『350mlの空っぽ』がコンテストで入賞して、茉理さんは賞金20万円を手に入れた。茉理さんは映画部全員を焼肉屋に連れて行ってくれた。食べ放題の時間が終わってみんながぞろぞろ出て行って、そのあと茉理さんと散歩をする約束をしていた私は残って茉理さんを待っていた。結城さんもまだ中にいた。伝票を見ながら茉理さんが財布を取り出すと、結城さんがポケットに手を入れながら言った。
「俺、半分払うよ。」
「え、いいよ。だって私がみんなの分おごるっていう約束じゃん。」
「お前が自分で手に入れたお金なんだから、自分のために使えよ。」
「なにくさいセリフ言ってんの。別にお金なんていらないし、早く使っちゃいたいんだよ。」
結城さんが少し口を尖らせた。
「でも、せっかく頑張って書いたんだからさ、それで取った賞金ぐらい、大事にしろよ。」
「だっていらないんだもの。」
茉理さんは珍しく、少し苛立ったような、硬い声で早口に言った。
「別に私は、賞金が欲しくて小説書いてないし。ただ、吐き出したいだけだから。だって考えてもみてよ。そもそも私みたいなドジョウ人間が、そんな大金持ってたところで、何も意味ないじゃん。」
「なんで。」
結城さんはムッとした顔で言った。駄々をこねる子供みたいな言い方だった。茉理さんはそのままの勢いでまくしたてるように言った。
「だって、こんな社会不適合者じゃ恋人なんかできっこないし、服とかそういうのも全然いらないでしょ。ご飯も誰かと食べる時以外そんなに食べたくないし、家賃はそんなにしないし、ぜんっぜん、お金なんていらないの。むしろ嫌い。小説家になるって言ったら、『そんなんじゃ稼げないし食べていけないよ』って、家族にさんっざん言われたけど。別に食べていけなくてもいいの。お金稼ぐために向いてないことするくらいなら、好きなことやって野垂れ死にしたほうがいいじゃん。」
「それはさ…」
私は、結城さんの目が赤くなっていることに気付いた。私は何か言いたくなったけれど、茉理さんがそのまま続けた。
「どうせ、長生きなんかできないし、私なんて。する意味もないし、価値もないし。だからね、お金も才能も体力も気力も、ばーって使い果たして、綺麗に死ぬのが、いいのよ。」
間があった。沈黙があった。結城さんは少し視線を下ろしていた。充血した目は前髪に隠れてしまったが、その前髪は少し震えていた。いつもよりも少し低い声で言った。
「もっと大事にしろよ。」
「だから、いらないんだって。」
「…お金じゃなくて、自分をだよ。」
結城さんの声は、震えていた。茉理さんは結城さんの変化に気づいたのか、少し眉を下げて、戸惑ったように聞いた。
「…なに、そのくさい台詞。」
結城さんは顔を上げないまま、ぽつぽつと続けた。
「…俺も、ナツキちゃんも、心配なの、西野が。お前、自分をいじめすぎだって。こないだしばらく部活来なかった時も、家で死んでただろ。」
結城さんは、今まで聞いたこともないような、細い声で話し出していた。きっとこれが、結城さんの「素」なんだと思った。こんなところで見ることになるとは、思っていなかった。
「…うつ病、とかなの…?」
結城さんは上目遣いで茉理さんに聞いた。茉理さんも急に演技の解けた結城さんを見て驚いたのか、少しぎこちなく頷いた。
「…まぁ、うん。」
「…病院は?」
「一度行った。薬出してもらったけど。」
「ちゃんと飲んでるの?」
「飲んでない。だってさ、あれ飲むと頭がぼーっとして、感覚が鈍るんだもん。」
結城さんは視線を落として、うろうろさせていた。私はどうしていいか分からなくて、二人を交互に見ていた。
「…なぁ、ちょっと休もうよ。俺本当に、このままじゃお前、すぐ死んじゃうような気がするんだよ。」
私はなぜか変に冷静で、2人をただ見ていた。
結城さんは目を落として、泣きじゃくる小さな子供みたいに、うなだれていた。
茉理さんは、猫目の瞳孔を今までで一番大きくして、茉理さんと結城さんの間のどこかを見ていた。
ドタバタという音がして、一斉にそっちを向いた。張りつめていた空気は微妙な苦々しさだけを残して、ニンニクの匂いと一緒に換気扇に吸い込まれた。黒いエプロンと赤い帽子を着けた店員が勢いよく入ってきて、「すいません、そろそろ。」とよく通る声で言った。茉理さんが財布から1万円札を二枚取り出す前に、結城さんが1万円を取り出して、むすっとした顔で伝票の上に置いた。茉理さんは諦めたように一枚をしまって、結城さんのと一枚ずつを合わせて店員に渡した。
