メテオライト

ナツキ(第16話)

ムジナ

小説

11,748文字

ナツキ第16話

 今日は多分、ソ連が崩壊してから何十何周年目かの日のはずだ。
結局、昨日の夜から一睡もできていない。ただ椅子に座って左右にフラフラと揺れながら、何もせずに夜を見送ってしまった。医者にもらった睡眠導入剤は一度も飲まずに2週間分、引き出しに放り込んであった。iPhoneを点けて時間を見ようと思い机の上に手を伸ばしたが、画面についた手の油脂が窓からの光に反射して青白く光ったので、手を引っ込めた。
 喉がガサガサだ。携帯の横にあったリモコンを手に取り、エアコンを止めた。ピッという音が鳴り、どこかで聞いたことのある女の人の声で『運転を停止します』と部屋の天井らへんに呼びかけているのが聞こえる。リモコンを置こうとした時、液晶画面の上に不器用なデジタル数字で『4:37』と浮いているのが目に入った。
微妙な時間。4時37分なんて絶対に誰も見ていない時間なのに、この時間でもちゃんとサボらずに世界が存在しているということが、奇跡にさえ思える。
 私は椅子から腰を上げて、携帯をポケットに突っ込むと寝室を出た。水が飲みたい。居間へ出る。太った3頭のゴミバケツをどけて棚を開ける。コップは入っていなかった。私は喉でせき止めていた溜め息を鼻から逃し、食器で溢れかえった流しの中からガラスのコップを引っ張り出した。蛇口のレバーを上げる。コップに洗剤をぶっかけて、スポンジを濡らして、こする。頭がぼうっとしている。ちゃんと寝ないからだ。寝れないんだからしょうがないでしょ。だったら医者からもらった薬をちゃんと飲めよ。嫌だよ、おっかない。何考えてんの、このままじゃそのうち死ぬぞ。誰だっていつかは死ぬよ。長生きしたくないのかよ。別にいいよ、歳をとるのは嫌だ。カッコつけんなよ、自殺する勇気もないくせに。
 ピロリン、と携帯の鳴る音が響いて、コップをこする手を止めた。コップと手を水で洗い流して、ポケットから半分だけ引き出して画面をつけると、SNSのアプリが通知を出していた。
『明日は 水野夏美 さんの誕生日です。』
言われなくても覚えてるよ、と息だけで言った。元気にしてるかな、ナツキ。電源を点けたまま、携帯をポケットに押し戻す。蛇口から流れっぱなしの水をコップに汲んで、口をつける。ステンレスの臭う生ぬるい液体が口の中にぬるりと流れ込んでくる。
苦い。
水ってこんなに苦かったっけ。思わず口に含んだ分を流しに吐き出す。だめだこりゃ。本当に、近い内に死ぬかもしれない。死にたがっているくせに、こうやって体に異変が出たりすると、どうしようもなく不安になる。これはまだ私が生きていたいということなんだろうか。それともただの、動物的な本能なのか。
 冷蔵庫を開けて、製氷皿から氷を2欠片取り上げた。冷たい。ずっと持っていたい。でも手が濡れるのが嫌なので、すぐにコップに入れる。冷蔵庫を閉じて、上に立ててある安物のウイスキーの瓶を取った。今日も大学には行けないな。キャップをひねって、片手にコップをとる。瓶の口をコップにつけて、三分の一ぐらいの高さまでとろとろと注ぐ。瓶を戻して片手でキャップを閉めると、その手で蛇口のレバーを上げる。だらだらと水道水が重く流れ出る下にコップをかざし、ウイスキーを水で割る。
 濡れたコップのふちを口に当て、一口飲む。やっぱり、苦い。でもそのまま飲むよりはマシだ。コップを持ったまま、低い机の前に膝を崩して腰を落とす。
ふぅ。
携帯をポケットから引っ張り出して、LINEを開く。ナツキは、まだ寝てるだろうか。『水野夏美』という表示に触って、チャットの画面を開いた。
『誕生日おめでとう』と文字を打ち込んで、手を止めた。デリートキーを押してその文字を消す。
17歳、か。
綺麗な響きだ。17歳という年齢が好きだった。希望と、美しさと、青さと、微妙に諦めの入り混じった歳。他の年齢の響きとは、明らかに違った色の光を持っている。小学6年生の時ぐらいから、私はずっと17歳に憧れていた。でもやっと私が17歳になったら、私が想像していた理想の17歳と私の17歳があまりにも違っていて、なんとなく寝ぼけている間に17歳が終わってしまっていた。
