ナツキ B

ナツキ(第2話)

ムジナ

小説

8,313文字

本当は、これが、青春なんです。
高校3年の夏休み。だらだらと、重苦しく流れていく時間。空っぽな夏を埋めたい、ただそれだけ。ほとんど活動していない映画部で、私は映画を作り始めた。必死になってみたかった、誰かみたいに。
空の底でもがく、2つの世代のくすんだ青春。
回っていく、映画のフィルムのようにからからと、小説のページのように、ぱらぱらと。

目を開けた。ぬるい、湿った空気が充満しているのを感じる。ちょっと顔をしかめてゆっくりと、机の上でどろりとと溶けている上半身を引き上げた。
あと3日過ごせば夏休みだっていうのに、私はどうしてちゃんと起きていられないんだろう。両腕を返して控えめに伸びをした。教室のむくんだ空気が肺胞に沁みてくる。湿度が高い。ため息から湯気が出そうだ。少し息苦しく感じて、窓を開けようと左を向いたら、くすんだガラスに映った私の白い顔が見えた。
席が一番後ろで良かった。いや、むしろ前の方がよかったかも。後ろだと寝ちゃって授業が入ってこない。学年を重ねるごとに成績が少しづつ落ちてきて、両親にもこの前くぎを刺されたばかりだっていうのに、どうしても居眠りしてしまう。
疲れが溜まってるせいかな。
私は小さくため息をついた。疲れるほどのこともしてないけど、と声に出さずにつぶやく。部活も所詮映画部だし、習い事もなければ塾にも通っていない。去年までやっていたパン屋のアルバイトも、四月に辞めてしまった。放課後なんて毎日暇だ。なのになぜか毎晩、することもないのに1時半くらいまで起きている。だから疲れが取れないんだ。早く寝ようと思ってはいるのに、だらだらしていて気づくと1時とか2時とかになっている。
ダメだなぁ。なんで、自分の思った通りに動けないんだろう。
普通に毎日生活しているだけなのに、体が、あるいは心が、重く感じる。四月くらいからずっとこうだった。何もできていない。
あと3日。いや、この授業が終われば、あと2日。夏休みになれば、きっとなんだってできるようになるはずだ。頭の中で自分にたらたらと言い聞かせる。教室の壁に響かないようにため息をついた。私は左腕で頬杖をついて、湿って重くなった時間がだらだらと流れていく音を、ぼんやりと聴いていた。

授業が終わって数分経ってから、チャイムは鳴った。周りの席の人たちがそそくさと帰り支度を終わらせて廊下に出て行くのを横目に、私はのろのろと水色のシャープペンを黒の筆箱にしまっていた。その筆箱を、くすんだ紺色の通学かばんに入れる。
マトリョーシカみたいだ。
寝起きでぼやけた頭でふと思った。
シャープペンが筆箱の中に入ってて、筆箱はかばんの中にあって、そのかばんは私の持ち物で、私は−
そこでちょっと、考えが立ち止まった。
私も、何かの中にいるような気がする。
毎日がなんとなく窮屈なのは、そのせいに違いない。
廊下のがやがやは教室に残っている人たちにも伝播していた。窓の外から聞こえる蝉の気だるい絶叫と重なって、私の周りをノイズの膜が揺れていた。
がやがやがやがやがやがや。
がやがや鈴木がやがやがやレポートがやがやがやが扇風機がやがや。
がやがやがや映画がやがや。
思わず声の方を向いた。男子数人が大声で何か話していた。
映画。何か思い出さなければいけないような気がする。
頭の中で映画という単語をほじくり返す。映画、映画…。
あ。
映画部。
そうだ、今日は映画部の活動があるんだった。あまりに不定期な活動だから忘れそうになってしまう。映画の話をしてくれた誰かに少し感謝しながら、私はよれたかばんの持ち手をつかんで立ち上がり、開けっ放しのドアからのろのろと教室を出た。