夜中の公園は怖い。街灯の色が怖い。公園に立っている水銀灯の光は、完全な白じゃない。たぶん、少し緑色が混じっている。だからなんとなく不気味だ。
木でできたベンチは背中に優しくはなかった。でも茉理さんは気にも留めていないようで、ソファに座るみたいにふわりと背もたれに寄っかかって、ジンジャーエールの缶をあおっていた。
私は何を言えばいいのかわからなくて、さっきから手に持ったカルピスの缶の『アルミ』という表示を見つめているだけだった。すると茉理さんが、いつもと同じように軽い声で言った。
「さっきの結城さ、おかしかったよね。なんか、わがままな子供みたいだったね。」
茉理さんはそう言ってふふふっと笑うと、ベンチから立ち上がった。白いTシャツの背中を街灯が光らせて、波みたいな影が映っていた。
私はようやく口を開いて、茉理さんに向かって言った。
「茉理さん、大丈夫なんですか?本当に。」
すると茉理さんは少しムッとした顔で振り返った。
「なんだよ、ナツキまで。」
茉理さんは少し大げさな身振りで両腕を広げて見せた。右手に持った缶から、ジンジャーエールが少しぱしゃりと溢れるのが見えた。
「大丈夫。だって、私は不死身でしょ?」
そしてニコッと笑うのだ。
なぜかわからない、でも私はまた目頭が熱くなってきて、肺が勝手に小刻みに息をし始めた。
茉理さん。
だめだ。どうして私は、茉理さんといるときに限ってこんなに泣き虫になってまうんだろう。
「あー、もう。手のかかる子だなぁ。」
茉理さんは少しわざとっぽく、困ったような声でそう言うと、私の隣に座った。右腕を私の方に回して、よしよしと体温の高い手で私の頭を撫でた。
私が泣き止んだ頃、茉理さんが唐突に言った。
「ねぇ、私の家来る?まだ来たことないでしょ。」
私は驚いて顔を上げた。茉理さんはいつもの無邪気な顔で私を見ていた。
「え、でももう、10時ですよ。」
「泊まってきなよ。お泊まり会だよ、お泊まり会!」
茉理さんはひょこひょこと言った。茉理さんが私をご飯や出かけに誘うとき、茉理さんはまるで仲の良い友達と遊びの約束をする小学生みたいな表情で私に話しかけた。私はそんな茉理さんの、壊れているようにさえ見えるほどの無邪気さが好きだった。でも、今は少し、それが怖かった。このまま帰ってしまったらもう2度と茉理さんに会えないような気がして、私はベンチから立ち上がった。
「行きます。」
「どうしてそんな固い決意みたいな顔してんの。」
茉理さんは缶を口につけて一気にあおると、ゴミ箱に放り込んだ。公園から歩き出した茉理さんを、私は追いかけた。
「ここだよ!」
と茉理さんが指さして言った。アパートマンション、と言う他に表現しようがない建物だ。コンクリートの白い壁。無表情に並ぶ白のドア。
「ねぇ、この建物、何色に見える?」
茉理さんが私に聞いた。質問の意図がいまいちよく分からなかったが、私はもう一度マンションを見た。どう見ても白だ。私は素直に、白です、と言った。すると茉理さんは不満そうに言った。
「嘘だ。」
「嘘じゃないですよ。だって、白じゃないですか。」
「白だけど、白に見えてる?いま。」
「どういう意味ですか。」
茉理さんは私の方を向いて、ニコッと口角を上げながら、言った。
「私には、青に見える。」
猫目の瞳が、私を見透かした。脳みそを揺さぶられたような気がした。
「夏の夜ってさ、空気が青いでしょ。」
茉理さんはマンションを見上げた。
「だからさ、マンションも青くなるんだよ。だから、本当はみんな、青く見えてる。」
私は頷いた。自分が少し震えていることに気がついた。
「だけど、みんな白って言うから、なんか悔しくてさ。頭の中で、フィルターを作ってるんだよね。みんな世界をそのまま見てる気になってるけどさ、本当は自分で作った世界に、色を塗ってるだけなんだよ。」
その通りだった。明るいところで見たら確かにこのマンションは白い。でも今は夜で、マンションを照らしているのは寝ぼけた街灯と頼りない月明かりだけだった。夜は青い。だから、白の壁もそれが映って青く見えている。でも私は、「白く見える」と言ってしまった。
「本当はさ、」
茉理さんが続けた。