 『天才』と初めて言われたのも、小6の時くらいだった。
そもそも私は、小学一年生のときからずっと、勉強が全くできなかった。今も得意じゃない。算数と社会科が特に嫌いだった。最初、私は『+』と『−』と『×』と『÷』の区別がつかなかった。数字はとてもしなやかで綺麗な形をしているのに、その間に潰れた虫の死骸みたいな計算記号が貼り付いているのがどうしようもなく気持ち悪くて、算数の授業がある日は必ず吐きそうになりながら家に帰った。社会科は、教科書に出てくる時計のキャラクターが夢の中で私の髪の毛をかじって以来、生理的に受け付けなくなってしまった。国語は嫌いではなかったが、声を出すのが嫌いなのに音読をさせられるのが嫌で宿題を出さず、テストの点も悪かった。一番好きだった図工でさえ、先生に言われたものを作ろうとすることができなかったので成績はCだった。ほとんどの授業で、私は異常に緊張して、時には耳を塞いだまま45分をどうにかやり過ごすだけだった。客観的に考えれば、どう見ても私は発達障害のカテゴリに入る子供だった。それでも個別学級に行ったり病院を受診することはなく、ずっとクラス1の劣等生であり続けた。
 そこまで思い返したら母の顔が思い浮かびそうになったので、ため息をして外に出した。
 私は母親を恨んでいる。
母親は、この世の全ての自意識が寄せ集まって実体化したものなんじゃないかと、私は半分信じていた。あの人が私に向けていたのは娘への愛ではなく、自分の所持物に対する支配欲だった。私は母親の人生に飾り付けをするための装飾品の一つだった。私を所有物だと思っていた母は、その所有物が自分の意思に反した動きをすることを激しく嫌った。そんな自分の所有物が、勉強もできず社会にも出られない出来損ないであること自体が、母が私を嫌う理由だった。つまり母は、私が私であったために、私を嫌っていた。私を病院に行かせなかったのも、個別学級に入れなかったのもあの人の見栄だ。自分の娘が出来損ないだと認定されるのが怖いのだ。だから小学生の時は毎日、家に帰れば母親にこっぴどく叱られ、学校にいる間は震えながら縮こまり、どこにも安心できる居場所はなかった。上級生になり、苦痛を頭から切り離す方法を覚えてなんとか人並みの点数が取れるようになった時、私は初めてあの人に褒められた。その時のあの人の、べたっとした笑顔は、思い出すだけでゾッとする。高校二年から一人暮らしを始められたのも、父親がそれを察してくれたからだった。
 母のことを考えるのはやめよう。
 私のことを初めて『天才』と言ったのは名前も知らない人だった。いつかの図工の授業で、確か花壇のチューリップをスケッチさせられた時だったか、その時私は野良猫の絵を描いた。図工が好きだっただけあって、絵はそこそこ得意だった。本当は目の前のチューリップを描かなければいけなかったのに、私は集中できなかった。だから数週間前に学校の敷地に迷い込んできたサビ猫の姿を思い出して、思わずそのまま描きつけたのだった。なぜかその猫の姿が、頭に残っていたのだ。絵の具セットに入っていたはずの青や黄色やピンクの絵の具は誰かに隠されてしまったので、手元に残っていた黒や茶色や白の数色だけで描いた。先生はもう、言った通りのことを私がしないのには慣れていたので今更そのことで怒られはしなかったが、その絵を出した時はいつもと反応が違った。先生は少し目を見開いて、言ったのだ。
『この絵、上手いじゃない。よく描けてるわ。チューリップではないけど。』
初めて学校の先生に褒められたので、私は驚いた。言うことを聞かなくても、褒められることもあるんだなぁ。
 その絵が、区の小学生の図工作品の展示会に出されることになり、夏休みの間、区民会館に飾られていた。しかし、あくまでも『チューリップの絵』のコーナーだったので、私の絵はやっぱり、一枚だけ浮いていた。