「うーん…夏休みどうする?活動する?」
冷房の真下の席に座っている、部長の杉山が言った。男子のくせに私よりもさらさらな髪の毛が、冷房の風と絡んで目の上でふわふわと揺れていた。
「活動っていっても映画観るだけですもんねー。」
扇風機を背にして座っている悠里が頬杖をついたまま言った。左手で下顎が固定されているから喋るたびに頭がカクカク動いて、その度に淡いピンク色のシュシュで束ねたポニーテールがゆさゆさと揺れるのが見ていて少し面白かった。シュシュと同じ色のカバーのついたスマホをいじりながら、悠里はカクカクと続けた。
「私はどっちでもいいですけど。夏美さんは?」
「私?」
突然自分の名前が出たのでちょっとビクッとした。
「うーん…どっちでもいい、かなぁ…」
「はっきりしてくれよ。」
杉山が細い体をパイプ椅子の背もたれに投げ出しながら言った。私は聞いてみた。
「そう言う杉山はどうなの。」
杉山は上を向いたまま答えた。
「俺は何回か集まって映画観たいけど。夏休み、長いし。9月の…4日までだっけ?丸2ヶ月近くあるから、何もしないのはさすがに。」
「あ、夏だからって去年みたいにホラーは無しですよ。私ほんと無理だから。」
頬杖をついたまま眠そうに言う悠里は暑さで溶けかけたアイスクリームのようだった。
杉山は少し困ったような顔をして体を起こした。ちょっと腕を組んで考える仕草をしてから、また投げやりに背もたれに倒れながら呼びかけた。
「いーちねーんせーい。」
部室に散らかったDVDの整理をしていた、5人の1年生部員が振り向いた。頼んでもいないのに、いい子達だ。
杉山は続けた。
「活動したい?夏休み。なんか観たい映画とか、ある?」
一年生たちは顔を見合わせながら少しどぎまぎと小声で話し合い始めた。活動が少ないのもあって、まだ私たちはあんまり一年生と打ち解けられていなかった。
5人の誰かが小さい声で、どっちでもいいです、と言ったのが聞こえた。
杉山はふっと息だけで軽く笑った。少しうーんと考えたあと、諦めたように、
「じゃあまぁ、4回くらい入れとくか。参加自由ってことで。それでいいよね。」
と部室にいる7人を見渡しながら言って、少し折れ曲がった活動予定表を書き入れはじめた。
私はふと気が付いて、私は悠里に話しかけた。
「ねぇ、きょう玲ちゃんは?」
「あー、今日学校来てないんですよ。熱あるらしくて。」
悠里は大きな目でちょろっと上の方を振り返るようにしながら言った。
「あらら。大丈夫かな?」
「夏風邪だって、電話では言ってましたけど。」
「そっか。」
「そういえば、早川ってときどき体調崩すよな。」
パイプ椅子をゆらゆらしながら杉山が口を挟んだ。予定表を書きながらでも、周りの会話は聞こえているらしい。一つのことにしか注意を向けられない私には出来ない芸当だ。
「体弱いんですよあの子。小学校の時はあんまり学校にも来てなかったし。」
「え、悠里って、玲ちゃんと同じ小学校だったの?」
私は少し驚いた。聞いたことがない話だ。
「夏美さん、知らなかったんですか?」
私は頷いた。
「小学校どころか幼稚園から一緒で。」
「へぇー知らなかった。」
新しい学校に入る時、元から知っている人がいたら、かなり心強いだろうな。
「私この学校で前から知ってる人全然いないからなぁ。」
「私も玲ちゃんだけですよ。前から仲良いってわけでもなかったし。」
私はちょっと悠里の顔に目を向けた。
「じゃあ、高校入ってから仲良くなったの?」
悠里はちょっと考えるように目をきょろっと回しながら答えた。
「んー、っていうか、高校入るまで、そもそもそんなに顔合わせてなかったかなぁ。クラスも1回くらいしか合わなかったし、玲ちゃん中学にも数回ぐらいしか来てなかったから。それでもちゃんと受験勉強してたんだから偉いなー。」
「そうだったんだ。」
不登校、っていう事になるんだろうか。
私は月曜日が来るたびに学校に行きたくないと強く思うけど、病気でずっと来られないとなると、行きたいと思ったりするんだろうか。
かちゃかちゃという音がしたのでそちらを見ると、杉山が活動予定表を書き終わったらしく、椅子を揺らすのをやめてボールペンを筆箱にしまっていた。筆箱のチャックを丁寧に閉めながら、杉山が言った。
「じゃあ、部室の片付けしなきゃ。」
「えーめんどくさい。」
悠里がさっきよりもさらに溶け出しそうな体勢で机に貼り付いた。
杉山がまた苦笑した。
「夏休み前日に部室点検があるんだよ。それまでに片付いてないとヤバいから。」
「私昨日徹夜でレポート書いてたんですよ?眠すぎて死ぬ…」
悠里は淡いピンク色のシュシュを外して、頭を軽く左右に振った。外したシュシュを左手首にはめると、悠里はそのままつっぷして、寝る体勢に入ってしまった。私は杉山と顔を見合わせて曖昧に微笑んでから、立ち上がって棚の整理に取り掛かることにした。
DVDは1年生がだいぶ片付けていてくれたので、私と杉山はしばらく、黙々と本や雑誌の背表紙をなぞっていた。
意外と面白いというか、なんか落ち着くな、この作業。部室の乾いた静けさを、雑誌がこすれるカサカサという音や、本を棚に入れた時のトタンという振動が彩っている。私の目の前の映画の雑誌は去年の六月号までしかなかった。廃刊かな。
「ねぇ、水野。」
急に杉山の声がしたので、私は少しびっくりして古い雑誌を持つ手を止めた。
「なに?」
見ると杉山は棚の前に立って、中にあった映画雑誌をパラパラとめくっていた。ページに目を落としたまま、杉山は言った。
「夏休みの部活でさ、観たい映画とかある?」
「え?うーん…」