「本当は、白いものなんてこの世にないんだよ。どんなものにも色がついててさ、空とかも青かったり紫だったりして。白いものには、それが映っちゃうんだよね。私たちって多分、白がどんな色なのかを知った気になってるけど、本当の白を、見たことないんだよ。」
この時私は、改めて確信した。多分、茉理さんには、私や他の人たちとは全く違う色で世界が見えている。茉理さんは頭の中のフィルターを取り払って、生の世界を見ることができる人だった。だから茉理さんは天才なのだ。でも、それこそが多分、茉理さんを苦しめている一番の原因でも、あったのかもしれなかった。
階段を上り、いくつかのドアの前を通り過ぎる。光っている窓はまばらで、うす青く暗い並びの中にぽつぽつとあるだけだった。茉理さんは一つのドアの前で立ち止まり、トートバッグの中をゴソゴソと漁って鍵を取り出した。ガシャリ、という金属の音がした。茉理さんはノブをひねってドアを引き開けると、わざとらしい慇懃な仕草で手を差し出して「お入りくださいませ。」と言い、またニヤッと笑った。
私の後ろから茉理さんが手を伸ばして、緑のランプのついた電気のスイッチを押す。カチッという音がして、玄関が明るくなる。私の足元にはあんまり女の子らしくない運動靴とスリッパタイプのサンダルが、力尽きたように転がっていた。
「ほら、上がった上がった。」
茉理さんが急かすので私は慌ててスニーカーから足を抜いて、中に入った。
キッチンのついた居間は、かなり散らかっていた。座卓が埋もれて見えなくなりそうなくらいに原稿用紙とノートが散乱していた。今まで一冊だと思っていたCampusのノートが10冊以上、壁際に積み上げられていた。ただ、壁にかけてある不思議な雰囲気の猫の絵だけは、部屋の乱雑さから隔離されてまっすぐだった。
「あちゃー、片付けてなかったなぁ。恥ずかしい。」
茉理さんは大して恥ずかしくなさそうなトーンでそう言うと、散らばっていた原稿用紙を拾い集めて束にして、ゴミバケツに突っ込んだ。ゴミバケツにはほとんど原稿用紙しか入っていなかった。原稿用紙を集めてしまうと、意外と綺麗に片付いていた。この人は創作しかしていないらしい。
「蛇口、使ってもいいですか?」
「いいよ。なんでも好きなようにして。」
私は流しの蛇口のレバーをひねり上げて水を出し、手を洗った。ハンカチで手を拭いて、机の前に座る。かばんを開けて、空になったカルピスの缶が入れっぱなしだったことに気がついた。
「茉理さん、缶捨ててもいいですか。」
「いちいち許可取らなくてもいいよ。」
はい、と言って私は缶を持って立ち上がった。人の家に入るのなんて小学生の時以来で、なんだか身体がこわばっていた。流しの前にいくつかゴミ箱がある。これかな、と思って蓋を開けたら底の方にペットボトルが入っていた。違った。隣のゴミバケツを開けると、空きカンとビンが大量に入っている。ビンゴ。カルピスの缶を放り入れようとして、私は手を止めた。
あ。
見ちゃった。
中に入っていた空き缶や瓶は、ほとんど全部が、お酒だった。透き通った茶色の液体が薄く残った四角い瓶や、ビールの入っていた長いアルミ缶が、腹を折って転がっていた。私が入れるぐらいのサイズの大きなゴミバケツの中に、それらがほとんど満杯に入っていた。
肺の方から何か暗い色をした煙のようなものが湧き上がってくる感じがした。それは私の胸の中に充満して、心臓に圧力をかけた。
さっきの結城さんの声が、頭の中で流れた。
「…茉理さん。」
「ん?」
茉理さんがエアコンのリモコンを持ったままこっちを見て、あっ、という顔になった。
「茉理さん、お酒飲んでるんですか。こんなに。」
「…うん。」
茉理さんは少しトーンを低くして頷くと、机の前に座った。私はカルピスの缶を捨てるのも忘れて、そのまま机の前に戻って、茉理さんの向かい側に座った。
「茉理さん。」
茉理さんは、いたずらを見つかって怒られている猫みたいな格好だった。茉理さんはおずおずと口を開いた
「…私さ、思考中毒なの。」
「思考中毒?」
唐突に聞いたことのない言葉が出てきて、私は少し戸惑った。
「ナツキはさ、何も考えてない瞬間って、ある?」
「え?まぁ、あると思いますけど…」
「どんな時?」
「えっと…」
私は思い返してみた。
「…なんか、電車でぼーっとしてる時とか…」
「そっか。そうなのね。」