 夏休みの途中、父親は仕事に出かけ、母親と二人でいるのが嫌だったので私は家を出て、区民会館へ自分の絵を見に行った。太陽の光線が道路を突き刺し、蝉の声がザーザーと降り注いでくる中を汗をぼたぼたこぼしながら20分くらい歩き、息を切らしながら区民会館のある広場に入った。私は少し呼吸を整えてから、自動ドアを抜けて中に入った。クーラーの冷たい空気が汗を冷やす。天井が高い。少し不安な気持ちになったので、私はお腹の下の方を手でさすった。壁が白くて、床が灰色で、クーラーのブンブン鳴る音が微妙に響いていた。階段やエスカレーターや大きなドアが並んでいた。私はポケットに手を入れて、丸くてすべすべした石ころを握りしめた。隕石、と勝手に名付けていた。それに触ると少しだけ、心が落ち着く。展覧会がやっている部屋はどこだろう。
 私は恐る恐る、入り口の脇の受付に近寄ってみた。カウンターの窓から中をのぞいてみると、おじさんと若い女の人数人が、書類の積み重なった机でパソコンに向かっていた。
「すみません…」
あまり大きな声が出なかったので聞こえているか不安だった。またポケットに手を入れて、隕石があることを確かめた。ピンク色のセーターを着た女の人がこちらに気づいて、少しパソコンを気にしながらも椅子から立ち上がって受付に歩いて来たので、私は半分ほっとした。
「どうしました?」
女の人は少しわざとらしい、甘ったるい声を私にかけた。
「あの、展覧会はどこでやってますか。」
「展覧会?ああ、区の小学校のね。」
女の人はカウンターの横のドアを開けて出てくると、ホールの奥を指差しながら言った。
「奥行って左側の、多目的ホール。一人で見に来たの?」
「私の絵が、あるので。」
「あらそう。ごゆっくりね。」
女の人は声と同じくらい甘ったるい笑顔を私に向けた。私は会釈して、女の人の指差していた方に歩き出した。
 控えめな暖色の照明だけがついていて、多目的ホールは薄暗かった。空気はさらにひんやりしていた。平日の昼間なので、人はほぼいない。静かだ。薄暗いのと静かなのはよく似合う気がする。ただ一人、白髪のおじいさんだけがこちらに背を向けて、中に立っていた。何かの絵の前に立って、それを見つめている。近づくと、おじいさんが眺めているのは私の絵らしかった。私は自分の絵が見たかったのに、おじいさんがいつまでもその前をどかないので、痺れを切らした私は話しかけてみることにした。
「どうしてずっと、それを見てるの?」
おじいさんは驚いた顔で振り向いて、私を見た。大きな四角い眼鏡をかけて、口ひげがもしゃもしゃしている。髭の下の口をモゴモゴと動かして、おじいさんは言った。
「ちょっと、この絵が気になってね。」
おじいさんは半歩横にずれて、私の絵を手で示した。私は言った。
「それ、私の絵。」
「はぁ、君のか。」
おじいさんはまた目を丸くした。そして少し屈んで、私に聞いた。
「君は、どうしてこの猫を描こうと思った?」
なぜ、そんなことを聞くんだろう。誰だ、この人は。私はポケットに手を伸ばしながら少しぶっきらぼうに答えた。
「だって、気になったから。」
「でも、これはチューリップを描く時間だったんだろう?」
「描きたくないんだもん、チューリップなんて。絵って、描きたいものを描くものでしょ…?」
私は少し不安になった。もしかして、このおじいさんは先生の言うことを聞かない私に腹を立てているんだろうか。
「はぁ…。」
おじいさんは浅くうなずいて、また絵に視線を戻した。
「上手いなぁ。色がいいな、色が。工夫しただろう?」
「別に。カラフルな色の絵の具は、全部取られちゃったから。」
「取られた?」
「うん。まぁしょうがないんだけどね。出来損ないらしいし、私。」
「はぁ、それは…」
おじいさんは何かモゴモゴ言いながら絵に向き直って、しばらくじっと見つめていた。ひとしきりモゴモゴ言ってから、おじいさんは少しいづらそうに振り返って、私の目線に屈んで口ひげを動かしながら言った。
「君はな、出来損ないなんかじゃないぞ。天才なんだ。だからみんながついてこれないんだ。」
「天才じゃないよ、勉強できないし。」
「勉強ができるのは天才じゃなくて秀才だよ。天才っていうのはな、得てして勉強は苦手なもんなんだ。なんとかって言う発明家もそうでね…」