観たい映画。観たい映画。私は散らかった頭のなかをごちゃごちゃとかき回した。たくさんあった気がする。こういう時に限ってどうして出てこないんだ。何かあったのに。思い出そうとして、頭の中で観たい映画、観たい映画と何度も繰り返し唱える。唱えれば思い出せるんだろうか。思い出すってそもそも、どうやってやるんだっけ。
杉山の視線を感じたので、私は諦めて顔を上げた。
「…なんでもいい、かな。」
私はさっきと同じ顔で曖昧に微笑んだ。
「なんでもって言われてもなぁー。」
杉山はあくびみたいな声で嘆くように言うと、雑誌をたたんで棚に戻した。
「俺もなんでもいいんだよね。水野、映画詳しいし、何本か選んでよ。」
「えっ、私が?」
思ったより大きい声が出てしまって、それにまたびっくりして、私は声のトーンを下げた。
「いや、私は全然だし…杉山だって映画、すごい詳しいじゃん。」
杉山は少し下を向いて、小さく笑った。
「俺は適当に、気になったの借りてるだけだから。音楽の二の次だし。」
「とか言っておきながら、部長やってるじゃん。」
「まぁ、一応。」
杉山は雑誌に顔を近づけた。
窓から日射しが突き通って、杉山が逆光になっていた。元から色素の薄いサラッとした髪の毛は、光に透けて赤茶色に光っていた。
何しててもサマになるなぁ、杉山は。ちょっと羨ましくなった。
「そういえばさ。」
私はふと、前から疑問に思っていたことを口に出した。
「杉山って、どうして軽音部入らなかったの?楽器、上手いのに。去年文化祭出てたじゃん。」
「軽音部ねぇ。」
パタン、と杉山が雑誌を閉じる音の乾いた振動が、湿った空気の中に軽く響いた。
「あんまり趣味合う人がいなくて。俺の好みが偏ってるからだけど。」
「偏ってるって?」
「軽音部でやってるような、なんていうか、そういう曲があんまり好きじゃなくて。」
杉山は雑誌を棚に差し戻した。
「そうなんだ。」
なんとなく、分かるような気がした。
いつもどんな音楽聴いてるの、とも聞いてみたかったけど、今はやめておくことにした。聞いたとしても、たぶん私には分からない名前が出てくるだろうとも思った。
会話が途切れて、私たちは棚の整理に戻った。右手と左手が雑誌の背表紙を番号の順に入れ替えていくのを、ピントを合わせずに私の頭は眺めていた。
夏休みかぁ。
お母さんがお父さんの転勤先に行くから、夏休みの間は一人で生活できる。それは楽しみだった。
楽しみだけど、なぜか少し、気分が重いような気もした。
何すればいいんだろう、一人で。
「あの、水野先輩?」
「はい?」
後ろから声がして、私は我に返った。振り返ると、1年生の植山さんが立っていた。
「あの、これ、向こうの箱の中に入ってたんですけど。どこにしまえばいいですかね?」
植山さんはそう言って、手に持った白い冊子のようなものを差し出した。
「うん?何だろう、これ。」
たくさんのA4のコピー用紙で作った冊子のような物だった。私はそれを両手でそっと受け取った。けっこう分厚くて、植山さんが手を離すと同時に向こう側が重さでずるりと垂れ下がった。少し手がぐらつく。
戻してよく見てみるとそれはだいぶしわついていて、灰色にくすんでいた。
「何、それ。」
杉山が右から覗き込んで来た。
私は、それを適当に真ん中あたりで開いてみた。
「…台本?」
「だね。」
それぞれのページは狭い左側と広い右側にまっすぐな線で区切られていて、左側には「中山」とか「木田」とか、人の名前がまばらに書いてある。それに合わせて右側には鉤括弧で挟まれた文章が連ねられていた。そのうちのいくつかは赤のボールペンで線を引かれたり、余白になにか書き足したりされていた。
「何のだろう?」
私は杉山を振り返った。杉山はページを覗き込んだまま言った。
「さぁ…ここにあったってことは何かの映画のなんだろうけど。」
ちょっと貸して、と言われたので私はそれを杉山に手渡した。杉山はそれをパラパラとめくりながらしばらく眺めていた。私と植山さんはなんとなく視線を浮かせながらしばらく待っていた。
植山さんと話すの、入部説明の時以来だ。ちょっと顔を見ると、植山さんは足元あたりでちらちらと視線をふらつかせていた。
この子達、ついこの前まで中学生だったんだ。私の中学時代なんて、もう別な世界の出来事のような気さえする。
どんな映画が好きなの、と声に出そうと思った時、杉山が視線をページに向けたまま言った。
「自主制作、かもね。」
「自主制作?」
私は杉山の方を向いて、もう一度植山さんの方を振り返った。一瞬目が合って、とっさにまた杉山のほうに視線を戻してしまった。
「映画部で作った、オリジナルの映画っぽいよ。」
杉山は最後のページを開いて、ほら、と指し示した。見開きのページの真ん中に、水性ペンのくすんだインクで「17th明高映画部」と、何重かに重ね書きされていて、周りにいろんな筆跡で、ばらばらな向きで短い文章と名前が書き殴られていた。寄せ書きのようだった。楽しかったですとか、来年も作りたいとか、踊った文字でばらばらに書かれていた。
なんとなく、胸の中がひきしめられたような感じがした。
「こんなの作ってたんですねぇ…」
植山さんが細い声で、つぶやくように言った。
「ね。私も知らなかった。」
私が言うと、植山さんがうなずいた。
いつのなんだろう、と、誰に聞くともなしに声に出したら、杉山がそれに答えた。
「5年前とか、多分。確か俺らが22代のはずだから。あれ、21だったかな。」
「あ、じゃあ意外と最近なんだね。」
「うん。」
杉山は台本を閉じて私に返した。植山さんが言った。
「もしかしたら、DVDとか残ってるかもしれないですね。」
「そうね。今度探してみようか。見てみたいし。」
と言うと、植山さんは少しほどけた表情になってうなずいた。