茉理さんは何度か頷くと急に顔を上げて、はっきりと言った。
「私は、ない。」
私は茉理さんの顔を見た。
「ずうっっと、何か考えてる。どんなに夢中になってても、テンション上がってても、必ずどこかで何か考えてる。止められないの、ずっと。」
「…それって、疲れませんか。」
「疲れるよ。1日1日にすごいエネルギー使うし、なんか冷めちゃうし、どんどん妄想と悲観が膨らんでいって、めちゃくちゃ疲れるし、ストレス溜まる。でも、止まらない。ずっと、頭がグッルングルン回ってるわけ。」
そう言って茉理さんはふふっと少し締め付けるように笑った。生まれてから一度も見たことのないぐらいの、苦しい、胸の詰まりそうな笑いだった。
「辛い、ですか。」
他にもっと良いことが言えない自分が、悔しくて、左腕をつねりながら私は声を出した。茉理さんはうなずいた。
「うん、苦しい。思考ってさ、膨らみすぎると感情を圧迫するんだよ。何もかも純粋に感じられなくなってさ。」
そこまで言うと、茉理さんは言葉を切った。しばらく目線を泳がせてから、少し声を小さくして、自信なさげに言った。
「でも、酔ってる時は、止まりはしないけど少しゆっくりになって、ちょっとは、楽だから。」
茉理さんは少し上目遣いで、苦しそうに、謝るようにそう言った。
「だから、辛いと飲んじゃう。お酒。」
ごめんね、と茉理さんが言った。
だめだ。もう、無理だ。
ダメだった。私はもう、完全に恐怖していた。目の前にいる茉理さんが、怖かった。茉理さんが死んでしまうことが怖かった。茉理さんそのものと同じように幻みたいに漂っていた、死という名前の何かが実体になりつつあるように、急にそう感じたのだ。みぞおちの辺りで何かが震えていた。茉理さんの才能も怖かった。茉理さんをこれまでに苦しめているその才能が、酷いと思った。それと同じくらい、茉理さんをかろうじて世界とつなげているそれが尊くもあった。どちらが正しいのか分からなくて混乱していた。
きっと茉理さんは、普通ならその華奢な体には入りきらない量の才能を、無理やりぎゅうぎゅうに押し込まれて生まれてきたのだ。茉理さんが才能を使えば使うほど、それはさらにどんどん膨張していって、そして今まさに、はちきれそうになっているんだ。茉理さんはそのせいで、息苦しくて、生きづらいんだと思った。そう思ってなぜか私まで、息が苦しくなった。肺がきりきりと痛い。茉理さんは誰よりも人生を愛しているのに、人生の方は茉理さんを嫌っているようだった。そして最後に一番、何よりも、ここまで苦しんでいる茉理さんを受け入れることをしない世界が、どうしようもなく憎らしくなった。頭が熱かった。私の中で何かがひくひくと動いていた。
「もう嫌です、どうかしてます、こんなの。」
声が勝手に溢れ出してきた。
「だって茉理さんには才能があって、それで生きてるのに、そのせいで死にそうなら、茉理さんは一体どうすればいいんですか!」
私はほとんど叫んでいた。支離滅裂だった。そんなことどうでもいい、だって、世界のほうがよっぽど支離滅裂だ。だって、今ここにいる、この世の誰よりも純粋な茉理さんが、誰よりも苦しまなければいけないのだから。
どうかしてる。この世界は、本当に、どうかしてる。茉理さんも、私も、結城さんもみんな、何もかもどうかしてる。ただ自分の良いと思う人生を生きたいだけなのに、そうしようとすればするほど、生きづらくなる。いいものを作ろうとすればするほど、誰にも分かってもらえなくなる。そんなのはおかしい。茉理さんが苦しんでいるのを、もう見たくない。私まで、苦しくなるから。私は茉理さんが大好きだった。茉理さんを表すには、天才という言葉さえ少しちゃちに思えた。茉理さんは、ただ純粋に、茉理さんであろうとしているだけだった。私もそうなりたかったけど、茉理さんのようにはなれないだろうとも分かっていた。だからこそ茉理さんを腹の底から尊敬していたし、その茉理さんが苦しんでいるのを見ると胸が圧迫されるような感覚を覚えた。私は、茉理さんを守りたいと思った。もうこれ以上、茉理さんに苦しんでほしくない。
いや、違う。ただ、少しでも長く生きていて欲しいだけだった。ずっと今までみたいに、茉理さんと一緒にいたいだけだった。でもさらに残酷なことに、たった今、こうして、私の目の前で茉理さんの首を絞め上げているのは、まさにその「生きている」ということ以外の何でもないのだ。もう、私には何が何だか分からなかった。