おじいさんはそうモゴモゴと言いながら立ち上がり、気まずそうに展示室の外へ歩いて出て行った。私は改めて、自分で描いた猫を見上げた。

 このエピソードで私が好きなのは、このおじいさんが画家でも小説家でもなく、そしておそらく芸術に関してもほとんど造詣が深くない、ただの近所のおじいさんだったことだ。この手のエピソードは、フィクションでは大体、『実はそのおじいさんは有名な画家で…』といった展開が多いが、そのおじいさんは本当に、区に住んでる一人暮らしの、ただのおじいさんだった。そのあとすぐに亡くなった、などということもなく、まだ同じ街で暮らしていて、コンビニで遭遇したこともある。覚えられてはいなかったけど。とにかくそれは、暇な老人が、かわいそうな小学生を少しでも元気づけるために言った、切ないデマカセだったのだ。でも実際、そのデマカセが私にちょっとは影響を与えたわけで、私は、多分そっちの方がフィクションに出てくるようなエピソードよりもよっぽど劇的で、奇跡みたいだと思うのだ。こっちの方がよっぽど、生きている。
 世界が輪郭をはっきりさせ始めた。私は、もう一度、ため息をついた。そして、手元の携帯に目を下ろして、現実世界に帰ってきた。
画面に視野が定まる。そうだ、誕生日。
画面に浮いたテンキーに指を滑らせて、文字を打つ。
『青春しろよ、少年。』
送信ボタンが押せない。
ため息をつく。そのまま電源を切って、机の上に放り出した。
コップを口に当て首ごと後ろに傾けて、中の液体を飲み干す。体を戻して、コップを机に置く。内側で2つの氷がくるくると滑り回った。底にうっすらと、麦色がかった液体が膜のようにはりついていた。
 私はゆっくりと後ろに転がるように倒れて、腕を広げた。
ナツキ、元気かな。
高校にいる間は、お互いに物語を書いて見せ合ったり、二人でご飯を食べに行ったり、夏からは時間ができる度に私の家や海辺で遊んだりしてとても仲良く付き合っていたのに、私が卒業してからは一度も会っていない。
 最初にナツキの書いた文章を読んだ時、私は何か、むず痒いような気持ちになった。だって、なんだか昔の私みたいに思えたのだ。青臭くて、懐かしくて、私はニヤニヤしながら4回もそれを読み返してしまった。
 あの子は、私のことを心から尊敬してくれていた。
先輩を尊敬する、というと普通のことに思えるが、人を心の底から尊敬するのは、実はとても難しいことなのだということを、私は知っていた。少なくとも私は、全面的に人を尊敬したことは一度もない。全てにおいて自分よりも優れている人の存在を認めてしまえば、多分私は自分を保つことができないだろう。だから自分の世界を作って、そこに逃げ込む。そこに隠れて暮らすのだ。だからこそ、私になんの疑いもなく透明な視線を投げかけてくるナツキが、何よりも尊く感じた。そしてその透明さを、絶対に曇らせてはいけないと思った。
 2歳差、というのも絶妙だ。同じ部活に居られるのは1年間だけ。私にとっては最後の、ナツキにとっては最初の1年間を、一緒に過ごすわけだ。だから私は、しつこいぐらいに、あの子をいろんなところへ連れ出した。あの子の何よりも貴重な透明さを守り、研ぎ澄まし続ける方法を、あの子に身につけさせなければいけないと思った。
 卒業してから会っていないのも、ある意味では、そのためだ。私の荒みきった生活を、見て欲しくない。
 私は小説が書けない。
高校を卒業してから、一文字も、書いてない。
自業自得だ。ズルしたのが悪いんだ。
そもそも、『350mlの空っぽ』を、コンテストなんかに応募したのが間違いだった。あれが賞をとって、20万円をもらって、成績が足りないのに文学部の内部推薦をもらって、行きたくなかったはずの大学に行った。
