ナツキ A

ナツキ(第1話)

ムジナ

小説

2,950文字

本当は、これが、青春なんです。
高校3年の夏休み。だらだらと、重苦しく流れていく時間。空っぽな夏を埋めたい、ただそれだけ。ほとんど活動していない映画部で、私は映画を作り始めた。必死になってみたかった、誰かみたいに。
空の底でもがく、2つの世代のくすんだ青春。
回っていく、映画のフィルムのようにからからと、小説のページのように、ぱらぱらと。

私の隣で、誰かが言った。
『––私が、こののっぺりした空の下に閉じ込められて、息苦しくて、眩しくて、頭がズキズキ痛くて。それでもなんとかこうやって毎日息をし続けているのは、こうしてじっと耐えていれば、そのうちには必ずまた夏がやって来るって、知ってるからだと思うんです。』
その人は俯いて、肩を小さく震わせて、そう言っていた。その人が誰なのか、知っていたけど思い出せなかった。何か声をかけてあげたい。でももう遅い。声に出そうとしていた言葉は渦を巻き始め、私の周りの光景を吸い込み、巻き込みながらどんどん速く、重く、激しく唸りだした。何もかもが渦を巻いて吸い込まれていく。俯いて泣いているその人や、この眩しすぎる青白い空間や、うねるような夏の音を巻き込みながら、意識の奥の方にぐるんぐるんと沈みこんでいく。
『本日のゲストは……哲学に…』
渦の間から、生ぬるい平たい音が途切れ途切れに流れ込んでくる。そうか。私は今、夢から覚めていくところなんだ。渦がだんだんと沈んでいく。唸りも少しずつ、ボリュームノブをひねっていくように落ち着いていった。
頭の中が静かになって、私は重いまぶたを少し引き上げた。まぶしい。白くぼやけた横倒しのリビング。頭の上でテレビが何か、言っている。
『––あなたの見ている赤と、私の見ている赤が、同じ色だとは限らないんですよ。例えば、私とあなたが同じリンゴを見ているとしますね。私もあなたも、「リンゴは赤い」と感じる。でも、もし私たちがそれぞれ違った色の見え方をしているとしたら?私の目には、そのリンゴがあなたにとっての緑色に見えているかもしれない。でも私はその色を「赤」だと思って生きているわけだから、私たちの間では「リンゴは赤いね。」という認識だけは通じているわけです。全く違うように見えているのに、それを確かめる方法は何もないっていうわけ。』
なにそれ、意味わかんない。
目を細めながら首だけをひねって画面に顔を向けると、何人かの真ん中に立って、灰色の髪をしたおじさんがやたら大きな手振りで何かを説明していた。
その時、ポーン、という高い音がして、画面の上の方に白い文字が映し出された。
『気象庁が関東甲信地方の梅雨明けを発表 平年より2週間早く』
外はそんなに暑いんだな。この3日間ほとんど家を出ていないから気づかなかった。
「まずいなぁ…」
わざと声に出して呟くと、思ったよりも声が出づらくて、ガサガサしている。
あーあ。クーラーをつけっぱなしにして寝てたせいだ。喉の中がざらざらしている感じがする。
私はソファに寝そべったまま、机の上につっぷしていたリモコンを左手で拾い上げて、ボタンの数字も見ずに親指の勢いに任せてテレビのチャンネルを変えた。角張った画面から放り出される光は、寝起きで乾いた私の目には少し痛い。目を細めて画面の左上を見ると、「10:37」と表示されていた。私はあきらめて、はじめてリモコンの盤面を見て、右上の隅の赤いボタンを押し込んでテレビを黙らせた。
生乾きな粘土の塊のようにぐっとりとソファでだれている体を、頼りない腕でのったりと起こして、私は大きく伸びをした。
うーん、肩が痛い。
ソファで寝てしまうと毎回こうなると分かっているのに、この数日、私は毎晩テレビをつけたままソファで寝入るということを繰り返している。
堕落してるなぁ。良くない。前からずっとこの調子だ。
いいじゃない、夏休みなんだから。高校生最後の夏なんだし、このくらい好き勝手したって許される。