茉理さんにとって、「生きる」という、人間全員が、地球の上の全員が当たり前にようにしている行為が、いったいどれほど難しくて、苦しくて、痛みを伴うことなのか、実感するのさえ少し怖かった。
「もう見たくないです。茉理さんのこんな姿見たくないです!」
自分でももう、何を言っているのか、何が言いたいのか、分からなかった。何も見えていなかった。何が正しいのかももう分からない。ただ頭が熱かった。
「茉理さん、もうやめてください。書き物とか、創作とかもう、全部やめてください。私が守るから、生きててください、ずっと。ずっと映画部の3年生で、ずっと今年でいいじゃないですか!ずっとみんなで獏ゲームやってれば、幸せじゃないですか!なんで時間って流れるんですか。おかしくないですか。どうかしてますよ、こんなの。どうかしてる、本当に…」
気付いたら、私は温かいものに包まれていた。茉理さんに、抱き締められていた。茉理さんは体温が高い。両腕から、首筋から、胸から、頰から私に熱が染み込んできて、ちょっと暑かった。私はいつまでも、茉理さんのTシャツの背中をつかんだまま、どうかしてる、どうかしてると繰り返していた。
「私さー、夏が好きなんだ。普通でしょ。」
床で大の字になった茉理さんが天井を見つめながら言った。きっと蛍光灯を見ているんだろう。
「夏っていうだけで、すごいテンションが上がるんだよね。例えば夜寝るっていうだけのことでもさ、夏っていうだけで、ちょっと幻想的になる気がして。」
私は冷たい麦茶をちびちびと飲んで頭を冷やしながら、茉理さんを見ていた。猫のようにきりっと開いた目が充血していることに気づいて、初めて茉理さんがさっき泣いていたことに気が
付いた。
私は何か言おうと思ったが、それより前に茉理さんがのんびりした声で続けた。
「私たちってさ、ずっと空の底にいるわけじゃん、ある意味、閉じ込められてるのよ。」
私は黙ったまま、頷いた。
「ずうっと、のっぺりした空の底に閉じ込められてさ、息がしづらくて、眩しくて、頭がズッキズキしてさ、それでもこうやって、一応生きてるわけじゃない。かろうじて、だけど。」
茉理さんは空気を味わうように、息を吸い直した。
「私の場合、それって、一年間我慢してればまた夏が来るって、知ってるからっていう、ただのそれだけなんだよ。」
「そんなに、好きなんですね。」
「うん。」
茉理さんはそう言うと、右手を床から浮かせて、指で空中に何かを書き始めた。
「ナツキってさ、…っていうか、『夏美』って、いい名前だよね。誕生日も、夏だし。」
茉理さんはそう言うと、目を細めてふふふっと笑った。
その夜は、珍しく恋愛話をした。「いかにもお泊まり会らしいことがしたい」と茉理さんが言って、そういう流れになったのだった。
聞いて驚いたのは、二年生の夏に、茉理さんが結城さんに告白されたという話だった。付き合ったんですか、と聞くと茉理さんは首を振って、「私と付き合うと不幸になる」と言って断った、と言っていた。洋画のヒーローみたいな振り方で、おかしかった。
それから、私と茉理さんは、とにかくいろんなところへ行った。夏休みの間はほぼ毎日、海や、茉理さんの家や、地元の夏祭りに行った。適当な電車に乗って適当な駅で降りた。ファミレスで5時間も話し込んで追い出された。古い映画館に行った。公園でスイカ割りをした。誕生日には映画のDVDをくれた。「わざとっぽいくらい夏っぽいことがしたい」と、茉理さんは何度も言っていた。私が一緒にいる間は茉理さんの精神は安定しているように見えたし、私も茉理さんに聞きたいことが大量にあって、毎日会え得るのは嬉しかった。何より、ただ純粋に1秒でも長く一緒にいたいと思っていた。それは仲の良い後輩としてというより、映画の設定でありがちな、死期の迫った病気の恋人と一緒に過ごしているような感覚だった。実際、茉理さんは常に、そういう雰囲気を身にまとっていた。破滅的というか。線香花火の玉が落ちる直前の、刹那的な穏やかなさみたいな、常にそういう空気に包まれていた。それがわざとなのか、それとも自然に出ているのかは、私にはちょっと分からなかった。
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