 私は賞を取ったこと自体を後悔している訳ではなかった。コンテストで賞を取ったり、たくさんの人に人気があって売れていたり作品を読みもせずに嫌う人もいるけど、むしろ私はそう言う考え方は嫌いだった。もちろん、売れているものがすべていい作品な訳ではない。だけど、それらの作品と差をつけるためだけにあからさまに奇をてらったり、奇抜な方法論に固執するのも、同じくらい間違ってる。創作の世界ではありとあらゆるところで『人とは違うものが作りたい』という言葉が飛び交っている。でもそれは正しいようで、実は間違ってると思うのだ。『人と違うものを作る』こと自体をゴールにしてはいけないと私は思っていた。奇抜な文体、新しい表現、今までにない世界観、そういうものはあくまでも何かを表現するための手段で、要は道具だ。ストーリーも文体も、というか『ジャンル』とか、そもそもの『小説』というもの自体も、何かを表現するための道具に過ぎないのだ。その道具を使うこと自体をゴールにしてしまったら、結局何も生まれない。ノコギリを使うために家を建てる人はいない。ノコギリを使うこと自体を目的にしてしまったら、ただたくさんの木切れと木屑が残るだけ。
小説は、創作のはずだ。創作は、表現のはずだ。自己表現だ。感情の表現だ。私の感情は、私にしかない。それを表現すれば、わざわざ人と違うことをしようとしなくたって、それは私にしか書けない文章になるのだ。私が喋る時、私はどこかの誰かと同じ言葉を使っているかもしれないけど、そうだとしても、その言葉は私の中のものを吐き出すために私の記憶の中から掘り起こされて、私の喉を通って私の声で出てくるのだ。ただのそれだけなのに、誰もそのことに気づけてないのが、私はただただ不思議だった。
 だから私は、売れているものはダメだという考え方が嫌いだった。本当に、人間の感情をそのままに近い形で描き出した作品は、時間はかかるかもしれないけど必ず人を惹きつけるし、そういう作品はいずれたくさんに人に読まれる。もちろん、芸術性と大衆性はかみ合わないこともある。でも私は、もしも感情というものを完璧に、それを読んだ人がその感覚を追体験してしまうくらいに完璧に描き出してしまうような、そういう本当の意味で『良い』作品が書かれたら、それはもう大衆性とか芸術性とかそういうものの壁をぶち壊して、無条件に、有無も言わさずにありとあらゆる人を惹きつけてしまうんじゃないかと思っていた。それこそが、本当の意味での共感のはずだし、それこそが本当の意味での感情移入だから。だから私は、ただそういうものを目指して書き続けていればいいはずだった。
 『350mlの空っぽ』を書き上げた時、私はそういう作品を作れたんじゃないかと思った。ナツキも『引きずり込まれた』と言ってくれた。だからコンテストに出そうと思ったのだ。もし成功していたら、きっと賞を取る。それを確かめるために応募した。だから受賞が決まったというメールを読んだ時、素直に嬉しかった。
 でも賞状と一緒に賞金の小切手の入った賞金袋を受け取った時、なぜか私は、初めて母親に褒められた時のことを思い出してしまった。
あの人の、べたぁっとした笑顔。
私の中にいる、母親の遺伝子を持った細胞が、手に持った賞状と小切手に反応しているみたいだった。首筋がぞわっと震えた。そしてもう半分の細胞は全力でそれを拒絶していた。
 どうしてなのかは分からなかった。でもそれ以来、私は小説を書くことが怖くなってしまった。ペンを持って原稿用紙に向かった瞬間、母親の顔が浮かぶ。あの笑顔。あの感覚。
 私は、周りにある余計なものすべてから抜け出せているような気がしていた。余計なかさばるドグマとか、絡まった糸くずみたいな理論とか、感情と噛み合わない理性とか、そういうものが目の前にはっきりと現れるたびに私は自分の世界の額縁を外して外側へ抜け出していた。そうしているつもりだった。それなのに私は、一番最初に抜け出したかった母親の呪縛に、まだ縛られている。あの人の笑顔が思い浮かぶたびに、私が胸の中の結晶みたいなものを削りながらしてきたこと全て無駄だったような気持ちになる。胸の中にどす黒い色の冷たい液体がどっと流れ込んでくるみたいだった。それが全てを真っ黒に塗りつぶして、沈めてしまった。
私は、何も書けない。