私はようやく、のろのろと立ち上がり、リビングを出て廊下を歩いた。なぜかいつもより天井が低いように感じる。寝起きで頭が重い。なんだか、重力が変になったみたいだ。
電気のスイッチを押し込んで、ドアを開ける。ドアノブも普段より重く感じた。あくびをしながら洗面所に入って、鏡の前に立つ。
ぼけーっとした顔のやつが、鏡の中から私を見ている。ひどい顔だ。私ってこんな顔だっけ。
視線を下ろす。蛇口のレバーを引き上げて、水を出した。ちょっと眺めてから、両手を差し出して、水の柱を遮る。砕け散って形をなくして、そのまま流れていく。あんまり冷たくない。
力を入れてないので、水は溜まることなく、やる気のない指の隙間からじゃらじゃらとこぼれ落ちていく。しばらくそのままぼーっとしたあと、ちゃんと手を引き締めて水をためてから、前かがみになって顔に打ち付けた。
冷たい。
何回も繰り返している内に、だんだん顔の皮膚の下にたまっていた眠気やさっきの夢のなごりが水に吸い出されていくようで、ようやく私は目が覚めてきた。
タオルで顔を拭いて、もう一度顔を上げて鏡を見る。
目の下に薄くクマが浮き出ていた。あーあ。ちゃんと寝ないからだ。顔が元から白っぽいから、よけいにクマが目立つ。
まぁいいか、今日も出かけないし。
鏡の中の私は、すこし身を乗り出して私の顔をしげしげと眺め始めた。
もうちょっと、鼻が高ければなぁ。
私は鏡から顔を離して、冷たさで引き締まった表情筋をちょっと動かしてみた。
大丈夫、ブスじゃない。そこそこ可愛い。そう心の中で言うと、鏡に背を向けて洗面所を出た。
夏休みの間ずっと一人暮らしが出来るなんてラッキーだと思っていた。単身赴任中のお父さんに、心の中で感謝した。赴任先に遊びに行ったお母さんにも。私は「部活とかで忙しいから」と言って家に残った。映画部なんかが夏休み中に大した活動をするはずもない。でも夏の間じゅう親に縛られずに暮らせるというビジョンが、少し魅力的に思えたのだ。
実際に夏休みが始まり、初日に母がいかついスーツケースを引きずって家を出て行ったあとは1人鼻歌をふかしながらテレビ棚のDVDを漁り、暇な間はずっと映画のDVDを流しっぱなしにしてたいへん文化的な生活を送っていた。
でもやっぱり3日も一人だけで過ごしているせいか、何か人恋しいというか、寂しいような気持ちになってくる。あるいは、夏休みになる前からずっとこんな気持ちでいたような気もした。
昨日の夜も、その淡い紫色のふわふわした、そのくせ強烈な引力を持った感情を胸の内側で持て余しながらバックトゥザフューチャー3を観ていたのだけれど、ソファでだらだらしながらだったのでいつの間にか寝てしまっていたようだった。
はぁ。
リビングに戻って、またソファに流れこむ。
まだ朝ごはんを用意する気力も湧いてこない。私はあちこち見回して、一緒になってソファの隅に寝ていたスマホを見つけた。取り上げて電源を入れ、目の力を抜いたまま、クラスメイトたちの投稿を読み流す。
遊園地のカラフルな背景で撮られた、何人かの集合写真が投稿されていた。
いいなぁ。青春っぽい。
はぁ。
「はぁ。」
わざと壁に響く大きさのため息をついて、私はもう一度大きく伸びをした。そしてソファから体を押し上げ、やっと朝食をとることにした。

お皿。
シリアル。
冷蔵庫。
牛乳。
冷蔵庫。
引き出し。
スプーン。
食卓に運ぼうと思ってお皿にかけたようとした手を、私はそのまま引いた。
いいか、別に、キッチンで立ったまま食べても。誰に見られてるってわけでもないし。
いただきます。
声に出さずに呟いてから、無表情に冷たいスプーンを牛乳とシリアルの白い水たまりの中に、おもむろに突っ込んだ。

2017年9月16日公開

作品集『ナツキ』第1話 (全20話)

© 2017 ムジナ

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