんって、パソコン使わないんですね。いつも手書きですよね。」
「インターネットで提出しなきゃいけない時とかは使うけど、考えながら書くときは、ね。ワープロって、直すと前の文字は消えちゃうじゃない。原稿用紙に書いて、線引いて直せば、その前に何考えてたか、痕跡が残るから。」
確かに、茉理さんの原稿用紙には線を引いて横に書き直されているところがたくさんあった。かなり勢いよく書かれた跡があるのに、文字はとても綺麗だった。

 『350mlの空っぽ』というのが小説のタイトルだった。500枚の長編で、大学生の青年が主人公の話だった。自意識過剰で、そのせいでありとあらゆる局面で失敗している報われない青年が恋人に振られるところから始まり、十数分後にコンビニでお酒を買って公園で飲み、近所で夏祭りがやってることに気づいて泣き笑いしながら「死にてぇ〜」と呟くまでの物語だった。物語の大部分はコンビニへ行ってお酒を買うひとつひとつの動作から連想していく、主人公の妄想や回想でできていた。コンビニの自動ドアが開く瞬間、手に取った缶の冷たさが手にしみる瞬間、店員の手から自分のてのひらにコインが落ちる時に感じる重力、そういうありとあらゆる全ての瞬間が連想の引き金を引き、頭の中の世界に引き込まれる。そういう文章だった。
 読み終わった瞬間、頭の中が空っぽになってしまったような感覚を覚えた。何と言うか、この物語こそが本当なんだと思ってしまったのだ。主人公の自意識、目の前の物から思い出や妄想に転がっていく頭の動きも、全てがあまりにも生々しくて、私は主人公の頭の中に入ってしまったような気がした。ありとあらゆる主人公の感覚が目の前にあった。それはほとんど、小説を読んでいたというより、他人の人生を追体験させられていたような感じだった。いや、他人ではなく、自分がその主人公だった。
 自分の体が家のソファの上にいると言う実感に戻るまでにしばらく時間が必要だった。たった十数分の時間の流れを、原稿用紙500枚近く使ってここまで鮮明に書いた茉理さんが、私はほとんど、怖かった。
 着たままの制服からスマホを引っ張り出して、茉理さんに『今読み終わりました』とLINEを送った。画面を見ると、もう朝の3時だ。明日、というか今日が土曜日でよかった。
茉理さんはこんな時間なのに起きていたらしく、すぐに返信の代わりに電話がかかって来た。狂ったようにびりびり震えるスマホの画面を、通話アイコンを押して大人しくさせ、耳に当てると、ブルブルいう機械音のような奇妙な声が聞こえた。
『ナ゛ーツ゛ーキ゛ィ゛〜』
「…扇風機ですか?」
『ダ゛イ゛セ゛イ゛カ゛ー ゛イ゛』
「電話越しにやる人初めて見ました。」
『へへへっ』
茉理さんは扇風機から移動したらしく、ゴソゴソという音が電話越しに聞こえた。
『どうだった、原稿。』
「あの、すごいです、本当に。なんていえばいいのか。」
まだ頭の中が足の踏み場のない状態のままだったので、私は手近な言葉で切れ切れに喋っていた。
『なんでそんな興奮してんのよ。』
「だってなんか、怖かったんですよ。引きずり込まれたっていうか。」
お、と茉理さんが言った。
『じゃあ成功だ。』
「成功って?」
『誰かをさ、引きずり込んじゃうような小説が書きたかったから。』
茉理さんの声のトーンが少し変わった。
『表現で一番大事なのって、一人称の主観の視野だってずっと思ってるの。よく「共感した」とかっていうけど、あれって、外側から見て、第三者として同調してるだけなんだよね。』
私は頭を一生懸命回した。かろうじて、茉理さんの言いたいことが分かる気がする。
『だからさ、たぶん一番強いのは、引きずりこむ表現なんだよ。主人公の主観の中に、無理やり読む人を引きずりこむような。だから今回のはね、主観表現に死ぬほどこだわったの。瞬間瞬間の描写とか。そしたらあんな短い時間の話が500枚まで膨れ上がっちゃってさ。』
「すごかったです、本当に。まだちょっと頭が安定してないです。」
『ふふ、ありがとう。』
少し間があったので、その間に息を落ち着かせた。ふと思って私は聞いた。
「そういえば、茉理さん。」
『ん?』
「全然関係ないんですけど、なんでこんな時間に起きてたんですか?」
『ん?あぁ、ちょっと不眠でね。』
私はまた急に、不安になった。
「え、大丈夫なんですか。」
『大丈夫だいじょぶ。たまにあるんだよね。』
たまにある、という表現が、また怖かった。
 茉理さんは時々、目にくっきりしたクマをつけて学校に来たり、週ベースで学校を休んで連絡が取れなくなることがあった。結城さん曰く、「あいつ、まぁ見ての通りだけど、ちょっと精神が不安定なんよな。その上めちゃくちゃストイックだから。」ということだった。そう言う時の結城さんは、珍しく不安そうな表情が顔に映っていた。結城さんがいうには、本当は茉里さんに部長を任せたかったけど、茉理さんが前から時々こうして引きこもることがあった事と、創作に集中してほしいからという理由で部長を引き受けたらしい。茉理さんのそういう話を聞く時、私はやっぱり、茉理さんが消えてしまわないか心配になった。そしてその次の部活で、また茉理さんがあの狂気的なまでの無邪気さをまとって現れると、安心すると同時に少し怖くなった。
「茉理さん。」
『ん?なに。』
「茉理さん、ちゃんといますよね。」
『いるよ。なんでナツキは私の存在を疑うのよ。』
ふふっという控えめな笑い声が聞こえた。私はもう、胸の中がぴりぴりと落ち着かなくなって、いてもたってもいられなくなった。茉理さんがいるのが電話の向こうで、私の目の前には姿が見えないことが、恐ろしかった。私はとにかく何か言わないといけないと思った。
「茉理さんは、不死身ですよ。」
『え?いつかは死ぬよ。人間だもの。』
「いや、絶対死にません。茉理さんは不死身だから。」
また自分で何を言っているのか分からなくなって来た。胸の中で、眠さと興奮と不安でぐるぐると紫色の渦ができていた。
『ナツキがそう言うなら、そうなのかなぁ。』
茉理さんの声は、わざとらしいくらい、のんきだった。
「だって、この前、私が茉理さんに居てほしい限り、消えないって言ったじゃないですか。私は茉理さんに永遠にいて欲しいから、茉理さんは不死身です。」
茉理さんが少し湿り気のある声で笑うのがスピーカー越しに聞こえた。
『そうね、確かに、そうかもね。』
「なんか、私意味わかんないこと言ってますね。」
『意外とそういう時が一番正気だったりするのよ。じゃあおやすみ、もう日が出そうだけど。』
「あ、おやすみなさい。」
ピロリン、と電話が切れる音がした。

2017年9月27日公開

作品集『ナツキ』第12話 (全20話)

© 2017 ムジナ

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