 私みたいな人種は、常に、たとえどんなに興奮する状況にあっても、一定の量の憂鬱を心に抱えている。私が今までそれに飲まれなかったのは、自分の感性がそれを傍観できることを知っていたからだった。空気が濁ってきたときはいつだって私は外に出て新鮮な空気を吸うことができたはずだった。でも私は、まだ母親のかけらから逃れられていない。だって、それは私の中にあるから。私はそれに絶望した。そして、感性に押しのけられていた憂鬱と不安が、私の中でじわじわと広がり始めた。
 それから段々と、私はそれに支配され始めた。元からいびつでヒビだらけな私の中で、それはじわじわとしみ込んで広がっていっていた。高校の時から時々、そういう気分にとらわれることはあったけど、それでも、小説は書けた。小説を書くのがしんどくても、アイデアをひねり出したり、絵を描いてみたりすることはできた。でも今、私は何もできていない。私の中にみなぎっていたはずのエネルギーに、それが蓋をしてしまった。自力ではとても開けられそうになかった。
 ナツキは、元気かな。ちゃんと、透明なまま生きているだろうか。私みたいに、濁ってしまわないだろうか。
私はため息をついて、携帯を手に取った。画面をつけて、消して、またつけて、消して。
『明日は 水野夏美 さんの誕生日です。』
水野、夏美。
「…いい名前。」
私は携帯を切って、ポケットに押し込んだ。

 5、4、3、2、1。
「けんぱーい。」
ハイボールの缶を、窓の外に突き出した。『2015年 9月1日 0:00』と表示された携帯のあかりを切って、寝間着の左のポケットに親指で押し込む。
夏が終わった。また私は一年間、じっと耐えなければならない。
 蚊が入るので窓を閉めて、黄ばんだプラスチックのリモコンを机から拾い上げる。ボタンを押すと、エアコンが何か喋ってから冷たい空気を垂れ流し始めた。
「さて。」
夏が終わった。もう何も言い訳できない。新しい小説を全く書けていないことも、ほとんど大学へ行っていないことも、この憂鬱も、もう何も美しくない。
「どうしようかなぁ。」
壁がしんと鳴っただけで、誰も返事をしなかった。誰もいないからだ。蛍光灯が小さくビリビリと鳴っている。エアコンが低い声でうなっている。
私は体を床に投げ出した。猫の絵が一瞬目に入ったが無視した。あの猫も、私に返事をしたりはしない。結局、あれ以降一度も学校には来なかったし。
「ここは天国じゃないんだ〜」
私は寝っ転がって、蛍光灯を見ながら歌い出してみた。
「かといって地獄でもない〜」
いい奴ばかりじゃないけど、悪い奴ばかりでもない。
なんの曲だっけ、これ。ブルハか。なんだっていいや。
胸のあたりがなんとなく、ぞわぞわとした。
あぁ、いま私、最高に醜いな。
何かに謝りたいような気持ちになって、私は上体を起こした。
 だって、本当に夏が好きなのだ。
これはもう、どうしようもなかった。なぜここまで夏が好きなのか、自分でも分からない。でも夏の間は、本当に何もかもが美しく見えて、夏のことを考えるだけで心臓がぎゅうっと押しつぶされるような気持ちになる。青く光るアスファルトの道路とか、学校へ行くために乗る電車の中の空気とか、日向からビルの隙間に入った時の不思議な温度差と薄暗さとか、急に降ってくる砂利みたいな大粒の雨とか、あとそれから、悔しいけど、痛いほど透き通った青空とか、海とか、そういう恥ずかしいくらいベタなものとかも含めてもうとにかく何もかもが美しいのだ。眩しいのだ。白いふわふわした服を着て横断歩道を渡っている女の人や、暑さにバテて電車の中でだらしなく溶けて寝てるスーツの人とか、見かける人も誰もかれもが夏というキラキラした、神々しい何かの一部であるように見えて、ひどく愛おしく思えるのだった。そして私自身もーーこんな出来損ないで、ひねくれてて、見栄っ張りで、ナルシストで、社会から拒絶された、こんな私でさえも、少しだけ、美しいように思えた。世界とつながる資格があるように思えた。
でもなぁ。
私は諦めて、息を吐きながら上半身を起こした。
去年までが、楽しすぎたんだ。
去年の夏、初めてここに来た時のナツキの姿が机の向かい側に浮かんだ。
『ずっと映画部の3年生で、ずっと今年でいいじゃないですか!ずっとみんなで獏ゲームやってれば、幸せじゃないですか!なんで時間って流れるんですか。おかしくないですか。どうかしてますよ、こんなの。どうかしてる、本当に…』