片付けが終わったのは5時過ぎだった。ちょうどだいたいのものが片付いた頃に、悠里が機嫌の悪い三毛猫みたいに唸りながら起きてきた。植山さんは他の一年生のところに戻ってDVDの整理を仕上げていた。
夕方5時になるとチャイムが鳴る。部室が片付いたのはちょうどそのタイミングだった。部室の壁掛け時計はずっと前から壊れていて、6時50分くらいを指したまま力尽きていた。
「意外と広いんですねー部室って。」
悠里が、いつもならぱっちりと開いている厚めの瞼を半分くらいずり下ろしたままぼーっと言った。私もそう思った。床に散らばっていた段ボールやDVDを片付けるだけで、急に部室がよそよそしく感じられる。
テレビとデッキの載った、壁際のスタンド。壁の上の方にはなぜか古そうな神棚がついている。さすがにそこまで掃除する時間はなく、埃をかぶったままだった。スタンドの脇にはいつもは床に散らばっているトトロのクッションや緑色のバランスボール、水色のヨガマットがまとめられていた。あのヨガマット、床に座って観る時には使うけど、ボロボロで服にくずが付く。部費で買い替えられないのかな。
広く感じるのは床がすっきりしているからなんだろうと気付いた。机も真ん中と窓際に集められていた。私はすることがない。何か少し申し訳ないような、重心の安定しない気持ちになってくる。杉山は腕を組んだまま回転椅子に座ってゆらゆらしていた。私は寄せ集められた6脚の机の周りをふらふらと歩き回ることにした。