どうかしてる。ナツキはそう何度も何度も叫んでいた。
そう、確かに、どうかしてる。でも一番どうかしてるのは、きっとナツキだ。私のために涙を流すなんて、そんな人、ナツキや結城ぐらいだ。
 ナツキや結城は、私が苦しんでいると思っていた。確かに、ものすごく苦しかった。今ももっと苦しい。でも苦しいのはずっとだ。自我が芽生えてから今まで私は常に苦しんでいるから、あの頃わざわざそんなことを気にしたりはしていなかった。むしろ私は、本当に、ありえないくらい幸せだと感じていた。私なんかのために、ああして泣いたり、お酒の缶を見つけて怒ったりしてくれる人がいて、本当に、全身が溶け落ちそうなぐらい幸せだと思ったのだ。ナツキが、結城が、私を受け入れてくれる映画部が、本当に、この狭い胸の中には収まりきらないぐらい、愛おしかった。
 あの頃の世界は確かに、どうかしていた。私みたいな人間が、あれだけ幸せになれるなんて、どうかしていた。私はどうやったって社会に入れるような人間にはなれないし、だからそうやって世界が私を拒絶するなら、私も世界を拒絶しなければいけないはずだった。でもあの頃、世界は、確かに私を受け入れていた。思いっきり隅っこの、廃ビルの隙間みたいなところではあったけど、確かに私は、世界の中にいた。映画部という社会の、ナツキや結城の見る世界の中に、私はいた。この世にいる人間の中で一番尊い二人の世界の中にいられたのだ。二人の人生の中に、映り込んでいた。それまでそんなことが私に許されていたなんて、全く考えたこともなかった。
 私は世界が嫌いなわけではなかった。むしろ私はずっとこの世界が大好きだった。ほとんど愛してさえいた。だからこそ、この世界にいる人たちの中に自分が入っていいとはとても思えなかった。私の苦しみの根源は多分、そこにあった。小さい時、私は自分が宇宙人だと思っていた。それはよくある子供の妄想なんかじゃなく、本気でそう考えていた。自分がこの星の人間だとは、とても思えなかったから。
 私は缶を口につけた。唇の熱を、冷めたアルミが少し吸い取った。上を向いて、ハイボールの残りを一気に飲み干す。
「ふぅ。」
グッドバイ、地球人たち。フォースと共にあれ。私はもうしばらくしたら、星に帰らなきゃいけない。
机の向かい側で泣いている、去年のナツキが言った。
『茉理さん、もうやめてください。書き物とか、創作とかもう、全部やめてください。私が守るから、生きててください、ずっと。』
ありがとう、ナツキ。でもそれをやめたら、私は死んじゃうんだよ。知ってるでしょ。去年の私が立ち上がって、ナツキを抱きしめた。
窓に映る青が明るくなって来た。
「さて。」
夏が終わった。夜が長くなる。私の時代だ。
私は机の下でへばっていた原稿用紙の束を引っ張り出して、机の上に叩きつけるように置いた。ぱしり、という鋭い音がして、冷めて締まった空気に突き刺さった。紙の山から鉛筆の箱を掘り出す。ふたを開いて、綺麗に並んだ断面の中から一本を抜き出す。また紙をぐしゃぐしゃとどかして鉛筆削りを掘り出すと、私は鉛筆を丁寧にセットしてハンドルを回し始めた。ごりごりという音が骨伝いに響いてきた。そうだ。私は、こうやって、尖らせてきた。削ってきた。これで最後にしよう。何もかも、吐き出してしまおう。
 手応えが薄くなったので、鉛筆を削り器から引き抜いた。尖りすぎた鉛筆の先を、古紙の裏に押し付けて潰す。私は原稿用紙の束に向き合って、一番右の行にタイトルを書き込んだ。
 エアコンの風が原稿用紙を煽ってきた。私は鉛筆を置いて、ポケットに手を入れると丸くてすべすべした石を取り出した。手のひらに乗せると、少しひんやりしていて手の熱を吸い取るようだった。私はそれを原稿用紙の隅に乗せて、再び鉛筆を握った。

2017年10月9日公開

作品集『ナツキ』第16話 (全20話)

© 2017 ムジナ

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