1年生の男子3人がゴミ捨てから帰ってきたので、解散になった。
お疲れさまです、とかありがとうございました、とか言いながら、1年生がぞろぞろとドアに向かって行った。先頭の男子がドアに手をかけ、しばらくがたがたと鳴らしてからようやくドアはスライドして、1年生たちはもう一度、ありがとうございましたと言いながら廊下へ出て行った。
私は悠里に声をかけた。
「悠里、帰る?」
「あ、私きょうバイトでーす。」
「あ、そっか。水曜だもんね。」
「そうですそうです。行きたくないなー…」
悠里はのろのろと通学かばんを肩にかけると、おつかれさまでしたーと間延びした声で言って、開けたままのドアから出て行った。
急に部室が静かになった。廊下から、歩いて行く悠里の足音が、ぺたん、ぺたんとゆっくりした隙間を開けながら響いてきた。
私もそろそろ帰ろうかな。帰ったところでする事もないけど。
杉山は帰らないのかな、と思って椅子の方を見たら、腕を組んで座ったままうとうとと揺れていた。私は少し迷ってから、立ち上がって近付き、杉山の肩を軽く揺すった。思ったよりも肩が薄くて軽かったので、激しく揺すったら壊れてしまいそうだと思った。
悠里と違って杉山は静かに目を覚ましたが、しばらくそのままぼうっと前の方を見つめていた。
「杉山?帰んないの?」
杉山はゆっくり私の顔を見上げた。3秒くらいそのままだったが、ようやく状況を把握したらしく、
「…いま何時?」
といつもよりしっとりした声で聞いてきた。私はスマホの画面をつけた。
「5時10分。」
それを聞いた杉山は大きく伸びをして、ふうっと息を吐いた。それでだいぶ目が覚めたらしく、今度はいつも通りのトーンで、
「みんなもう帰っちゃったのか。」
と言った。私が頷くと杉山は聞いた。
「水野は、帰らないの?」
さっき私が杉山に言ったことだ。いま帰るとこ、と言ったら、そっか、と言われた。
「俺も鍵閉めて帰る。」
杉山は筆箱をキナリ色のトートバッグにしまい、机の上に置いてあった鍵を持つと歩いて部室を出た。私もそれに続いた。
廊下に出ると、部室棟は静かだった。外ではまだセミの声が絶え間なくしゃらしゃらと震えていたが、窓のしまった部室棟の廊下では、それが遠くにくぐもって聞こえた。クーラーがついていない廊下は蒸し暑くて、ワイシャツが湿ってしまいそうな気がした。
杉山は部室のドアを閉めると、緑色の札のついた鍵を鍵穴に差しこんで、回した。ガシャリ、という重い音が静かな部室棟の廊下でやたらに響いた。
「じゃあね、俺これ返却してくるから。」
「うん、お疲れ。」
杉山が薄暗い廊下を早足で進んでいった。私はひとつ深いあくびをしてから、同じ廊下の反対側へ、のろのろと足を動かし出した。
一人になった途端、急に疲れを感じた。肋骨の内側に、ずっしりと重いぶよぶよした何かがあって、それを締め上げていたひもがするっとほどけてしまったみたいだった。
なんだかなぁ。
24.5センチの上履きの先っぽを見つめながら階段をおりる。買い換えなきゃなぁ、上履き。かかとがすり減ってつるつるになってしまっているのだ。あと2日だけ耐えてくれ。夏休みの間に新しく買うから。
夏休み。
私は一度ため息をついた。
高校で最後の夏休みが、もうすぐ始まる。受験勉強をしないといけないわけでもない。なんでも、好きなことができる。最高じゃない。心の中で、わざとそう言ってみた。
なんか、違うんだよな。
なんなんだろうなぁ、この感じ。
あまりにもふわふわしていて、自分でもよく分からないけど、ただなんとなく、重かった。
まぁでも、きっと夏休みが始まったら、気分が上がるに違いない。そう思っておこう。私は頭の回転を一旦止めると、いつの間にか止まっていた足を動かして階段をくだり、下駄箱へ向かった。

2017年9月16日公開

作品集『ナツキ』第2話 (全20話)

© 2017 ムジナ

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